第二部 ジゼル

第一章

伝令の女王

 語り部の物語は冥界から始まる。

 太陽のない常闇の空は冥界という呼び名に相応しい。だが、闇の色をまとっているとはいえ、そこは決して陰気な場所ではない。草原には淡く光って咲く花が無数に広がり、辺りをほんのりと明るく染める。その花粉が舞いながら漂う様は、まるで蛍のようだ。岩や山肌は輝く苔で覆われていた。

 絶望の闇と希望の儚い光とが共存している世界こそ、冥界なのだ。まるで生命そのものに。

 その冥界を統べる二人の帝王がいた。すべての死を司る『黄泉の帝王』と、生まれゆく魂に天命を刻む『時の女帝』である。

 そして時は黄泉の帝王パーシヴァルの頃。彼の妻である女帝は名をナディアといった。彼女は歴代の女帝の中でも、一風変わっていた。というのも、女帝となるまでは、精霊の魂を持って生まれた人間だったのだ。吟遊詩人として人間界で暮らしていた彼女が生涯の伴侶と出会い、冥界に移り住んで一年がたっていた。


「今日は黒い鳥が多いわね」


 女帝は冥界の上空を飛び交う無数の鳥たちを見上げて呟いた。白い鳥が運ぶのは、これから生まれ行く魂。黒い鳥が運ぶのは、死んだ者の魂だ。

 ナディアはすぐに視線を空から自分の膨らんだ腹に移した。力強い胎動がひっきりなしに伝わる。彼女は矢車菊の色に似た目を穏やかに細めた。

 やがてナディアが産み落としたのは、双子の兄妹だった。父になったパーシヴァルが闇色の瞳を輝かせ、妻の手をとる。


「ありがとう、ナディア」


「パーシー、名前をつけてちょうだい」


 ナディアは家族にのみ許された愛称で夫を呼び、黒髪を撫でる。パーシヴァルは破顔し、汗で頬にまとわりついた妻の金髪をそっと払ってやった。


「兄はジャーヴィス。妹はジゼルというのはどうだろう?」


「いい名前ね」


 傍らの赤ん坊を見つめるナディアの目に、涙が溢れていた。


「どうか天命に負けぬ、強い子に」


 生まれたときに誰もが魂に刻まれる天命を授けたのは他ならぬナディアだったが、それでもそう願わずにいられなかった。


 双子は日に日に健やかに育っていった。


「ねぇ、ジゼル。あの子たちにも名前があるんだよね?」


 冥界の草原で寝転がる幼い兄ジャーヴィスが呟く。その母譲りの矢車菊の色をした目が追っているのは、上空を飛び交う白い鳥と黒い鳥だった。

 それをじっと見つめる兄は、ナディアと同じ金髪だったが、その面立ちや仕草はパーシヴァルにどこか似ていた。

 その傍らで草笛を吹いていた妹が手をとめて首を傾げる。


「あの鳥たちのこと?」


 妹ジゼルも、母や兄と同じ矢車菊の色をした瞳を持っていた。だが、その髪は父に似て闇のような濡れ羽色だった。


「うん。あの一羽一羽に名前があるなんて凄いよね。僕には見分けがつかないよ」


 きょとんとして、ジゼルが草笛を膝の上に置く。


「そう? みんな、ちょっとずつ違うわよ。すぐわかるわ」


「流石だな」


 ジャーヴィスが感心したように笑みを向けた。だが、ジゼルは戸惑っている。


「なにが流石なの?」


 ジゼルが兄の言葉の意味を理解したのは、もう少しあとになってからのことだ。

 彼女には、一度見聞きしたものを決して忘れない力があった。どんなに些細なことでも忘却の彼方に押しやることができない。たとえそれが一瞬の出来事だったとしても、どんなに辛いことであっても、だ。

 このときのジゼルにはまだ、それが自分だけの力だとわかっていなかった。兄も父母も、誰もが持っている力だと思い込んでいたのだった。


 ジゼルが八歳の頃だった。


「ジゼル、じっとしていなさい!」


 逃げ回るジゼルを追いかける白い鳥が大声を張り上げた。


「嫌だよ。セシリアってば、またお薬のませる気でしょ?」


 すぐに追いつかれたジゼルが唇を尖らせる。白い鳥が肩にとまり、不機嫌そうな声で言い放った。


「当たり前だ。お前は熱があるんだよ」


 セシリアと呼ばれた鳥は、乱暴に長い尾を揺らす。

 彼女は生まれ行く魂を運ぶ白い『生の鳥』の長だった。姿は生の鳥に似ているが、その尾はひときわ長く、赤い目は三つある。

 時の女帝の使い鳥であると同時に、ジゼルの教育係でもあるセシリアが低い声で囁いた。


「早く横になって薬をのまないと、鼻を噛むよ」


 ジゼルにとって、忙しい両親の代わりに面倒を見てくれるセシリアが一番の親友であり、同時に怖い存在でもあった。

 渋々ながら部屋に戻るジゼルは、ふと兄の部屋の前で足を止める。


「兄上は勉強中かな?」


 固く閉ざされた扉に向かって呟く声に、セシリアが頷いた。


「この時間は帝王学を学んでいるだろう。また精霊界に遊びに行っているかもしれないけどね」


「明日は会えるといいけど」


 笑みを繕うジゼルの目に、ほんの少し影が帯びる。セシリアは人知れずため息を漏らした。この子は寂しいのだと、思いながら。

 部屋に戻ると、セシリアがこう切り出す。


「お前もたまには精霊界に遊びに行ってみたらどうだい? せっかく私という傀儡を従えているんだから。友達も一人くらいはできるかもしれないよ」


 セシリアをはじめとする『生の鳥』と『死の鳥』はただの鳥ではなかった。黄泉の帝王だけが作れる『傀儡』と呼ばれる魂の容れ物であり、四つの世界を渡る道案内ができる特殊な存在だった。

 だが、ジゼルが気落ちした声で呟く。


「ねぇ、セシリア。私って女王の魂を持つんだよね?」


 セシリアが『何を今更』と言いたげに首を傾げた。


「お前はそういう天命だとナディアから聞いているだろう。お前の母親である時の女帝が、天命を授ける役目を担うんだからね」


「帝王の魂じゃないのよね?」


 苦いものでも吐き出すようなジゼルに、セシリアが長い尾を振った。


「そうだね。帝王の子には帝王の魂が宿りやすいが、お前は女王だね」


「兄上は帝王なのに、私は違うのって、人間から生まれた娘だから? 母上に似ているから?」


 さっとセシリアの目に険しいものが走った。


「……本気でそう思うのか?」


「ううん。でも、みんながそう陰口を言っているのは知ってる」


 そう言うと、彼女は靴を脱ぎながら肩を落とした。


「冥界だけじゃなくて、精霊界の精霊たちの中にもそう言ってる者がいるって知ってるわ。だから、私は精霊界になんて行きたくないの。兄上は帝王の魂を持つから堂々としていられるかもしれないけれど」


 その卑屈な声に、セシリアがまたもや、ため息を漏らす。ジゼルの忘れられない力というのは、こういうときに厄介なものだとしみじみ感じていた。


「どうして、兄上と同じ部屋じゃ駄目なのかな?」


 布団に潜り込みながらぼやくと、セシリアが寝台の脇にある止まり木に飛び移って答えた。


「ジャーヴィスは生まれたときから王だったからね。王は個室に住むのが、この冥界の決まり事なんだとさ」


 兄のジャーヴィスは生まれたときから『闇の王』だった。代々、『闇の王』は未来の黄泉の帝王であることを意味している。

 だが、その双子の妹であるジゼルは彼と違い、帝王の魂を持って生まれなかった。天命では女王になるというが、まだ即位はしておらず一介の精霊だ。


「帝王にはなれないけれど、私だって伝令の女王の魂は持ってるんでしょう?」


 不服そうにジゼルが薬をのみ込んで顔をしかめる。


「あぁ。まだその時ではないけれどね」


 セシリアがのみ終わった薬の包みをくちばしで挟み、器用にごみ箱に放り投げる。

 

「どちらにしても、王は個室に入る。兄とは一緒にいることは出来ないよ」


「つまんない」


 もぞもぞと布団で顔を隠し、ジゼルがぼやく。それを見たセシリアが憐憫の目をした。

 死を迎える人々に『死の鳥』を送り出す父。生まれ行く魂に天命を刻む母。どちらも滞ってはならない使命を持っていた。それ故に、子どもたちと過ごす時間が極端に少ない。

 パーシヴァルも幼い頃、こうして天命に縛られた両親を見て育っている。広い神殿に取り残されたような気分を、彼も知っているはずだった。ナディアに至っては、精霊の魂を持って生まれたことで人間の両親から愛されなかった。愛を示されない子どもの辛さなど、身をもって知っている。

 だが、今こうして彼らの娘が寂しさに身を縮めているのを見ると、やりきれない気持ちになるのだった。


「お前には家族との時間が一番の特効薬かもしれないね」


 ジゼルはよく風邪をひく。しかし、看病をしてくれるのはセシリアか世話係の精霊だけだった。

 そのときだった。扉が開いて、兄のジャーヴィスが寝台に駆け寄ってきた。


「ジゼル、風邪は大丈夫かい?」


 布団から跳ね起きたジゼルの顔に、満面の笑みが浮かんだ。


「兄上! 来てくれたの?」


 ジャーヴィスの小さな手が、ジゼルの額に当てられる。


「まだ少し熱があるじゃないか。大人しく寝ていないと駄目だよ」


「だって、一人じゃつまんないもん」


「しょうがないな」


 しゅんとする妹に小さく微笑み、彼は靴を脱いで布団に潜り込む。つられてジゼルも再び横になった。


「兄上、アルフレッドに叱られるわよ」


 兄の教育係はパーシヴァルの使い鳥でアルフレッドといった。『死の鳥』の長であり、セシリアと姿は似ていたが、その羽は黒く、三つある目も青い。


「大丈夫、少しだったら目を瞑ってくれるって言ってた」


 気難しいアルフレッドも若き王には甘いと、セシリアが声を出さずに笑った。

 ジゼルが嬉しそうに兄にすり寄り、兄は妹に布団を優しくかけて丸くなる。ふと、ジゼルがセシリアにねだった。


「ねぇ、セシリア。またあのお話をして。兄上は聞いたことないだろうから。いいでしょ? お願い」


「あのお話って何?」


 きょとんとした兄に、ジゼルが悪戯っぽい笑みを浮かべて囁く。


「母上が人間界にいた時のお話よ」


「へぇ。聞いてみたいな。アルフレッドときたら、お話をねだっても『歴代の帝王の名前を挙げていけば自然と眠くなるぞ』なんて言うんだよ」


 双子の笑い声が響くのを聞き、セシリアは胸を撫で下ろす。彼らは少なくともパーシヴァルやナディアよりは確かな温もりを生まれながらに持っている。


「それでは約束なさい。お話を聞いたら、ジゼルは大人しく寝ること。ジャーヴィスは朝が来る前に部屋に戻ること。いいね?」


「はい」


 綺麗に揃った返事に、セシリアが満足げに頷く。


「それでは、始めよう。お前たちの母親の幼い頃の話だよ。同時に、このセシリアの一世一代の赤っ恥の物語でもあるがね」


 セシリアが静かに語り出した。


「天命とは何か、わかるかい?」


 ジャーヴィスが頷いた。


「決して避けられない定めでしょう?」


「人生の道標のような物だ。この私に与えられた天命は『三つの生を授かる者』だった」


 ジゼルが静かに耳を傾けていた。彼女は一度聞いた話は必ず覚えているのに、何度でもこの話を聞きたがる。それは彼女が母とセシリアを好いている証でもあり、本好きの彼女らしい一面だった。

 ジゼルは何も口を挟まずに静かに聴き入っている。だが、初めて聞くジャーヴィスは興味津々という顔でセシリアに問いかけた。


「三つの生ってどういうこと?」


「お前達は『傀儡』を知っているね?」


「うん。作り方も材料も知らないけれど」


「それは黄泉の帝王だけが知ることのできることだからね。お前はいつか知るだろう」


 セシリアが笑う。


「知っての通り、傀儡は帝王によって体を作られ、女帝によって魂をこめられる使命を帯びた存在だ。『生の鳥』や『死の鳥』もそうだし、人型の者もいる。この私やアルフレッドのような帝王の使い鳥もそうだ」


 ジゼルは矢車菊の瞳でセシリアをじっと見つめた。この柔らかくてしなやかな体が傀儡だと知ったときは、心底驚いたものだった。


「最初はフィオナという名の生の鳥として生まれた。ある日、先代の時の女帝の命を受け、一つの魂を運ぶことになった。それこそが次の女帝の魂だったんだ」


「つまり、母上だね」


 ジャーヴィスがわくわくしながら頷いた。


「それはどうやら人間界に住む精霊に生まれつくものらしかった。定かではないが、魂を手にした女帝にはそう感じられたらしい。ところが、だ」


 ぐっと低くなった声に、ジャーヴィスが身を乗り出した。それを見たジゼルが嬉しそうに目を細める。彼が次の帝王でなければよかったのにと思うこともしばしばだった。毎日一緒に遊んだり、こうしてセシリアの昔話を聞いたりして過ごすことを、彼女は心のどこかで願っていた。

 何も知らない兄は、目を輝かせてセシリアをせかす。


「それで? どうしたの?」


「この愚かなフィオナは、かまいたちに目を潰されて、あろうことか魂を手放してしまったんだよ」


 苦虫をかみつぶしたような顔で、セシリアが毒づく。


「それは精霊に宿らず、この私のせいで人間に宿ってしまったんだ」


「だから、母上は人間として生まれたんだね」


「そう。これが運命だったのか偶然だったのかは、神界におわす神々のみぞ知る。目を失った私は冥界に連れ戻され、償いの日々を送ることになったんだ。そして、それが第二の生の始まりだった」


 ここで、セシリアが目を細める。


「中庭の泉の周りに半透明の木々が生えているが、その中の一本にある女の姿をした傀儡が埋め込まれている。それこそが、私の第二の生を歩んだ傀儡の体だ」


「もしかして、あの白い髪の女の人がそうなの?」


「あぁ。名はセシリア。つまり、今の私の名前が初めてつけられたのは、第二の生のときだった。先代の帝王と女帝は、私の魂を人型の傀儡に移し、ナディアを捜すよう言いつけたのだ。そして、その力に潰されてしまわぬよう、守り、強い人間に育てるように、と仰った」


 凛とした声に、ジャーヴィスが口をうっすら開けて聞き入っている。だが、すぐに小首を傾げた。


「力に潰されるってどういうこと? 守るって何から?」


 ここで初めて、ジゼルが口を挟んだ。


「兄上、母上は女帝の魂を持っているせいで、人間なのに精霊の声が聞こえたそうよ。だからなの」


「声が聞こえるなんて、当たり前じゃないか」


「兄上ってば人間界のことは何にも知らないのね。人間たちは精霊のことも世界が四つあることも知らないの。人間界がすべてだと信じているのよ」


「えぇ? そうなの? 僕らは知っているのにね」


「人間には王や帝王以外の普通の精霊は見えないんだもの。目に見えないものは信じにくいのよ、きっと」


 自然に宿る精霊は力が弱く、殆どの人間には見ることが出来ない。だが、王や帝王の大きな力を持つ精霊は見ることができるらしい。だからこそ、精霊の王たちは人間に自分たちの力が強く影響しないように、精霊界に隠れ住むのだった。


「そんなものかな」


 ジャーヴィスが首を傾げる。


「じゃあ、母上は辛かっただろうね」


 セシリアが深く頷いた。


「実の両親にも愛されはしなかったよ。見えない者の声を聞く姿が、不気味に見えたんだろうね」


 双子たちは互いの顔を見合わせる。今の明朗な母の姿からは想像もできない過去だった。


「ナディアはそのせいで、『施設』に移されてしまった。親を失った子や、見捨てられた子の行くところだ。やっと彼女を見つけたときには、すでにナディアは今のお前達と同じ年頃になっていた。自分が手放した魂を目の前に感じたとき、本当に嬉しかったと同時に、ひどい罪悪感に苛まれたよ」


 懐かしむように、セシリアは目を細めた。


「私とナディアはこうして出逢い、一緒に暮らしたんだ。吟遊詩人として、六年もの間ね」


 そこで初めて、セシリアがにやりとした。


「ナディアがどんな子どもだったか、知りたいかい?」


「知りたい!」


 面白そうだとばかりに、ジャーヴィスの頬が染まる。それを見たセシリアは冗談混じりにナディアとの思い出話を語った。


「ナディアは護身術が得意でね。カッとなりやすいせいか、言い寄って来る男を叩き伏せることだってあった。私と暮らしていたときは、踊り子だったんだよ。吟遊詩人になったのは、私が去ってからだね。そうそう、あの子は寝言がひどくてね。ジゼルはナディアに似たんだね」


 そんな話の中、双子達は無邪気に笑ったり、歓声を上げたりしている。二人が年相応の子どもの顔になっているの見て、セシリアが胸の内で安堵した。王や帝王などというしがらみさえなければ、二人ともまだまだ遊びたい年頃なのだ。

 だが、ジャーヴィスは既に闇の精霊を束ねる王であり、次の黄泉の帝王だ。ジゼルもいずれは女王となる。王になっていない今でも、帝王の娘として恥ずかしくない姿を求める者達もいるのだった。

 子どもが子どもでいられないことは、想像以上に辛いことだ。セシリアはいつも、双子たちにナディアの姿を重ねていた。

 人間から理解されず、両親からも不気味だと冷遇された少女時代、誰よりも自分の力に怯えていたのは、それが精霊の魂のせいだと知らなかったナディア自身のはずだ。本当はまだまだ子どもでいたかったはずなのに、受けるべき愛情を与えられなかった。その孤独と、ジゼルの抱えるものが似ている気がするのだった。

 物思いに耽ったセシリアに、ジャーヴィスが尋ねた。


「ねぇ、セシリア。吟遊詩人として母上と暮らしたのが第二の生なら、第三の生が今なの?」


「そう。ナディアが強くなったとき、私は傀儡としての役目を終えて冥界に戻った。そして、今度はナディアが女帝になったときに与えられる使い鳥としての生を願ったんだよ」


「それで、セシリアはセシリアなのか」


「正確に言うと、この姿でナディアに会いに行ったときに、何も知らない彼女がこの名前をくれたんだ。『私の一番大事な人の名前をあげる』と言ってね」


 その言葉には誇らしさと喜びが滲んでいた。


「父上とはどうやって出逢って結婚したんだろう?」


「それは、私の口からは言えないよ」


「どうして?」


「二人だけの秘め事だからさ。それをこっそり教えるなんて野暮なこと、私がするはずないじゃないか」


 そう高笑いしたとき、扉が開いて衣擦れの音がした。


「なんだか楽しそうね。ずいぶんと盛り上がっているようだけど」


 部屋に入って来たのはナディアだった。セシリアに向かって苦笑いしている。


「あんまり私がじゃじゃ馬だった頃の話をしないで欲しいわ。ジゼルが真似をしたら大変だもの」


「何を言ってるんだ。お前は昔と変わってないよ」


 ふんと横を向いた鳥に向かって、ナディアは笑う。


「母上!」


 双子たちは顔を輝かせたが、すぐにハッとして布団にしがみついてしまった。自分の部屋を離れてジャーヴィスが一緒にいるところを見られたことに気がついたのだ。

 先に口を開いたのは、ジャーヴィスだった。


「母上、ごめんなさい。ちゃんと部屋に戻るから」


 すると、ジゼルが慌てて兄を制した。


「違うわ、母上。私が一緒にいてくれるように頼んだの」


 ナディアはふっと眉尻を下げ、寝台に腰を下ろして子どもたちを見つめた。


「ジゼル、風邪はもういいの?」


「熱がちょっとあるくらいよ」


「ジャーヴィスはここで休みたいの?」


「うん。僕、今日くらいはジゼルといたいんだ」


「なら、今日は二人で過ごしなさい。そのかわり、ジゼルはちゃんと薬をのんで治すこと。ジャーヴィスは風邪をうつされても文句は言わないこと。わかった?」


「うん!」


 パッと顔を輝かせた双子に、ナディアが微笑む。


「ところで、何の話をしていたの?」


「父上と母上はどうやって出逢って結婚したのかって話してたの」


 目を輝かせるジゼルの頭を、白い手が撫でた。


「それを聞くのはまだ早いわね。今日はもうお休み」


「つまんない」


「もっとお前達が大きくなったらね」


 ナディアは双子たちの額に交互に口づけをする。ふわりと優しい香りが髪から漂うのを、ジゼルは鼻腔いっぱいに吸い込んだ。


「さぁ、セシリア、行くわよ」


 ナディアが声をかけると、白い鳥が大人しくその肩に止まる。灯りが消され、ナディアは扉の取っ手に手をかけながら囁いた。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい、母上」


 揃った返事に目を細め、ナディアが廊下へ消えて行った。薄暗い部屋に、双子の忍び笑いが漏れる。


「ねぇ、ジゼル。母上と父上がどうやって結婚したのか知りたかったね」


「大丈夫よ、兄上。いつか、母上から聞き出して教えてあげる」


 一方、廊下に出たナディアの肩では、セシリアが首を傾げていた。


「今日はずいぶんと甘いじゃないか。お前らしくない」


「そうね。でも、あんな風に二人で過ごすことは、いい思い出になると思って」


 そう言うと、ナディアが小さなため息を漏らした。


「王だの帝王だのなければ、あの子たちはもっと一緒に遊べるのにね。精霊の世界もなにかと面倒だわ」


「だが、一緒にいなくてよいこともあるさ」


「どういう意味?」


「ジゼルに『自分が兄に比べて勉強ができなくて、体も弱いのは帝王の魂を持っていないせいか』と訊かれたよ」


「なんですって?」


 ナディアがふっと眉根を寄せた。


「パーシーの母上だって帝王の魂を持っていたけれど、体は強いとは言えないわ。それに、勉強ができないのは単にあの子が勉強嫌いのせいよ。読書は好きなくせに、あの子ときたら教本は一切開かないんだもの」


「わかっているさ。だけど、そういう陰口が嫌でも耳に入るってことだ」


 ナディアが拳を壁に殴りつけ、わななく声で呟いた。


「誰がそんなことを。ジゼルは記憶の力を持っているのに」


 どんなに苦しい出来事でも、この先ジゼルはそれを忘れずに生きていかなければならない。ナディアにとっては、それは不憫な力だった。

 セシリアが肩をすくめる。落ち込んでいたジゼルの顔を見たら、この気の短い主はまた怒り狂うだろう。

 精霊の中には人間を差別する者も少なくない。この冥界も例外ではなかった。ナディア自身、そういう差別を身をもって感じることがあるのだ。


「本当にお前は昔から短気だよ」


 セシリアが母親のように、ナディアを諌める。


「落ち着きなさい。ジゼルのほうがよっぽど強い。あの子はじっと耐えているんだよ」


 大きなため息をつくと、ナディアが髪をかきあげる。


「わかっているわ。だからこそ辛いのよ」


 そう言うと、セシリアを矢車菊の瞳で見据える。


「セシリア、そろそろジゼルの天命が動き出すわ」


「というと?」


「エイモスが倒れたの」


「伝令の王が?」


 セシリアの目が見開いた。伝令の王エイモスは傀儡を束ねる存在で、帝王の片腕だった。セシリアにとっても恩義のある精霊である。


「容態は?」


「持ちこたえたわ。だけど、そんなに長くはないでしょう」


 それは、ジゼルが女王となる日が近づいていることを指していた。

 死者に死の鳥を、生まれる者に生の鳥を送り出す者。精霊の伝令を任され、永遠の記憶を司る者。それこそが伝令の王だった。そして、ジゼルはエイモスを継ぐ者なのだ。

 エイモスは変わり者だった。彼は自室を与えられているにもかかわらず、傀儡達の住まう離れに入り浸り、精霊との関わりを嫌う。もの静かで口数も少ないが、先代の帝王とパーシヴァルからの信頼は厚かった。

 懇意にしている者も特別にいない。だが、ジゼルは例外だった。この老いた精霊の王は、自分の後継者だからかジゼルを気に入っていた。

 彼が倒れたことをジゼルが知ったのは、彼が食事をとれるほど容態が回復してからのことだった。


「どうして早く教えてくれないの?」


 ジゼルは顔を真っ赤にしてセシリアに食いついたが、この白い鳥は何食わぬ顔をして羽をばたつかせた。


「ほら、そうやって取り乱すからだ。エイモス様のお体に障るだろう」


「もう、セシリアってば!」


「だが、大事なことだよ」


 ぐっと声を落とし、セシリアが呟くように言った。


「精霊でも人間のように、別れのときは来る。未来の女王たるもの、いかなるときも冷静でなくては」


「……わかってるわ」


 渋々頷く彼女の肩にセシリアが飛び移った。


「さぁ、それではエイモス様のところへ行こう。会いたいだろう?」


 ジゼルはきつく唇を噛み締め、頷いた。

 ジゼルの胸にセシリアの言葉が渦巻く。身近な者を失ったことのないジゼルにとって、別れという言葉の響きは空恐ろしく、どこまでも冷たく感じたのだった。


 ジゼルが向かったのは無数の『死の鳥』と『生の鳥』の住まう離れだった。

 重い扉を押し開けると、一斉に鳥たちの鳴き声が木霊する。天井の高い離れの壁一面に傀儡の鳥たちの巣が無数に見えた。屋根の近くの壁は吹き抜けになっており、鳥たちはそこから外に自由に出入りできる。そこから射し込む光は淡く飛び交う鳥たちを照らしていた。


「おや、ジゼルだね」


 中央に無造作に置かれているのは、天蓋付きの寝台だった。そこに目が線のように細い、老いた男が横になっていた。雪のように白い髭を持ち、顔には深い皺が刻まれている。彼こそが、傀儡を束ねる伝令の王エイモスだった。


「エイモス。もう大丈夫なの?」


 ジゼルが駆け寄り、彼の骨張った手を取る。


「あぁ。今のところはね」


 彼は体を起こしながら、耳に心地よい声で笑う。だが、そこに力強さはなかった。指先もひんやりとして、生気がない。

 ジゼルは堪らず、彼の胸に飛び込んだ。


「おやおや、今日は甘えん坊だ。また陰口でも言われたのかね?」


「違うわ」


 白い髭の感触を頬に感じながら、彼女は涙を浮かべた。


「……怖いの」


 やがて来る別れの予感に、彼女の小さな胸が締め付けられて悲鳴を上げていた。


「お前にもわかるんだね。私が長くないことが」


 彼はそっと小さな頬を撫で、矢車菊色をした瞳をのぞきこんだ。


「もうすぐお前が伝令の王となるだろう」


 彼はしわがれた声で、囁く。


「そういう天命だ」


「そんなの、いらない」


 震える声で、ジゼルが首を横に振った。


「エイモスがいなくなるなら、天命なんていらない。女王になんてなりたくない。この忘れない力だって、私を苦しめてばかり。こんな力、いらない!」


 わっと声を上げて泣き出したジゼルの髪を、エイモスがそっと撫でた。


「天命は誰にでもあるものだ。それがどんな使命を帯びているにしろ、魂の指針なんだから。それでも、その指針にどう立ち向かうかで、人生が決まるんだ。一度見聞きしたことを忘れない力だって、苦しいときもあれば心に安らぎをくれることもあるだろう」


 そう言うと、彼は枕の下に手を入れると、細い首飾りを取り出した。深紅の宝石を連ねたもので、ため息が漏れるほど美しかった。


「お前が伝令の女王となったとき、最初の仕事はこのエイモスのために動いてくれるかい?」


「それは?」


「この老いぼれのたった一つの心残りだ。これを、ある精霊に届けて欲しいんだよ」


「誰に渡せばいいの?」


 そう問いかけた瞬間、エイモスの瞳に輝きが走った。


「私がただ一人愛した女性だ。帝王の一人、地の女帝シルヴィアだよ。もっとも、私と出逢った頃は一介の花の精だったが、本当に『高嶺の花』になってしまった」


 そう言うと、彼はジゼルの手に首飾りを握らせた。


「どうして自分で渡さないの?」


「お前も彼女に会えばわかるだろう。何故、私が会いに行く必要がないか」


 それだけ呟くと、彼は枕に身を沈める。


「お前に任せておけば安心だね。これで思い残すこともない。私は少々、疲れたよ」


 ジゼルの肩にセシリアが舞い降りた。


「さぁ、エイモス様をゆっくり休ませてさしあげよう」


 ジゼルがそっとエイモスの頬に口づけを落とした。


「エイモス。また来るわ」


「あぁ、楽しみにしているよ」


 ジゼルは心に写し取るように、彼の顔をじっと見つめた。深い皺が渓谷のように刻まれている。豊かな白い眉毛が、心なしか優しく下げられていた。


「おやすみなさい」


 踵を返し、扉に向かう。すると、エイモスが寝台の中から名を呼んだ。


「ジゼル、これだけは言っておくよ。私はお前と同じ力を持ったせいで、シルヴィアとの別れは今でも生々しく感じる」


 振り向いたジゼルに、エイモスが切ない笑みを浮かべた。


「シルヴィアと別れてからは、私は誰とも必要以上に関わりを持たずに生きて来た。お前にはわかるね?」


 ジゼルは黙って頷く。誰もが辛いことを思い出にして生きていく。だが、ジゼルたちにはいつでも生々しい感情のまま心に残ってしまうのだ。


「私はこれ以上忘れられない哀しみを増やしたくなくて、孤独に生きて来た。だが、これは私の生き方だ。お前は同じじゃない。同じ力を持っていても、お前が天命に抗う方法は別にある。お前の目には私と違う輝きがあるからね」


 彼はそう言うと、白い髭を撫でた。


「探しなさい。自分の天命と向き合う生き方を。お前の母上がそうしてきたように」


「母上が?」


「そう、人でありながら精霊の女王となったナディア様が、自分の天命をどう受け入れ、どう抗ったか。そんな生き方をお前はするだろう」


「私にもできるかしら?」


「できるさ。あの方の娘なんだから。それに私のように閉じこもって身を守る術を選び、死んだように生きることだけはしないで欲しいんだ」


 彼のその言葉は、ジゼルの胸に波紋を広げた。


「同じ力を持つお前を、私は哀れに思う。同じ苦しみを知るからだ。だけれど、お前を見るたびに愛しくもあるのは、私と違って力強く足を踏み出していく生き方を選ぶんじゃないかと思うからさ。私が捨てた希望が、お前の瞳に見えるんだ」


「じゃあ、もっと見ててよ」


 ジゼルが涙を浮かべて、震え声を張り上げた。


「もっと長生きして、私の生き方を見届けてよ。じゃないと、承知しないんだから」


「あぁ、そうしたいものだね、ジゼル。楽しみにしているよ。お前がこの力とどう付き合って行くのか」


 そう言うと、彼は長いため息を漏らした。


「愛しい子に光あれ」


 短い祈りに、ジゼルは泣き笑いしながら答えた。


「愛しい師に幸あれ」


 ジゼルは寝台に横たわる彼にそっと囁き、部屋を後にした。

 暗い部屋には、鳥たちのさえずりとエイモスだけが残される。闇の中、彼はジゼルの言葉を思い出し、唇をつり上げた。


「あぁ、幸あるとも。お前が私の分まで生きてくれれば。あの首飾りが彼女の胸元を飾ればね」


 彼の独り言は、闇に吸い込まれ、そして消えた。


 エイモスが死んだのは、明け方のことだった。彼は晴れやかな死に顔をしていた。そして、それは同時に、新たな伝令の王の誕生の瞬間でもあった。

 伝令の女王ジゼルが即位したことは、瞬く間に精霊界と冥界に伝わったのだった。

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