第九章


 レノの家に帰ると、レノが待っていた。玲の顔を見ると、拓真と帰国するなら、祭りが終わる前に帰った方がいい、瀬川はおそらく祭りが終わるまでいるだろうから、とレノは言う。ただ、拓真はパスポートも無いので、本島に行ってからすぐに手続きができるとは限らない。事情によっては、拓真の父に来てもらう必要もあるかもしれない。そうすると、本島で瀬川に出くわしてしまう可能性もあるのではないか。と玲は不安を口にする。本島は広いので、あまり心配することもないだろう。瀬川は本島に長くはとどまらず、すぐにこの国から離れるのではないか、手続きが済むまで空港周辺にいるのを避けたら大丈夫だろう、とレノは希望的観測を口にした。それでも、瀬川のねばりつくような視線が気味が悪くて仕方ない。玲が不安げな顔をしていると、ともかく、玲と拓真が島にいる間は、自分もファウラも瀬川に注意している、あまり心配しなくてもいい、とレノは力強く言ってくれた。玲と拓真が島を出るまで、サピラに瀬川を船に乗せないように言っておく、とも。

 アロファは、レノに折り紙を見せにきた。この数日で、アロファは自分で随分折り紙を折れるようになっている。レノの買ってきたムームーのような新しいワンピースを着ていて、愛らしい笑顔を見せるアロファは、レノに折り紙の風船や、ハトなどを見せている。玲に教えてもらった、とアロファがレノに言う。

 レノは愛しそうにアロファを膝に乗せ、上手にできた、とほめてやっているようだった。じっと目を見つめて、アロファに何か言うと、アロファが嬉しそうにレノの首に手をまわして抱きついている。仲睦まじい兄と妹の姿を見つめて、玲は佐緒里を思い出していた。 

「おねえちゃん、私も折れた!」

 佐緒里は満面の笑顔で折り紙を見せてきた。「かたつむり」の折り紙だった。小さな子には難易度が高いと思っていたが、何度も練習して、失敗を繰り返しながら、折り紙のかたつむりを会得した佐緒里は、それからいくつも同じものを折った。

「雨が上がったら、お散歩して、アジサイのところで、かたつむり探そうね。」

 そんな約束をした。それからしばらくして、佐緒里は高熱を出した。

「寝る時間が近くなっても、明かりをつけて一生懸命折り紙を折っていたのよ。」

 佐緒里の母は、なじるような目で玲を見つめた。まるで玲のせいで佐緒里が熱が出たと言わんばかりの口ぶりだった。熱が下がったころには、折り紙はすべて処分されていて、佐緒里がいくら母にねだっても新しい折り紙は登場してこなかった。いらなくなったノートの切れ端で、佐緒里に小さな鶴を折ってやり、それを糸と針でつなげて、ベッドの端から吊るしてやると、佐緒里はそれを大事にしていたが、それすらも、いつの間にかなくなっていた。

「いかにも病人と言った風なものを作らないで。縁起が悪い。」

 母にそう注意された。玲は佐緒里が愛しかったが、睦みあう度合いが過ぎると、母の不興を買う。そのバランスのとり方に苦しんだ。母と玲の間には、常に冷たい空気が存在していた。養子になどならなければよかった、と思う反面、佐緒里と二人で過す時間は、かけがえのないものに思えた。

 玲は帰宅すると、真っ先に佐緒里の部屋に行き、遊ぶだけでなく、絵本を読んでやったり、簡単な勉強を教えてやったりもした。学校は休みがちで、友達もいない佐緒里にとって、玲と過ごす時間はなによりも楽しみな時間のようだった。学校から帰る玲を待ちわびていて、

「今日は何して遊ぶ?」

 と尋ねる佐緒里の瞳は、出会った時と同じように輝いていた。しかし、佐緒里の部屋で長く時間を取ると、母に注意される。

「もう休む時間よ、佐緒里。」

 そして玲には、

「あまり、根を詰めさせないで。」

 とそっけなく言う。玲が佐緒里のために、と何かすればするほど、母親の態度は硬化していった。玲は途方に暮れた。何か母に話しかけても、最小限の言葉しか帰ってこず、気を使って何か手伝いをしても、母は拒否もしなければ、感謝の言葉もない。適当に短い指示をだすだけで、母の態度は変わらなかった。やがて、玲は余計なことを考えることやめ、佐緒里といる時間以外は、石のように黙って、黙々と家事をこなすようになった。…いま考えると、母にあまり気を使わず、佐緒里との時間をもっと持てば良かった。

「玲、具合でも悪いの?顔色が悪い。」

 レノの尋ねる声で、玲の回想は破られた。レノの膝の上で、アロファも心配そうに玲を見ている。

「ごめんなさい。亡くなった妹のことを思い出していた。もっとレノとアロファのように、仲よくする時間をたくさん持ちたかったと思っていた。心配かけてごめんなさい。」

 沈んだ声で玲が説明すると、レノは考えながらこう言った。

「今度ある僕たちの島の祭りは、海や土からの恵みを感謝するとともに、先祖や死者の魂がいつまでも元気であるように、喜ばせるものでもある。玲の亡くなった妹さんも、玲が妹のことを覚えていることがきっと嬉しいと思う。だから、妹さんのことを思い出すときに明るい笑顔でいたほうがいい。そのほうがきっと妹さんは喜ぶのではないか。」

 レノは言葉を続けた。

「人は生まれて、死んでいくものだが、この島では土に返った魂は生まれ変わって永遠に生き続けていると考えられている。だから、一緒に暮らせなくなるのは生きている人間からすれば寂しいが、生まれ変わった死者たちは、魂へと生まれ変わり、楽しく僕たちと二度目の人生を歩んでいる、そう思わないか?僕の母は二度も連れ合いを無くしたが、家族が減ったとは思っていない。いまでも二人の父は、母とともに生きているよ。」

 そう言ってレノは微笑んだ。玲も笑おうとして、涙がこぼれた。急いで首に掛けたタオルで涙をぬぐい、玲はふたたびにっこりと笑った。

「レノ、ありがとう。私はこの島に来てよかった。」

「そうだね。僕たちも玲やタクが来てくれて、良かったよ。二人が帰国して、遠く離れてしまっても、僕たちはずっと家族のままでいよう。」

 レノはそう言った。膝の上のアロファもにっこりと笑った。玲の目から再び涙がこぼれそうになったところで、外からソロファが帰ってきて大きな声で鶏の鳴きまねをしたので、玲は驚いて飛び上がり、その様子を見て家族の皆が笑った。


「今日はなんだか、晴れ晴れした顔をしているね。」

 次の日の朝、拓真に水汲みの時に言われてしまう。玲は微笑んだ。

「いろいろレノと話をしていてね、吹っ切れたというか…。」

「そう…。何か悩んでるふうだったもんね、玲さん。」

「そう見えた?」

「うん…。でもまあ、解決したなら良かった。」

「そうだね。私は島に来て良かったよ。あとは、拓真と一緒に帰るだけだ。」

「そう…。何があったか、後で僕にも話して。」

「もちろん。」

 二度目の水汲みの後、いつものように玲の髪を梳かしながら、拓真は、

「昨日、レノと何を話したの?」

 と話を切り出した。

「うん、昨日、レノとアロファが仲よくしててね、それで、私も佐緒里のことを思い出して…。」

 玲は話し始めた。佐緒里が愛しくてたまらなかったこと。でも可愛がると、かならず母からの邪魔が入ったこと、水川家での冷遇のことなどを話した。

「ほんとうはね、私、何度も養子に入ったことを後悔したよ。…でもね、佐緒里に『おねえちゃん』て呼ばれるたびにね、やっぱり私がここにいなきゃ、って思ってた。可愛がり過ぎると、とがめられるし、でも、一緒にいたいしね。」

「…ひどい話だね。どうしても、って言われて養子に入ったわけでしょ?玲さん。」

「そうなんだけどね。お母さんも複雑だったんだと思うよ。佐緒里は誰よりも私になついてた。産みの母としては、後から入ってきて、佐緒里の一番を持っていくなんて、許せないところもあったんだろうね。」

「それにしても…。」

「結局、佐緒里が強く望んだから、私は水川家に入ったんだろうな、ってことは養子に入った後に痛感したよ。本当は、私、もっと佐緒里を可愛がりたかった。夜も一緒に寝たかった。できる限り一緒にいてやりたかったよ。でも、その気持ちを抑えてしまったの。母に気を使うあまりね。それを後悔してて…。レノとアロファを見ていたら、そのことを思い出してしまって、顔色に出たんだよね。それをレノに心配されて…。」

「うん。」

 レノに言われた言葉を、拓真にも伝える。

「思い出すなら、笑顔で思い出せ、亡くなった人の魂は、今でも一緒に生きているって言われてね、…そして、玲も拓真も遠く離れても、僕たちの家族だ、って言ってもらって。」

「うん。」

「それでね、私も、拓真と家族として生きて行こうっていう決心がついた。私、ほんとうはかなり迷ってて、拓真と一緒に暮らすっていう意味について考えてたんだけど、レノに言われて、そうか、『家族』だと思えばいいんだな…って。そう思ってね。」

「そうか…。」

 拓真はしばらく黙った。

「玲さんがそう思ってくれるのは嬉しいんだけど、家族もいろんな形があるよね。きょうだい、親子、夫婦…。」

「うん…。」

「僕の気持ちはわかってるよね。今さら姉と思えって言われても困るんだけど…。」

「そうなんだけどね。いろいろな意味をひっくるめて、難しいことを考えずに、家族かな。とにかく、私は拓真と一緒に生きてゆくよ。」

 玲は心の中で付け足した。「そしてもし、離れてしまっても、私たちは家族だね」と。

「なんだか、うまくごまかされたっていうか、煙に巻かれた気分だな…。」

 拓真は少し不満げにぶつぶつ言う。

「しかも、レノに言われて決心がついたっていうのがどうもね…。」

「そこはあまり、気にしないでよ。あまり、拓真も私もね、いままで家族にめぐまれなかったと言えばおかしいけど、平和な家庭生活が送れていなかったと思うから、一緒に暮らしてみて、今までできなかったことを、ひとつひとつやってみよう。そのあと、私たちのあり方を考えてもいいじゃない。」

「問題の先送りだね。」

「…拓真って、三年も日本を離れてた割に、ぽんぽん日本語が出てくるね。」

「うん、島にいて、半年ぐらいして、寝言まで島の言葉になっちゃって、ヤバいなと思って、それで一人暮らしを始めたっていうのもあるんだよね。ちゃんと一人の時間をもって、日本語で考えたいなとか思って。」

「…やっぱり、帰りたかったんだね、拓真は日本へ。」

「日本人であることを忘れたくないっていう気持ちと、日本へ帰りたいっていう気持ちは、別だよ。」

「そうなの?」

「玲さんにはわからないよ。海外で長く暮らしたこと、無いでしょう?」

「そうだけど…。」

「僕は、玲さんがいるから、一緒に帰る。それだけだよ。」

 拓真はきっぱりと言った。いつの間にか日差しが強くなり、玲の髪はあらかた乾いている。拓真はいとおしそうにその髪をしばらく撫でていたが、やがて、立ち上がった。

「遅くなったね、もう帰ろう。」

「そうだね。」

 二人は肩を並べて山道を下る。拓真は祭りも近いので、もうコプラ工場には出ずに、祭りの準備をレノとともにすると言う。

「大丈夫?勝手に休んで。」

「みんなそんなもんだよ。祭りが近くなると、皆落ち着かなくなってきて、だんだん仕事しなくなってくる。広場の飾りつけや、踊りの衣装作りとか大変だからね。」

「拓真も踊るの?」

「僕は踊らない。見てる方が好きだな。」

「…で、島の男の人みんなと、カヴァを飲むんでしょ?」

「あああああー。嫌だー。」

 少しおどけた拓真の反応に玲は笑うが、少しもの哀しくもなる。

「それをがんばって飲めちゃう拓真、尊敬しちゃうな、私。…だって他の人が口に入れて噛んで吐き出したものでしょ?」

「…よく知ってるね。レノに聞いた?」

「ううん、瀬川さんに…。」

 うっかり口に出してしまい、会話が途切れ、拓真の顔が曇る。

「もう、ほんとに行かないよね、あの人のところに。」

「もう行かないよ、大丈夫。」

「そもそも、なんであの人のところで働いたりしたわけ?」

「まあ、勉強にはなったよ。人間的には尊敬できないけど、もの知りだったし。ほら、私、なにもこのあたりの知識もなしに島に来ちゃったから、なんにも知らなくて。」

「…………。」

「もう、ほんとに大丈夫だからね。なにも心配いらないよ。」

 拓真は大きなため息をついた。

「そろそろ、みんな起きたかな。」

 玲は話題を変える。

「そうだね…。」

 拓真はなんとなく上の空で相槌をうっていた。


 家に帰ると、レノが険しい顔で待っていた。拓真が水瓶に水を移している隙に、玲を物陰に連れて行って、瀬川が来たことを言う。玲は動揺するが、レノは「大丈夫だ、自分が『玲はもうあなたのもとで働かない』と言った。拓真にも玲にもこれ以上なにかすることは、僕たちが許さない、とも言ってある。不必要に心配することは無い。」

 レノは付け加えた。

「あまり心配はないと思うけれど、できるだけ、島にいる間は、僕たち家族から離れないで。」

「わかった。」

 家にまで来る瀬川の瞋恚をはかりかねるが、玲はこれ以上、どうすることもできない。レノの言うように、できるだけレノの家族から離れないようにするしかないが、レノに掛ける迷惑を思うと申し訳ない。

「私たちは、祭りが始まる前に帰国した方がいいのでは?あまり長くいると、皆に迷惑をかける。」

 レノに聞いてみる。

「瀬川は何を考えているかわからない男だが、粗暴にも見えないので、注意を払えば大丈夫だろう。せっかく拓真と過ごす最後の祭りを、家族皆楽しみにしている。一日は楽しんで行って。」

「わかった。」

 玲は承知する。拓真が家に入ってきたので、笑顔でレノが迎え入れる。拓真も笑顔を見せる。拓真が島で過す残り少ない数日に、影が落ちてこないことを、玲はただ祈った。

 島に人々が戻ってきた。若者ばかりかと思えば、そうでもなく、老若男女さまざまな顔が見える。レノと拓真とソロファは祭りの行われる広場に行きっぱなしであまり戻ってこない。玲はレノの母やアロファと、衣装作りに精を出した。


 祭り当日が来た。しばらく瀬川を警戒して、朝の水汲みの時と、洗濯の時などを除いて、あまり村の中に出ていなかった玲は、あまりの人の多さに驚いた。

 アロファは、この日のための衣装と花飾りを身に着けていてとても愛らしい。いつの間にか、祭りの広場には、大きな顔の木像が立っていて、綺麗に彩色されている。打楽器の音があちこちから聞こえる。練習のため、というよりも、これから始まる祭りを待ちわびて、と言ったふうな音に聞こえる。独特の変拍子がいかにも愉快げだ。

 最初に子どもたちの踊りが始まる。玲はカメラを構えて、アロファの踊る写真をいくつも撮る。最初に女の子たちが前で踊り、そのあと、男の子たちの隊列が前に出てきて、勇ましい踊りを披露する。ソロファももちろん踊り、玲はそちらにもカメラを向ける。男の子たちの衣装は、腰巻ひとつだが、それを補うかのように顔には派手な化粧が施されている。一瞬だれがだれか分からないほどだが、さすがに寝食をともにしてきたソロファは背格好でわかったので、玲は笑顔になり、シャッターを切る。

 子どもたちの踊りの後、いったん休憩が入る。拓真がいつの間にかそばに来ている。

「すごく賑やかだね。」

「まだまだこれからだよ。」

 拓真は嬉しそうに言う。

「…明日で帰るけど、いいの?」

「うん。…今から、レノがなにか演説するみたい。それを玲さんと聞こうと思って、ここに来た。」

「そう。なにを話すんだろうね。」

「僕はレノが何を言うか、だいたい聞いてるけどね。あらためて聞いてみたいな。」

 ファウラが像の前の台の上に立った。ファウラも何か語る。島の言葉だから当然わからないが、拓真によると、「皆が島に帰ってきてくれて嬉しい。ここにいる者たちが、存分に祭りを楽しむことで、亡くなった死者もよろこぶ」というような内容らしい。

 ファウラに変わって、レノが台の上に上がる。レノが力強く喋りはじめる。はじめは賑やかだった聴衆が、やがてしーんと静まる。レノの話は長かった。一つ一つの言葉に力を込めるように語りつづけ、そして、最後は叫ぶように終わった。それとともに、大地が高鳴るような足踏みの音、楽器の音、そして怒号のような聴衆の歓声が上がった。

「やっぱりレノはすごい…。」

 拓真はぽつんとつぶやいた。

「何を言ったか、教えてくれる?」

 広場では、すでに成人の女たちの踊りが始まっている。うん、と拓真はうなずいて、レノの演説の内容を教えてくれた。

「…僕たちは、ナマコのディーラーが来て、やがて去って行ってから、多くのものを失った。島から人が出て行き、富も失われた。でも、その富がどこからもたらされたものか考えてほしい。けしてディーラーがもたらしたものではなく、我々は、富を海から得たのだ。我々は海と土の民だ。そのことを忘れないでほしい。しかし、昔ながらの暮らしに飽き足らない気持ちも、十分に理解している。この島にも、先進国の力を借りて、いずれ電気を引こうと思う。僕は、そのための技術をオーストラリアに行って身につけてくる。そして、海の幸を即座に冷凍できるような船を、みなの力を合わせて手に入れよう。先進国が欲しがるような海の幸は、ここでいくらでも手に入る。冷凍技術さえあれば、ナマコに頼らずとも、我々は海から富を再び得ることができるだろう。でも、忘れないでほしい。繰り返し言うが、我々は、海と土の民である。昔ながらの島の暮らしと、島の民としての誇りを、いつまでも大事にしていこう。」

 拓真はレノの言葉を伝えると、少しさびしげに笑った。

「レノがいれば、島はいつまでも大丈夫だ。僕がここにいなくてもね。」

「…つらい?島を離れるの?」

「大丈夫だよ、玲さんがいてくれるならね。」

 拓真に手を握られる。玲も握り返してみる。

「じゃあ、僕、また行くね。玲さんもお祭り、楽しんで。」

 優美なフラにも似た女たちの踊りが終わると、今度は男たちの勇壮な踊りが始まる。打楽器の音と、さしづめ馬の駆ける音にも似た足踏みのような音が大地を揺るがす。レノも、そして「僕は踊らない」と言っていた拓真もやはり踊っている。

 やがて、踊りが終わると、男たちはそのままカヴァ小屋にぞろぞろと入っていく。レノとすれ違う時、目があってにっこりと笑みを見せた。玲も微笑み返す。拓真はすでに小屋に入っているようだった。次世代のリーダーとしての確かな顔を見せたレノは、晴れやかな表情を見せていた。

 アロファやソロファ、レノの母を探したが、あまりの人混みで見つけることができない。あきらめて玲はレノの家に一人で帰ろうとしていると、

「待て」

 と、声をかけられた。振り向くまでもなく、瀬川だった。

 急いでカメラを袋にしまい、そちらを向いて、玲は、

「失礼します。もう帰りますので。」

 と瀬川に会釈して、急いで去ろうとした。その腕を瀬川が掴んだ。

「離してください。」

 玲は瀬川の手を振り払おうとするが、瀬川の手は意外に力が込められて、容易に離れない。瀬川は粘りつくような目で玲をにらみつける。

「おまえ、本当にしたたかな女だな。恋人の演説の間、燕と手を握り合うなど、大胆なことだ。」

「あなたには関係ありません。私は誰とも、あなたの思うような関係じゃない。」

 玲は瀬川をにらみつけるが、瀬川は玲から手を離さない。

「おまえの若い方の男の、日本人のことで話がある。俺の家のほうまで来い。」

 瀬川の目を見つめた玲は、うなずいた。

「わかりました。では、あなたの家に行きますので、手を離してください。」

「ふん、やっと素直になったな。」

 瀬川はにやりと笑った。玲はちらりとカヴァ小屋の方を見た。カヴァ小屋は、四方に篝火が焚かれ、煌々と照らされている。折しも、レノの隣に座っている拓真が大きな器でカヴァをあおっているところだった。

「あいつらは、これから夜通しカヴァ三昧だ。あれを飲むと手足がだるくなって、動くのもおっくうになる。助太刀にはならんなあ。」

 瀬川はいやな笑みを頬に浮かべた。

「そういうのではありません。彼らにあまり余計な心配をかけたくないので、見られたくないだけです。」

 玲は瀬川をにらみつける。

「殊勝なことだ。」

 瀬川はそう言って、玲に背を向けた。玲は瀬川の後を黙って歩く。まもなく村はずれの瀬川の仮住まいに着いた。ここまで来ると、ほとんど村人の姿は見えない。みな祭りの広場に行っているのだ、無理もない。

 瀬川はドアを開けて、玲に入るように促す。玲は黙ったまま、のろのろと家の中に足を進めた。家の中は明かりが無いので、暗い。

「灯をつけてやろう。」

 瀬川は簡易型のランプのようなものに火をともす。どうやら、瀬川はこういったものを持ち歩いているらしい。

「そこに座れ。」

 瀬川は固い木の椅子を指さした。玲は黙ってそこに腰を掛ける。

「お話とはなんでしょうか。」

 瀬川は大きな椅子に腰を掛け、煙草に火をつける。

「こういう仕事をしてるとな、行く先々で会う日本人が、どうも目障りだ。旅行者しかり、青年海外協力隊しかり。」

「勝手な言い分ですね。」

「日本人に既に会ってると、もう日本人に対して、住民に先入観が生まれる。それが邪魔だ。俺は日本人の中では変わり者で通っているので、類型化した日本人に見られるのは面倒だ。だから、研究調査には、なるべく日本人の少なそうな、交通の便が悪く、ホテルなどなく、ボランティアが必要なほど暮らしに困りすぎず、これといった特徴のない小さい村を選ぶ。今回もそのつもりだったが、まさか二人も日本人に会うとはな…。」

「ご期待に添えなくて、残念です。」

 玲は冷たく言う。

「おまえはな、今まで出会ったどの日本人とも違う。…あの若僧はまあわかる。日本の生活からドロップアウトして海外に逃げ出したよくあるパターンだ。しかし、おまえはそうじゃないだろう。海外旅行の寄り道というわけでもなく、目的をもって、こんな辺鄙な島に来ている。最初は恋に狂っていたのかと思えば、そういうわけでもなさそうにも見えるし、それでいて、恋人の実家に居候して、あの若僧とも親しくしている。村の人間に聞くと、いろいろなことを言う。あの未来の大統領の恋人だろうという者もいれば、あの若僧の姉だろうとか。…そして、あのお前の恋人のほうが、たいそう村人から慕われているということもわかった。賢く、村のことを一番に考えている若者だとな。」

「レノは素晴らしい人です。今日の演説の内容はお聞きになりましたか。」

「ああ、ファウラに聞いた。夢も希望もあって結構なことだ。ま、それが実現するかどうかはわからんが、少なくとも聴衆に生きる希望を与えたな。」

「レノならきっと、やり遂げると思います。でも、彼は私の恋人ではないです。ただの友人です。」

「ただの友人の実家に何週間も滞在するのか?」

「迷惑は承知の上ですが、あなたには関係ありません。なぜ、私にそんな個人的な興味を示されるのですか?」

「なぜだろうなあ。自分でも不思議だ。目障りだから余計に気になるのか…。」

 瀬川はふうっと玲の顔に煙草の煙をふきかけてくる。玲は顔をしかめて、手で煙を振り払う。

「おまえ、俺に抱かれてみないか?いくらでも払ってやるぞ。」

「冗談ではありません、私は帰ります。」

 玲は椅子から立ち上がって、袋を肩にかけた。

「待て。おまえ、あの不法滞在の少年ともデキているんだろう。あの少年が通報されて強制退去になってもいいのか?」

「…あなたのやっていることは、脅迫ですよ?わかっていますか?あなたは日本では、立派な仕事をされているんでしょう?」

 玲は一歩も引かずに、瀬川の目をにらみつける。

「こんな孤島で何の証拠があるというのだ。」

 瀬川の目がぎらついて、玲に近づき、手を掴もうとしてきたその時、扉が蹴破られて、男が一人、家に躍り込んできた。

「誰だ!」

 瀬川は叫ぶ。

「僕だ。玲さんに何をする気だ。」

 ランプのほの白い明かりに、拓真の殺気立った顔が映し出された。拓真の手には、豚を屠るときの長い小刀が握られていた。

「おまえ、カヴァを飲んでいたんじゃないのか?」

 瀬川が呆然とする。

「あんなもの、口に入れてそのまま器に吐き出してやった。どうせ人が噛んでるものだ。僕は毎年そうしてる。特に、お前のようなゴミが島に入り込んでいるときに、あんなものに酔っていられるか。」

 拓真は瀬川に近づいて、胸倉をつかむ。

「おまえのようなゴミを始末するのは簡単だ。おまえが言うように、この島で何が起ろうと証拠など残らない。おまえを刺した後、海に叩き込んで、おまえが自ら海に飛び込んで行方不明になったと、そういえば済む話だ。」

 凍りついたような目をした拓真が、瀬川に小刀をふりかざそうとした。

「待って、拓真!やめて!」

 玲は拓真の腰に抱き着いた。拓真が玲を振り払おうとして、もみあっている隙に、瀬川は逃げて部屋の隅にうずくまった。瀬川の顔が青ざめているのが、ゆらゆらとゆれてはっきりとしないランプの明かりの中でも見ることができた。

「あなたが手を汚すことはないよ。私はこの人が脅迫した証拠を持っている。」

  玲は、袋から取り出したICレコーダーを見せた。

「この家に入る前から、録音はしています。あなたが私に何を言って、何をしようとしたのか、音声でしっかり残していますから、不用意なことはしないでください。何か、私や拓真にあなたが何か不穏なアクションを起こせば、あなたの勤務する大学へこれのコピーを送らせてもらいます。」

 玲は瀬川に向かってそう言った。そして、拓真の刃物を持っている方の手首を握って、

「帰ろう、拓真。」

 と、瀬川の住む家から連れ出した。拓真の体は細かく震えていた。瀬川の家に入る前は、薄暗がりだった村は、今は闇に沈んでいて、道が見えない。

「待ってね、懐中電灯持ってるから。」

 玲は拓真から手を離し、袋から取り出した懐中電灯を点けた。

「こんなに暗かったら、いくら明かりがあっても、どっちに帰ればいいかわからない。拓真、連れて帰ってくれる?」

 拓真は、無言で刃物を反対の手へ持ち替えて、玲の手を握りしめて、歩きはじめた。村にはまだ人影は見えない。闇夜に動物の鳴き声だけが響く中、二人は黙ったまま、急ぎ足で瀬川の家から遠ざかって行った。

 レノの家に帰るのかと思ったが、拓真が向かっているのは、自分の暮らす海辺の小屋のほうだった。足元の踏みしめる感覚が変わり、浜辺に着いたとわかった。闇の中、海鳴りが聞こえる。

 家に入るのかと思ったら、拓真はそのまま暗い浜辺に座り込んだ。明かりを消して、玲も隣に座る。いくらか闇に目が慣れてきて、その姿が玲にもぼんやりと見える。

「どうして、あの人に僕のことで脅されてるの、黙ってた?」

 低い声で拓真が言った。

「レノの、あの人を見る目もおかしいし、何かあるとは思ってた。…でも、どうして僕に話してくれなかったのかな。どうして、いやいやあの人のところで働いたりしてたのさ。」

「どうせ、あと数日で帰国するから、あの人に会うことも無いと思って。拓真が無事に帰国してしまえば、何の問題も無いから、…最後に拓真が島で過す日を、翳りのあるものにしたくなかったの。最後は笑顔でみんなにお別れを言えるように…と思って。」

「そう…。」

 そう言った拓真は、そのまま膝を抱えてすわったようだ。かすかにシルエットが変わったのが見える。

「結局さ、玲さんにとって、僕は庇護すべき存在であって、パートナーとは言えないね。」

「そういうわけじゃないけど…。」

「だってそうでしょ?出会って数日だから相談できない?年下だから相談できない?違うよね。レノには相談してたんでしょう?レノだって、そんなに会ったことないでしょう。レノだって、僕よりは年上だけど、玲さんよりは年下だよね。…結局ね、玲さんにとって、僕は佐緒里ちゃんと一緒なんだよ。守るべき存在でしかない。…そして、そういう存在と一緒にいたら、玲さん、何でもあきらめちゃうでしょう。自分のやりたいことも、自分の意思も、みんな封じ込めるんじゃないかな。」

「そうなのかな…。」

「そうだよ。玲さん言ってたよね。佐緒里のために見失った自分の人生を、見出すためにこの島に来た、 自分と似たような僕に会ってみたかったって。…でも、僕と帰国して一緒に暮らしたりしたら、玲さん、結局僕のためにいろいろ諦めちゃうんじゃない?同じことの繰り返しになるよ。」

 一度言葉を切って、拓真は続けた。

「だから、僕、玲さんとは一緒に帰らないよ。」

「そんな…。」

 玲は思わず拓真の手を掴む。

「せっかく拓真と帰れると思ってたのに…。」

 黙って拓真は玲の体をとらえた。玲の顎を掴んで、乱暴に唇をむさぼる。拓真の舌が荒々しく玲の口の中で蠢く。慣れない不気味な感触に、玲は戸惑うが、黙って拓真を受け入れる。

 不意に拓真が玲の体を突き放す。

「ほらね、玲さん。まったく僕に恋をしてないのに、僕を簡単に受け入れるじゃない。」

「…………。」

「今だったら玲さん、僕の家に来て、一緒に寝てくれたら、僕が帰国するっていえば、ついて来そうだよね。」

そう言って拓真はナイフを砂に突き立てた。

「僕は佐緒里ちゃんとは違う。僕は間接的に母さんを殺したし、さっきだってあの男を本気で殺そうと思った。そういう人間だよ。そんな奴のために、玲さんは自分の人生あきらめちゃっていいわけ?」

「私は……。ただ、拓真と……。」

「玲さんは、僕を佐緒里ちゃんの代わりだと思い込もうとしてる。わかってほしい。僕は佐緒里ちゃんとは違う。玲さんを自分の犠牲にはしたくない。さっきだって、あの男の家についていったのだって、僕を守るために賭けに出たんだよね?負ける覚悟もして…。僕が気づかなかったらどうなってたわけ?玲さんそこまでできる人なんでしょ?」

 ざり、と砂の音が聞こえて、拓真の声の聞こえる位置が低くなる。拓真は砂の上に寝そべったようだ。

「玲さん、僕は玲さんの人生を犠牲にしてまで、一緒に帰りたいとは思わないよ。玲さんは、一人で帰って。今度こそ、自分の人生を余生だとか思わずに、ちゃんと自分のために生きなよ。」

「それじゃ、拓真は?」

 玲の目に涙が浮かぶ。

「僕は島に残る。レノの片腕として、この島で、一生を終えるのも悪くない。レノが帰ってきて、レノの夢のプロジェクトが実現すれば、同世代だってきっとたくさん帰ってくる。島の女の子と結婚だって、できるかもね。そうしたら、この国の国籍だって得られる」

 強がる拓真の言葉が、砂浜にむなしく響くが、玲は反論しなかった。そこから二人は長く黙った。波の音だけが響く、沈黙の時はうつろい、夜がしらじらと明けてくる。

「家に帰りなよ、玲さん。きっとレノが心配してる。」

 夜が明けて、明るくなってあたりを見渡すと、拓真の海辺の家からはいくらか離れた砂浜の上だった。むしろ蒸し料理の小屋に近い。

「サピラは変わり者だから、今日だって頼めば祭りに参加せず、船を出してくれると思うよ。」

 拓真に促されて、玲はしぶしぶ立ち上がる。

「来てくれて、ありがとう。玲さん。父さんによろしく。」

 拓真に言われる。そして拓真はふっと笑った。

「すごい機械持ってるんだね。久々に文明の利器を見たって感じだよ。」

「あれは、拓真が帰らないって言った時に、拓真の声を録音して、大森さんに聴かせてあげようかと思ったんだよ。」

 そう言いながら、玲は袋からICレコーダーを取り出した。

「これを使わずに、拓真と一緒に帰れたらよかったんだけど、そうできないみたいだから、お父さんのために、拓真、何か話してあげてよ。」

「そうだね。ちょっと考えさせて。」

 一度立ち上がった拓真は、またも砂浜に座って、しばらく考えていた。

「いいかな?」

「待ってね。録音するから。」

 玲は機械の準備をする。拓真はふうっと一息ついて、喋りはじめた。

「父さん。僕を心配してくれて、ありがとう。僕は元気にしている。島で、仲間と楽しく暮らしている。父さんも元気でいて。あまり、僕のことを気に病まないでほしい。…それから、玲さんと会わせてくれてありがとう。父さんにも、玲さんにも、またいつか、会えたらいいな。それまで、元気でいて。」

 拓真の声が途切れた。もういい、というように拓真が手を振るので、玲は録音をやめた。拓真はしばらく黙った。

「意外と、たいしたこと言えないもんだね。」

「十分だよ。葉書には、『海の底で、なんとか生きてる』って書いてあった。そんな言葉より、ずっと力強かった。大森さんも、安心すると思う。それに、『またいつか会えたら』って言えるようになった。すごいよ拓真。」

「かっこつけてるだけだよ。あの時と、僕はあまり、変わってない。…でも、父さんが心配しないように、ってちょっとだけ思いやってあげられるようになったのは、玲さんが、僕に優しくしてくれたからかな。」

 拓真は、玲を抱きしめた。

「玲さん、一緒に帰れなくて、ごめん。大好きだ。」

 玲の目から涙がこぼれ落ちる。拓真の背に手をまわして、玲も拓真を抱きしめる。

「いつか、また会おうね、拓真。」

「うん、また、島に来て、玲さん。」

「うん、必ず来るよ。ごめんね、拓真。」

「どうして謝るの。玲さん。決めたのは僕だよ。」

 拓真は、玲の肩を掴んで体を離す。

「今日は、水汲みはソロファに頼むって行っておいて。夕方の祭りには顔を出す。レノと、みんなにそう伝えて。」

「わかった…。拓真。写真、一枚撮らせて。」

「うん。」

 拓真から少し離れて、玲はカメラを構える。

「笑って、拓真。」

 そういう玲の声が涙で震える。手まで震えないように、懸命にこらえて、玲は写真を撮った。カチリと安っぽい音がする。カメラ越しに、拓真は確かに笑っていた。

「ありがとう。拓真。」

「ありがとう玲さん。」

 玲はそのままくるりと背を向けた。涙は頬をつたうが、昂然と顔を上げて、玲は拓真の元から去った。玲の背中に刺さる拓真の視線は、遠く離れてもいつまでも感じていた。

 レノの家に帰ると、レノがもう朝の仕事をしていた。カヴァには二日酔いなどはないらしい。玲を見ると、レノは笑顔を見せるが、少し訝しむような表情になる。拓真は一緒ではなかったのか、と聞かれるので、うなずいて、今日はソロファに水汲みを頼む、と言っていたと拓真の言葉を伝える。レノがソロファを起こしに行くと、ソロファは眠たそうな顔で起きてきた。玲が、水汲みをお願いすると、笑顔でうなずいて、水桶を抱えて飛び出していった。

 レノに、拓真が帰らないことを告げると、驚いて、やや厳しい顔をした。けれど、玲の表情を見て、優しく肩をたたいてきた。

「まだ、時期が来ていなかったのだろう。いずれは拓真も帰ると思う、心配しないで。」

 玲がうなずくと、レノは優しい笑みを見せてくれた。レノの顔を見ていると、収まっていた涙が再びこぼれそうになるので、玲は話題を変える。

「オーストラリアに行くっていう話をしていたけど、いつから行くの?」

 レノの顔に生気がみなぎる。

「祭りが終わったら、すぐに旅立つ。玲がコテージに住んでいた時に、隣にいたオーストラリア人の老夫婦、覚えている?」

 言われて、快活で話好きな老夫婦のことを思い出す。覚えている、と言うと、

「庭師をしていたら、あの夫婦に気に入られて、いろいろと話をするようになった。あの夫の方は、オーストラリアで電力会社を経営していて、いまは一線を退いたようだが、僕の島がまだ無電化であることを話をしたら、力になってくれると言う。それで、技術を身につけに、オーストラリアへ行って、その会社で働くことになった。」

「そう、よかったね。」

「うん。このあたりの島嶼部では、小型ディーゼルの発電機をおいて電気を作っているところがほとんどだけれども、海が荒れたり、さまざまな事情で燃料の供給がストップすると、すぐに停電するなど、問題が多い。それで、太陽光の発電とディーゼル発電を両方やったらどうだろうか、という話をされた。ただ、太陽光発電はトラブルでストップすることも多いが、ほとんどが技術的な問題でストップするらしい。僕が、自分でそのトラブルを解消できるように、さまざまな知識を身につけてきたいと思う。」

「そうか。レノはすごいね。そんなことを考えているんだ。」

「それに、電気が導入されるとなると、当然、電気料金を支払うために安定した現金収入が必要となってくる。やはり、冷凍庫のついた漁船を買って、さまざまな海産物を本島や近隣諸国に売っていくことを考えて行かないとね。たくさん課題もあるけれど、ぼくらには仲間がいるから、一緒にいろいろ進めていくつもりだよ。」

「そうか。レノはやっぱり、島のことを一番に考えているんだね。拓真もそう言っていた。」

 そう言いながら、玲はレノの顔を見つめた。希望に満ちあふれ、それでいて、地に足をつけて、現実的な道を探って行こうとする、聡明な若き指導者としてのレノ。「レノの片腕として、島で一生を終えるのも、悪くはない。」拓真のさっきの言葉は、強がりのようでもあるが、一方でいくらか本音も含まれているだろう。自分は、もしかしたら、余計なことを拓真にしにきただけだったのだろうか。拓真はやはり、島でレノとともに汗を流し、働いて一生を終えることが、彼自身の幸せなのかもしれない。

 玲のそんなもの思いが顔に出ていたのか、レノは再び、玲の肩を慰めるようにたたく。

「拓真のことは心配ない。僕ら家族がついているから。また、機会があれば、彼に会いに来てやってほしい。この数年で、拓真は一番いきいきとした顔をしていた。玲に会えたからだと思う。また来てくれたら、タクも喜ぶよ。」

 そう言って、レノは、玲の両肩をつかんで、じっと玲の目を見て言った。

「タクは帰りたがってる。今回一緒に帰れなくても、次に来たら、必ず帰ると思うよ。僕はそう思う。だから、またおいで。」

 レノの言葉は、とても力強く、それでいて、あたたかな慈愛に満ちていた。玲の目から再び涙があふれ出す。

「レノ、ありがとう。私は、レノと拓真と、アロファやソロファとお母さんに会えてよかった。レノがオーストラリアでの仕事を終えて、島に帰ってくるころには、私もまた、ここに来てみたいな。」

「いつでもおいで、僕らは待ってる。言ったよね、僕らは、離れていても、家族だと。離れている時、僕らのことを思い出すときは、そんな泣き顔じゃなくて、笑顔で思い出して。」

「わかったよ、レノ。」

 タオルで涙をぬぐい、玲は笑って見せる。そこへ、ソロファが帰ってきた。

「泉まで行ってきたよ。」

 と言って、水桶を見せて得意そうな顔をする。

「村の井戸じゃないんだね。」

 玲が驚くと、

「だって、レイは泉の水が好きなんでしょう?」

 ソロファは生意気な笑顔を見せてくるので、玲は声を出して笑って、お礼を言う。そういえば、この島では敬語なんていらない、と拓真は言いながら、拓真自身が、ずっと玲のことを「玲さん」と呼んでいたな、と思う。アロファやソロファでも、「レイ」としか呼ばないのに…。

「私は、午前中には島を出ようと思う。サピラはどこにいるだろうか。」

 レノに聞いてみる。

「サバナに言えば、無線で連絡を取ってくれると思う。」

 レノが言う。拓真を除いたレノの家族で、朝食を摂りはじめた。いつも笑顔のアロファが沈んだ顔を見せている。ソロファが、レノに言われて、拓真の朝食を持って、家を飛び出していく。そのソロファが帰るのを待って、家族の別れの時を持つ。レノやソロファは快活な笑顔を見せているが、母は涙をぬぐい、アロファは家にこもってしまった。

 アロファを追って家の中に入ると、アロファはベッドにもぐりこんでいた。

「帰らないで、ずっとここにいて。」

 くぐもった英語が、ベッドから聞こえる。黙って玲はアロファの背のあたりを撫でた。

「また、必ず来るからね。また会おうね、アロファ。」

 声をかけて、玲は家から出てきた。


 レノが桟橋まで送ってくれた。

「どうやって日本に帰るの?」

「T島まで戻って、そこから、日本に戻るよ。ほかのルートを知らないしね。」

「そうか。T島への飛行機は明日出ると思う。それまで瀬川は島から出さないようにする。もちろん、拓真にも何もさせない。安心して。」

 レノの言葉に、玲は苦笑する。

「瀬川さんのほうが、拓真に近づかないと思うけどね。」

「…そう、何かあった?」

「うん、拓真に聞いて。でも、ありがとう。いろいろ力になってくれて。また、みんなに会いに来る。」

「そうだね。お祭りのときに、またおいでよ。お祭りにはまた僕も休暇をもらって、帰って来ようと思う。」

「また、会えるのを、楽しみにしてる。」

「うん。僕らもだよ。…帰国したら、拓真のお父さんに会うの?」

「もちろん。いろいろ渡さないと。写真や、拓真のメッセージ。」

 レコーダーを出して、拓真の声を再生してみる。その声を聞いて、玲の目に涙が浮かぶ。

「…これ、拓真自身に聞かせてあげれば良かった。」

「どうして?」

「だって、拓真の声、拓真のお父さんの声にそっくりだ。機械を通すとよくわかる。」

「そうなんだね。」

「拓真に言って。拓真の声はお父さんと一緒だって。そう言えばわかると思う。」

「わかったよ。」

 レノと話しているうちに、サピラの船が接岸してきた。いつもの灰色の帽子をかぶって、眼光の鋭いサピラは、無言で玲に船に乗るようにうながす。料金を尋ねると、最初に乗せてもらった価格の四分の一ほどだった。「仲間が世話になったので。」とサピラは短く言う。サピラの好意に礼を言って、言われた料金を払う。

 サピラの船が岸から離れ、島から遠ざかっていくと、レノが桟橋から大きく手を振るので、玲も手を振りかえす。不意に船が揺れる。サピラがいくらか船首の向きを変えたのだ。見ると、桟橋から少し離れてた岸辺に拓真が立っていた。

「拓真!」

 大きな声で玲が叫ぶが、拓真はそれに答えず、じっとこちらを見ているだけだった。

「また会おうね!」

 届くかどうかわからないが、大きな声で玲は叫んで大きく何度も手を振った。レノと拓真の姿は、青い海に挟まれやがて見えなくなった。

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