3-7.バケモノ

「夜那くんには触れさせない」

 強い意志を感じさせる声だった。真依は制服を着ている。白いシャツを上書きするように、ドス黒い血が滲んでいく。


 早く手当をしないと。咄嗟に伸ばした手はしかし、妹の鋭い一撃によって振り払われる。


 えっ、と頭に疑問符が浮かぶ間もなく、気がつけばみぞおちに蹴りを喰らって、俺は数十メートル後ろへ吹っ飛ばされた。


 グシャッと、また潰れる音。

 真依の足下に、血濡れた物体がどしゃりと落ちた。それはさっきまで俺の頭についていたはずの、虫の角だった。


 真依は、平然と立ってこちらを睨んでいる。おびただしい血を滲ませているというのに。いや、あの血はもしかして……と考えた矢先、俺は嘔吐えずいて床に鮮血を吐き出した。


 頭からドクドクと生暖かい液体が吹きこぼれ、視界を赤く染める。


 真依を染めているのは俺の返り血……?

 良かった、と心底思う。もしも俺が真依を傷つけたのだったら、もう生きていることなんてできないのだから。


「夕緋さん、どうしてですか。ここへ来てしまってはあなたの望む未来が」


 夜那が椅子に座ったまま、狼狽している。右脚にギプスをはめていて、改めて見れば彼が腰掛けているのは車椅子であった。


「ううん、わたしは自分の意志でここに来たんだょ。一匹残らず、バケモノを殺すために」


「それはあくまで蠱毒の効果であって、僕が対処しさえすれば」


「だって夜那くん、死ぬ気でしょ?」


「……っ!!!」


 真依がスカートの左ポケットから、カッターナイフを取り出す。キリリと音を立てて飛び出す刃は、真紅に彩られた短剣のようであった。


「今、助けてあげるからね。お兄ちゃん」

 一閃、真依が飛び出す。

 生存本能だろうか。無意識的に、俺は土下座の態勢を取って頭を低くした。


 シュッと空を斬る音。

 ほんの一秒前に首のあった場所を真依のカッターが薙いでいた。


「真依、正気にもどれ。お前はあの男に操られているだけなんだ!」

 繰り出される攻撃を避けつつ、叫ぶ。

 夜那は言っていた。『呪術を使えば、人の恋愛感情を操って相手を意のままに支配することなんて、簡単にできる』のだと。


 可愛いそうな真依は、奴の呪術に嵌められたのだ。


「ううん、違うょ。わたしは自分の意志でここにいるんだから」

「じゃあ、どうしてこんなことを……」

 もしかして、本当に夜那に惚れたのだろうか。だとしたら俺は、その場でショック死しても良いくらいだった。


「グレーゴル・ザムザの妹、グレーテにひとつだけあやまちがあったとすれば……」

 真依はそこで言葉を切って、俺をじっと見つめた。


「それは、救いようのない不条理に冒された兄を、自分の手であやめなかったこと。グレーテは幻想を見ていた。自分が世話を続けていれば、いつかまた優しい兄が帰ってくるのではないかと」


「どうしてカフカの『変身』なんだ……」


「これはそういうだからだよ。不条理に生きるわたしたちに、ハッピーエンドは待っていない。お兄ちゃんが《虫》になった時点で、詰んでいたんだと思う。わたしはすべてを終わりにしたいの」


「すべてを?」


 ええい、意味がわからない。世の中おかしなことだらけだ。みんながみんな『この世界は間違っている』と主張する。けれど万人にとって正しい世界なんて、どこにもないのだ。虫になったら虫になった事実を受け入れて、生きていくしかないじゃないか。グレーゴル・ザムザのように。


 ふっと目の前から真依が消えた。

 と思ったら俺の右斜め下に瞬間移動していて、防御の姿勢を取る間もなく蹴り上げらる。一般的女子中学生のローファーでの蹴りは、大型トラックに正面衝突するほどの威力を放ち、高く上空へと放り出される。


 跳躍し追ってきた妹が、カッターナイフを逆手に持ち、俺の首筋に振り下ろそうとする。空中で、回避のしようがない。


「スキダヨ、オニイチャン」

 妹の唇がそのように動いた気がした。多分、俺の願望だろう。

 目を閉じて、迫る死を受容しようとする。


 そのとき、

・・・・・・・・知られざる最終章!!』

 声ともならない声が聞こえたかと思うと、目を閉じても眩しいくらいの閃光が爆発した。


 衝撃で床に頭を叩きつけられ、ずーんと痛い。どうやら生きてはいるようだ。


「どうして邪魔したの」

 真依の声が聞こえ、薄っすらと目を開ける。真依が夜那を見下ろしていた。夜那は車椅子に身を預け、ぐったりとして息を切らせている。


「僕は夕緋さんに、幸せになってもらいたいんですよ。それに、約束をしたじゃないですか。お兄さんを助けるんだって」

 約束を守る男ですよ、僕は。と夜那は最後に付け加えた。


「嘘つき。だって夜那くんが死んだら、夜那くんと恋人になるっていう約束が守られないんだよ」


「ふふふ、覚えていてくれたんですか。嬉しいなぁ。でもいいんです。僕にはこれ以上、生きている資格はない。夕緋さんの心のなかに僕がいてくれるのなら、もう思い残すことは、何も……」


「夜那くんの馬鹿」


 真依が短く言って、夜那に顔を近づける。何かを言いかけようとしていた夜那の唇は塞がれる。妹の、唇によって。


 キス、口づけ、接吻せっぷん

 言葉としては知っているが、俺は目の前で見せつけられている光景が理解できない。思考が理解することを拒絶している。


 真依と夜那は目をつむり、愛し合うもの同士がそうするように、お互いを抱き寄せあった。


「エンダアアアアアアアアアアアアアアア!!!! イヤァアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

 俺は意味不明の叫び声を上げながら、床にどんどんと頭蓋骨を打ち付ける。


「ちょっとお兄ちゃん、邪魔しないで」

 真依は、顔を真っ赤にして呆然としている夜那に向き直り、彼に微笑みかける。


「これでもまだ死にたいって言える?」

 夜那は目尻に涙を浮かべて、首を横に振った。


 一方の俺は(ひぃぃぃ。もう終わりだ。死にたい、死にたいよぉ)と心のなかで叫びながら、顔ドラムを続けていた。


「そうか……僕は《変身》の本質を見誤っていた」

 夜那が目を見開いてつぶやくのをしかし、ショックに打ちひしがれる俺は聞いてはいなかった。


 妹と男がキスをした。

 その事実だけで俺は正気と生きる気力を失い――。


(俺の戦いは、これまでだ……)

 完全に幕を閉じたのであった。




【兄編B】真依のために俺ができること(終) 妹編Bに続く

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