Q.D.B. 第一章 まずは基本から
阿井上夫
序章
「己に勝つ者を怨みず、だよ」
射求正諸己
己正然後發
發而不中
則不怨勝己者
反求諸己而已矣
(礼記第四十六篇「射義」)
*
延々と続く決中競射に弛緩していた道場の空気が、選手の再入場とともに引き締まる。
一手決中二回終了後の、一本決中四回目。
これで決着がつかなければ、決中五回目から的は尺二的(直径三十六センチ)から八寸的(直径二十四センチ)に変わる。
直径が三分の二になるということは、的の表面積が五十六パーセント減少することを意味する。
以前、私は
一方、私たちは小規模な射会の余興で使われる八寸的しか経験したことがない。
まるで玄人と素人の真剣勝負だ。
経験のない仙台第一女子高校弓道部にとっては、極めて不利な状況となる。
だから、なんとしてもここで勝負を決めておきたい。
大前の理穂ちゃんは、弓構えの最中。
ゆがけで弦を
二的の加奈ちゃんは、右足を横に踏み出した。
もうすぐ足踏みが終わる。
三的の早苗ちゃんは、加奈ちゃんの胴造りにあわせて立ち上がる準備。
右拳が右腰から離れる寸前だ。
大落の西條先輩は、
落前の私は、足の震えがどうしても止まらない。
一本決中三回目で、五人のうち私だけが的を
私が
控えに戻った時に仲間から慰められたものの、動揺を鎮める暇は与えられずに、私は四回目の決中に突入していた。
理穂ちゃんが打ち起こしを始める。
弓道団体戦には心理戦の要素があり、自信のある学校ほど先に的に中る音を相手校に聞かせようとして、先手を取ってくる。
だから、第二射場の第二女子大前はそろそろ離れる頃に違いない。
決勝戦から決中競射にかけて、常にそうだった。
そんなことを考えた途端、カーボン弓特有の金属的な鋭い弦音が射場に響く。
続けて、矢羽根が空気を切り裂く音がして、
「かつ――ん」
という、木枠を叩く破裂音が続いた。
観客席の空気がざわりと波打つ。
宮城県立武道館弓道場は屋内だから、その空気が圧力となって射場の射手に伝わってきた。
――叩き、それとも的枠、どっちなの?
私はとっさに後方の的に顔を向けそうになる。
すると後ろから、小さな、それでいて落ち着いた声が聞こえた。
「美代子、己に勝つ者を
そうだった、危なかった。
私も小声で応じる。
「
前に気持ちを戻すと早苗ちゃんの胴造りが終わっていた。
あわてて右手を
左膝を前に出して立ち上がると、少しふらついた。
どうしても震えが止まらない、腰が定まらない。
このままではいけないと思えば思うほど、足がガクガク震え出す。
理穂ちゃんが離れた。
グラス弓の
矢羽根が空気を掻き乱す音に続いて、安土に矢が刺さる音がした。
観客席から、
「ああ――」
という溜息が漏れる。
弓道をやったことがない人には実感として分かりづらいかもしれないが、重要な場面で外した時の観客席の溜息は独特の響きを持つ。
決して射手を馬鹿にしている訳ではない。
外れたことを憐れんでいる訳でもない。
観客の人数分の「残念に思う気持ち」が、ほぼ同時に、ごく自然に漏れて、それがより集まって射手に降り注ぐような感じがするのだ。
いつ聞いても気が滅入るその溜息の
足踏みを戻して射位から歩み出た彼女は、珍しく頭を下げたままの姿だった。
理穂ちゃんはここまで、最初の一本目を決して外さなかった。
それが大前の重要な役割であり、その重圧は半端ではない。
――だから、これで最後にしたくない!
私の覚悟が定まる。
足の震えが止まり、腰がすとんと落ち着いた。
さあ、勝負だ!
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