第三章:泥棒は盗まれたものを取り戻そうとする。
泥棒は愛着について考える。
夜だった。風が強い。先日電信柱を薙ぎ倒したあの大風並みだ。あたりを見渡すが、人の気配は全くない。当たり前だ。こんな風の日に外に出る奴がいるか。
腕に抱えた赤ん坊を、早く山に置いてこなくては。
何故こんなことをしなきゃあいけないんだ。問うまでもなかった。なぜならそれが依頼だったからで、依頼を遂行するためには、赤ん坊を捨てるくらい、どうってことないことなのだ。
「本当にそうなのか?」
猫美の声だ。電話をいつしたんだっけ?
「本当も何も。現にそうしているじゃあないか」
「君が本当にしたいことはなんだ?」
「今は家に帰りたいな。ここは風が強すぎる」
「そういうことではなくて」
「そういうことじゃあないなら、特にない。先のことはその時考える」
「わたしは、そんなことをして欲しくて、君に泥棒仕事を紹介したつもりはないんだ」
「別にお前のせいじゃあない。猫美には感謝しかないさ」
「だったらそんなことはやめろ。したいことはなくても、やりたくないことくらいあるだろう」
「やりたくないこと。やりたくないこと、しかないんだ。だから、誰かが決めたことはちゃんとやる。そうだな、だから、何より怖いのは、何よりやりたくないのは、依頼に背いて行動することだ。だから依頼に必要なことだったら、赤ん坊の手だって捻るし、そこらに捨ててきたっていいんだ。その行動の責任は、依頼をした側にあるからな」
そう。そういうことなのだ。いい年をして、何しろ責任を取りたくない。だから、誰かが責任を取ってくれることだけをしていたかった。それがたまたま泥棒仕事と相性が良かった、それだけだ。ただのガキ、いや、それ以下の信条だった。でもしょうがない。急な方向転換は腰に来るのだ。この年になるとな。そんなところだけ大人染みたことを言うようになっている。
「ふざけんな!」
里見・甲賀コンビが立ち塞がる。お前ら、なんでここにいるんだ。
「真城さん、空さんを捨てるんですか」
空? 空が、どうしたって?
「その赤ちゃんでしょ? 光平が名前、つけたんじゃないの。なんで捨てるのさ」
そうなのか。空、お前なのか?
「いや、空を捨てたりなんか――」
しない。と、言い切れるのだろうか。
依頼を受けて、空から盗まれたものを取り戻して。
その後に別の依頼を受けたら?
空を捨ててこいと言われたら?
考えもしなかったが、今は現にそういう状況なのだ。そもそも、依頼はなんだった?
なんで、こんなことをしてるんだったっけ。急に雨が降ってきた。ざあざあ、と音がして、赤ん坊が濡れてしまうと思うが、いや、今からこの子を山に置き去りにしようとしているのに、濡れるの濡れないのなんて気にしたってしょうがないだろう。
雨はますます強くなる。
ざあざあ、ざあざあ。
そこで目が覚めた。
嫌な夢だった。また夢オチか。いい加減にしろよ。次は怒るからな。
隣のベッドを見ると、空がいなかった。飛び起きる。
「空! 空、いるか?」
馬鹿みたいな大声を出してしまった。
「はい」
バスルームから声が聞こえて、ほっとする。ざあざあって、ああ、シャワーね。
「お前、熱は大丈夫なのか。風邪ひいてるときに風呂はあまり良くないぞ」
「体調は、大丈夫の、ようですが。そうなのですね。すぐに、出ます」
「ああいや、もう入っちゃったなら焦らなくていい。少し部屋を出る。すぐ戻る」
部屋を出て、特に当てもなくふらつく。
嫌な、夢だったな。
赤ん坊を捨てるような依頼は引き受けまいと心に決める。まあ、そんな依頼泥棒の受ける仕事じゃないけど。良く考えたら。自動販売機のコーヒーを啜って、少し頭が働くようになったところで、部屋に戻る。
「おはよう、ございます。勝手に、お風呂に、入って、済みませんでした」
空はベッドに座って長い髪にタオルを当てながら、ぺこりと頭を下げる。裸で。
「馬鹿野郎! 服を着ろ!」
即退出。入口に座り込み、頭を抱える。
「すみません、その、お風呂は、良くないと。でも、髪が、乾かないと、服が、濡れて、しまうので」
「なんのためにバスローブが備え付けられていると思っているんだ。せめて羽織れ。というか、風邪をひいている自覚をしろ。あと男の前で裸になるのは本当にまずいからな。今日はそこから教育だ」
言いながら、バスルームを開け、バスローブをつかんでぶん投げてやる。
「これは、濡らしても、良いのですか」
「いいから早く着ろ。まともに話ができない」
バスローブを着けたころを見計らい、もぞもぞとベッドルームに戻る。
「色々と言いたいことはあるが、もう熱はなさそうか」
「はい。お世話に、なりました」
「世話をしたのは医者と猫美で、医者は仕事だからいいとして、後で猫美に感謝を伝えよう。それでだな」
柄にもなく説教めいたことをする。
今は非常事態だから男女同室しているが、これは本来は望ましくない。男と女は、本当は基本的には一緒にいない。いるにはいるだけの理由がある。ただ今は緊急事態で、その中ではお互いにマナーを守らなくてはならない。特に女性は男性を強く警戒する必要がある。風邪をひいているときは、体が冷えるので風呂は望ましくない。治りかけが一番再発しやすい。ついでに、馬鹿野郎というのは男性を罵る言葉で、使う機会がないことを祈るが、女性に使うのは不適切である。
空は素直に聞いていた。ちゃんと「はい」と返事をして。ただ。
「それでは、髪が乾いたので、服を、着てきます。バスルームで、着替えますね。光平を、警戒しないと、いけないので」
空はそう言うと、ふん、と顔を背けて、ちょっとだけ乱暴に服を掴んでバスルームに向かう。
「そうだ。それでいい。ただなんだ、その、怒っているのか」
「怒っては、いません。私、宇宙人なので、感情が、分かりませんから」
「おい、それは皮肉だな。凄いなお前。成長が著しいのはいいことだが、なぜ怒っている」
「だから、怒っては、いません」
良く見るといつもの笑顔が消えている。
「地球ではそれを怒っている、という」
「違います」
それだけ言って空はバスルームに入って行った。押し入るわけにもいかないので、手持無沙汰でベッドに横たわる。しばらくして、空は着替えを済ませて戻ってきた。また感情の整理をしてやらないといけないかな、と掛ける言葉を探していると、空が真横に寝転んできた。顔が近い。
「どうした」
「分かりません」
そうかい。
「じゃあ整理をしよう。ええとな、さっき色々と文句を言われたろ。それに腹が立ったか」
「違います。私は、怒っては、いませんが、今、私が、不快を、感じる、理由は、分かっています」
だからそれを、地球では怒ってるというんだって。
「その理由から話してくれ」
「昨日、光平は、私を、ひとりに、しないと、言いました」
「言ったな」
物覚えが、いい奴だ。ちょっと冷静に聞くと恥ずかしいセリフだから、忘れてもらってもいいんだが。
「だから、私は、待っていました。でもさっき、今一緒にいるのは、非常事態だと、言いました。男女は、一緒に、いないと」
「それも言ったな」
「じゃあ、光平は、いつか、私を、ひとりに、するんですか。そう、考えると、不快に、なります」
「すぐにはしないがいつかはする。ただ、その時はたぶん空はひとりではないし、その方がいいということは、空ならすぐに分かる」
空は泣き出しそうな目でこちらを見ている。
宇宙人だから感情が分からないというのは、大嘘だな。感情豊かになったものだ。本当に物覚えがいい。成長も、早い。
「それが分かるまでは傍にいる。それは大丈夫だ。嘘じゃない。嘘は嫌いなんだ」
「だったら、ずっと、分からない方が、いいです」
「嫌でも分かるものだ。大丈夫、その時はすぐに来る。たぶんな」
頭を撫でてやる。まだ少し頭は湿っている。空が胸元に頭を擦り付けてくる。
「大声を出せと警告されたのを忘れたか」
「出す、必要を、感じて、いません」
「そうか。まあ、今はまだ分からないだろうが、そのなあ。今空がしてるみたいに、男女が体をくっつけるのは、全くダメとは言わないが、ひとまず誰もかれもにやっていいことではない、とは言っておく。頭を撫でといて、言えることじゃあないけどな」
「……はい」
「しかし、思うに、今更だけれど、髪を切った方がいいかもな。こいつ乾かすので風邪をひいてちゃシャレにならん。なんかもったいない気もするが、切るか」
「光太郎は、短い髪を、好みますか」
「どこでそういうセリフを覚えたんだ」
「昨日、猫美と、話しました」
女子っぽいな。言われてみりゃあ、猫美も髪は長い。外に出ない奴だからな。となると比較的ショートヘアなのは里見(あるいは甲賀。あいつ坊主だからな)くらいだな。里見も十分かわいらしいと思うけど。
「髪の長い短いにあまり関心を持ったことはなかったが、たぶんどっちかというと長さがある方が好みなんだろう。ただ、これは良く考えたら長すぎたよな。邪魔じゃないか」
「ううん。確かに、お風呂とか、排泄とか、衣服の、着脱の、際は、面倒です」
「排泄の話はあまり人前でしない方がいい」
まあでも邪魔なようだし、切るか。ただ、いきなり床屋、いや美容院に行っても困惑されそうだから、ざっくり肩くらいまで切ってやって、あとをプロに任せる方向がいいかな。
「そういや、分からないというのは何だったんだ?」
「はい。猫美は、一昨日、ずっと、一緒に居て、昨日、帰りました。里見と、甲賀には、会って、何度も、一緒にいなくなっています」
「はあ。そうだな」
「それは、さみしくないんです。でも、昨日、光太郎が、いなくなるのは、そう、さみしい、気持ちでした」
「なるほどな」
「だから、これから、一緒に、いないと、言われると、私は、不快です。それは、何故ですか?」
何故ったって。まあ、一番いる時間が長いからなあ。単純接触効果か。いや。
「刷り込みという現象があってな」
刷り込み。インプリンティング。ローレンツのベストセラーだからもうすっかり有名な現象だろう。マガモの雛は、マガモのお母さんがお母さんであるから付いていくのではなく、最初にお母さんを見たからついていくという話だ。生まれて初めて見たものが何か、ということが重要で、だから、お母さんではなくて、犬とか人を見ると、犬とか人の後をついて歩くようになる。こういう仕組みで、マガモはマガモ社会を無事に形成しているという話だ。
「人間はそこまで単純ではないようだが、似たようなことは起こる。これを愛着という」
愛着。アタッチメント。これはもはや日常語だ。ようするに、特定他者との情緒的な絆のことだ。この絆も、刷り込みと同じで、お母さんだから、ではなくて、長時間接触し(精神的にも、物理的にも)、不快を取り除くことによって生じる、ということのはずだ。
「だからそう、ずっと一緒にいる相手には愛着が生じる。まあ、これが社会生活の基礎だな。ここから色々と経験を積んで、人間関係を広げていくのさ。そしたら、一緒にいなくても、不快ではなくなる。今はとりあえずステップ1だ。納得できるか?」
「実感、としては、ありませんが、はい。でも」
「うん?」
「一緒に、いなくなる、話は、あまり、しないで、欲しいです」
「そうか。それは悪かった」
困ったもんだ。今の姿勢だって困ったもんだし、愛着なんて重い枷みたいなものだ。どうしたものか。そもそも、愛着の形成なんて人生の最初期に、母親とかと行うものだ。それを今さら追体験しているのか。体験しないよりはできている方がいいに決まっているが、やっぱり空が盗まれたものの大きさを考えると、腹が立ってくる。ただ、何にどう怒ればいいのかわからないのが難しいところではあった。とにかく。空が空の人生から盗まれたものを、取り返す。昨夜の決意を思い出した。思い出しただけで、改めて決意をし直したわけではないが。ただ、今はこの姿勢と、まだ若干機嫌が悪い空をなんとかしなくてはならない。
「そうだ、朝飯、食いに行くか。今日は何にする」
「はい! あの、昨日、読んでいた、レストランガイドに」
顔をあげて、久しぶりに微笑む空は、いそいそと本を取りに立ち上がった。こいつ、ちょろいな。
その後、空の行きたいバルとやらは夜からしか空いていないし、病み上がりでがっつり肉を食うのはどうか、というとまた若干しょげていたが、奮発してローストビーフのサンドイッチを食わせてやったらすっかり元気を取り戻した。
とりあえず、やっぱりちょろいですね、宇宙人。
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