第6話 カスミソウ
学校から帰ると、玄関先に新しい花が飾ってあった。母さんは、昔からよく花を飾る。
成長した俺たちに向かって『小さい頃はお花を摘んできてプレゼントしてくれたのに』と嘆き、シロツメクサやタンポポを飾っていた時のことを、よく懐かしがった。
いつもなら、すぐに通り過ぎるはずの玄関。
今日はなぜかその花に目を奪われた。
この花の名前なんてわからないけれど、今、主役として飾られているこの花は確か、いつもは他の花の引き立て役として見かけるものだと思った。
「あら、お帰り。どうしたの?立ち止まっちゃって」
畳んだ洗濯物を2階に運ぼうとしているのだろう。重ねた服を抱えリビングから出てきた母さんは、不思議そうに俺を見た。
「……いや、花変わったなーと思って」
そう返した途端、母さんは嬉しそうに『そういうところ、左京はお父さんからちゃんと遺伝してるのね!……右京は全然だけど』と笑った。
確かに親父はこういうのよく気が付く方だと思う。髪を切ったとかの分かりやすい変化じゃないことも気付く親父は、ついこの間も、母さんの爪の色の変化に真っ先に気付いていたのを思い出した。
ただ仲がいいからかと思っていたけれどタイプの違いだったらしい。そして『右京は全然』と言う母さんの言葉にも妙に納得してしまい、思わず笑った。
母さんは25歳の時に10歳年上の親父と結婚したらしいが、昔から仲がよく、親父の休みのたびに、二人で買い物だ、昼飯だと出掛けていく。
今回の引っ越しも、いい物件が見つかったってのが最大の理由らしいけど、親父の長い出勤時間を少しでも短縮したいという母さんの優しさから成るものだった。
階段の少し前を上がる母さんの背中に問い掛けてみる。
「あの花、なんて名前?」
母さんは振り向き『一体どうしたの?』と驚いたが、微笑みながらすぐに教えてくれた。
「カスミソウ。普段は脇役だけど綺麗でしょう?」
「うん、ありがと」
部屋に入り、脱いだブレザー。それを椅子の背にかけてからベッドに横たわった。
自分だけの部屋は居心地がいい。
そりゃそうだ、前の賃貸マンションでは、いくら広めだったとはいえ右京と同じ部屋を使っていたのだから。
さっきかけたブレザーの校章が目に入る。
前の高校での1年半と、これからここでの1年半。どっちもただの高校時代としてだけ過ぎていくんだろう。人生のなかでのたったの一握りだ、そう思っていた。
右京の『ばんそうこちゃん』と俺の隣の高木さんが同一人物だと知ったのは、ついさっきのこと。
『女の子には優しくしなきゃだめよ』
母さんがいつも俺たちに言っていたからだろうか。右京は女子への優しさを行動で示せるタイプになった。
重いものを代わりに持ってやったり、怪我した子を保健室に連れていったり……。
でも俺は、あいつみたいには出来ないといつもいつも思っていた。
『女の子は1+1が2じゃない時があるのよ』
いつだったか、母さんが話したこの数式。
全く理解が出来なくて、正直、面倒なことを避けたいと思ってしまった俺は、右京のように女の子に優しくすることなんて出来ない……いや、敢えてしなくなっていった。
なぜか急に思い出されたその数式。
彼女は、過去に好きな男に名前を悪く言われて今もまだ傷付いている。そこまで聞いた時は、その男をいまだに怒っている話なのかと思ったのに……どうやら怒っている相手はそいつじゃなくて、許してあげられなかった自分自身だという。
その『1+1』の答えがハッキリわかった訳じゃないけれど、母さんが言いたかったのはこういうことだったのかな、と思う。
彼女の頭に自然に手がのびたのは、彼女がその数式を解くヒントをくれたからだろうか。
自分でもとても驚いた。
それに、もうひとつ確かになったことがある。
今日、俺も日直だったのに彼女はずっと何も言ってこなかった。今まで、女子と係になったりすると、みんな必要以上に声をかけてきたから……彼女のその行動はとても新鮮だったし、不思議でならなかった。
あとから文句でも言ってくるんだろうか、そんな風にもちょっとだけ思った。
でも彼女と話していてわかった。彼女はあとから文句を言ってきたりなんてしない。あのまま俺が声をかけなければ、放課後、彼女は一人で日誌を書いただろう。ただただ転入したばかりの俺を気遣って。
彼女は――優しい。
だから俺は、涙する彼女がなるべく気を使わないようにそっと窓の外を見た。
ゆっくり流れる雲は徐々に姿を変えていく。
小さい頃、母さんを挟んで右京と二人、あれは魚の形だ、車の形だと競ったことまで思い出した。
不思議と嫌じゃないその時間。
もう少しこのままでもいいとさえ思った。
俯く彼女をこっそり見る。
彼女の髪は、いつの間にか色を変えた陽射しが降り注ぎ、綺麗なオレンジ色に染まっていた。
さっきまでのことを思い返しているうちに、ふと玄関の花と彼女が重なったように思える瞬間があった。周囲に優しく寄り添うあの花は、普段目立たない。
けれど、本当はとても綺麗な花だということに。
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