第5章 聖者の行進がやってくるとき

1.泣くほど心配したんだぞ

 迷うな。きみの守りたいと思うものを、きみのやり方で守れ。


(俺の守りたいものを?)

(俺のやり方で?)


 ぼんやりと目を開ける。瞼が重く、頭には鈍い痛み。消毒薬のにおい。

 次第にクリアになってきた視界に、瞳を潤ませて不安げな顔でじっと楠見を見つめているひとりの少年。


「ああ、キョウ……」


 何を置いても、ひとまず名を呼びかける。そうして体を起こそうとすると、ますます頭が痛む。手を当てながら、体を布団に押し込めておこうとする見えない力に抵抗して。

 パイプ椅子に腰掛けて覗き込むように見ていたキョウは、くるりと背後を向いた。


「マキっ。くすみ起きたっ」

 ほんのわずかに興奮をにじませたキョウの呼び声に、カーテンの向こう側から「はいよー」と呑気な返事。


 ああ、診療所か、と楠見は思う。マキの勤務する緑楠学園診療所は、楠見の執務室のある学園事務棟の一階。L字に曲がった建物の、中庭を挟んだ対角にある。

 意識を失ってしまった楠見を、連れてきて手当てしてくれたのだろう。

 徐々に、先ほどまでの出来事をくっきりと思い出し、同時に緊張が呼び戻される。


「キョウ。お前、怪我はないか?」

 投げ飛ばされて、壁にぶつかって、それから――どうなった?

 少年の肩に手を置いて聞くと、彼はこくりと頷いた。


 カーテンが開き、白衣姿のマキが姿を現す。

「キョウならなんともないよ」そう言って、医師はメガネの奥の瞳に微笑みを浮かべる。「楠見。お前は? 気分悪いとかないか?」


「あ? ああ……」

 側頭部を押さえたまま答えると、マキはホッとしたような苦笑するようなあいまいな表情で、小さく息をついた。


「外傷はないし、脳震盪だと思うけど。頭だからね。病院に行って検査してもらったほうがいいな」

「ああ……それより、どうなったんだ?」


 呆然と聞くと、友人は顔をしかめる。

「そりゃ、こっちのセリフだよ。いったい何があったんだ? 物凄い音がしたからビックリして行ってみたら。部屋の中は惨憺たる状況になってるし、お前は倒れてるし。キョウは泣いてるし」


「俺、泣いてない」眉根を寄せて抗議の声を上げたキョウの頭に、マキは小さく笑って手を載せた。


「ああ……」楠見はベッドから半身を起こした状態で、考えながら。「大男が部屋にやってきて、襲われたんだよ……おい、ヤツはどうした?」


「逃げた」

 キョウは、拗ねたような調子で短く答えた。


「そう、か……」

 それでは問題の解決にはならないが、楠見は内心、安堵していた。ひとまず、部屋に戻ったら死体がひとつ転がっているなどということはないわけだ。だが。


「あーっと」マキが、ちらりと横目でキョウをうかがって、少々言いにくそうに続ける。「お前の部屋、大変なことになってて。ちょっと人を近づけないほうが良さそうだよ」


「……ああ」

 納得して、キョウへと目をやる。キョウはバツが悪そうに、視線を逸らした。このサイ少年の膨大なエネルギーの暴発で、部屋の中がどういう状況になったのかはなんとなく想像がついた。謎の大男も、本気を出されては敵わないと見て逃走したのだろう。


「怒るなよ?」

 マキはキョウの頭に手を載せたまま、身を屈めて楠見を覗き込む。

「お前のこと、助けてやったんだからな。なあ、キョウ?」


「怒りやしないよ」楠見はため息をついた。そして、叱られたみたいな顔をしている少年に、できるだけ優しい目を向ける。「キョウ、助かったよ。ありがとうな」


「そうだよ。泣くほど心配したんだぞ? なあ、キョウ?」

「泣いてない」


 マキはまた微笑んで、キョウの頭をポンポンと叩くと、カーテンを開け広げて出ていった。そうして彼の診察スペースの机に向かい、声を掛ける。

「検査いつにする? 早いほうがいいよ」


 マキの声をぼんやりと耳に入れつつ、楠見はベッドを抜け出して壁に掛けられた上着を取る。

 振り返って、まだ横のパイプ椅子に腰掛けてしょげた顔をしているキョウに気づき。

「どうした? やっぱりどっか怪我したんじゃないだろうな。本当に痛いとこないか?」


 上着の袖に腕を通しながら、腰を屈めて向かい合うが、少年は「ない」と短く答えてまた目を逸らした。絶望的に自己管理能力のないこの子供の「大丈夫」はアテにならないが、楠見が眠っている間に、心配性の医師や過保護な兄がたぶんくまなく検分していることだろう。

 これでもしもこの子が怪我でもしていようものなら、あの場を無事に切り抜けても、楠見はこいつの兄に殺されかねない。


「じゃあどうした? 元気ないじゃないか」

 楠見はキョウに向かい合うように、ベッドに腰を降ろした。ネクタイを締めなおしながら、キョウの瞳を覗き込む。

 まだ目を潤ませて、心持ち頬を赤くし、ムスッとした顔でキョウは床を見つめている。


 そんなに心配させたのだろうか。

 なんだコイツ。可愛いじゃないか。


「ごめんな?」

 思わず楠見は、キョウの頭に手を置いて、撫でていた。しかし、


「バカくすみー」

 手の下で少年が発した言葉は、冷たいものだった。


「……なあ、キョウ。心配させたのは、謝るよ。けどな。心配した人間が無事だったと分かったときの言葉として、それは適切かな……」


 げんなりとため息をついたところで、診療所の、建物外から直接出入りできるドアが開いた。

 大きな袋を両手で抱えたハルが、姿を見せる。


「あれっ、楠見、目が覚めたのか。……お昼ごはん買ってきたんだけど」

 ハルは入ってきて、楠見と自分の手に抱えている袋を見比べた。

「まだ眠ってると思って、楠見の分は買ってないよ」


(……やっぱり、キョウを危険に巻き込んだことを怒ってんのか……?)

 それだけ大量の食料を買い込んで、俺の分がないとはどういうことだ。


「で、楠見、無事?」

 それでも一応は心配してくれていたのか、ハルは荷物をテーブルの上に置きながら瞳を大きく見開いて、楠見を見る。


「ああ。――悪かったな」

 とりあえず、謝っておくことにする。ハルは小走りにやってきて、キョウの首筋に後ろから抱きついた。


「キョウ、良かったね」

「ハル、俺、泣いてない」

「ん? うん」


 ハルは身を起こして、キョウの頭を撫で回し始めた。

「そうだよ。キョウが泣くわけないよ」

 そう言ってひとしきり弟を撫で、「お昼ごはんのしたくするから、待っててね」と、ミニキッチンのほうへと歩いていくハル。


「くすみ」

 呼ばれて、キョウへと視線を戻す。「ん?」

「怒らないのか?」


「……どうして怒る?」

 意図が掴めずに首を傾げた楠見を、キョウは上目遣いに見ていたが、少ししてまた目を伏せる。

「バカって言ったことか? まあ、たしかにな。そう言われちゃ返す言葉がないからな」


 なんの能力もないくせに、さっさと逃げ出さなかったばかりか、割り込んでわざわざ殴られたりしたから。そうだ、この子供は、戦闘能力ということで言ったら楠見よりも断然強いのだ。楠見が体を張って守ってやったりしなくても、上手く立ちまわれたかもしれない。

 けれど。殴られそうになっているキョウを見て、体が動いてしまったのだ。


(これだから、マクレーンに説教されるんだ)

 意識を失っている間に昔の夢を見たような気がする。心の深層の部分で、あの説教と今の自分の行動を結びつけていたのだろうか。


 けれど。自嘲する楠見に、キョウは首を横に振った。

 いやそこは、「怒られるかな」と一応は思って欲しいところなのだが。


「まだなんかあるのか? 部屋を壊したことか? それなら、まあ仕方ない。なんだからな」

 違うらしい。

「……部屋だけじゃなくて? 何か重要なもんを壊したか?」


「失敗したからだ」

 少しして、キョウがまだ俯き加減に、ぽつりと声を漏らす。


「……失敗?」

「逃げられた。硬いサイに」

「ああ……」


(そうか)

 少年の思考回路を想像して、楠見は納得した。

 少し考えて。手を伸ばし、向かい合って座っている少年の右手を取る。

「手、痛くないか?」


 大人しく手を預けたまま、キョウはちらりと楠見に目を上げた。

「へーきだ」

「そうか? タイマで斬りかかったとき。あの男、物凄い勢いで弾き返してただろ」

 楠見もキョウと目を合わせる。


「あん時は」キョウは小さな声で。「ちょっとジンジンしたけど。もうへーきだ」


「そうか」

 キョウの右手には、一年前の傷痕が、まだ薄っすらと残っている。

 状況判断が甘く、機転が利かず、なんの力もなかった楠見。そのせいで、この子供に負わせてしまった傷は深かった。


「ヤツに逃げられたのは、俺のせいだ。お前にはなんの責任もない」

 楠見はキョウの右手を取ったまま、もう片方の手を彼の頭に載せた。


 たった十歳の子供に、どんな責任があるものか。

 だが。責められることに慣れ、自分を責めることに慣れているこの子供の気持ちは、すんなりとは晴れない。だから楠見は、繰り返し、優しく言い聞かせる。

「お前のせいじゃないよ」


 キョウは、上目遣いに。目の前の大人の真意を見透かそうとするかのように、楠見を見ていた。


「お前が来てくれて、助かったんだ。そうだろ? ありがとな」

 微笑んで、頭を軽く叩くように撫でる。


 そう。言い聞かせる。何度も。でも、それだけでは駄目だ。

 彼の居場所を。存在意義を守る、役割を与えなければならない。


「ついに『敵』が姿を現したんだ。杉本さんを助けるためにも、あいつをどうにかしないとな。キョウ。お前の力が必要だ。やってくれるか?」

「ん。けど、あいつ硬いから斬れないよ」

「大丈夫だ。きっと弱点がある。お前がまだやってくれるなら、方法はある」

「ん。いいよ」


 ようやくのこと、キョウは少しだけ表情を和らげる。


「よし」

 もう一度キョウの頭をかき混ぜて、楠見は立ち上がった。


 時計を確認する。気を失っていたのは三十分程度のようだ。だが、その三十分が致命的な事態を引き起こしている恐れを抱き、楠見は身を緊張させる。


 逃げた男――。

 ほぼ同時刻、同じ学内に、杉本美和が居合わせた可能性。


「お? 楠見、戻るのかい?」机に向かっていたマキが、椅子を回して声を掛けた。「もう少し休んでいけばいいのに」


「いや、戻るよ。それよりマキ、コーヒーを飲ませてくれないか?」

 彼の、目の覚めるような「超コーヒー」の味を思い浮かべて、楠見は言った。


「いいよ」すぐに立ち上がり、ハルが作業しているミニ・キッチンへと行ってカップにコーヒーマシンで温めている黒い液体を注ぐマキ。


 礼を述べながらカップを受け取り、一口飲んで、楠見は顔をしかめる。

「……マキ! なんだこれ、普通に美味いコーヒーじゃないか!」

「そりゃ、入れたてだもの」

「なんだよ! 俺はさっきのドロドロの、不味い、目が覚めるコーヒーが飲みたかったんだ!」


 訴えると、マキは冷たく目を細め。

「死ね」

 と、ひとこと言った。




 予想はしていたが、たしかに執務室の内部は惨憺たる状況だった。

 あの子供に、もう少し場所に応じた手加減を覚えさせる必要がある。それに、あまり人に見られないうちに、どうにか復旧する必要も。だが、目下早急の問題は、杉本美和がどうなったか、だ。


 箱状になった脚の部分が抉られるような形で、それでもどうにか水平を保っている執務机の上の、電話の受話器を取り上げ内線の短縮ボタンを押す。

 ガラスが粉々に砕け散った窓から、冷たい風が吹き込んできて、思わず身を震わせた。


 数コールで、守衛室の矢部が電話に出る。

『ああ、楠見先生。どうされたんですか? その後、例の彼女、そちらに行きました?』


 先ほどまでとまったく変わらない口調に、この棟と楠見の執務室で起きた事件は完全にこの中だけで収まっていることを察してひとまず安堵する。だが。


「いえ、矢部さん。彼女、そっちにも戻っていませんか?」

『ん? 来てませんよ? どこ行ったのかな。先生、本当に元カノとかじゃないですか? 顔を合わせちゃ不味い相手だったら、私、これから学内を――』

「そうじゃありませんよ。ちょっと進路のことで相談に乗っていただけで」

『ははあ、進路のことでねえ。……するとやっぱり……いえね、エライ先生方は皆さんそう仰るんで』


 駄目だ。楠見は内心で大きなため息をついた。平和な老人の、若者をからかって遊ぶ趣味に付き合っている暇はないのだ。


「そうだ」またぞろ妙な想像を話し始めようとする警備員を遮って、楠見は早口に聞く。「彼女、僕の名刺を持っていませんでしたか?」

『え? 名刺? 持ってる様子はありませんでしたがねえ』


 やはり。改めて、嫌な予感が心を埋める。どこかで落としたとか、必要ないと思って捨てたとか、そういうことならばよいのだが。そうでないとすれば?

「誰か」に奪われたのか――それとも、彼女自身が渡したのか。別々に訪ねてきたところを見ると、少なくともその時点で、捕まって監禁されているというようなことはなかったわけだ。

 だが、もしも彼らがここで鉢合わせてしまったら?


『持ってたら直接電話するでしょう。というか、携帯番号も交換してらっしゃらないんですか?』

 訝しげな矢部の声に、ハッとなる。

「そうだ。携帯。彼女の電話番号は? 聞いていませんか?」

『それも知らないんですか』


 呆れたような声で言って、手元を探るような間があり。

『ああ。ありますよ。来訪者名簿を記入してもらってる途中だったんでね』


「あるんですか!」大して期待してもいなかった反応に、楠見は思わず受話器を握り締め、大声を上げていた。「教えてもらえますか?」


『ええ? はあ、いいですか? 言いますよ? しかし本当に知らないんですか?』


 まだ疑わしげな声を上げる矢部からどうにか杉本美和の携帯電話の番号を聞き出し、受話器も置かず指で叩くように切って続けてメモした番号を押す。

 番号は、たしかに使われているものだった。しかし、呼び出し音は無表情に鳴り続けるのみ。持ち主の無事を確認し現状を問う言葉を楠見は舌の上で転がしながら、緊張に汗ばむ手で受話器を握り、一旦切って再度掛けなおす。


 何度目かのコールの後に、通話が繋がった。勢い込んで口を開こうとした楠見の耳に、しかし、飛び込んできたのは美和の声ではなく、よく知っている声。


『あれ。やっぱくすみだ』

「……キョウ? お前、どうして……? どこにいる?」


 診療所で彼らと別れてから、いくらも時間が経っていない。わけが分らずぼんやりと聞くと、キョウは大声を上げた。

『ここだ』


 その声が、受話器と窓の外の両方から聞こえたような気がして、思わず楠見は右手の窓を振り返る。

 眼下の中庭の芝生の上に、キョウが立って、携帯電話を耳に当てながら二階の楠見を見上げていた。室内――診療所の窓から、ハルとマキが半身を乗り出してやはりこちらを見ている。


 最悪の事態を想像し、愕然と、楠見は受話器を置いていた。

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