第八章

 次の日の朝、水汲みから帰り、拓真がコプラ工場に行ってしまった後、瀬川がレノの家の前に立った。

「おい。」

 畑仕事の支度をして出てきた玲に、瀬川が声をかける。黙ったまま、きつい目で瀬川を玲は見据えた。ただならぬ雰囲気を察知したのか、「先に行っている」というような声をかけて、レノの母は畑へ行ってしまった。

「なんのご用でしょうか。」

 玲は低い声で問うた。

「…おまえ、なんであの少年が日本人だと黙っていた。」

「言う必要がないと思ったからです。」

「隠す必要もなかろう。」

「不必要な詮索は結構ですから。」

「やましいことがあるから、隠した。そうじゃないか?」

「違います。」

「あれは不法滞在者だ、そうだろう。…だから、黙っていたな。」

「彼は確かにビザは持っていませんが、それは留学先から誘拐されてきたからです。不法滞在とは、わけが違います。」

「いつ、誰に誘拐されたっていうんだ。」

「…知りません。」

「誘拐されたというなら、なぜこの村にいつまでもとどまっているんだ?」

「だから、そういった詮索は無用に願います。彼はもうすぐ、私と日本へ帰ります。」

「果たしてそう簡単に行くかな。」

 瀬川がにやにやと笑った。

「本島の政府筋に、これこれこういうわけで、ここに不法滞在者がいると通報せねばならん。南の島はそのあたりが鷹揚だと思うかもしれないが、意外にこの国は移民に厳しいぞ。」

「…………。」

「黙っておいてやるから、おとなしく私に雇われろ。あの少年が平和に帰国できるようにとりはからってやることもできる。政府筋に知り合いもいるしな。」

 玲はきつく下唇を噛みしめた。瀬川の言うことが本当かどうかも確かめるすべもない。しかし、瀬川がこのまま黙っているとも思えない。

「フランス語も英語も使えるあなたが、私の助けなどいらないと思いますが。」

 玲はささやかに抵抗をこころみる。

「中国語もスペイン語もしゃべれるがな、それはどうでもいい。調査の詳細を記録するのには、一人では面倒なこともある。ここで日本語が喋れて書ける人間がいるのは便利だ。悪いようにしない、最初に言ったように二千ピナで私にやとわれろ。おまえに拒否する権利などないぞ。」

「…私は今から、お母さんの手伝いに行きます。午後からでよろしければ。」

「畑へは俺も行こう。これも調査の一環だ。」

 ふてぶてしく瀬川が言う。しかたなく瀬川と並んで歩きながら、玲はこの面倒事をどうやって切り抜けようか考えていたが、良い案はすぐには出てこない。玲はため息をついた。

「この島は、サゴヤシは食べるか?木が自生しているのはあちこちで見えるが。」

「どういった形状の食べ物かがわかりませんが。」

「デンプンだ。粉末にしてあり、それを餅のようにまるめてゆでたり、魚と一緒に蒸して食べたりするが。パプアニューギニアの主食だ。」

「見たことがありません。魚は揚げるか、生で食べることが多いようです。」

「そのあたりはフィジーと傾向が近いな。」

 ぶつぶつとつぶやく瀬川。

 まもなく畑に着く。玲はすぐにレノの母の元に向かい、いつものように手伝いを始めるが、瀬川はあちこちに入り込み、カメラで写真を撮っている。そして、はたらいている人々になにやら盛んに話しかけている。目ざわりでしようがないのだが、玲は無視して働き続けた。泥だらけで汗まみれになって、畑仕事を終えると、麻袋にいつものように収穫物を詰め、玲は瀬川は放って帰りはじめた。井戸で芋とともに、自分の汗や泥も落とす。そのあと、いったんレノの家に戻った玲は、一度瀬川に見つからないように、コプラ工場の方へ向かった。

 拓真はまだ仕事中だった。ちらと玲を一度見たが、仕事の手を休めない。しかし、動作の一つ一つが早くなり、仕事を終えることを急いでいるように見えた。黙って後ろに立って、拓真が仕事を終えるのを、玲は待っていた。

 やがて削ったコプラをいつもの場所に置きに行った拓真は戻ってきて、玲の前に黙って立った。

「今日からね、午後からの釣りに付き合えない。」

 玲は話を切り出す。

「どうして?」

 うつむいた拓真が言う。

「大学の先生の、瀬川さんね、あの人の仕事を手伝うことになった。」

「……僕のことを、何か言われた?あの人に。」

「ううん、日本語のできるアシスタントとして、雇ってくれるという話だから…。ギャラも悪くないし。」

「……玲さん、お金に困ってるの?別に無理して、毎日買い物しなくていいと思うよ。」

「母さんにお世話になっているのに、そういうわけにもいかない。両替してきたお金が少ないから、本島までわざわざ両替に行くのが、無駄だと思って、都合いいかなと思って。」

「あの人のこと、うっとおしそうにしてたじゃない。」

「話してみれば、博学で面白い人だよ。さすがにいろいろ詳しいし。」

「そう…。」

 拓真はもう何も言わなかった。一緒にサバナの店に行き、買い物をして帰る道のりも、拓真は無言だった。

「ま、釣りに一緒に行けなくても、日本に帰れば、一緒にいる時間も増えると思うし、気にしないでよ。」

 玲は明るくそう言ってみた。

「そうだね…。」

 拓真が何か察している様子はわかるのだが、それ以上玲は、何も言うことができなかった。

 村に帰ると、瀬川が待っていた。

「どこへ行っていた。」

「買い物です。」

 玲は顔をそむける。

「契約の時間だ。行くぞ。」

 横に並ぶ拓真を見て、にやりと笑った瀬川は、玲を従えて村の中心に足を進めて行った。玲の背中をじっと拓真が見ていることは、振り返らなくてもわかった。

「どちらへ取材に行かれるんですか。」

 一応義理として、玲は聞いてみる。

「ナマコ工場があるだろう。そこへ案内しろ。」

「私も行ったことがないので、大体しかわからないですが…。」

 毎日の畑仕事の後、収穫を家に置いた後、レノの母はまた元来た道を引き返す。畑の隣の、マングローブの横の細道を通り抜けると、そこに工場があるのだ、と前に拓真に教えられた。

 マングローブ林が途切れたころ、ちいさな入り江が姿を見せた。そこにディンギーのような船がつけられていた。船外動力のようなものが取りつけられたその船を操船していたのは、ファウラだった。ファウラが大きな網に入ったなにかを浜に下ろす。村人が群がり、袋の口を開けると、そこからは大小さまざまなナマコが姿を見せた。黒や紫がかったのものから、黄色みを帯びたもの、色はそれぞれ違う。男も女もナマコに群がり、小刀のようなもので口を切り取りはじめた。押しつぶすようにすると、内臓が中からどろりと出てくる。内臓の取り去られたナマコは、再び海水できれいに洗われ、浜辺で焚かれた釜のようなものに次々と入れられ始めた。

 薪から火花がはぜ、釜の中を大きな棒でかき混ぜる村人は大変そうだが、一生懸命吹きこぼれないようにナマコの釜を混ぜつづけている。

「重労働ですね。」

 玲はつぶやいた。

「いまではナマコは希少性が高く、輸出制限をかけている国もあるはずだ。あまり小さなものを取らないように心掛けている国も多い。どれ、ファウラに聞いてみるか。」

 ディンギーを停泊させて上陸したファウラに近づき、いろいろとフランス語で質問する瀬川。手持無沙汰に玲が立っていたら、レノの母が近づき、にっこりと笑って果物の実を手渡してくれた。そういえば、今日は昼に何も食べていなかった、と玲は思い出して、笑って礼を言った。

 工場の片隅に腰を掛けて果物を口にする。さっくりとした触感で、甘い味がしてくる。ザクロに似た味だが、もっと甘みが勝っている。瀬川が玲の元に帰ってきて、「旨そうだな。」と一つつまむ。

「知らん果物だが、旨いな。」

 玲はふっと笑う。

「瀬川さんでも知らないことがあるんですね。南国のことは何でもご存知かと思いましたが。」

「それはあるさ。だからこそ、来る価値がある。」

「そうですか…。」

「それに、お前のような面白い女に会うこともできるしな。旅先で。」

「別に面白くはないと思いますが。」

「おもしろいさ。何を考えているのかわからん女はおもしろい。」

「学者さんはおかしなことを考えますね。」

 ナマコはゆであがるまで時間がかかるようだった。手持無沙汰な瀬川は、いろいろと南国のことを玲に語って聞かせる。

「お祭りの調査だけされるのかと思いましたが、それだけでもなく、いろいろ調べられるのですね。」

「それはそうだ。実際にそこで暮らしている人間を知ってこそ、民俗学というものだ。」

「そうですか。私は理系なもので、あまりそういう方面は、詳しくなくて。」

「仕事は何をしている。」

「食品の研究をしていましたが、事業の縮小整理に遭い、いまは部門が廃止されて無職です。日本に帰ってから、また一から出直しです。」

「そういえば、タピオカがどうこうと言ってたな。」

「はい。キャッサバを見たのは初めてですが…。」

「またそういう仕事をするのか。」

「考え中です。」

 玲は言葉を濁す。

「仕事に困っているなら、紹介してやろうか。」

 瀬川が顔を近づけてくる。

「結構です。」

 玲は顔をそむけて、身体をすこしずらす。

「それより、助手と言うことですが、とくに私は仕事をいただいていませんが。」

「インタビューはすべて録音している。文字に起こすのは帰国してからだ。別に話し相手になってくれればいい。ギャランティはきちんと払う。」

「はあ。」

 ナマコの釜は、中を混ぜる男を交代して、まだゆで続けられている。時々海水を足して、温度を調節しているようだ。

「なかなか大変そうな作業ですね。」

「以前はナマコの収穫量はもっと多かったそうだが、年々減っているそうだ。…国際的にナマコの減少が取りざたされていて、そのうちワシントン条約にかかって、ナマコ漁は禁止されるかもしれない。」

「そうすると、村の現金収入がますます減りますね。」

「そうだな。この規模の島ではコプラの生産もたいしたことはないだろう。ナマコを密漁するか、ほかの手段を考えるか…。キリバスのように鉱物が出ることも考えにくいし、トンガのように農作物を輸出できるような畑も作りにくい。食べ物には困らんだろうが、一度文明を中途半端に知ってしまった人間には住みにくくなるだろうな。…実際、島にはあまり若者がいないじゃないか。あの不法滞在の少年以外、学校に行っている幼い子どもしか見えんぞ。」

 瀬川はにやにや笑う。

「もうすぐ祭りなので、若者もそれなりに帰ってくるのではないですか。」

 玲は話をはぐらかすが、たった一日で村の現状をほぼ見抜いてしまった瀬川の観察眼に驚いていた。

「おまえは、なんでこんな島に来たんだ。」

 瀬川に聞かれる。

「T島で知り合った友人から話を聞いて、島の暮らしに、興味を持ちました。」

「違うだろう。あの少年を迎えに来たんじゃないか?姉か親戚か、そういうところだろう。」

「………私のことを詮索しないでください。」

「それともビーチボーイに騙されてここに来たら、たまたま日本人がいて、そちらに乗り換えたか…。」

「そのどちらでもありません。放っておいてください。」

 玲は立ち上がる。ナマコはもうすぐゆであがるようだ。釜から引き上げられたナマコは、少し冷ましてから、鉄のたわしのようなもので表面をこすられはじめた。玲もレノの母がやっているのを見て、見よう見まねで手伝い始める。表面についているフジツボや石のようなものをはぎ取っていくのが目的らしい。作業をしていると、とりあえず瀬川と話をしなくても済む。瀬川もそれ以上玲のところに近づかず、ファウラと話をしていた。

 表面をきれいにされたナマコは、袋に詰められ、海の砂の中に埋められた。一晩このままにしておくらしい。瀬川に促され、玲は村へ帰った。瀬川につききりになっている玲を見て、レノの母が心配そうな顔で見ていた。

「ナマコの加工の方法も、島々で少しずつ違いがあるが、それより面白かったのが、ここのナマコの作業所は、あのファウラによって、カンパニーの形式を取られていることだ。だいたいどこでも、こういった作業は個人の家で行われることが多いが、よほどファウラの人格が高潔なのだろうな。村全体が一つにまとまっている。」

「そうなんですね。」

「ただ、最初の日に、俺がタバコを渡したら、会うたびにタバコを請求してくるぞ。高潔なのか卑しいのかわからんな。」

 瀬川は顔をしかめる。玲はファウラにあいさつに行くときに、拓真に注意されたことを思い出す。「最初にものをくれる人だと思われると、後々厄介だ。次に会った時もくれる人だと思われる。」玲は苦笑した。

「なにがおかしい。」

 瀬川が不機嫌そうに言う。

「最初に渡すからいけないみたいです。常にくれる人だと思われると、そう教わりました。」

「あの少年にか。」

 玲はまた黙る。

「まあいい。もうすぐ村だ。」

 マングローブの林を抜け、建物が見えてきた。

「これが、俺がファウラに言って寝泊まりさせてもらっている空き家だ。最近一家で島を出て行ったばかりだそうで、なかなか住み心地がいいぞ。おまえも来ないか。」

 瀬川の笑顔が卑しく歪む。

「結構です。今日のギャランティをください。」

 玲はきつく瀬川を見据える。瀬川は黙って約束の金を渡すと、玲の右手を掴んで、

「俺の家に一緒に泊まるなら、この五倍はやろう。」

 とささやいてきた。玲は瀬川の手を振り払って、ふたたび瀬川をにらみつけ、背を向けた。逃げていくと思われたくなくて、わざとゆっくりとした歩調でレノの家に向かう。その背中に向かって、

「明日も来い、水川。」

 と楽しげに瀬川が声をかけてきた。玲はもちろん、振り返らなかった。


 遅くなった洗濯を済ませ、レノの家に帰ると、拓真も帰ってきていた。釣果は無かった。

「仕事、どうだった。」

 拓真に聞かれる。

「別に。話し相手をしてるだけ。それでもお給料はもらったよ。」

「そう…。母さんがどうしたのかって。突然玲さんがほかの日本人と工場に来たから心配している。」

「アシスタントで雇われたって言っておいて。」

「…楽しそうに一緒に果物を食べていたって。親しいのかとか聞かれた。」

「そういうのじゃないよ…。仕事だから仕方ないよ。」

「こんなところに来てまで、仕事する必要あるの?」

「拓真だって働いてるじゃない。工場で。」

「それとこれとは違うよ。」

「同じだよ。」

「そうかな…。」

 拓真は黙った。そのまま静かに夕食が始まった。いつもに比べて、レノの母も笑顔が少ない。ふだんは拓真もレノの母とよく話をしているが、今日は言葉少なだった。子どもたちの声だけが響く食卓になった。

 翌朝の水汲みの時、いつものように迎えに来た拓真は、桶を抱えて歩きながら、

「今日も仕事に行くの?」

 と玲に聞く。

「瀬川さんが今日も助手がいると言うなら。」

「楽しいの、あの人といると?」

「そんなわけないじゃない!」

 思わずきつい口調で言ってしまって、玲は、はっとする。

「…だったら何で行くのさ。ほんとは玲さん、別にお金に困ったりしてないよね。」

「…………。」

 玲は言葉に詰まる。

「でも、勉強にはなるよ。いろいろと島のことやほかの国や島との違いを解説してもらえる。暮らしや風習や。さすがに研究者だな、とは思う。」

「ふうん。」

「せっかく島に来たんだから、いろいろ学んで帰れるのはいい機会かな、とは思うよ。仕事と言うより勉強かな。大学の講義みたいなものだね。」

「そう…。」

 泉までの三十分あまりの道のりを、それからずっと黙って二人は進んだ。泉に着いた拓真は、その日はすぐに水桶に水を満たして、黙ったまま玲を置いて去って行った。

 自分が瀬川といることで、拓真が傷ついているのはわかるのだが、よい解決法も思いつけていない。瀬川がどういう行動を拓真にしてくるのか、予想もつかないのだ。かといって、玲に対する瀬川の行動がエスカレートして来ても困る。玲はもの思いにふけりながら、身体を清めた。

 髪を梳かしていたら、拓真が帰ってきた。

「オイル貸して」

 言われるままに拓真に瓶を渡すと、前日と同じようにココナツオイルを手に取って、玲の髪につけ始めた。毛先にオイルを浸透させて、ゆっくりと玲の髪を梳かしながら、

「玲さんが何を考えているのかわからなくて、僕は困る。」

 と拓真はつぶやく。

「そう…なにも考えてないのよ、たぶん。」

 玲は微笑んで答えた。

「一緒に帰ろうね、拓真。」

「そうだね…。」

 拓真も言う。…いっそ、今すぐ島を出てしまおうか、とも思うのだが、レノの顔を思い浮かべると、そんな思いにためらいが生まれる。傷ついた拓真を何も言わず受け入れ、家族や村の一員となれるように取りはからってくれたレノに黙って島を離れることなど、拓真もきっと望まないだろう。…それに賢いレノなら、瀬川の策を封じる良い案があるかもしれない。

「レノ、早く帰ってくればいいね。」

 思わず玲はひとりごとのように口に出していた。拓真はそれには答えず、黙って玲の髪を梳かし続けていた。


 この日も瀬川と工場へ向かう。レノの母も朝の畑仕事は簡単に切り上げていた。それだけナマコの加工過程において重要な日なのだろう。

 前日、砂の中に埋められた袋の中からナマコが取り出され、ナイフのようなもので綺麗に処理され、再び釜でゆであげられている。

「まあ、ナマコのことは大方わかった。以前に比べて小型化していて、品質も量もそれほどではないそうだが、なにせ高値で取引される。マフィアが絡んでくるほどいまや貴重品だ。絶滅寸前まで獲りつくされるか、禁漁になるかまで、この仕事は続けられるのだろうな。」

 瀬川はそう言って、玲をみてにやりと笑った。

「日本産のナマコは、ことさら高値だそうだぞ。水川も無職なら、日本でナマコでも獲ったらどうだ。」

「あなたに雇われるよりも、そのほうが平和でいいかもしれませんね。」

 玲は言い返す。瀬川はふてぶてしい笑いを浮かべる。

「ま、俺もいつまでも大学にいられるとはわからない。なにせ学生の数が減っていくからな。大学の仕事が無くなったら、おまえとナマコでも獲るか。」

「結構です。あなたとする仕事は、いかなる仕事でもごめんです。」

「そう言うな、今、現に一緒に仕事をしているじゃないか。」

「これは仕事とは言えません。」

 玲は顔をそむける。不気味な笑みを浮かべている瀬川が、なにをたくらんでいるか分からず、途方に暮れる。やがて茹で上げられたナマコは、火の上にかけられた網に並べられ、炙られはじめた。いよいよ乾燥が始まっていくのだろう。

 瀬川はそれから村に戻り、井戸のまわりや村人の暮らしなどを精力的に取材を始めた。玲はただ黙って、そのそばに立っているだけだった。

 瀬川から離れた後、玲は明らかに村の空気が変わっているのを感じた。いままではずっと拓真のところにいた玲が、今度は瀬川とずっと一緒にいるのだ。しかも、レノの家には変わらず居すわりつづけている。おかしな眼でみられても仕方ないだろう。ファウラと拓真が用意してくれた村のトイレだが、結局あまり使わなかった。それを使用すると、いかにもよそ者といったふうに見られそうで、玲は、なるべく村の女たちが用を足すのと同じような場所を使用していた。瀬川は気にせず使っている。瀬川は村人の暮らしにずかずか入り込み、フランス語で陽気にあいさつをして、写真を撮っていき、気前よくものを与える。それが瀬川のスタイルなのだろうが、そのそばに、玲が黙って立っている姿はいかにも不自然だ。

 いままで笑顔で話しかけてくれた村人たちが、すこし距離をおくようになっている。レノの家に帰っても、レノの母も無口だ。拓真も言うまでもない。

 次の日の朝の水汲みの時、拓真はいつものように窓の外から声をかけてくるのだが、この日は声をかけずに一人で泉に行ってしまおうとしていた。気配で目覚めた玲は、黙って後を追った。水桶を抱えた拓真がぽつんと言う。

「玲さん、噂になってるよ。」

「そう…。ただのアルバイトなんだけど…。」

「もうやめちゃえばいいのに。」

「もう少しだけ…。」

 玲の気持ちにも焦りがあるのだが、現状を打破するだけの策も浮かんでこない。この日の拓真は、玲の髪にも手を触れようとしなかった。

 この日も瀬川は畑に現れた。農作業の間は口をひらかず、写真を撮っていたが、井戸のところに行くとまた玲のそばに来て、

「今日は工場には行かない。祭りの取材をするぞ。」

 と言った。玲は黙ってうなずいた。祭りの行われる広場に、瀬川と玲はファウラに案内される。ファウラに煙草を渡しながら、いろいろと質問する瀬川。その間、玲は棒立ちのまま、あちこちを眺めていた。まだただの空き地で、何も準備はされていない。ここがどのように祭りで変化するのか想像もできない。

 ファウラはひととおり瀬川と話をすると、ちらと訝しげな眼を玲に向けて、広場をあとにした。

「ここに大きな精霊の飾りを作って、それから踊るらしい。そのあとはカヴァを飲むのだろう。あそこにカヴァ小屋がある。」

「カヴァ?」

 聞きなれない瀬川の言葉を、玲は聞き返す。

「祭りの時に男たちが飲む飲み物だ。このあたりの島々では盛んに飲まれる。カヴァの木という樹木の根から作られる。聞いたことがないか?」

 そう言われて拓真の言葉を思い出す。

「…なにか泥水のようなものを飲むとか言っていました。酒のような麻薬のような…とか。」

「そうだな、まるで見た目は泥だが、別に泥が入っているわけではない、しかし製法はすごいぞ。」

 にやにやと瀬川は笑う。

「カヴァの木の根をすべて泥を落として綺麗にして、それを決まった役割の男が、口に入れて噛む。根は固いので、二十分から三十分ひたすらに噛み続ける。咀嚼してやわらかくなったものを器に吐き出して、水を足す。それを布でこして大きな器に入れて、みんなで回し飲みだ。独特の酩酊状態に陥る。いわばトランスするんだ。飲みながら瞑想する人間もいれば、ひたすら飲み続ける人間もいる。どうだ、興味があるか。残念ながら、女は飲めん。」

 瀬川は楽しそうに言う言葉に、玲は絶句する。人が口から吐き出したものを、また口にすることは、日本の常識からは考えられない。「玲さんは女で良かったよ、あれ、飲まなくてすむもんな。」と拓真が言っていたが、確かにその通りだ。拓真も憂鬱そうに言っていた。それを口にする拓真は、この島で生きていくために必死だったのだ。拓真が村人に愛されているのは、レノが弟のように可愛がるだけではないだろう。拓真自身がこの村になじもうとしてきた悲愴な努力の跡が、この話からもうかがえる。

「…瀬川さんは、それを飲まれたことがあるのですか?」

「ああ、フィジーなど観光化された国だと、機械で粉末にしたものを、誰にでも飲ませてくれる。いわば麻酔のようなものだな。視界がゆがんで真っ直ぐ歩けなくなり、手に力が入らなくなる。わけのわからないことをしゃべりたくなる。俺が島の男なら、おまえのような女に飲ませるがな。乱れたお前が何を言い出すか、見ものじゃないか。」

 下卑た笑いを見せる瀬川を、玲はにらみつけるが、瀬川は一向に意に介さない。

「どれ、村に帰るか。」

「私は買い物に行きます。ギャランティをください。」

「もう帰るなら、今日は半分だ。」

「それで結構です。」

 瀬川から金を受け取ると、玲はサバナの店への道へ急ぐ。もうどのみち拓真は桟橋付近にはいないだろうが、買うべきものはさっさと帰って、拓真のいる海へ急ごう。朝、傷ついた顔を見せていた拓真が気になる。

 サバナの店で、いつもの買い物をしていると、サピラの船がこちらに向かっているのが見えた。気づくのが遅れたので、誰が乗っているのかが、玲の目にもすぐに見えた。レノだった。

 笑顔で手を振りながら、玲は桟橋でレノを待った。接岸された船からおりてきたレノは驚いた顔を見せた。まだ玲が島にいたことが予想外だったようだ。

 サピラとサバナの兄妹にあいさつをしたレノは、そのまま村へ玲と向かった。拓真はどうしているかと聞かれたので、祭りを終えたら、ともに日本に帰るつもりだと伝えた。レノは、ほっとしたような表情を見せた。

「拓真がいなくなるのは寂しいが、彼のことを思えば、故郷に帰るのが一番いい。」

 レノはそのようなことを言った。玲は、瀬川の話をレノに切り出した。一通りのことを聞き終えて、レノは厳しい顔をした。

「拓真は村の皆に愛されている。彼を不法滞在者として扱うことなど、村の住人には考えられないだろう。ファウラも同じ意見だと思う。ビザの問題は難しいが、なるべくなんとかできるよう、自分も考えてみる。瀬川はさっさと退去してほしいが、玲と拓真が帰国するまで村に引き留めておくのも一つの手段としてはありではないだろうか。…ただ、玲はもう瀬川のもとで働かなくていい。自分がなんとかしよう。」

 レノの力強い言葉に、玲はほっとした。

「拓真はこのことを知っているのか。瀬川に脅かされていることを。」

 レノに尋ねられる。

「彼には言っていない。あまり耳に入れたくないので。」

「…僕は拓真に話したほうがいいと思うが、玲がそう言うなら、僕もそれを尊重しよう。」

 レノはそう言ってくれた。島でのレノは、勤勉な庭師としての顔ではなく、まぎれもなく次世代の島の長としての雰囲気を漂わせていた。村に入ると、その様子はいよいよ確かなものとなった。満面の笑みで村人に迎えられるレノ。レノはひとりひとりの肩を叩いて、労をねぎらっているようだ。レノの周りで自然に歌が始まり、女たちは踊りはじめた。それをにこにこと眺めるレノ。レノといるだけで、玲にも村人がいろいろと笑顔で声をかけてくる。この二日間の他人行儀な村人の接し方がうそのようだ。

 瀬川がじっとこちらを見ているのに気がついた。玲は黙って瀬川のもとへ近づく。

「もう、明日からあなたのもとで働きません。」

「それが何を意味するのか、おまえ、わかっているのか。」

 瀬川に睨まれるが、もう玲は動揺はしない。

「もう、決めたことですから。」

「…あれがおまえの本命か。今日はひどく急いで帰ったと思ったら、そういうことか。」

 レノを顎で指される。玲は黙っていた。

「堂々としたもんだな。まるで酋長か大統領の風格だ。所詮、おまえも虎の威を借るキツネということだ。女狐め。」

「なんとでも、おっしゃってください。」

 玲は冷たい視線を瀬川にくれて、レノのもとに戻った。

「瀬川に仕事をやめることを言った。」

 レノに報告をする。

「それでいいと思う。家に帰ろう。みんなに早く会いたい。」

「そうだね。」

 レノと玲は肩を並べて、レノの家に向かった。後ろから瀬川が見ているのはわかったが、もう玲はなにも気にしなかった。レノの家の前で、玲は言った。

「拓真は海にいると思うので、私は拓真のところに行ってくる。お母さんとゆっくり話をしてきて。」

「わかった。拓真にも早く帰ってくるように言ってくれ。」

「伝える。」

 海に向かった玲は釣竿をいつものところで垂らしている拓真を見つけて、駆け寄った。

「今日は早いんだね、玲さん。」

「うん、瀬川さんの仕事をクビになったから、もう行かなくて済む。」

「そう、良かった…。」

 拓真はまだ、玲の方をを向かないが、あきらかにほっとした様子を見せた。

「もうひとつ、いいことがあるよ。拓真。レノが帰ってきた。」

「ほんとに!」

 拓真が勢いよくこちらを振り向く。玲の表情を見て、一瞬動きが止まるが、黙って釣竿を片付けはじめた。

「レノにはいろいろ話があるから、早く帰らなきゃ。」

「そうだね。」

 レノの帰郷で、いよいよ拓真の帰国が現実味を帯びてくる。玲は軽い足取りで、拓真とともにレノの家に向かった。

「レノ!」

 扉を開けて、拓真が叫ぶと、母と話をしていたレノが笑顔で振り返った。笑顔で抱き合う二人は、ほんとうの兄弟のように玲には見えた。拓真とレノは、なにか話をして、うなずきあう。

「今から、祭りの準備をしてくる。ファウラのところにいる。玲さんは母さんの手伝いをしていて。」

 白い歯を見せて、拓真が言う。ひさびさの拓真の明るい笑顔に、玲もほっとする。

「じゃあ、そうさせてもらうね。」

 祭りが近いと言うので、子どもたちも早く帰ってくる。だが、すぐに踊りの練習だと言って、外に飛び出して行ってしまった。言葉の通じないレノの母とふたり、家に取り残されるが、レノの母の表情も打って変わって明るい。レノの帰郷が、村に、家に、希望を与えている。玲は胸が熱くなる。…やはり、レノの帰郷を待っていて良かった。拓真の帰国で家族に与える寂しさを、最小限に抑えることができる。

 織物や洗濯、炊事の手伝いをしながら、家族の皆が帰るのを、玲は待った。

 賑やかな夕食となった。レノの母は精一杯の腕を振るったようで、夕飯はいつになく豪華だった。中華料理のような炒め物も出てくる。

「こんな料理も食べるんだね。中華みたい。」

「ナマコディーラーが家族で住んでいたころ、中国人の奥さんが村に広めたらしいよ。」

「そうなんだね。ほんとうに中華料理なんだ。」

 玲と会話する拓真も楽しそうで、快活さを取り戻している。夕食後、玲は拓真を送っていく。

「レノが帰ってきて良かったね。」

「うん、それももちろん嬉しいけど、レノと一緒に玲さんも僕のところに帰ってきてくれたみたいだ。…ずっと瀬川さんと一緒にいる玲さんが、何を考えてるか分からなくて、僕、不安だった。」

「心配かけてごめんね。もう大丈夫。あの人と働くことはもう無いよ。」

「だったらいいんだけど…。」

 拓真の言葉が途切れる。玲は拓真に、祭りの準備のことを聞いてみる。大きな像を出してきて、それにいろいろと飾りをつけていくのだと説明してくれた。もうすぐ雨季になるから、スコールが頻繁に降りはじめる。勢いが強くて、日本の傘など穴が開きそうなほどの強い雨だ、と拓真は説明してくれる。

「お祭りになれば、みんな帰ってくる?」

「そうだね、レノの仲間も帰ってくる人が多いと思うよ。同世代に久々に会えるね。…すぐにお別れになるけど。」

「女の子たちも帰ってくるね。」

 玲が笑いながら言うと、拓真はため息をついた。

「女の子が家まで来ると面倒だなあ。お祭りの夜は玲さんが一緒にいてくれるといいんだけど…。」

「そうだねえ。まあ、自分で断りなよ。」

「ちぇっ。」

 ふくれる拓真の顔は幼く見える。瀬川がどう出てくるか、一抹の不安は残るが、レノがもたらしてくれたひとときの平和に、玲は浸った。

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