【妹編B】お兄ちゃんのためにわたしができること

4-1.虫を殺めるモノ


――――――【妹、夕緋真依のセカイ】――――――


 つい今しがたまで顔を床に打ちつけていた兄は、やがて力尽きたように崩れ落ちた。


 とどめを刺しに行こうとするわたしを夜那が引き留める。

「待ってください。僕は夕緋さんが今日までどれほどの努力をしてきたかを知っています。それはお兄さんを殺めるためではないはずです」


「努力? ううん、目の前の現実から逃げていただけだよ」


――

――――

――――――

【回想】五月十三日(火)


 噴射式殺虫剤で充満した部屋。白い煙が霧のように広がり、視界をぼかす。


「あはははははは」

 笑い、嗤い、スプレーを両手に踊る。直接噴射しても、家を巣喰う虫は死なず、動きを遅くするだけだった。


 殺虫剤で飛べなくなった無数の蝶が、床のうえを這いずり回っている。わたしはそれを一匹、一匹と足で踏みつぶしていく。地獄絵図だった。


 殺しても殺してもキリがない。虫はどこからでも入ってくるのだ。


 泣き疲れて声も出なくなった頃に、家のチャイムを鳴らす音が聞こえた。玄関のドアを開けると、帽子をかぶった男が「宅急便でーす」と挨拶をする。

 男はわたしの姿を一目見てぎょっとした顔をしたが、声には出さなかった。


「お荷物がかなり多いのですが、中にお運びしましょうか」

 一応、業務上提案はするものの、すごく嫌そうな顔で宅配業者は言った。


「いえ、家の外に並べておいてもらえれば、あとはわたしが運びますので」

「わかりました」

 宅配業者は安堵した様子で、トラックから積み荷を降ろしてゆく。家の前には数十個の段ボール箱が並べられた。


 家に戻り(家、というよりオバケ屋敷だが)、ひとつの段ボール箱の中身を開ける。なかには骨董品市場にありそうな壺が入っていた。ふたの上に、封筒がくくりつけられている。


 差出人は夜那博己となっていた。


『親愛なる夕緋真依様

 最初にお詫びを。僕がこのような状態でなければ、真依さんに決してこんな汚れ仕事はさせないのですが、ふがいない自分をどうかお許しください。

 取り急ぎ、特製の壺を五十個お送りしました。虫(生死を問わない)はそのなかへ入れて、家のなかで保管しておいてください。

 夕緋さんの家の蠱毒は規模が大きすぎるがゆえに、呪術が完成するのに数年はかかるものと思われます。ですから蠱毒のなかで小規模の蠱毒をおこない《入れ子構造》とします。早ければ一ヶ月で片が付くでしょう。家の東西南北四隅には、同封されている呪符を貼ってください。それで、新たな虫の侵入は防げます。(もっとも結界内に閉じ込められた虫は、出ることもできなくなります)

 夕緋さんにこんなことをさせるのは心苦しいのですが、なんとか耐えてください。また来週に新しい壺を送ります。』


 手書きで急いで書かれたような筆跡だった。わたしはまだまだ夜那に聞き足りないことがあるような気はしたが(例えば、何故蠱毒をはやく完成させる必要があるのか、とか、完成させたところでどのように解決するのか、とか)とりあえず今やるべきことはハッキリとしていた。


「家のなかのバケモノをすべて駆逐する……」


 それからの一ヶ月は、壮絶な戦いだった。閉ざされた空間のなかで、最強の虫のみが生き残れる蠱毒。殺せば殺すたびに、虫は力を増していき、スリッパで一回や二回叩いたくらいではビクともしない体躯に進化を遂げていた。

 一方で、わたし自身も、虫を殺すたび自分のなかに超常的な力が増していくのを感じた。


「真依、食卓でスリッパを振り回したりして、何やってるんだ。これが今流行りのヒップホップダンスとかいうやつか?」

「これはダイエット体操だょ、お兄ちゃん。超速でスリッパを振り下ろし遠心力をかけるとことにより二の腕がやせるんだって」


 といったような茶番劇を兄と繰り返した。兄には、虫が見えていない。兄には、自分が見えていない。兄には、現実が見えていない。兄にはもしかしたら、わたしが今どんな表情をして虫と戦っているかも、見えていないに違いなかった。


 夜那は全治四ヶ月の怪我を負っており、蠱毒に対する直接的な対処ができない。彼はその代わり、間接的な支援を惜しみなく出してくれた。


 壺や結界の呪符だけでなく、電灯、壁紙、家電、家具などありとあらゆるものを宅配便で送ってくれた。彼は「場の力を弱めることが目的ですから」と手紙に書いていたけれど、あまりにも親切過ぎてかえってこちらが申し訳なく感じる。


 わたしは、ただ、虫を殺すだけ。消化器くらいの大きさに肥大化してしまった青虫を踏みつぶし、モスラの子どものような蛾をカッターで切り裂き、音速で飛び回るゴキブリと決闘をする。


 それが、兄を助けるためであり、献身的な夜那の気持ちを無駄にしないためであった。


 頑張った甲斐はあり(壺が増えたことを除いては)家はきれいになり、元通りの姿を取り戻していく。


 反面、兄とわたしは次第に人間の領域を踏み外しつつあった。虫を殺せば殺すほどに呪いは強くなり完成されてゆく。わたしたちは、人間でなくなってゆく。


 兄はもはや、虫と変わらないようなバケモノに変質してしまい、見ているのもつらかった。



『我がグケイに真実の覚醒めざめを齎もたらさんことを……第壱術式――《解ッ》狂気と混沌の神ディオニューソスの加護のもとに……呪えッ!!!』


 そして来たる六月十五日の日曜日、蠱毒内蠱毒で生き残った「最後の虫」を兄に殺させることで、蠱毒は完成される。父の日のプレゼント。

 兄はただ、あの虫を殺してくれさえすればよかった。そうすれば、兄は蠱毒のなかで生き残った最強の《虫》になれたというのに――。


 大きな誤算があった。兄が、想定以上にヘタレで弱かったのだ。兄は「最後の虫」を殺すことができず、虫と融合してしまった。


 父の日の夜、兄の部屋を見に行ったときにはすでに手遅れで、兄の身体は虫に乗っ取られかけていた。抉れた左胸の心臓部には、例の「最後の虫」が取り憑いている。


 わたしはほとんど感情的に、護身用の五寸釘で「最後の虫」ごと兄の胸を貫いてしまう。目を見開いて動かなくなった兄を見て、わたしは自分が兄を殺してしまったのではないかと思い込み、家を飛び出してしまった。


 時刻はちょうど深夜二時。

 家を出たところで鉢合わせしたのが、夜那だった。夜那は車椅子に乗っていた。一応、ここまではタクシーで来たのですがね、と夜那は言った。


「ちょうど頃合いだと思って、来てみたらビンゴですね。いやぁ、高い護符をつかって怪我の治りを早めた甲斐がありました。僕ほどにグッドタイミングであらわれる王子様はいませんよ、ねぇ」


「大変なの! わたし、お兄ちゃんを死なせちゃったかもしれない!」


「いいえ、大丈夫ですよ。瘴気がまだぷんぷんと漂っている。蠱毒が終わっていない、すなわちお兄さんが生きている証拠です。朗報ですよ、明日には、この家の呪いはすべて解かれるでしょう。というより、僕が解いてみせます」


「ほんとに! ほんとなの!?」


「約束はきっちり守る男ですよ、僕は。その代わり、真依さんには僕の《演技》に付き合ってもらいます。えぇと、電話機の交換は済んでいますよね」


 明日にはすべての呪いが解かれる、という夜那の宣言にわたしは衝撃を打たれた。あれほどに嫌いだった夜那が、天使か菩薩のように思える。

 わたしは強く頷いた。


――――――

――――

――


 それが、この一ヶ月でわたしと夜那が為したことの、おおよその経緯だった。

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