8.この能力は、暴かれてはならない

――そんな顔すんな


 楠見は目の前の子供に向かって、そう呼びかけようとしていた。


――もう泣くなよ。俺は大丈夫だから


 瞬きも忘れて見開かれた瞳から、大きな涙の粒がぽろぽろと零れて。声もなく泣き続ける子供に、楠見はどうすることもできずおろおろと慰めの言葉を継ぐが、生まれてからこれまでに身に起きたすべての悲しいことについてまとめて泣いてでもいるのかのように、彼の大粒の涙は止まらない。


――辛かったな。もう何も心配いらない。俺が守ってやるから


 頬に触れ、流れ落ちる涙を拭ってやろうと、楠見は手を伸ばす。

 しかし、指先は彼に触れることができない。


――大丈夫だから、泣くな。ずっとここにいていいから。ずっと、守ってやるから


 肩を叩いて、背中をさすってやりたいのに。届かない。


 ああ、そうか。これは、過去だ。

 彼に出会ったばかりのころで。それまで楠見はこの少年の能力を知らなくて。

 どれだけ酷い暮らしをしていたのか。どれほど傷ついていたのか。分からなくて。


 あのころに比べたら、だいぶマシになったと思うんだけれど、どうかな。


 お前たちのことを、俺は守れているかな。

 駄目だな。また泣かせてしまう。まだまだ力が足りないな。






 駅からペドウェイを伝って徒歩二、三分の垢抜けたビルに、老弁護士はオフィスを構えていた。

 クリスマス休暇に入って、抱えているほかの弁護士もアシスタントも事務職員も事務所に出てきておらず、インターホンを鳴らした楠見を弁護士は直接出迎えた。


 いつものがっしりとした握手。そして、広いエントランスから、彼の執務室へ。楠見の背に手を当てて導きながら。

「やあ。冷えるね、今日は特別に」

 暖房のよく効いた部屋で、心にもない口調でそんな挨拶を切り出す。


「ええ。本当に。休暇中、降り続けそうな感じですね」


 クリスマス前から、日を空けず雪は降り続いていた。

 彼の執務室の大きな窓から見える、雪化粧を施された街に目をやりながら、楠見はいざなわれて革張りの大きなソファに座る。

 弁護士は、手ずからコーヒーを入れて楠見の前に置くと、自分も向かいに腰を下ろした。


「この休暇も、帰国しないんだね」

「ええ。論文も大詰めだし、遠出をする気分でもないですからね」

「まったく、日本人ってのは働き者だよ。休暇は休むためにあるってのに」


 自分こそ、休暇中にも関わらずオフィスに出てきたりしているくせに、そんなことは棚に上げて弁護士・マクレーンは両手を広げた。

「父上が悲しむだろう? もう何年、顔を見せていない?」


「悲しみはしませんよ」楠見は苦笑する。「忙しい人だから、きっと息子の顔を見るどころじゃあない。帰ったところで会えるかどうか。それに、日本にだって息子たちがいますからね。ひとりくらいいなかったところで、気づかないかもしれない」


「ハッ」マクレーンは軽く笑う。「そんなことを言って。今ごろ反抗期かな?」


 六十を超える弁護士は、小柄な背を丸めて覗き込むように楠見を見上げる。

父上クスミは息子たちの中でも一番にきみに期待をかけて、アメリカに送り出したっていうのにね」


「そんな理由じゃありませんよ」

「ハハッ。親の心子知らずさ。ほかにも理由はあるだろうが、きみに息子たちの中でも格別の期待を置いているのは本当だよ。可愛い子には旅をさせよ。なあ、ジュニア」


 マクレーンは、初めて会ったときから楠見のことを、そう呼んだ。長男でもなく、父の唯一の後継者というわけでもない自分がそう呼ばれることに、最初は違和感があったが、深い意味はないのだろうと考えそのうち慣れた。


「ただし、それにしたってきみは自立しすぎだ。もう少し、父上を頼ってあげてもいいと思うがね」


 父とこの弁護士との繋がりが、どこに端緒を持つものなのか、楠見は詳しく知らない。学生時代からの付き合いだと言うが、経歴に見られる範囲では、彼らの学歴に重なるところはない。楠見の知る限り、父がこの友人に会っているところを見たこともないし、単身渡米するまで父に彼のような友人がいることすら知らなかった。

 それでも。彼らが互いに信頼し合い、太平洋を挟んで何十年も交流を絶やさずにきたことは、話の端々からうかがい知れる。


 父は、楠見の留学が決まったときに、この弁護士と月に一度は顔を合わせて近況を報告するように命じ、弁護士は訪ねてくる楠見を自分の息子のように可愛がってくれた。

 自分のことをアメリカまで追いやっておきながら、父はそれでも突き放すでもなく常に心に掛け、もっとも信頼する友人に息子の身の安寧をねんごろに頼んでくれているのであろうことは、想像に難くない。それでも――。


 複雑な気持ちで、楠見はあいまいに笑った。

「……どのみち、もうあと半年で帰国ですからね。最後のアメリカの正月を、ゆっくり楽しみますよ」


 マクレーンも、小さく息をついて頬を緩めた。

「まあ、それもいいさ。日本に帰ったら……仕事にかこつければいくらでもこちらに来る理由はできるだろうが、自由は利かなくなるんだろうからね」

 言いながら、老弁護士は一度、席を立つ。

「ジルベスター・コンサートはどうだい? チケットを貰ったんだが、あいにく来週から正月にかけて家族で海外に行くんだ」


 机の引き出しを開けて、マクレーンは封筒を取り出し、戻ってきて楠見の目の前に置いた。

「きみが駄目なら、友達にやったっていい。上手く行けば、冬休みの宿題がひとつ浮くかもしれない」


「高校生じゃないんですから」

 楠見は笑いながら、封筒の中身をあらためる。キャシーはオーケストラにも興味はあるだろうか。そうなら、あの二人にあげてもいい。ぼんやりとそんなことを考え、礼を述べて受け取りながら、楠見は自分の顔をじっと見つめる老弁護士の視線に気づいた。

「……どうかしましたか?」


 聞くと、マクレーンは、おもむろに楠見の顔から視線を外し、そのシワだらけの瞼に覆われた深い瞳を手に持っていたコーヒーカップに落とす。

 そうして次にマクレーンがぽつりとつぶやいた一言に、楠見は目を見張った。


「キャスリーン・スミス、と言ったか。バーの女性シンガー」

「……」

「彼女の実験に、関わるのはやめたまえよ?」


 静かに、だがきっぱりとした口調で言われ、楠見は笑顔を作ろうとして途中で固まった。

「……参ったな。どうしてそんなに耳が早いんです? ああ、大学にスパイを送り込んでいるのかな」


「なに」弁護士はコーヒーを一口飲んで、どこか他人事のようになんでもない口調で、「蛇の道は蛇ってところさ」

「大学だけでなく、世界中にスパイを送り込んでいるんですね。失礼しました」


 フッと、マクレーンは鼻先で笑った。

伊達だてにこの世界が長いわけじゃないんだよ。その手の情報は、どこからだって入ってくる。ああ、安心したまえ。私の『耳』が特別製なだけでね。別にそちらの大学の話が全世界に表沙汰になっているわけじゃあない。、ね――」


 鋭い視線に背筋がヒヤリとして、楠見は大きく息を吐き出した。


 様々な団体の理事の肩書きを持ち、各界に太いパイプを持つこの弁護士の真の正体を、楠見はよく知らない。けれど、分かっていることは。名刺や、雑誌ジャーナルの署名記事のプロフィール欄に載せている以外の、「裏の組織」のボスという仕事を持っていること。

 それこそが、日本で同様の集団を組織している楠見の父親との、もっとも強い繋がりなのだろう。


 マクレーンは、アメリカでも最大規模のサイ組織のトップだった。

 彼は組織員を使って、あるいは様々なルートに散らばった情報網を駆使して、全米の、なんとなれば全世界の、サイや超心理学に関わる情報を一手に集めることのできる立場だった。


 その強力な「聴覚」で、楠見の在学する大学の超心理学研究室に「本物のサイ」が現れ、彼女に対する公開実験が行われようとしていることを知り、楠見に牽制をかけてきているのだろう。


 また何気ない調子でコーヒーを一口飲んで、マクレーンは楠見に正面から視線を向ける。

「本当ならば、きみが超心理学研究室に出入りするのを止めておくべきだった」小さくため息をついて。「けれど。世の中の超心理学の現状を知っておくことは、たしかにきみの将来にとって無為ではない。きみのそんな向学の精神を、クスミも買っているのだろうしね。だから、つかず離れず、眺めてそれを身に取り入れるだけなら有意義だろうと思ったのさ」


 マクレーンの表情は、口調は、息子に世の理を示す父親のように柔らかかったが、そのまなざしは鋭く、楠見はその視線から逃れることができなかった。


「ジュニア」

 長年「裏の組織」をまとめ上げてきた実力者は、静かに呼びかける。

「クスミがきみに、超心理学を専攻することを許さなかった事情は、分かっているね?」


「……日本じゃまだ、有力な研究領域として認められていないから……」

「それは二番目の理由だ。最大のわけを、きみも知っているだろう?」


 真っ直ぐに見つめられ、楠見は観念するようにため息をつく。

「超心理学会と、関わりを持たないように。学会に名を残さないため、ですか」


 マクレーンは、満足そうに笑う。

 そうしてゆっくりと立ち上がると、窓辺に寄りながら。


「真実、サイと直接に関わる者が、おおやけにサイを研究する者と接点を持つのは危険だよ」

 雪に覆われた都市を見下ろすように、窓の外に顔をやってマクレーンは言う。

は、世にその存在を知られてはならない。は、暴かれてはならない。人間は、社会は、『異端』を受け入れない。研究者たちが超心理現象サイキック研究にのめり込み、人々がそれに魅せられるのは、それが夢物語だと思われているからだ。それらが身近に、少なからず存在すると知られれば、次に起こることはなんだ――?」


 窓から視線を外し、マクレーンは楠見へと目を向ける。そして。

「世界は魔女狩りを始め、そこに隠れてサイの悪用が横行する。国々は、その能力を軍事活用するだろうね。の能力が、正しく良いことに使われる日など、来ない」


 そう。だから、「本物のサイ」が公然の存在となることなど、あってはならない。少なくとも、サイを抱えその生命と能力を守る組織は、その危険性から距離を取っていなければならない。

 楠見は幼いころから、そう言い聞かされてきた。

 組織は世の中のサイキックへの関心を、超心理学への取り組みを、油断なく見守りつつ決して近づくことはせずに。長い年月を、そうやって。身を低くし、息を殺して存在してきたのだ。


「何度も、同じような事件があった」悼むように。悔いるように。マクレーンは緩やかに、首を横に振って。「そのたびに、サイ組織は身を切られる思いでそれをやり過ごした。このアメリカでも。そして日本でも。きみも――」

 言いながら、組織の長は、その目を細める。

「『ナルミヤ・ケース』は覚えているだろう?」


 成宮ナルミヤ事件ケース。楠見は心の中で、繰り返す。


 覚えているだろうと言われても、それは、楠見が生まれるか生まれないかくらいの昔の事件だ。

 けれど、楠見家をはじめとする日本の、あるいは世界のサイ組織は、その事件をサイ業界の負の歴史として深く心に刻んでいた。


 サイの世界には、それは、よくある「事件」だった。

 京都の大学の心理学部教授であった成宮博士。

 彼のもとに、ひとりの透視能力者クレアボヤンスが現れる。


 中学生かそのくらいの年頃の娘の話だ。実のところサイを知る人間にとっては、そのくらいの年齢の子供たちに潜在的なサイが少なからずいるということは、ごく常識的な話だった。また、その年齢の少年少女が、自我の確立や存在の誇示にサイの能力を――実際のあるなしに関わらず――用いようとするものだということも。


 だから、サイの業界にとっては取るに足らない瑣末な事件。昔から何度も繰り返され、そのたびにサイ業界は見て見ぬ振りを貫いてきた問題だった。


 ただ。それら、よくある思春期の少年少女とそれを取り囲む一般社会で起きる、些細な事件と違うのは。

 その少女が、の透視能力者であり、既にマスコミを介して日本中の関心を集めていたこと。


 信奉者ビリーバー懐疑主義者スケプティックが、彼女の能力についてテレビや雑誌を通して連日に及び激論を戦わせていた。

 社会は。彼女の能力が完膚なきまでに否定されることを。あるいはその実在が証明され、サイが解明されることを。求めていた。


 追い詰められた少女の能力を、証明しようとした、成宮博士の実験。

 それは、実に半年以上の時間をかけて、慎重に繰り返され、そして数々の成功を収めていた。対外的には半信半疑の姿勢を保ちながらも、メディアと社会はどこか期待をにじませながらそれを見守った。


 一度。


 そう。たった一度、その実験が失敗するまでは。


 実験は、失敗した。そして、そのたった一度の失敗を、世の中は許さなかった。

 サイの能力が不安定で不確実なものなのだということを、世間は認めない。

 博士の実験には不正があったと見做され、彼は異端者のレッテルを貼られて学会アカデミズムから放逐され、姿を消した。クレアボヤンスの少女は死んだと言う。


 そして。一連の出来事に、楠見家をはじめとする日本のサイ組織は不干渉を貫いた。


「我々は、一般社会との交流点を持ってはいけない。あちらの『科学』に歩み寄ってはならないし、歩み寄らせてもならない」


 サイの業界と、一般社会の隔たりを知る、この世慣れた弁護士は、若い理念と野望を持つ青年をたしなめるような深い眼差しを向ける。

「それが。これからクスミの組織を背負う、きみのためになる。ひいてはその組織に所属する、サイたちの存在を守ることに繋がる」


 言葉を返せずにいると、老弁護士は、やれやれというようにため息を落とした。

「きみは、『サイ』に近すぎる」

 目を細めて、やはり息子にでも言い聞かせるように、マクレーンは説教を続ける。


「サイの近くに心を置く姿勢は、それはそれで良いものだと思うよ。彼らの能力を、世に有益なものなのだと知らしめたい。決して日陰の存在などでななく、誇れる能力を持った素晴らしい人材なのだと、思わせたい。それが彼ら、一人ひとりの存在意義を明確にすることに繋がる。それは、その通りだろう。だがね」


 窓の外に再び目をやりながら、マクレーンは言葉を継いだ。


「彼らときみとは、同じではない。きみは将来、その抱えるサイたちを使役する立場の人間だ。彼らと同じ位置に視線を置いてはいけない。彼ら個人に思い入れすぎてはいけない。組織の長ならば、その組織の抱える全員の身の安全を保障しなければならない。そこのところを、ジュニア、きみには折に触れしっかり言って聞かせるようにと、クスミから頼まれているんだ。きみが将来、クスミの組織を守る上で、肝に銘じておかなければならないことだ」


 マクレーンはそのまましばらくの間、窓の外に目をやっていた。が、楠見に言葉がないのを見てとると、窓に寄りかかって楠見を振り返る。


「けれど」そう言って、小さく笑い声のような息を吐き出す。「きみが今、、きみの友人を助けたいと思う場面に出くわして、そのための行動を取ろうとするなら、私はそれを『駄目だ』ということはできないがね」


 窓枠に腰を持たせるようにして、腕を組む弁護士。楠見はそれを見つめ、その言葉の意味を考える。


「もしかしたら、日本人との考え方の違いなのかもしれない。だけど、私はこう思うんだ。他人に理解されない能力を持ったサイを理解し、守るのが、我々の役割。だとして、彼ら一人ひとりのサイを守ることのできない人間に、組織という大きなものが守れるのだろうか、とな」


 かすかに頬を緩めたマクレーンに、楠見は目を見張る。


「なに。組織を抱えているわけでもない、学生のきみが個人的に犯す程度の『失敗』くらい、私やクスミにはいくらでもフォローできるよ。なめてもらっちゃあ困る」


 マクレーンは執務机に寄り、一枚のカードを取り上げて戻りながら、


「これだけは覚えておいてくれ。何があっても、私や私の組織の抱えるサイを表に出すことはできない。だが、私たちのやり方で、裏からならどのようにでも手助けをしよう。実験が成功しても失敗しても、きみの友人は何かしらのトラブルに巻き込まれる。そのときのために、持っていなさい」


 弁護士事務所の肩書き入りの、マクレーンの名刺。それを、楠見へと差し出す。


「そのときが来たら――」言って、マクレーンはわずかに目を細める。「迷うな。きみは、きみの守りたいと思うものを、きみのやり方で守れ」

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