第5話 暁

 色づいた銀杏の葉の隙間から落ちる遠慮がちな木洩日が、晩秋の気配を運んでくる。キャンパスを歩く皆の服装にも、気の早い暖色系のコーディネイトが目立つようになってきた。

 午後の講義をさぼった僕は、大学の中庭のベンチに腰かけて、暁と水月のことを考えていた。

 あの日から一週間が経とうとしていたが、暁との間はぎくしゃくしたままだ。暁は必要最低限の会話以外は口を開かず、僕と目線を合わせるのさえ避けているようだった。今朝方、寝過ごして慌てて洗面所に向かった僕は、台所でラムネに牛乳を与えていた暁に「おはよう」と声をかけた。暁は軽い一瞥をよこしただけで、ふいと居間に移ってしまった。

 それでも、一見もとの殻に閉じこもったみたいに見える暁のそんな態度は、以前の無関心とは違うものを感じさせた。水月はあの夜から暁の中で沈黙し続け、近づきそうで近づけない微妙な距離の間を、僕達は不器用に漂っていた。

「高久」

 少し離れたところに、可奈子が立っていた。僕は自分の笑顔がぎこちなくなるのを感じながら、軽く手を上げた。

「帰るのか?」

 可奈子は返事をせずにうつむいた。僕は立ち上がって彼女の前まで行った。

「どうしたんだよ」

「別れたいの」

 可奈子の肩にかかった髪に落ち葉が滑り、西日が二人の足元から長い影を延ばしていた。

「好きな人ができたから」

「そうか」

 僕は言った。

「わかった」

「なんにも訊かないんだ」

 呟くと、可奈子は顔を上げてきつい目で僕を見た。

「やさしいふりして、高久みたいな人が一番冷たい。人のこと傷つけてるのに、自分が辛いって顔するよね」

 彼女の激しい言葉に、ひと言も言い返せなかった。

「大嫌い」

 語尾が震えたのを隠そうとするように、彼女は走って僕の横をすり抜けた。

 心の中で謝ることさえ、思い上がりのような気がした。誰かを恋することどころか、今の僕には、本当のやさしさの意味すらわからない。自分が、そこから離れた位置に立っているのを感じるだけだ。

 アパートに帰った僕を待っていたのは、冷たくなって横たわっているラムネと、その側で呆然と座り込んでいる暁の姿だった。

「ラムネ……」

 抱き上げても、ピクリとも動かない。すでに死後硬直が始まっていた。

「俺じゃない」

 暁がすがるような目で僕を見た。

「朝、牛乳しか飲まなかった。風呂から出たら、ラムネが部屋の隅で寝てて、俺もそのままソファで眠っちゃったんだ。あの時、もしかしたらもう死んでたのかもしれない……。起きてエサをやろうと思ったら、もう冷たくなってて……俺じゃないよ」

 僕は顔を上げて暁を見た。僕の目に浮かんだ一瞬の思いを、彼は察知したに違いない。

「……埋めてやらなきゃな」

 スコップを取ろうとベランダに向かった僕に、低い声が言った。

「偽善者」

 振り向いた僕を、激しい怒りに任せた瞳が睨みつけた。出会った当初の暁の目だった。

「俺が殺したんじゃないかって、疑ってんだろ。はっきり言えよ」

「そんなこと思ってない」

 確かにほんの一瞬、もしかしてという思いが頭を掠めたのは事実だった。けれど、ラムネにもがき苦しんだような痕跡はなく、おそらく以前からの虚弱体質と、この間の消化不良が重なっての衰弱死だろうとすぐに思い直した。それでも暁はその瞬間を見逃さず、僕を容赦なく責め立てた。ここ数日間の澱のように沈んだ鬱屈を、爆発させるみたいに。

「そういうとこが偽善なんだよ。あんたはいつもそうだ。俺のこと持て余して、心のどっかで手を引きたいって思ってんのに、それを必死で押し隠してる。気づいてないとでも思ってんのかよ。なんのためにそんなことしてるか、当ててやろうか。自分のせいで、仲が良かった子が死んだって言ったな。あんたは俺にその子を重ねて、罪悪感から逃げたいのさ。俺のこと考えてるふりして、結局は、自分が救われたいんだろ。自分が一番かわいいんじゃないか」

 可奈子に言われた言葉が、はっきり形をとって暁の口から飛び出し、僕の核心を貫いた。考えるより先に、僕は暁の頬を強く張った。

「出てってくれ」

 暁から顔を背けて言った。

「もうたくさんだ」

「……言われなくたって、そうするよ」

 玄関へと向かう足音を、僕は背中で聞いていた。

「こっちの台詞さ。俺の方こそ、これ以上誰かの身代わりにやさしくされるのなんかたくさんだ」

 叩きつけるようにドアが閉じられる。僕はのろのろとベランダに出て、スコップを取った。ぶ厚い雲がたれこめ、夕方にさしかかったばかりの街を、膜を張ったように暗く包んでいた。向かいの公園のすべり台と砂場の間を走り抜けていく暁の後ろ姿が見えた。僕の視界の中で、暁は瞬く間に小さく遠ざかっていった。

 公園の植え込みの影にラムネを埋めて、目印になる大きめの石を乗せると、僕は手を合わせた。手についた土を払い、暁が走り去った方向へ目を向ける。ラムネも、厄介な同居人ももういない。以前の日常に戻っただけだ。僕はスコップを拾い、アパートに帰った。けれど、どうしても玄関のドアを開ける気になれず、駐車場へ回って車に乗り込んだ。

 薫のマンションに行き、エントランスのインターホンを鳴らす。出てきた薫は、僕の表情に何かを察知したようだった。

「入れよ」

「暁を追い出しちまった」

 何も言わない薫の前をすり抜け、僕はベッドに腰かけた。

「もう、どうしていいかわからない」

 可奈子のこと、そして暁との口論。堂々巡りのまま、ひとつとして現状をいい方向に持っていくことのできない虚しさや、何もかもを投げ出してしまいたい思いの中から湧き上がる、焦りと後悔。今逃げたら、今度こそ僕は自分を許せないだろう。それがわかっているのに、ひどくくたびれて動けない。容赦なく訪れる目まぐるしい出来事を薫に話しながら、自分の中を去来する空虚と混乱をもてあました。

「生きるって、それ自体が、けっこうハードだよな」

 煙草に火をつけ、薫が言った。

「親からの暴力を受ける子供ってのは、人生のスタートラインからひどいダメージを受けるってことだろ。その苦しみや孤独は、俺達の想像の範疇じゃない。お前、そんな彼女に、いったい何をしてやりたいって思ってる?」

 僕は顔を上げた。

「誰も助けてなんてくれやしない。暁は俺にそう言った」

 あいづちの代わりに、薫はわずかに目をすがめた。

「俺はいつも感情のまま突っ走って、最後は誰かの傷を広げるんだ。わかってるよ。もしも……もしも彼女ひとりを何とかできたとしても、根本的な解決にはつながらないし、世の中は変わらない。それどころか、俺には彼女ひとりでさえ、守ってやることができないんだ。ただ事態を悪くするだけで……。これが現実さ、よくわかってる」

「自分のことを客観的に判断できるわけだ。結構だね」

 薫はため息をつき煙草を消した。

「興信所で暁の母親探しを依頼したって言ったな。もし母親が見つかったら、どうするつもりなんだ」

 黙っている僕に、薫も沈黙を返していたが、やがて静かに言った。

「お前もうすうすわかってるだろうけど、俺の父親は政治家だよ」

 僕は薫を見つめた。

「政治家や官僚ってやつが、どれだけ自分の利益や保身に血道を上げて、民衆のために知恵のひとつどころか、指先一本動かすのを惜しんでるか知ってるか? いや、もともと国民のためにっていう考え自体が、まるっきりないんだよ。少年法の改正にしたって、政治家だけじゃなく、訳知り顔の識者連中までが、『厳罰化で根本的な解決は図れず。罪を犯した少年の真の更生と健全な育成に重きを置くことこそ重要』なんてのたまってるけど、俺に言わせりゃ、鼻で笑っちまうね。少年法改正は、加害者のためじゃない。大切な人間をボロきれみたいに殺された被害者の遺族のためさ。遺された者にとって、犯人の健全な育成なんてもんが何の意味を持つ? 犯人が罰を受けたからって、遺族の傷が癒えるわけじゃない。けど野放し同然なら、遺された者達は理不尽な司法に対する怒りで、消えない傷口をさらにえぐられる。なんで遺された人間が、そんな十字架まで背負わされなきゃいけないんだ。罪は罪として裁くことができないんなら、司法そのものが成り立たない。それならいっそ、人が人を裁くこと自体を放棄して、すべての断罪を、神だか閻魔大王だかにお任せすりゃいいんだよ。一週間持たずに人類は終わって、ある意味、ハッピーエンドだね」

 いつもの薫らしくない、投げやりな響きがあった。僕が何か言う前に、薫は僕の目を見据えて言った。

「暁に復讐させてやれよ」

 耳を疑った。

「今の暁が母親を殺しても、きっと無罪になる。刑法第三九条の適用で」

「本気で言ってるのか?」

 きつくにらみつける僕の目を、薫は跳ね返すように見つめていたが、ふっと視線を逸らした。

「悪かった」

「どうかしてるよ、薫」

 僕の言葉に薫は苦笑いを浮かべ、この間と同じことを訊いた。

「好きになった?」

 否定も肯定もしない僕に、それ以上尋ねようとはせず、薫は窓のところに行ってカーテンを開けた。

「だいぶ冷え込んできたな。今日は十二月並みに寒くなるってさ」

 上着もなしに飛び出した暁のことが気になって、僕はベッドから腰を上げた。

「自分の無力さを、とことん思い知らされたことのない人間に、持ってる以上の力を出すことなんてできないよ」

 そう言って薫はカーテンを引くと、僕に振り返って微笑した。

「帰れよ、高久。お前を必要としてる人のとこに」

 薫のマンションを出て車でアパートに戻る道々、僕は左右に視線を動かしガラス越しに暁の姿を探した。どこにも行くあてがない暁の居場所は、それこそ見当もつかなかった。

 駐車場に車を入れ、公園に回ったが、あの夜暁が寝ていたベンチは、枯れた葉が冷たい風を受けているだけだった。僕は駅に続く道を駆けながら、暁の中にじっと隠れ続けている水月に胸の内で叫んだ。水月、頼む。暁を守ってくれ……。

 夕方のラッシュはとうに過ぎているのに、駅前通りは人が多く、みな、上着の襟を合わせたり、気の早いマフラーで首元を守りながら、歩調を速めていた。僕は北風をよけて急ぐ人々の間を縫うようにしながら、細く小柄な体を探した。時間と共に気温は下がり、はく息が夜の中に浮かんだ。十一月初めとは思えない寒さだ。薄いTシャツ一枚の暁のことを考え、心配と焦りが増してゆく。部屋の電話に、暁からの連絡が入っていないだろうか。暁が小銭を持っている確率はゼロに近いが、万が一を確かめずにはいられなくて、アパートへの道を引き返した。ついでに携帯と財布も取ってこようと考えながら、アパートに戻った僕は、部屋の前にうずくまる影に気づいて、立ち止まった。

 地面に座り込んで膝をかかえた暁は、ゆっくりと僕を見上げた。

「どこにも……行くところがない」

 歯の音が合っていなかった。僕は冷えた体を自分の胸に引き寄せた。暁は今までのように拒絶することはなく、僕の腕にじっとその体を預け、消えてしまいそうな声で言った。

「ごめん」

 ソファで眠る暁のために、僕は暖房の温度を上げた。起きている時の刺すような鋭さが払拭された幼い寝顔を見つめながら、満ち潮のようにゆっくりと押しよせてくるものが、僕の胸の奥を浸した。

(お前、そんな彼女にいったい何をしてやりたいって思ってる?)

 先刻の薫の問いが、僕の耳元で蘇った。

 与えたい、と思った。彼女が求めるものを。暁か水月か。そんなことはわからない。ただ、目の前のこの子のために。僕は手を伸ばし、そっと暁の髪を梳いた。与えたい。その願いは、柔らかな膜に包まれた静かな歓喜だったが、同時に、染み入るような胸の痛みでもあった。


 水月は依然として沈黙していたけれど、僕と暁の同居生活は再開し、とりあえず今までと変わりない状態に戻った。それでも僕達の間には、確かに形を変えつつある感情が流れているようだった。

 週末、講義のあと図書館で調べものをしていて遅くなり、大学を出たのは夕方だった。駅のホームで暁に電話をかけ、今から電車に乗るところだと伝えた。

 座席でうとうとしかけた僕は、後ろの窓を叩く雨音に目を開けた。秋の長雨とは言うけれど、最近、やたらと多い。傘を持っていない僕は、うんざりした気分で勢いよくガラスを滑り落ちる水を見やった。

 電車を降りても雨足は弱まらず、僕は閉じた売店の前でため息をついた。駅の構内には、同じように足止めをくった人々が、恨めしそうに暗い空を仰いでいた。濡れネズミになるのを覚悟で走って帰ろうとした時、上着のポケットで携帯がなった。薫からだった。

「興信所からの調査結果が届いたよ」

 薫の言葉に、僕は電話を強く握り直した。

「今から取りに行くよ」

「ひとりか?」

「ああ」

 僕は駅にいることを伝えた。

「俺も出先なんだ。車だし、持ってってやるよ。十分ほどで着くと思う」

「悪いな。じゃあ、北口の前にいるよ」

 電話を切った僕は、駅前の通りをこっちに向かって歩いてくる人影を見て驚いた。グレーの傘で顔を隠すようにして、左手にもう一本の傘をかかえている。僕のパーカーとジーンズの中で泳ぐ細い手足。横なぐりの雨の中、目の前に来るまでどちらか判別できなかった。

「暁?」

 むっつりと閉じられた口元を見やって、僕は言った。

「……びっくりだな。迎えに来てくれたのか?」

 暁はうなずきもせず、ことさら無愛想な仕草で傘を突き出した。僕はそれを受けとって笑いかけた。柄の部分に残る暁の体温が、不器用な温もりをストレートに伝えてくれる。

「サンキュー。うれしいよ」

 眉間に縦皺を刻み、目線を合わせないまま来た道を戻り出した暁に、僕は言った。

「友達と待ち合わせてんだ。ちょっと待っててくれないか」

 暁は傘を傾けて、肩越しに怪訝な表情を寄こした。

「同級生でさ。いいヤツだよ。レポートの資料を借りるだけだから、すぐに済む」

 薫のことだから、興信社の名前が入った封筒を裸のまま持ってくることはないだろう。けれど暁は固い表情で首を振った。

「知らない人間に会うのはいやだ」

「そうか」

 無理に引き止めるのはためらわれて、僕は頷いた。

 下りのホームに電車が入ったらしく、降車した人々が改札口に押し寄せた。邪魔にならないように売店側に身を寄せた時、二人連れの若い男の片方が、暁を見て足を止めた。

「あれっ」

 酒気を帯びているらしく、赤みのさした顔を暁に近づけた。金色に近い茶髪から覗く左耳に、ずらりとピアスが並んでいる。

「よぉ……こんなトコで会うなんてな」

「誰だよ、あんた」

 暁は敵意を剥き出しの鋭い目を向け、低い声を出した。その反応に、相手はあからさまなとまどいを浮かべ、一歩さがると、さらに確かめるみたいに暁を眺めた。僕は暁の前に立ちはだかるようにして、男と向き合った。

「この子に何か用か?」

 男は僕と暁を交互に見比べると、顎に手を当てて首をひねった。

「いや……悪い。人違いみたいだな」

 いやな胸騒ぎがした。僕は暁の背中を押しやり、言った。

「先に帰ってろよ、暁」

 暁は何かを考え込むような腑に落ちない顔をしていたけれど、僕がもう一度背中を押すと、雨の中を歩き出した。

「あの子、水月っていうんじゃないのか」

 暁の背中が早く遠ざかるように、じりじりした思いで見守っていた僕は、後ろからかけられた声に凍りついた。血の気が引いていくのを感じながら、ゆっくりと振り向き、僕は男の顔を正面から見据えた。

「暁だよ。俺の弟だ」

 男は一瞬、たじろいだように息を呑んだが、ひと呼吸おいて、小さく笑った。

「ふうん、弟ね……」

 含みを込めた呟きをもらし、肩をすくめる。甘ったるいアルコールの匂いが、たまらなく不快感を煽る。

「なんだよ、どうした?」

 同じように酔いがまわった口調で、連れの男が割り込んできた。

「別に」

 男はもう一度僕に視線を向けてから、連れを促して駅を出ていこうとした。

「知り合いか?」

「ちょっとな。前にいただいたことがあんだよ」

 男の言葉が、僕の内部をえぐり、暴発した。引きずられるように、僕はロータリーのタクシー乗り場に向かう二人のあとをついて行った。

「けど、あれ、男に見えたぞ。第一、中学生じゃないのかよ」

「いや、なんか雰囲気ぜんぜん違ってたな。クラブでひっかけた時は、えらく男慣れしてたし、エンコーでもやってんのかと思ってさ。けど、背中に火傷とかあって、ちょっとかわいそうなんだよ」

 かわいそう、と男は言った。河原で会った主婦達と同じ口調で。

 連れの男が、雨をよけるようにしてタクシーの窓ガラスを指先でノックした。

「公衆便所じゃないのかぁ? お前、病気とか気をつけろよ」

 僕は、タクシーに滑り込もうとしたその男の腕をつかんで引っ張った。

「もう一度言ってみろよ」

 相手は一瞬、呆けたような表情で僕を見た。ピアスの男が「おい……」と僕の肩をつかむ。それと同時に、連れの男は僕の手を乱暴に振り払った。

「なんだよ、お前」

「誰が公衆便所だって?」

 連れの男は後ろ手でタクシーのドアを閉めると、緩慢な仕草で首を回し、僕の前に顎を突き出した。

「いちいち熱くなんなって。お前だって、やらしてもらってんだろ? うざいこと」

 最後まで言い終わらないうちに男は吹っ飛び、近くで誰かの悲鳴が上がった。鼻を押さえて転がった男に馬乗りになり、もう一度殴ろうとした時、背中を蹴り上げられた。振り向きざまに殴られ、よろけたところを、後ろからはがい締めにされた。

「調子のってんなよ、コラ」

 鼻血を手の甲で拭いながら、連れの男が起き上がった。

「しっかり押さえてろよ」

 ピアスの相棒に言った。振りほどく前に、容赦ない拳が飛んできた。頬の内側が切れ、口の中に鉄臭さがあふれた。酔っぱらいのくせに元気すぎる。僕は右足で相手の腹を思いきり蹴飛ばした。ピアスの男がひるんだ隙に腕を払うと、右脇腹に一発くらわせる。腹部をかかえて前屈みになった肩先に、血の混じった唾を吐き捨てた。

 さらに向かってこようとする二人の酔いと怒りで充血した目を見た時、僕は思わず応戦の体勢をほどいた。さよちゃんの父親と、六歳の暁を殺した佐伯文夫の影が、眼前に覆い被さった。

 抵抗をやめた僕は地面に張り倒され、これでもかというほど四本の足になぶられた。連れの男が僕の髪をつかみ、顔を上げさせる。

「イキがってんじゃねーよ、バーカ」

 僕はもう一度唾を吐いた。

「汚い顔、近づけんな」

 途端、横っ面を殴られた。転がった僕の頭をコンクリートに力任せに押しつける。左頬がずる剥けて、発火しそうな痛みが走った。

「警察を呼べよ」

 誰かの怒鳴り声を耳にしながら、僕はじっと暴力の中に身を横たえていた。汚れたスニーカーのつま先で顎を蹴られた。サッカーボールになった気がすると言った暁のことを、ぼんやりと考える。足の間をかいくぐって視線を泳がせると、通行人達が遠巻きに周囲を取り巻いているのが見えた。こっちを見ているのに、見ていない。結界を張ったようにそこに立ち止まった人間達の顔・顔・顔……。

 のっぺらぼうだ。

 僕は笑った。打ちつけてくる冷たい雨が、火照った体から熱を奪っていく。

「高久!」

 雨の中に薫の声が響いた。体への衝撃が止み、二人組が駆け出す。どちらかの足が僕を跨いだ拍子に頭を踏みつけて行った。

「ムカつく……」

 呟くと同時に、左肩を揺さぶられた。

「おいっ、大丈夫かっ」

 薫がしゃがみ込んで顔を近づける。

「なんとか」

 笑うと、切れた唇が痛んで僕は顔をしかめた。

「頭は打ってないな?」

「踏まれたけどね」

 薫は後ろから僕をかかえて起き上がらせた。

「痛い……もうちょっとやさしく」

 やじ馬達はすでに散らばり始め、行き交う人間達がこっちをちらちらと伺いながら、避けるように歩いていた。

「立てるか?」

 薫に訊かれ、僕は頷いた。肩を貸してもらい、ゆっくりと立ち上がる。筋肉痛を何倍もハードにしたような痛みと、雨でじっとりと濡れた服の重みで、手足がギクシャクした。

「派手にやられたな」

 僕の顔を改めて見ながら薫が言った。薫の髪と服も、すでにかなりの水分を含んでいる。

「どうしたっていうんだよ」

 口を開きかけた僕は、薫の肩越しに視線を止めて、ため息をついた。

「あちらさんへの説明が先みたい」

 大柄でいかめしい顔をした五十がらみの警官が、のしのしという感じで近づいて来た。

 薫が肩をすくめる。

「カツ丼、食わせてもらえよ」


 警察に引っぱられた僕を迎えに来たのは、義母だった。

「何を訊いても、ただのケンカだ、の一点張りなんですよ」

 二十代後半と思われる若い警官は義母にそう言ってから、僕達に意味ありげな視線を向けた。

「ずいぶんと若いお母さんですねぇ」

 どこかで何か大きな事件があったらしく、署内は電話の音や慌ただしく行き来する刑事達でざわついていた。僕は奥の壁際に立ち、雑然と書類が積み上げられた防犯課のデスクに目をやっていた。義母に申し訳なさを感じながら、暁のことが気になっていた。薫に連絡を頼んだけれど、おとなしくアパートで待っていてくれるだろうか。

「ごらんの通り、息子さんは相当殴られてるんで、こちらとしても、ちゃんと事情を伺いたいところなんですが、肝心の相手が逃走してしまってる上に、先に手を出したのは息子さんのほうということで……まぁ、うちも今はちょっとバタついてまして……」

 いかにもケンカごときにかかずらっている暇はないのだと言いたげに、若い警官は苦笑いを浮かべた。

「息子さんももう子供じゃないんだし、相手が気に入らないからって、カッとなって暴力に訴えるっていうのは、いささか軽率でしたね」

 それまで黙って頭を下げていた義母が、まっすぐに警官を見つめた。

「息子は、感情に任せて暴力をふるうほどバカじゃありません。騒ぎを起こして、警察の方の手をわずらわせてしまったことはお詫び致します。でも、それがどんな理由かはわからなくても」

 息をついて、義母は言った。

「人として間違った行為はしていないと、私は信じています」

 僕は驚きに言葉を失って、毅然とした義母の横顔を見ていた。気を呑まれたような表情をしていた警官が、ムッとした表情で何か言い返そうとした時、僕をここへ連れてきた体格のいい警官が、やんわりと割り込んできた。

「もう、帰ってもらって結構ですよ」

 そして、不満げな若い警官に「署長には報告してるから」と言い、僕へ穏やかな微笑を向けた。

「あんまり無茶しないように」

 僕と義母は何度も頭を下げて、警察署を出た。いつのまにか雨はあがっていた。玄関の階段下に、薫と暁が立っていた。驚いた僕に薫が小さく頷く。困惑して立ち止まっている僕を気づかうように、義母が声をかけてきた。

「じゃあ、私はここで」

 僕は慌てて義母に頭を下げ、車で送ると言ったが、義母は首を振った。

「私は大丈夫。悠介は実家の両親のところだし、今からちょっと高井戸の友人の家に行くつもりなの。帰りは彼女が送ってくれると思うから」

 そして、薫と暁に会釈をして帰って云った。僕達は無言のまま駐車場に回り、薫が乗ってきた車に乗り込んだ。薫はエンジンをかけながら、横顔で笑った。

「顔が変わってるよ」

「男前があがったろ」

 僕はため息をついてシートにもたれた。バックミラー越しに、暁と目が合った。怒ったような表情の中に、どこか頼りなげなものを漂わせている。

「アパートで待ってればよかったのに」

 ミラーの中の暁に話しかけた。

「お前は、家出人みたいなモンなんだ。無茶はするなって言ったろ」

「……人のこと言えるのかよ」

 睨みつけてくる視線に、思わず苦笑が洩れた。

「警察帰りじゃ説得力ないな」

 薫も笑って応じる。暁はふいと横を向くと、窓ガラスに額をくっつけるようにして外へ目を向けた。暁らしいぶっきらぼうな心配が見え隠れして、いじらしさに胸がつまった。

 週末の夜の道は混み合って、アパートまでの短い距離にも時間がかかる。半分降ろした窓から、雨上がりの街がクリアに広がり、街路樹の濃い香りが届いた。

「暁」

 僕は前を向いたまま言った。

「一方的に殴られたり蹴られたりされると、たまらないもんだな」

 ミラーの中の暁の表情がこわばる。僕は続けた。

「誰も助けてくれないのは、もっとつらい」

 シートに腕をかけて、後部座席に振り返った。鋭い痛みがあちこちに走る。

「暁」

 僕は無言の相手にもう一度呼びかけた。

「俺はもう、何があってもお前を殴らないよ」

 暁の瞳が、まっすぐに僕を射抜く。

「殴ったりしない」

 両手で自分の体をしっかりと抱えながら僕を見つめ、暁は震えていた。何かに怯えているような切れ長の瞳に、理由を問いかけるよりも、ただ、その小さな体を抱きしめたくてたまらなくなった。激しい衝動の奥底に、しめつけられるようなせつなさがあった。こんな感情を、今まで知らずにいた。できることなら胸を切り開いて、どんな言葉でも言い表せないこの気持ちを、目の前の相手に見せたいと思った。

「着いたよ」

 薫の声に促され、僕は正面を向いた。行き場のないジレンマに、長い息がもれる。一緒の時間を重ねるごとに心を占めていく暁達への思いと、それを昇華しきれないもどかしさが、僕の中で音を立てて軋んだ。

 アパートの前で僕達が降りても、暁は車から出てこようとしなかった。

「暁?」

 後部のドアを開けると、暁はシャツの襟をかき合わせて、ぐったりと頭を垂れていた。

「気分が悪いのか」

 だるそうに顔を上げた暁は、とろりとした目を向けた。暗がりの中でも、頬が赤いのがわかる。そっと額に手をやると、熱があった。

「歩けるか?」

 問いかけると、浅く頷いた。ゆっくりと立ちあがった暁の足元がふらついて、僕は肩を貸そうとしたが、身長差が邪魔をする。ためらいがちに胸元にもたれかからせると、暁は抗うこともなく体重を預けて歩き出した。

「高久、鍵」

 薫は僕からアパートの鍵を受け取って、玄関のドアを開けてくれた。

「解熱剤ある?」

「いや、きらしてる」

 暁を支えながら肩越しに答えた。

「買ってくるよ。それと、消毒薬やガーゼは?」

「消毒薬?」

 振り返った僕の顔を指差して、薫は笑った。

「鏡見なよ」

 買物は薫に任せて、僕はすぐに暁のパジャマを持ってきた。暁が着がえている間にベッドを整え、横たわった首のあたりに保冷シートを当ててから体温計をくわえさせた。

「……たいひたことないよ」

 暁は目を閉じたまま、モゴモゴと言った。

「しゃべるなよ。ちゃんと計れないだろ」

 熱は思ったよりは高くなかった。

「七度八分。医者に行くほどでもないな」

 暁が眠そうな顔をしたので、僕も濡れた服を着替えに脱衣所に行った。雨や泥や血の跡で悲惨な状態の上着とシャツを脱ぎ、皮みたいになったジーンズと一緒に洗濯カゴに突っ込んだ。居間に戻ると、眠っていると思った暁がこっちを見上げていた。もの言いたげな視線に、僕はソファの端に静かに腰かけた。

「気分は?」

 問いかけに、暁は声を出さずに小さく頷いてみせた。熱で潤んだ切れ長の瞳が、それでも勝ち気な光を覗かせながら僕を見つめる。

「俺の顔に何かついてる?」

「カラフルになってる。赤や青や黒……」

 僕は笑ったけれど、暁は表情を変えなかった。

「早く手当てしないと」

「大丈夫だよ。薫が……さっきのやつがやってくれる」

 言いながら、薫が警察にいる僕のことを、暁にどう説明したのかが気になった。

「大学の友達だよ」

 僕はつけ加えた。暁は僕から視線を外し、天井を見つめながら呟いた。

「高久は、ちょっと警察に引っぱられてる。ただのケンカだから心配ない」

 そして、また僕を見て言った。

「あの人から聞いたのは、それだけ」

「そうか」

 心の中の疑問に答えを返され、少し戸惑った。暁はほんの微かに口元を柔らげた。

「意外と顔に出るんだね」

 笑顔というには、あまりにも仄かな表情だったが、暁は初めて僕に向かって笑いかけた。

「何で、あの二人とやりあったのさ?」

 暁はすぐに真顔になって訊いた。

「別にたいした理由なんかない。よくいる酔っぱらいだよ。ゴチャゴチャ因縁つけられて、ムカついたからな」

「それだけで乱闘? あんたが?」

「俺だってキレることぐらいあるって」

 暁が口を閉ざし、僕は間を持たせるように足を組み変えた。

「俺、記憶が途切れることがあるんだ」

 まっすぐに見つめてくる暁から、目を逸らすことができなかった。

「……そういや、前に一度、夜中に起き出して寝ボケてたことがあったな。夢遊病のケでもあるんじゃないか?」

 僕の言葉に暁は考え込み、やがて、ポツリと言った。

「そうかもしれない」

 時として訪れる記憶の空白に、漠然とした不安を抱いているようだった。それは、憎しみで一杯だった暁の心に、自分自身へと目を向ける余地ができたという吉兆である反面、他の人格の存在に気づいてしまう危険もはらんでいた。けれど、むしろそれも吉兆というべきなんだろうか。

「高久」

 思いつめたように口を開いた暁に、僕は反射的に身構えた。本気で問いつめられれば、下手なごまかしが通じる相手じゃない。だからといって、今、すべてを話してしまうのは、まだ早い。一瞬の緊張のあと、暁は何も言わずに僕から視線をはずし、壁際を向いて毛布にくるまった。

 僕は立ち上がり、その額にそっと手を当てた。熱と一緒に、暁の苦しさと悲しみが、手のひらを通して僕の心に伝わる。暁も水月と同じだ。僕を気づかって、本当に聞きたいことを、最後の一線で呑み込んでしまう。結局、憎しみだけに身をまかせるには、やさしさが邪魔をする。僕は少しずれた毛布を直し、台所へ行こうと立ち上がった。

「恐いんだ」

 ふいに、暁が言った。

「ずっと、自分の居場所がなくて……憎しみだけが、俺に許された場所だった。それがなくなっちまったら……生きていけない」

 声が震えていた。

「暁……」

 伸ばしかけた手を、振り向いた瞳がさえぎった。

「これ以上、入ってくるな」

 僕はその場に立ちつくした。その時、はっきりとわかった。

 暁の苦しみの根源は、殺されたのが自分じゃなかったことだ。暁は母親を憎む以上に、生き残った自分を責めている。たとえ、自分に危害を与えた者を許すことができた人間でも、自分の愛する者を奪った人間を許すなんてことはできないだろう。それは、その暴力にさらされたのが自分の体じゃないからだ。どれだけ精神の痛みを共有したとしても、肉体的苦痛はその本人にしかわからない。ましてや殺されてしまった者からは「痛い」という悲鳴ひとつ聞くことはできないのだ。永遠に。自分が受けていない暴力を、どうやって許すことができる? 罪悪感を伴う憎しみ。そこに遺された者の救いのなさがあるのかもしれない。

「俺も、自分の居場所を探してたんだ」

 僕はソファの枕元に膝をついた。間近で視線が重なる。暁は少し身を引いた。

「親父が死んだ時、心のどこかでホッとしたって言ったけど、本当は、いつも訊きたかった。弟と同じように俺のことも好いてくれてるかって。お袋だって、もしかしたらさよちゃんのことで、心臓によけいな負担がかかったのかもしれない。そのことで親父は俺のことを責めてるんじゃないか……憎んでるんじゃないかって……。あの家に、俺はいちゃいけないような気がしたんだ」

 暁は何も言わなかったけれど、その目に拒絶の色は浮かんでいなかった。

「少し眠ったほうがいい」

 僕はもう一度毛布を暁の肩先までかぶせ、笑いかけた。

「悪い夢を見たら、俺がすぐに起こしてやるよ」

 そのまま暁は眠ってしまい、僕は台所に移った。煙草を吸っていると、薫が戻って来た。

「彼女は?」

「眠ったよ。熱は七度八分だった」

 薫は頷き、僕にスーパーの袋を渡した。

「冷蔵庫に入れとけよ」

 ポカリスエットと果物、レトルトのお粥やスープまで入っている。薫らしい気配りだった。僕がそれらを冷蔵庫にしまうと、薫は床に座り、救急箱を持ってくるように言った。僕は居間から救急箱を取り、暁を起こさないよう居間の戸を閉めて、 薫の向かいに腰を下ろした。消毒薬をたっぷりと含ませた脱脂綿を僕の顔に近づけ、薫は「しみるぞ」と言った。左頬の傷に触れられ、思わず後ろに下がった。

「動くなって」

「しみるんだよ」

「あたりまえだ」

 容赦なく言い捨てると、薫は救急箱をさぐった。中には小さいガーゼしかなかった。

「買っといてよかった」

 薫は薬局の袋から大判のものを出した。

「お前、いつまでこんなこと続けるつもり?」

 ガーゼをちょうどいい大きさにたたみながら薫が訊いた。

「……猫が死んだ日、俺に言ったよな。『お前を必要としてる人のとこへ帰れ』って」

「言ったよ。その前にこうも言った」

 僕の頬にガーゼをあてがい、薫は至近距離から視線を合わせた。

「共倒れするな」

 僕は黙って薫を見つめた。薫は苛ついたように眉根を寄せて、ガーゼの上にテープを滑らせた。

「あの子を本当にどうにかしてやりたいんだったら、恋愛感情を持ち込むなよ」

「恋愛感情?」

「もう、ごまかしはなしだ」

 薫は僕のシャツをたくし上げると、痣だらけの体を見てため息をついた。

「本気で好きでもない人間のために、こんなにまでできるやつがいるのかよ。お前はもう、どうしようもないほど、あの子が好きなんだよ」

 僕は薫の手を振り払ってシャツを戻そうとした。その腕を薫が強くつかむ。

「けど、あの子って、どっちだ?」

 僕の腕を離して、薫は薄く笑った。

「愚問だよな」

「やめろよ」

「水月と暁、お前は二人を同じように好きなんだ。暁のことを、これっぽっちも男だなんて思っちゃいない。あの子を見る自分の目を、鏡に映して見てみろよ。お前は、水月に魅かれながら、暁に対しても欲情してるのさ」

 僕は立ち上がり、薫も受けてたつように腰をあげた。

「寝ちまったら、きっと水月を憎む。前にお前は言ったけど、そうなった時に憎むのは、水月じゃない」

「……黙れ」

「多重人格は、病気なんだ。治さなきゃいけない」

「そんなこと、お前に言われるまでもないよ」

 薫は居間の方へちらりと目を向けてから、声を落とした。

「こんな状態のままで、お前、本当に主人格の彼女が目覚めるのを待てるのかよ」

 僕は答えられなかった。頭の奥がズキズキと痛んで、軽い吐き気がする。

「高久」

 薫の目に、つらそうな色が浮かんでいた。

「水月も暁も、どんなに好きになっても、しょせん幻なんだ」

 僕は怒りが萎えていくのを感じ、手足から力が抜けた。

「そこからどこにも行けないよ」

 そして薫は哀願するような口調で言った。

「ちょっとは、自分のことも考えろ」

「どこにも行けなくてもいい」

 僕は薫から視線をはずした。

「俺のことなんかは、どうでもいいんだ」

 傷のないほうの頬を、思いきり張られた。

「なら、勝手にしろ。自己満足のまま突っ走ってどうにでもなればいいさ。ただし、俺の目の届かないとこで死んでくれ」

 そのまま出て行こうとする薫の背中に僕は言った。

「生きていけないよ」

 玄関の手前で薫が立ち止まる。振り向いた目は、まだ怒りに燃えていた。

「愛されてあたりまえの親から、恐怖や苦痛や絶望だけ与えられて、そのうえ周りは誰も助けてくれない。世界中に、自分の味方はひとりもいない……。そんな状態で、人間が生きていけるか?」

 薫は黙って立っていた。

「だから」

 僕は言葉を重ねた。

「あの子のためなら、自分のことはどうでもいいって、そんな人間が……せめてひとりぐらいいたっていいじゃないか」

 そうだ。僕は、何があっても、あの子の味方でいたい。血の繋がりがなくて、恋人と呼べなくて、友達でもない距離の中で、迷っても、ためらっても、傷つけあう時ですら、僕はあの子の味方でだけはいたい。

 僕は肩で大きく息をついた。

「あの子って誰だ、なんて訊くなよ」

 笑った僕に、薫も小さく笑みを返した。あきらめと哀しみが入り混じったような微笑だった。

「ありがとな、薫」

 薫が怪訝な顔をした。

「本気で心配してくれて」

 薫はあきれたように頭を振ると、僕を押しのけて居間に戻った。そして救急箱から絆創膏を取り出し、かなり手荒く僕の口元に貼りつけた。

「痛ぇな」

 文句を言う僕に、薫は斜にかまえた視線を投げた。

「バカな子ほどかわいいって、真理だよな」

「バカのうえに臆病なんだ」

 僕は傷口をさすりながら言った。

「なぁ、人間って、つくづく不公平で不自由だよな」

 薫は黙ったまま煙草に火をつけ、レンジフードの下に行って換気扇を回した。居間で寝ている暁への気配りだろう。台所のくすんだ照明を受けた横顔が、深い憂いを反射していた。

「自由と平等なんか、どこにもない」

「……あっさり言うなよ」

 僕の言葉に、薫は薄氷のような笑みを浮かべた。

「みんな、どこかで差をつけられてるし、何かに縛られてる」

 流しの水切りカゴに煙草を捨てると、薫は黙り込んだ僕の顔を覗き込むようにして言った。

「それでも、生まれたからには生きなきゃね」


 朝になると、暁の熱はすっかりひいていた。僕は、現れない水月のことを気にかけながらも、一応安堵した。体のふしぶしが痛み、赤や青のグラデーションを施した顔は見事な有様だったが、昨日のことを改めて謝るために、僕は車で実家に向かった。

 実家のガレージには義母の車が止まっていて、その隣に悠介の自転車やサッカーボールが並んでいた。僕は家の裏側に回って車を止め、垣根越しに縁側を覗いた。義母はかがみ込んで庭の手入れをしていた。

「お兄ちゃんの部屋で遊んでいい?」

 悠介が縁側に走り出てきて、義母に訊いた。

「ダメよ。お部屋に入っちゃ」

「なんで? 誰も使ってないのに」

 義母は抜いた雑草をビニール袋に入れて立ち上がり、悠介に振り返った。

「お兄ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、そのままにしてるのよ」

「お兄ちゃん、また帰ってくる?」

「あたりまえでしょ。家族なんだから」

「お母さんも待ってるの?」

「そうよ」

 微笑みながら前を向いた義母は、僕に気がついて驚いた顔をした。

「お兄ちゃん!」

 悠介が裸足のまま駆け寄って来て、木戸を開けた僕に飛びついた。

「昨日は、本当にすいませんでした」

「びっくりした……。さぁ、入ってちょうだい」

「お兄ちゃん、ケンカしたの?」

 腕の中で悠介が訊いた。

「まあね」

「昨日、テレビで見た『ロッキー』みたい」

「そりゃ、悪くないな」

 僕は離れようとしない悠介を抱き上げたまま、玄関に回って靴を脱いだ。

 縁側に面した部屋で、和卓を挟んで義母と向き合いながら、僕は落ち着かなかった。それは今までのかみ合わない思いをかかえた気まずさではなく、前に座る義母への違和感のせいだった。まるで初めて会った人のような気がした。それとも、これまでの僕が、ただひとつの面からしか彼女を見ようとしていなかっただけなんだろうか。

「悠介、いいかげんに降りなさい。お兄ちゃんが重たがってるでしょ。お母さん達はちょっとお話があるから向こうで遊んできて」

 義母に言われ、悠介はしぶしぶ奥の部屋へ走って行った。

 僕は昨日の一件に改めて頭を下げ、暁のことを何と説明したものかと口ごもった。そんな僕を見つめながら、義母は手にしていた湯呑みを静かに和卓に置いた。

「あなたのお友達と一緒にいた子は、男の子? それとも女の子なの?」

 全く予期しない質問だった。それまで暁と会った人間は皆、すんなりと少年だと思い込んできたので、とっさに返答ができなかった。けれど、柔らかな義母の視線に促されて僕は口を開いた。

「女の子です。けど、複雑な事情があって……」

 義母の眼力が鋭いのか、それとも暁の中で変化が起こっているのか。僕が言葉を濁していると、義母は、ふと視線を庭先へ向けた。昔、金木犀の木があった場所は、コスモスが植えられ、白やピンクの花々が、今が盛りの姿を風になびかせていた。こんなふうにじっくりと庭先を眺めるのも、何年ぶりだろうと考えた。

「落ちついた目で、庭を見れるようになったのね」

 同じことを義母が口にした。その時、悠介が転がるように駆け込んできた。

「カブト虫が死んじゃったぁ」

 きっと、一生懸命世話していたんだろう。動かなくなったカブト虫を両の手の平にしっかりと包んで、泣きじゃくっている。

「兄ちゃんが手伝うから、土に埋めてやろうな」

 僕は悠介の頭をなでながら言った。

「昨日までは元気だったのにねぇ」

 義母も残念そうに言い、縁側から庭に下りると、納戸に行ってスコップを持ってきた。

 僕はしゃくりあげる悠介を抱き上げて庭を見回し、常緑樹の下がいいだろうと、山茶花の木の前に行った。

「ここにお墓を作ってやろう。一年中緑の葉っぱがあってきれいだよ」

 スコップで穴を掘りながら、ラムネを葬った時のことを思い出した。僕と義母に促され、悠介はそっと穴の中にカブト虫を置いた。小さな手で土を何回もかけながら、赤くなった頬にまた大粒の涙を滑らせる。こんもりと盛り上がった土に、義母が如雨露で水をかけ、固まらせた。そこだけ土の色と匂いが濃くなり、鼻腔を刺激されたように悠介が大きく鼻をすすった。

「ほら、元気出して」

 しょんぼりとうなだれる息子の肩を、背後から抱きかかえるようにして義母が言った。

「……天国に行ける?」

 悠介が小さな声でつぶやく。

「もちろん。おまじないを教えてあげる」

 義母は悠介の頬に顔を近づけてやさしく言った。

「おやすみなさい、またいつか。群がる天使の歌声に包まれて、永遠の安息に入られますように」

 僕は信じられない思いで義母を見つめた。

「どうしたの?」

「その言葉……僕に、何度もその『おまじない』を聞かせてくれたのは……お義母さんだったんですか?」

 今度は義母が驚いた顔をした。

「覚えてたの? あの頃のあなたは、入院中でひどく混乱してたから……とっくに忘れてると思ってたわ」

 確かに当時の記憶は前後が入り混ざってあやふやだった。死んだ母とそっくりな義母の声。僕は心の深淵をさまよう中で、亡母の思い出と義母とのやりとりを混同したのかもしれない。

「ハムレットの一節ですよね」

と僕は言った。

「またいつか、の部分だけがアレンジで……」

 風に揺れる山茶花の花びらに視線を落として、義母が頷いた。

「高校生の頃、可愛がってくれた祖母が亡くなってね。初めて親しい人間の死っていうのに直面したあとに読んだからかしら。物語の内容よりも、その台詞が、一番心に残ったの」

 泣いている僕の頭におかれたやさしい手。あれは、目の前のこの人だったのか。

「寒い。もう中に入ろ」

 悠介が不満げな声を出して僕と義母の手を引っぱった。山茶花の葉はまだ如雨露の水滴を残していたけれど、おまじないが効いたのか、悠介の頬はもう乾いていた。

「そうね。そろそろお昼にしようか。高久さんも、よかったら一緒にどうぞ」

 悠介と手をつないで縁側に上がった義母の背中に、僕は言った。

「あの女の子、暁っていうんですけど、暁のこと……いつか全部話します」

 振り返った義母は、微笑しながら頷いた。

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