掌編、短編小説集。

toru okuda

空色眩暈

「あなたは嘘つきです。とても傷つきました」

 僕はなんの事を言ってるのか理解できず「はぁ……すみません」などと言って慌ててその場を立ち去った。

 あの人はいったい誰だったのだろう?

 とても綺麗な女性だった。

 栗色の髪、肩までの長さ。

 ジーンズ地のミニスカート、白いジャケット。

 薄い空色のシャツが清潔さを際立たせていた。


 あの日僕は、地下鉄の隅っこの席に座り、扉の横に立つ彼女をチラチラと確認しては目を反らし、頭は空っぽだった。

 彼女を確認する。目を反らす。

 確認する。目を反らす。


 飯田橋に着いて、ホームへ降りる時、彼女の存在を感じつつ、興味のない出入口階段をぼんやり見つめた。


 多分、一生会う事はないんだろうな等と、毎度思う気持ちを抱え歩きだし、暫くした時、「すみません!」

 早足で僕の前に現れ、ジッと僕を覗き込むように見つめたのはさっきまで眺めていた彼女だった。

「はい……」

 いったい何故呼び止められたのか?

 身に覚えがない分、焦った。あらぬ疑いをかけられたのだろうか?

 チラチラと眺めていた僕の眼差しに気付いて不快に思ったのだろうか?

 一瞬の混乱の中、それを遮るように彼女が口にした。


「あなたは嘘つきです。とても傷つきました」

 僕はその場を立ち去った後、暫くして後ろを振り返ってみたが、彼女の姿はもう見えなかった。


 いったい何だったのだろう?僕は嘘つきなのだろうか?

 そしてどんな嘘をついて彼女を傷つけたのだろう?

 ただの人違いなのだろうか?第一僕は彼女とは初対面のはずだし、少なくとも、僕の方に面識はない。

 僕に似た誰かが、地下鉄に乗っていた綺麗な女性を傷つけた。

 そういう事なのだろうか?

 わざわざ呼び止めて、それを伝えなくてはならない程の嘘。


 僕は自分自身に居心地の悪さを感じながら、僕に似た誰か、もしくは本当に僕自身によって、あの女性を傷つけたかもしれない事実に何かヌメッとした物が纏わり付いて取れないような気持ち悪さに包まれた。


 それを思い出したのがこの前、神田を歩いていた時の事だ。

 僕は中年の女性に呼び止められ、道を聞かれた。地味なモザイク柄のワンピース、必要以上のパーマが街に馴染まず、女性の居心地の悪さが更に増して見えた。

 首に巻いたスカーフだけが綺麗な空色で、あの日のあの子のシャツの色とダブり、唐突に僕の記憶が交差した。

「神田駅はどこですか?」

 僕は大した表情を作らず、多少の無関心さの延長のような声を出し、

「真っすぐ行って二つ目の角をまた真っすぐです」

 中年女性は何度も体を大きくのけ反らせ、そこに辿り着けなければ誰かが(例えば息子とかが)死んでしまうんじゃないかと思える程の表情を浮かべ、僕の言葉を必死に聴き入ってた。

「ありがとうございます」

 そういうと、ぎこちないお辞儀議を繰り返して、体を左右に揺らし歩いて行った。

 暫くして気がついた。「二つ目じゃない、三つ目の角だ」

 僕は立ち止まり、いや、大した間違いじゃない。

 すぐに気がつくさ……と忘れようとした時、


「あなたは嘘つきです。とても傷つきました。」


 彼女の声が聞こえた……。

 嘘つき。

 一瞬の寒気と共に僕は酷い立ちくらみの中、中年女性が神田駅に着けず、息子が死んでしまった錯覚に包まれ吐き気が襲った。

 僕は慌てて、ずっと先の二つ目の角を曲がる中年女性を見つけ、這うように走り追いかけた。

 足がもつれながら走った。

 いくら追いかけても、追いつかない。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…罪悪感が体中を襲い、涙が溢れた。

 僕は中年女性にやっと追いつき、

「すみません、嘘をついちゃいました……」

 女性は、涙を流し咳込む僕を見て、かなり驚いた様子だった。

 僕は心からお詫びをし、神田駅まで付き添った。


 改札を通る彼女を見て、僕はやっと小さく溜息をつき、

 少しだけホッとした。



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