美しい闇

 セシリアは話し終えると、ナディアに優しく語りかけた。


「これで私の告白は終わりだ。よくぞ、ここまで生き抜いてくれたね。孤独に負けず、己に負けず、言霊の槍を抱えながら」


 セシリアが頭を振ると、その額が割れ、小さな紅玉のような第三の目が露になった。ナディアは涙を浮かべてセシリアを抱きしめた。


「やっぱり、あなたの瞳の色はとっても優しい色だったのね」


 今までの自分の記憶のあちこちに散らばった点と点が、一気に結ばれて線になった気がする。そして言いようのない思いで、ため息を漏らしたのだ。


「自分の力で生き抜いて来たつもりだった。だけど、どうしてかな? この神殿を見たとき、自分がただ大きなうねりに流されてきただけのような気がしたわ」


「それは違うよ、ナディア」


 首を横に振ったのはダグラスだった。


「お前がもし、その力を憎しみのまま使うような者になっていたら、私たちは『死の鳥』を遣わさなければならなかった。死期の近い者の名が浮かぶ死者目録をめくるたび、お前の名がないか心配だった。だが、これでそんな思いをしなくて済む」


 すると、今度はタニアが微笑んだ。


「ねぇ、ナディア。私はあなたが娘になってくれると嬉しいんだけど」


 タニアは木漏れ日のような笑みを浮かべ、セシリアと夫を連れて扉へ向かう。


「人間界に戻るか、それともパーシーと共に生きるかは自由です。今のお前は自分自身を知ったのです。どう生きていくか、天命に媚びずに決めるのですよ」


 扉の閉まる音が木霊する。残されたナディアはパーシヴァルの顔を見やった。彼は闇色の瞳で、彼女を見つめていた。どことなく、怯えたような目つきだった。


「パーシー、もし私が今、人間界に戻るとどれくらいの月日が流れている?」


「まぁ、何日もいるわけじゃないし、これくらいならたいしたことはない」


 そう答えたパーシヴァルが、恐る恐る彼女の手をとった。


「お前は、人間界に帰りたいか?」


 おずおずと握られた手が『行ってしまうのか』と訊ねていた。ナディアはふっと笑みを漏らす。


「パーシー、あの夜『嬉しい』って言ってたよね」


「うん?」


「私が時の女帝の力でリンたちに加護を授けた日だよ」


「あぁ」


「私、今ではなんとなくわかる。何故、加護を授けることができたのか」


 闇色の瞳が、答えを待って彼女を見つめた。


「私は多分、パーシーのことを愛してるんだわ。だから、この力は本来の強さを手に入れた。そうでしょ?」


 返事はなかった。代わりに、パーシヴァルがナディアを抱きすくめていた。その手が震えるほど、喜びに満ちていた。


「私たちは同じだったんだよ。愛し、愛される者が欲しくて孤独に泣いていた」


 ナディアは彼の耳元で語る。


「私たちは対をなす冥界の帝王。だけど、二人で一つ」


 個は全。全は個。同じ闇の力を持ち、相対する生と死を司る。どちらが欠けてもままならない。


「だけど、それ以前に私はパーシーだから愛してる」


 彼女の胸に思い浮かぶのは、一人の男として人間界で過ごしていたパーシヴァルだ。絵を描き、故郷の歌を口ずさみ、自分を助け、ずっと隣にいた男の姿。


「短い間だったのに、一緒にいる時間は心が穏やかだった。帝王とか女帝とか関係なく、私はパーシーを選んでいたんだ」


「ありがとう、ナディア」


 パーシヴァルが呟いた。その声が震えている。


「愛してるよ。孤独だったからじゃない。お前だからだ」


 二人の視線が交わった。その頬に浮かぶ笑み。そして、また抱きしめ合う。ナディアは彼の腕の中でふっと笑う。


「いずれ楽器を取りに戻らなきゃならないね。馬も放してこないと」


「なら、冥界の食べ物を口にしてからのほうがいいだろう。お前が一分一秒でも先に年をとってしまうなんて、もったいない」


「もったいない?」


「だって、思い出を持たずに寿命を削るようなもんだ。俺は一秒だって無駄にしたくないぞ。ただでさえずっと待ってきたってのに。お前との思い出を少しでもとりこぼしたくないんだ」


 ぶつぶつ言うパーシヴァルに、ナディアが思わず吹き出した。


「さて、私は何を食べてこの世界と契約しよう?」


「さぁ。でも、今頃お袋たちが用意してるはずだよ。あの人たちにはお見通しなんだから」


 パーシヴァルは、そっとナディアの腰を引き寄せた。

 あぁ、彼は初めて会ったときも、こんな顔をしていた。そう見惚れた刹那、もう一度強く抱きしめられる。耳元を彼のため息がかすめた。

 ナディアの心が燃え立つような熱を帯びた。歓喜に頭の中が真っ白になる。広い背を泳ぐ手。やがて彼女の指先はしっかりとパーシヴァルを掴んだ。

 呼吸が苦しいほどの抱擁。それでも伝えきれぬものがあった。

 心から湧き出る温もりに、涙が出そうになる。これが『愛している』という心の叫びであり、人は嬉しくても涙を流すものなのだと彼女は思い知った。

 パーシヴァルは金色の髪を一房とり、そっと口づける。


「死を司る帝王は、生を司る女帝と共にいなければ役を成さないのは、生と死の源が同じだからだ。死の絶望と生の希望は切り離せない」


 光がなければ影がなく、影がなければ光がないのと同じように。


「まるで俺たちのようだ。お前は本当に眩しいよ。俺は光を手に入れて、本当の闇になった」


 ナディアはふっと微笑み、彼の額に優しい口づけをする。


「私の加護が解けた理由をずっと知りたかったけど、答えは自分の中にあったなんて」


 彼女の声は穏やかだった。


「今になって気づいたけど、あのときから、とっくに愛していたのね。パーシーの闇は光を抱くから優しいの。辛いことも哀しいことも包み込んでしまう。優しい闇よ」


 そう言われたパーシヴァルははにかみながら、囁いた。


「ずっと、それをお前の口から聞きたかったんだ。俺を選んでくれて、ありがとう」


 ナディアもそっと囁く。


「待っていてくれて、ありがとう。二人でいれば幸せは二倍、不幸は半分に分かち合える。約束は嫌いだけど、そう信じるわ。パーシーと同じ闇を持って生まれたことを誇りに思うから。パーシーが求めたものは私ってこともね」


 そして、ふっと笑う。


「でも、油断してると、また置いて行くわよ」


 パーシヴァルが思わず笑みを漏らした。


「最期まで退屈しなさそうだな。さすがは俺の女帝だね」


 笑みを浮かべ、彼はナディアに唇を重ねた。彼の首に手を回し、ナディアが応える。慈しむような、長い口づけだった。

 ふと、泉の水面がざわついた。新しい帝王と女帝の誕生に、冥界が歓喜に身を震わせた瞬間だった。瞬く間にそれは精霊たちの間に伝わった。

 闇に染まるような髪と瞳を持った若き帝王。

 闇にまたたく光のような髪と慈悲深い色の瞳を持つ女帝。

 彼らは傀儡を従え、魂の営みを見守るだろう。その鈍く輝く魂に、精霊と人との物語を見出しながら。

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