第4話 渇き

下北沢の南口通りにあるイタリア料理店は、金曜日の夜だけあって、かなり賑やかだった。

「だいぶ冷え込んできたみたいね」

 ガラス戸を開けて入ってきた女の子が、寒そうに背を丸めているのを見ながら、可奈子は言った。

「そうだな」

 ラザニアとフリコットの皿を下げてもらい、可奈子はココナッツのアイスクリームを、僕はエスプレッソを頼んだ。家庭料理が中心のこの店は手ごろな値段で味もよく、若者に人気だった。

「元気ないよね」

 アイスクリームに飾られたミントの葉を指先でつまんで、可奈子が僕の顔を覗き込んだ。

「そんなことないよ」

「だったら、もっと楽しそうな顔してよ。やっと電話くれたと思ったら、心ここにあらずって感じで」

「ごめん、レポートが再提出になるんじゃないか、心配でさ」

 適当にごまかして、コーヒーを啜った。実際、可奈子と会っていても、途切れた会話やふとした拍子に心をよぎるのは、ひとりの顔だけだった。ひとり、と言っても、瞼の裏側をするりと通り抜けていく面差しが、暁なのか水月なのか、それとも第三の彼女なのか、僕には判別できなかった。

「従兄弟の子、まだいるの? あきらくん、だっけ」

 考えていた名前を口に出され、僕は狼狽した。気づかれないように、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。

「いるよ。ちょっと両親が離婚問題でゴタゴタしてて。そんな家にいるのは、あいつの精神状態に良くないってことでさ」

 可奈子は椅子にもたれて、テーブルクロスの一点に目をやった。

「確かに、不安定そうだったわね」

「ああ、でも最近、ようやく落ちつき始めたみたい、かな」

 それは、まんざら嘘でもなかった。あの夜の感情の吐露は、暁の精神を幾重にも覆っている不透明な皮膜を、一枚剥がしたようだった。もちろん、暁の中で憎悪の炎が消えたわけじゃなく、特別に大きな変化があるというのでもないけれど、ふと見せる表情や、言葉の語尾の調子に、ほんのわずかに今までとは違う気配があった。

 水月は一昨日の夜明け以降現れず、主人格の彼女は気配もない。あの時、公園に来た水月は、確かにいつもとは違っていた。

 僕は、たった一度見た主人格の彼女の、青ざめた泣き顔が忘れられなかった。水月にしても、心臓に良くないと言いながら、姿が見えなければどうしているのかと気になってしかたない。こんなふうに目まぐるしい思いに翻弄されていると、自分の心を占めているのは一体誰なのか、その感情をどう呼べばいいのかもわからなくなってくる。落ちつかないのは、むしろ僕の方だった。思い出せそうで思い出せない夢の切れはしを追いかけるようなもどかしさがいまいましくて、僕は向かいに座る恋人へと意識をひるがえした。

「出ようか」

 可奈子は頷くと、上着とバッグを持って立ち上がった。ワンピースの胸元から形のいい谷間が覗き、僕は強い欲情を感じた。

 支払いを済ませて外に出ると、乾いた冷たい空気が夜の街を包み、ネオンの光を明るく際立たせていた。この数日で、気温はめっきり下がり、例年より早い冬の到来を感じさせた。可奈子はこげ茶のカーディガンを着て、斜め向かいのコンビニの入口に貼られたポスターを眺めていた。

「クリスマスケーキ、予約受付中、だって」

「まだ十月の終わりだってのにな。フライングし過ぎ」

「いいんじゃない? なんだって、待ってる間が一番幸せってこと。楽しい時間は長い方がいいよ」

 僕の左肘のあたりに腕をからめて、可奈子は言った。僕は腕時計に目をやった。

「八時五分。まだ帰らなくてもいいか?」

 言葉の裏にあるものを感じとって、彼女が小さく頷く。

「今日はお父さんが出張中だから、門限が甘いの」

 ホテルの部屋に入った途端、僕は可奈子を抱きしめてキスをした。肩からショルダーバッグが滑り落ち、可奈子は身をよじるようにして、僕の唇から逃れた。

「シャワーを……」

 言いかけた言葉を再びキスで塞いで、広いダブルベッドに押し倒した。カーディガンを脱がせるのももどかしい僕の手つきに、彼女はあきらめたように小さくため息を漏らして体の力を抜いた。

 背中のファスナーを下ろしながら、鎖骨にキスした。目を閉じて、柔らかい肩のラインを唇でなぞった時、ふいに、幼さと堅さを残した細い肩が瞼の裏側をよぎり、僕は目を開けた。腕の下に組みしいている恋人の顔に、別人の面影が重なる。

 僕は弾かれたように体を起こした。

「どうしたの?」

 可奈子が驚いて僕を見上げる。僕はベッドの縁に腰掛けた。

「ごめん……」

 その場を取り繕う言葉も浮かばず、僕は両手で額を押さえてうつむいた。どうかしてる。十五歳の子供じゃないか。けれど、十五の子供を欲情の対象にしたことに加えて、僕の混乱に追いうちをかけたのは、その相手が暁なのか水月なのか、わからないことだった。

 可奈子がベッドから降りて、僕の隣をすり抜けていった。床に落ちていたバッグを拾うと、ぼんやりと見つめていた僕に振り返った。

「帰るわ」

 家に着くまで、可奈子は一言も口をきかず、僕も何も言えなかった。車を降りてドアを閉めながら、彼女は初めて「じゃあね」と、声を出した。僕はごめんと言いかけたけれど、謝罪の言葉がいっそう彼女を傷つけることに気づいて「おやすみ」と言った。

 可奈子の後ろ姿が玄関のドアの向こうに消えるのを見送ってから、僕は車を出した。彼女への申し訳なさと自己嫌悪がぐちゃぐちゃに入り乱れて、最悪の気分だった。このまま帰って、暁だか水月だかの顔を見る気にはとうていなれず、僕は薫のマンションに向かった。

 裏道に車を停めて、すぐ側にある駐車場を覗くと、薫のN-BOXが指定の場所にあった。どうやら家にいるらしい。

 正面に回ってエントランスの前に立った時、ガラスの扉が開いて中から人が出てきた。入れかわりに中に入ろうとした僕は、すれ違いざま、その人と軽くぶつかった。

「すいません」

 左手でドアを半分開けたまま、僕は言った。いかにも仕立てのいいモノトーンのスーツを着て、濃いサングラスをかけた女性が「こちらこそ」と、会釈を返して通り過ぎた。だいぶ年上のようだったが、サングラス越しでも充分にその秀でた美貌が窺え、どこにでもあるワンルームマンションの住人とは、とても思えない風情だった。甘く品のいい香水の香りが漂い、ガラス戸の向こうからもう一度振り返ると彼女はタクシーに乗り込み、青山方面へ走りさった。

 もしかしてと考えながら、僕は七階でエレベーターを降りた。インターホンを押してすぐにドアが開き、ジーンズ一枚で首にタオルをかけた薫が、驚いた顔で出迎えた。

「入ってもいいか?」

「いいけど……何かあった?」

 僕は黙って靴を脱いだ。八帖のワンルームは、相変わらず本棚に入りきらない本が床に積まれ、テーブルにはパソコンのCDやUSBが無造作に置かれていたが、それらの一つひとつが妙にバランスよく映り、いつ見ても散らかっているという印象は与えなかった。

 テーブルの上に、薫の腕時計が置かれていた。アンティークのヴァシュロン・コンスタンタン。高校生の頃、これを見て驚いた僕に薫は、「祖父さんのお古だよ」とだけ言った。長い年月を大切に使いこまれたと思われるオートマティックは、深い趣がフォルムをしっとりと包み、まったくの素人目にも、そこらの若い連中の手首を飾るブランド時計とは、値段も品格もケタ違いだということが見てとれた。ありふれたマンションに住み、カジュアルな服装をしていても、祖父から譲り受けたものなんていうエピソードが、なんの違和感もなくなじんでしまうところに、やっぱり育ちの良さが見え隠れする。

 薫はシャワーを浴びていたらしく、濡れた髪をタオルで擦った。部屋の中には、さっきの女性と同じ甘い香りが残っていて、僕はシーツが乱れたベッドに目をやった。

「マンションの前で、すごい美人とすれ違ったよ。夜なのにサングラスをかけてたけどな」

 薫は、ああ、とうなずき、さらりと言った。

「人目をはばかるおつきあいだから」

「セックス、楽しいか?」

 冷蔵庫からビールを取り出していた薫は、テーブルの前に座っている僕に振り返った。

「お前、楽しくないの?」

「わからない」

「車で来た?」

 頷くと、薫はビールをコーラに替え、僕に渡した。そして自分の分のプルトップを開けながら向かいに座り、ベッドの上にあったシャツを着た。

「俺もよくわからないな。ま、少なくとも、愛を確かめる行為なんてもんじゃないことは確かだね」

 冗談めかしたあとで薫は言った。

「俺にはやりたいことがあって、それのメリットになるんだったら、たぶん男と寝ることだってできる。けど、時々、そんなものじゃなくてさ、ただ誰かと寝たいって、それだけを思うことがある」

「ただ、誰かと?」

 薫は頷いた。

「生理的欲求とも違って、もちろん恋愛感情でもない。ただ、渇きがあるだけなんだ」

 誰かと抱き合うことを、一杯の水と言った水月の顔が脳裏をよぎり、僕は薫をじっと見た。

「渇きを感じるのは、どんな時なんだ?」

 それには答えず、薫はコーラの残りを飲んだ。やりたいこととは何なのか、訊いてみたい気がしたけれど、僕も冷えたコーラに口をつけた。

「可奈子と、できなかったんだ」

 コーラの缶を両手で回しながら僕は言った。

「抱こうとした時、別の人間が重なった」

 薫はテーブルに肘をつき、斜めに目線を向けた。

「俺はあいつに欲情したんだ」

「あいつ?」

「暁か水月か、それとも両方かな……」

 僕は、ここ数日の出来事を薫に話した。

「好きになった?」

 薫の問いに、僕はかぶりを振った。

「恋愛感情かって言われたら、たぶん違う。そんな言葉じゃくくれない。けど、俺の体は彼女より、まだ出会ったばっかりの、十五歳の子供に反応するんだ」

 長い間、自分の中にくすぶっていた熾火のように消えないものが、大きな奔流に形を変えて、まっすぐに暁と水月へと流れていくような気がした。

「水月は俺に、抱いてほしいって言った。最初は、何バカなことって思ったけど、今日、わかった。俺も、水月を抱きたい。けど、そうなったら、俺はきっと水月を憎む。そんな気がするんだ」

 薫は、なぜだとは訊かなかった。硬質な光を放つ目が、僕を見据えていた。

「俺は、水月を抱いた男達を軽蔑してたけど、結局、俺の中にもそいつらとおんなじものがあるんだ」

「お前は違うよ、同じじゃない」

「おんなじだよ。それでも、俺は水月と暁の手を放せない」

 僕は許しを乞うような気持ちになった。

「俺はまともじゃないよ。どっかいっちまってる」

「まともな人間って、どんなやつだよ」

 慰めめいた言葉も、わけ知り顔の助言も一切口にしないところが、薫らしかった。

「いきなり押しかけて、わけわかんないこと言ってごめん」

僕は立ち上がった。

「そろそろ帰るよ」

 玄関のドアの前で、僕は振り返った。

「お前、人妻には手を出すなよ」

 真顔で言った僕に、薫は声を立てて笑った。

 アパートの前で足を止め、僕は居間の窓に目をやった。部屋には電気がついている。薄いカーテン越しに人影が揺れ、すぐに消えた。

 今、僕を待っているのは誰だろう。しばらく立ちつくしたあとで、僕は踵を返して駅への道を歩き出した。

 駅に面した大通りには、まだ人々のざわめきが行き交い、寄り添うカップルや、仕事帰りのサラリーマンが、足早に歩を進めていた。吐く息が微かに白く見え、色づきを待たずに枝を離れた街路樹の葉が、見捨てられた残骸のようにアスファルトに点在していた。

(知らない人がいっぱいいるとこって、あったかい)

 昔、さよちゃんが言った言葉をふと思い出し、僕は立ち止まった。僕の母親に連れられて、デパートに三人で出かけた時、はぐれないように母親の手を握って人込みをくぐりながら、彼女はポツリと呟いた。むせかえるような人いきれにうんざりとしていた僕は、変わってるな、と思ったけれど、きっと賑やかな場所が楽しいんだろうと、子供ごころに納得した。それきりそんなことは忘れていたのに、僕は今、家族というもっとも近しい人間から恐怖を与えられ続けた彼女が、見知らぬ他人の中に見出した安堵の意味を、ふいに理解した。

 目の前を通り過ぎる人々をぼんやりと目で追い、踏み出した僕の靴の下で、落ち葉が渇いた音を立てた。突然、息苦しいほどの孤独が襲った。

 そうか。さよちゃんは、そんなにも寂しかったのか。水月も、ただ耐えがたい寂しさを、そうやってしのいでいたのか……。

 父親という最初に接する異性から、水月が与えられた触れ合いは愛情ではなく、ただの暴力だった。望んでも得られなかったものを、父親と同じ性を持つ男達に求めながらも、心のつながりを教えられなかった彼女は、男と向き合う術を、セックスという行為の中にしか見つけられない。その一方で、すべての男達に対して父親を重ねてしまい、恐怖と怯えが心までは開かせない。アンビバレンスが彼女の心を左右から引っ張り、無意識の内に自分を貶める言動に走らせている。

 本物の暁の死を報じた新聞記事が脳裏に浮かんだ。母親が外出した夜、目を覚ました暁は、どうして毛布を持ったまま、裸足でベランダの隅にじっと立っていたのか。暁には、どこにも自分の居場所がなかったからだ。どうしようもなく心もとなく、よるべない思いをかかえて、六歳の暁は夜のベランダに立ちつくしていた。それは、慟哭という言葉すら当てはまらないような、底なしの孤独だ。

 寂寞とした渇きが体中の血管を駆けめぐり、自分が音を立ててひび割れていくような感覚に、きつく目を閉じた。精神の奥深い場所から湧き上がるものが、精神を凌駕した体の餓えをもたらした。全身が、狂おしいほど人肌のぬくもりを求めていた。けれど、この激情をうずめたい相手は、ひとりしかいない。恋じゃない。恋と呼べない。僕は今まで、誰かを心から乞い、望んだことはない。

 道端に立ち止まったままの僕に、通りすがりの若い男が奇異な視線を投げて追い越して行った。のろのろと歩き出しながら、夜の空に目をむける。澄んだ藍色の間を緩やかに流れる雲に、暁の面影が浮かんだ。それは水月に変わり、やがてあの少女の青ざめた泣き顔になった。僕はまた動けなくなった。

 足先に、銀色に光るものが飛んできた。車のキーのようだった。前を歩く女の人が落としたらしく、僕はキーを拾い小走りで彼女に追いついた。

「あの」

 女の人は歩を止めて、ゆっくりと振り向いた。

「落ちましたよ、これ」

 キーを差し出した僕に、彼女は面倒くさそうな視線を向けた。

「いらない」

「え?」

「捨てたの、それ」

 それだけ言って、また歩き出す。後ろ姿を呆然と眺めていた僕は、我にかえってもう一度彼女に追いついた。

「車のキーじゃないんですか?」

 彼女は僕に向かい合うと、大きく息をついた。

「捨てたって言ったでしょ。どうせ運転なんてできないんだから」

 声の調子や、潤んだ目元を見て、相手が酔っていることに気づいた。三十手前くらいだろうか。ベージュのシンプルなスーツに、きれいにカールされた肩までの髪は、仕事のできるOLといった感じで、いささか飲み過ぎたようではあっても、崩れた雰囲気は感じさせなかった。

「素面に戻ってから後悔しないように、キーは持っといた方がいいですよ」

 僕の言葉に小さく鼻を鳴らす。

「あたしはね、今日、大事なもんを失くしちゃったの。それに比べりゃ、車なんて、道端で配ってるポケットティッシュみたいなわけよ」

 芝居がかった台詞の中に、どこか悲愴な感じが漂っていた。

「ポケットティッシュだって、なけりゃ困る時がある」

 彼女は首を傾けて僕の顔を見た。

「若いのに、変に老成してるところがあるわね」

 頬に落ちる髪を掻き上げながら、僕の手の中のキーを指さして言った。

「じゃあ、あなたが運転してよ。飲酒で捕まるのもごめんだし、路上駐車でレッカーもいやだから」

 僕はあきれて口をつぐんだけれど、だんだん自棄になってきた。それに、もう少し時間を潰したかった。不本意なドライブというのは、帰宅を延ばすことを自分に納得させる、いい口実かもしれないと思った。僕はため息をついてキーを上着のポケットに入れた。

「いいですよ。車はどこに停めてるんですか」

 頼んでおきながら、彼女は「本気?」というふうに目をしばたいた。

「あなた、ちょっと変わってるって、人に言われない?」

「自覚してる」

「車はあそこよ」

 歩道の脇に停めてある車を振り返った彼女は、ヒールの足元をよろめかせた。支えようとした僕の右腕に体重を預け、すくい上げるように僕の目を覗き込む。

「親切というより、下心?」

 きれいな唇から、アルコールの香りが洩れた。彼女から腕を離し、僕はぞんざいに言った。

「確かに欲求不満かもしれないけど、別にあなたに興味を惹かれたわけじゃない。今日は、寂しそうな人間誰も彼もに、頭を下げたい気分なんです」

 車に向かって歩き出した僕の半歩あとを歩きながら、彼女は言った。

「『罪と罰』のラスコーリニコフみたい。『ぼくはきみに頭を下げたんじゃない、人類すべての苦悩に頭を下げたんだ』」

 僕は笑って、シルバーの車体を夜に浮かび上がらせているアウディのドアにキーを差し込んだ。たいしたポケットティッシュだな。

 億劫そうに助手席に乗り込んだ彼女に、シートベルトの着用を促し、ルームとサイドのミラーの位置を確認した。狭い空間の中で、さっきは気づかなかった香水の香りが、空気を濃くさせた。グリーン系のクールな香りは、酔いに身を任せた投げやりで退廃的な態度の中にも、どこか凛としたものを感じさせる彼女によく似合っていた。

「どこまで送ればいいんですか?」

 彼女は迎賓館の近くにある高層ホテルの名前を告げると、シートに深くもたれて目を閉じた。カーラジオから、僕が中学生の頃に流行った洋楽のバラードが流れ出した。タイトルが思い出せないままスイッチを切った時、眠っていると思っていた彼女が口を開いた。

「煙草、吸ってもいい?」

「どうぞ。俺も一本もらえますか」

 彼女は煙草をくわえて火をつけると、それを僕の唇に挟み、もう一本を取り出して窓を半分ほど降ろした。

 慣れないメンソールの煙が目にしみて、前方を走る車のテールランプのオレンジが、フロントガラス越しに滲んで映った。すぐに帰りたいような、このままどこかへ行ってしまいたいような、どっちつかずの焦燥感が胸元を圧迫した。

 会話らしい会話もないまま、車はホテルの地下駐車場に滑り込んだ。僕はエレベーターから近い位置に車を停め、エンジンを切った。

「ねぇ」

 前を向いたまま、彼女が言った。

「あなたの欲求不満の解消相手としては、私はぜんぜん魅力ない?」

 僕は彼女の横顔を見つめた。

「まだ酔いが覚めてないんですか?」

 彼女は首を振った。

「お互いの名前も知らないのに?」

「もう会うこともないなら、知らない方がいいじゃない」

 目を伏せた彼女は、頬にかかる髪を左手で押さえた。動いた拍子に、消えたと思った香水の香りが、触手のように立ちのぼった。

「女の方から二回も言わせるほど、あなた鈍感じゃないわよね」

 彼女は顔を上げて、僕を真っ直ぐに見つめた。目元はまだ少し潤んでいたけれど、酔いに引きずられているようには見えなかった。僕はキーを抜き取り、彼女に差し出した。窺うように僕とキーを見比べ、ためらいがちに伸ばされた手にキーを握らせ、そのまま引き寄せた。抵抗なく腕の中に落ちる、大人の女性の柔らかな曲線。僕は考えることをやめ、深くなるキスに、消えてくれない渇きをゆだねた。


「遅かったな」

 ソファに座っていた暁は、不機嫌そうな声で言った。午前二時を回っているのに、部屋は電気がついていて、暁の心を代弁するかのように、ささくれだった光を放っていた。

「もう寝てると思ってた」

 僕は驚いて言った。

「ラムネの様子はどうだった? 変わりなかったか?」

 ソファの隅で丸くなっている白い体に目をやりながら訊いた。

「気になるんなら、さっさと帰って自分で面倒みなよ」

「そうだな、今日はお前に任せっきりで悪かったよ」

 そっけない返事に、素直に謝った。

「機嫌が悪いんだな、暁」

「別に」

 コンロの上の鍋を覗くと、僕が作っておいたクリームシチューがいくらか減っていて、流しの横のカゴに洗った食器が伏せてあった。

「サラダもちゃんと食ったか?」

 暁は頷いた。目の前に立ち、顔色を見た。体調が悪いわけじゃなさそうだった。僕はジャケットを脱いで、胸ポケットから煙草とライターを取り出した。途端に、暁が眉をひそめた。

「香水の匂いがする」

 少し動揺したが、うしろめたさを隠して聞き流し、クロゼットを開けた。

「汚い」

 ハンガーにジャケットを掛けていた僕は、背中にぶつけられた言葉に冷水を浴びせられたような気がした。振り返ると、暁が両手を握りしめて、戦いに挑むように体を身構えたまま、僕をにらみつけていた。

「どういう意味だよ」

 腹立ちをあらわに言った僕の言葉を、暁は跳ね返した。

「男も女もみんな汚い。なんのためにそんなことしなくちゃいけないんだよ」

 その体の代わりに恋人を抱くこともできず、知らない誰かに慰めてもらったからだ。思わず叫んでしまいそうになる。

「知るか」

 どうしようもない苛立たしさを吐き捨てた。いつもこうだ。暁に対して、僕は自分の感情をうまく押さえられない。もどかしさや怒りや、やるせない思い。そんなものが暁によって麻薬のように覚醒され、増幅してゆく。たぶん、自分自身ですら知らなかった感情さえも。

「女と寝てきたからって、お前にそんなふうに言われる筋合いはない。たかがセックスじゃないか」

 失言だった。

 僕が後悔する前に、暁は洗面所に飛び込んだ。例の洗浄脅迫が始まったんだろう。見に行くまでもなかった。それは暁にとって、精神の均衡を保つための儀式のようなものだった。風呂でもよほど強く体をこすっているらしく、襟元や袖口から覗く肌のところどころに、赤く擦り切れた跡を何度か見つけた。

 手を洗い続ける暁にかける言葉もなく、僕はテーブルの前に座った。風呂場の扉を閉める音がして、水音が響いた。僕を「汚い」と罵りながら、まるで自分自身が汚れているかのように、手や体を洗わずにはいられない。暁のそんな行為は、ぶつけられた言葉以上に、僕を責められている気にさせた。

 僕は水月のことを考えた。男と向き合う時の、水月の依存と恐怖。そのアンビバレンスは、そのまま主人格の彼女に内抱されているんじゃないか。僕が近づくのを頑なまでに避けようとする暁と、僕の側にいて寄りかかりたいと望む水月。二人の距離がだんだんと縮まり始めた時、もしかすると人格統合が始まるのかもしれない。暁と水月が重なり溶け合って、やがて僕の前からいなくなってしまう。その時僕は、冷静でいられるだろうか。乱れる感情を沈めようと、煙草を吸った。

 風呂から出た暁が背後に立った気配に、僕は二本目の煙草を灰皿に捨てた。

 後ろからしがみつかれて、心臓が跳ね上がった。手に弾かれた灰皿から灰がこぼれる。

「たかがセックスなら、今すぐ抱いてよ」

 ほっそりとした両手が胸元に強くからみつく。シャツを通して背中にあたる柔らかい隆起に鼓動が波打った。

「水月……」

 前を向いたまま、僕はかすれた声を出した。

「好きになってくれなくてもいい。一度でいいから」

「手を離してくれ」

 まわされた腕に力が入り、首筋に唇が押し当てられた。

「やめろってば」

 僕は腕を振り払って振り向いた。裸のまま床に膝をつき、水月は泣いていた。震える唇をきつくかみしめ、大きな瞳からあふれた涙が頬を滑り落ちる。

 危ない綱渡りを続けていた僕の理性は、そこで途切れた。水月の腕を引き寄せ、水滴を散らした体を床に強く押しつけた。どうなってもいい。このまま落ちていってしまいたい……。行きずりの情事の余韻を残した体の芯が熱く疼いて、抗い難い流れに呑みこまれた。

 食いつくように唇を重ね、舌を差し入れる。水月は息を弾ませ、僕の舌に応えた。喉元に唇を滑らせながら、小さな乳房に触れた。敏感になっているその先を口に含むと、水月は魚がひれを打ち震わせるように背中をのけ反らせ、両手で僕の髪をまさぐった。

 反った背に差し入れた僕の右手が水月の肩甲骨をなぞり、その下に広がる皮膚のただれに触れた。目を開けた僕の視界に、ところどころが赤くこすれた白い肌が映った。擦り切れるほど強く体を洗った跡。それが、ぎりぎりのところで僕の衝動を押し止めた。

 重なり合った体を離し、僕はテーブルにもたれて座った。

「高久……?」

 上半身を起こして、水月が心細げに問いかけた。僕は自分のシャツを脱いで、隣に座り込んだ水月の体を包んだ。

「どうして?」

 食い入るように見つめてくる目に涙が滲んで、両手で僕の胸元をきつく叩いた。

「どうしてよ……」

 吐き出すように訴える。

「遊びでいいの。こんな体で好きになってもらえるなんて思ってない。今までの男の人達みたいに、ただあっためてくれるだけでいいのに……」

 僕はうつむく水月の両腕を強くつかんだ。あの日の傷は、ようやく乾いて包帯がいらないようになっていた。けれど、きちんとした縫合の処置がされなかったために、彼女のきれいな肌に、火傷以外にもうひとつの傷跡を残してしまった。

「あたしが嫌いなんでしょ」

「嫌いじゃない」

 嫌いなはずがない。いっそ、嫌いになれたら。だからこそ、僕は水月を抱いた男達と同じことをするわけにはいかなかった。

「きみが本当に欲しいのが、ただ体の繋がりだけだったら、俺だって今すぐにでも抱きたい。けどそうじゃないなら、もう一時しのぎに痛みをまぎらわす、モルヒネみたいなのは求めるな」

 瞳に涙の膜を張ったまま、水月は僕を睨みつけた。

「じゃあ、何を欲しがればいいの」

「救われたいんだろ? 水月」

「救われる?」

 顔を歪ませて彼女は笑った。暁と同じように。

「何、それ。あなたが救ってくれるとでもいうの?」

「そんなこと、きみにしかできない。でも手を貸すことならできるし、俺はそうしたい」

 ラムネが、音もなく二人の間に割り込んで、僕の膝に乗った。ベッドが空いたよ、とでも言いたげに、ちらりと水月に目をやると、大きな欠伸をして再び眠りだした。黙って見ていた水月は、それに促されるように立ち上がり、パジャマを着こむと、ソファに入って毛布を頭からすっぽり被った。

 布に覆われた肩の辺りが細かく揺れて、彼女が眠っていないことを伝えていた。窓の外は暗く沈んで、まだ夜明けの気配さえ届かない。僕は小さなかがり火に暖をとるように、ラムネの体に手を添えてテーブルに突っ伏した。

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