第二話 「今から行こう! すぐ行こう!」
次の月曜日。
弓道場では当然のことながら「西條先輩が個人戦で五位入賞」というニュースが一番の話題になった。
「それで、実際のところ西條先輩の射はどうだったの?」
加奈ちゃんがかおりちゃんに、眼をきらきらと輝かせながら質問する。
「えー、いつもと何も変わりなかったよー」
かおりちゃんはにっこり笑いながら、身も蓋(ふた)もない回答をした。
途端に室内にいた、かおりちゃんを除く一年生三人の視線が、私に集中する。
「美代子ちゃんも一緒にいたんだよね」
と、今度は早苗ちゃんが私のほうを見つめて言った。目が座っていて怖い。
「えーっと、うん、いたよ」
「で、どうだったの?」
早苗ちゃんは容赦なくツッコんでくる。
「どうだったの、って言われても、その、やっぱりあれじゃないかな?」
私は早苗ちゃんと視線を合わせないように、横を向いて言った。
「あれ、ってなあに?」
早苗がさらにツッコむ。仕方なく、私は言った。
「神社だけに神様の御加護――」
以降の私の発言が、控室内に飛び交う備品類によって封じられたことは言うまでもない。
実は私にも分かっていた。
みんなが何を考え、どんな答えを望んでいたかが。
そろそろ目に見えて何かが良い方に変わってくれないかな、と全員が思っていたのだ。
しかし、実のところ昨日からは殆ど何も変わっていなかった。
そして、実は知らないうちに以前とはすっかり変わっていた。
「あら、皆さんどうかしましたか? 何だか疲れているように見えますが」
そう、おっとりとした言葉遣いをしながら西條先輩が控室に入ってきた時には、事件現場は何事もなかったかのように片付いていた。
ただ、大急ぎで復旧作業にあたったために、私たちの息は上がっていた。
「いえ、何でもありません。そういえば先輩、五位入賞おめでとうございます」
理穂ちゃんがそつなく答える。
それに対して、西條先輩は嬉しそうに眼を細めながら、こう答えた。
「有り難う。神社だけに神様の御加護があったんでしょうね――あら、皆さんどうかしましたか?」
いえ、なんでもありません。西條先輩の答えに全員が脱力しただけのことです。
*
練習開始の時間となり、私は加奈ちゃん、かおりちゃんと一緒に巻藁練習を始めた。
竹駒大会の後、弓を引くのはこれが初めてなので、あの時の射が再現できるかどうか不安を感じる。
巻藁に向って大三をとり、息を吐きながら引き分けてくると、眉を過ぎて会に入る。
あの音はしなかった。
そのため、いつもよりも「どうやって離そうか」と焦ってしまい、離れがばらばらになる。
「本当だ。いつもの美代ちゃんだ」
「そうだよー、いつもの美代ちゃんとおなじだよー、だから言ったじゃないのー」
加奈ちゃんとかおりちゃんからそう言われて、少しへこんだ。
流石に、厳しい修行により新しい能力に開眼して、その瞬間から敵をばったばったと薙ぎ倒すことになるという展開は、現実世界では無理がある。
あの日は、本当に神様の御加護があったに違いない。そう思うことにした途端に気が楽になる。
次の順番では、とくに気張ることもなく自然に大三から引き分けに入った。
すると、眉を過ぎたところでそれは起こった。
「キチ、キチ、キチ……」
ゆがけの親指と中指が擦れる音。押手の親指が前方に伸び、弓手のゆがけがそれに引っ張られるような感じがする。
私はそのまま会に入った。音が伸びてゆく。
「キチ―、キチ――、キチ―――」
それに伴って指と腕と肩が伸びる。
「キチ―――――」
音が長く伸びる。
そこで離れが来た。
押手の親指が伸び、弓は軽やかに回転して、弦は拳を回る。そのまま、左側のあるべきところに収まった。
「「え……」」
喉が詰まったような声がしたので、弓倒しをしてからそちらのほうを見る。
加奈ちゃんとかおりちゃんが、目を丸くして呆然しながら立っていた。
「ねえ、美代ちゃん、今の離れなんだけど、一体何を、どうやったの?」
加奈ちゃんが声をつまらせながらそう言ったので、私は考えながらそれに答え、
「えーと、竹駒神社の弓道大会で急に出来るようになったんだけど、この、引き分けからゆがけがぐいーっと引っ張られるようにして……」
その途中で力尽きた。
「……ごめん、実は私にも何がどうなっているのかよく分からない」
「ふうん。なんだかすごく切れがあって格好良かった」
「私も初めて見たー、そういえば美代ちゃん、私の後ろにいたもんねー」
加奈ちゃんは真剣な眼差しでそう褒め、かおりちゃんは相変らずの穏やかさでそう言う。
私はなんだか恥ずかしくなってきた。
「ねえ、美代ちゃん。もう一回やってもらえないかな」
加奈ちゃんに真剣な表情でお願いをされてしまうと、嫌とは言えない。
私は改めて巻藁の前に立つ。
後ろから何だか二人の強い視線を感じて、緊張してしまった。
そのせいか、今度は引き分けで眉のあたりを過ぎても、音がしない。
結局、無様な離れになってしまった。
「ごめん、緊張するとできなくなるみたい」
そう言って謝ると、二人はとても残念そうな顔をしたものの、
「まあ、そうだよね。都合よく『究極奥義を体得した』みたいな感じにはならないよね」
加奈ちゃんは息を吐いてから、笑ってそう言った。
「急にお願いしたからー、ちょっと構えちゃったんだねー」
かおりちゃんは労(いた)わるようにそう言ってくれた。
そんな二人の様子に、私の肩から力が抜ける。
「もう一回やってみるから、見てて頂戴ね」
私はそう言って、再び弓を構えた。
今度は肩が軽い。
上手く出来そうな気がする。
引き分けで眉を過ぎると、思った通りに音が聞こえてきた。
「キチ、キチ、キチ、キチ―、キチ――、キチ―――、キチ―――――」
音が長く伸びたところで離れ。
弓は軽やかに回転し、弦が拳を回る。
「今度は上手く出来たような気がするんだけど」
と言いながら私が振り向くと、
二人に加えて、三笠先生が立っていた。
しかも、三笠先生の表情に困惑しているような雰囲気がある。
――しまった、これはもしかして何か不味い技なのかしら?
と、私が固まっていると先生が言った。
「阿部さん、いつから今のような離れが出来るようになったのですか?」
引き続き、ちょっと困っているような先生の表情に、
「あ、あのですね。竹駒神社の弓道大会の、その、立射ですか。あの最中にですね、急に……」
と、私はしどろもどろになる。
すると、先生は急に苦笑して言った。
「あ、もしかして阿部さん、今『何か間違ったことでもしたかな』と思ってました?」
「はあ、そうです」
「あはは、ごめんなさいね。その逆なんです」
「「「……?」」」
私と加奈ちゃんとかおりちゃんは目が点になる。
先生は普通の笑顔に戻ると、こう言った。
「まさか、ここまで短期間にマスターできるとは思ってもいなかったから。それはね、出来る人と出来ない人が分かれる技なのです。どんなに上手な人でも、出来ない人には出来ません」
*
ゆがけは鞣(なめ)した鹿の皮でできており、表面が滑らかになっている。引っ掛かりがないので、そのまま使うと滑りやすい。
そのため、松脂から脂分を抜いて粉末状にした粉が滑り止めとして使われる。これを弓道では「ぎり粉」と呼んでいる。
名前の通り、これを親指と中指の接点に付けて弓を引くと、両の指の摩擦が高まるに従って「ギリ、ギリ」あるいは「ギチ、ギチ」という音がした。
ところが、人によってはこの音が濁音交じりではなく、澄んだ「キチ、キチ」という音になる者がいる。
これは、親指と中指に必要以上の力がかかっていないことを示しており、さほど難しいことではない。
さらに、その音が引き分けや会の進行に従って、
「キチ、キチ―、キチ――、キチ―――」
と、澄んだ長い音になる者がいる。
会から離れにかけての身体の伸び具合が理想的な状態でないと、なかなかそんな風に澄んだ長い音にならないので、こちらはかなり難しかった。
「あの、ならば先生はどうして困ったような顔をされていたのですか?」
私は疑問に思ったことをそのまま三笠先生にぶつけてみた。
「質問に質問で返して申し訳ないけれど、阿部さんはそれで的に中るようになりましたか?」
先生が笑いながらそう切り返してきたので、私は考えた。
「――いえ、そこは特に変わっていないような気がします。これならば中る、とは思えません」
「それはそうでしょうね。では、この続きは全員揃ったところで説明しましょう」
練習が一時中断されて、三笠先生は部員全員を射場に集めた。
「まず最初に、西條さん、五位入賞おめでとう。当日の様子は奥羽大の相模さんから聞きました。遠近競射でほぼ中心に的中したとのことですね」
「はい。真ん中というのは偶然ですが」
西條先輩はいつもの通り穏やかに答える。
「偶然も大会では実力のうちです」
そう言って、三笠先生はにっこりと笑う。そして、さらに全員の顔を見渡して話を続けた。
「ここにいる部員の皆さんは、私が初めて拝見した時からかなり上達してきました。私はあえて細かい指導はしませんでしたから、上達は各自の努力によるものと考えます。よく頑張りましたね」
三笠先生からお褒めの言葉を頂くのは初めてのような気がする。全員がなんとなく照れくさそうな顔をした。先生はその様子を微笑みながら見つめて、話を続ける。
「ですから、そろそろ新たな段階に進む時期に来たものと私は判断しました」
いきなりのレベルアップ宣言に、全員が固唾を飲む。
「皆さんは、私が来る以前よりも的に中るような気がしていますか?」
三笠先生は先程私にした質問と同じことを全員に聞き、ちょうど目があった早苗ちゃんが代表して答えた。
「昔よりも弓道らしい形にはなってきたような気がします。でも、中るようになったかと言われると、正直分かりません。依然として、まぐれ中りにすぎないような気がします」
私の答えと言わんとするところは同じである。中るというよりは、結果として中ってしまったという感じなのだ。
「そうですね。現状認識として極めて適切に思います。今まで私は、体配と射法を中心に指導してきました。正しく身体を動かすために体配があり、正しく弓を引くために射法があります。それはしっかり身についてきたと思います」
そこで三笠先生はいったん話を区切ると、全員が話についてきているかどうかを確認する。そして、さらに続けた。
「同じように、正しく中てるためには射技が必要になります。ただ、これには非常に難しい点があるのです」
非常に難しい点――その言葉に部員は困惑した。
「はいっ、先生」
切り込み隊長の加奈ちゃんが手を挙げる。
「非常に難しいというのは、私たちには射技がマスター出来るかどうか分からないという意味でしょうか?」
「いえ、そうではありません。皆さんが射技を身につけることは、さほど難しいことではありません。ただ、それで中るようになるかというと、そうではないのです」
全員の頭の上に疑問符が灯る。三笠先生の話の内容がよく分からなかった。
「あのー、今、先生が言われたのはー、正しく中てるために射技がありー、それを身につけることは難しくはないけれどもー、射技を身につけても必ず中るようになるとは限らないということでしょうかー」
かおりちゃんがのんびりとした声で、内容をまとめた。
「その通りです」
「なんだかー、禅問答のように意味がわからないのですがー」
かおりちゃんの素直な言葉に、三笠先生は苦笑した。
「そうですね。では、もう少し具体的な話にしましょう。皆さんは弓道教本を読んだことがあると思いますが、その内容は素直に理解できましたか?」
三笠先生は西條先輩のほうを見る。西條先輩は背筋を伸ばして問いに答えた。
「第一巻の体配と射法については、だいたい読んで理解できたと思います。第二巻以降の射技になると比喩表現に分かり難いところがありましたし、具体的にどのようにすればよいのか不明な点もありました」
「確かにそうですね。使っている言葉が難しいところもありますが、観念的な表現だけに終始して理論な説明が不足しているところが見られます。ところで――」
ここで三笠先生は私のほうを見た。
「阿部さんは中学校の頃、運動部でしたか?」
急に振られて私は焦る。
「あ、はい、その、バレーボール部でした」
「バレーボール部ですか。なるほど、背の高い女子は多いですよね。それでは、初心者にバレーボールのサーブ方法、特に必ずコートの中に入るようにするためにはどうしたらよいのか、説明は出来ますか」
「それは無理です。私はそんなに上手い選手ではなかったですから」
「それでは、本当に上手な選手であれば、絶対にコートに入るサーブ方法を初心者に教えることができると思いますか?」
「それは――」
そこで私は頭を捻った。同じ部にサーブがとても上手な先輩がいたが、彼女は何と言っていただろうか。それ以前に、彼女でも必ずコートの中に収めることができた訳ではない。
「――こうやれば絶対に入るという保証は、誰にも出来ないと思います。何度も練習をして自分でその方法を身につけないと」
「質問を何度も繰り返してごめんなさいね。それでは、練習を繰り返せば必ずサーブはコートの中に入るようになりますか?」
「それも無理だと思います。機械のように正確に同じことを繰り返すことができれば話は別ですが、コンディションが変われば失敗することはありますし。それを踏まえて絶対に成功する方法というのは――」
そこまで言って、私は自分が既に射技に関する答えを導き出してしまったことに気づいた。
「――つまりサーブという技自体は、真面目にバレーボールの練習を続ければいつかは身に着けることができる。しかし、それを常に正確に繰り返すことが出来るようになるためには、技をどうすればよいのかという技術指導の問題を越えた別なものが必要になる、ということでしょうか」
「そうです」
三笠先生は短くそう答えた。全員にじっくり考えさせるためだろう、黙ってにこにこと部員のほうを眺めている。
暫くして理穂ちゃんが手を挙げた。
「先生、それでは射技というのは何なのですか。同じことを正確に繰り返して的に中てることができれば、別に途中のやり方はどうでもよいとも言えますが」
「その通りです。そうでなければ、大きく分けて斜面打ち起こしと正面打ち起こしの二系列があることも、おかしいことになるでしょう」
理穂ちゃんは三笠先生のその言葉を聞き、更に当惑したようだ。
「いえ、それでは前に加奈ちゃんが言った通り、全員が自分の流派を作っても構わないことになりませんか。極端なことを言えば、左右の腕を逆にして引いても、中れば構わないことになりませんか。むしろ、右利きと左利きの別がある訳ですから、そのほうが合理的と思いますし」
先生は笑ったまま静かに言った。
「桑山さんの言う通り、的に中てる方法は可能性だけを考えれば無数にあります。しかし、その中で弓道と呼べるものは一部に過ぎません。的に中てるのであれば、アーチェリーを使ったほうがより正確で合理的ですが、しかし、それは決して弓道ではないのです。決して合理的とはいえない不自由な枠組みの中で、より正確に的に中てることが出来るようになる。しかも、その方法を他の人から教えてもらうことは出来ないし、教えたくても誰も自分がやっていることを他人にそのままの姿で教えることはできない。阿部さんが先程言った通り、コンディションは全員異なりますから」
全員が黙り込む。
そして、暫くしてから三笠先生はゆっくりと言った。
「射技に絶対はありません。弓道をする人が自分で鍛錬し、編み出すものです。ですから誰でも自分なりの射技を持つことが出来ます。しかし、それが本当に的中に結びつくかどうかは分かりません。外見上はとても美しい射をするのに、的中が安定しない人がいます。逆に、どう考えても出鱈目な方法なのに、高い的中率を維持する人もいます。どちらを目指すかは個人の考え方次第ですが、出鱈目が過ぎればそれは弓道ではなくなってしまいます。中るためには何をしてもよい、という訳にはいきません。弓道家と名乗るのであれば、自ずから外れてはいけない道が生じます」
そこでかおりちゃんが手を挙げた。
「先生ー、それでは先生もー、中るようになるための指導はできないー、ということですかー」
「こうしたほうが望ましいかもしれない、という指導は出来ても、こうすべきだ、という指導はできません」
「自分でー、それを見つけなければいけないとー。先日の弓道大会でー、私達三人ともー、なんだかとっても気持ちよく引けましたしー、中っても不自然さを感じませんでしたー。それを今再現できるわけではないんですがー、そんな機会を自分で見つけてー、自分のものにしなければいけないということですかー」
三笠先生は真面目な顔になって、かおりちゃんの問いに答える。
「その通りなのです。常に自分の技を確認して、その中から自分に最適なものを見つけ出して、それを常にできるようになるまで繰り返すことしかありません。変な癖がつくときも同じです。竹駒神社の弓道大会に参加した三人には、とてもいい経験ができたのではないでしょうか。なにしろ――」
そして、三笠先生は急に表情を崩した。
「――神社だけに神様の御加護があったのでしょうね」
*
この話が終わった直後、加奈ちゃんは言った。
「美代ちゃんの言う通り神様の御加護なの!? だったら、私も竹駒神社に行きたい! 今から行こう! すぐ行こう!」
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