第六章

拓真の家の階段を上がるとき、やっと拓真の手は離れた。狭いはしご状の階段を拓真が先に上がる。うつむいたまま、家の中心に拓真は座り込む。その正面に玲は座った。

「あの年、母さんが死んだ年、家の中はめちゃくちゃだった。」

 拓真は語りはじめる。

「母さんは、病気を発症してから、少しずつ良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、どんどん症状が進行していった。」

「うん。」

「やがて、母はスイッチが入ると、刃物を振り回すようになった。奇声をあげて…。」

「そうだったんだね。」

「母は、僕を殺したいのだろうか、そう考えるようになっていったんだ…。僕も少しずつ、病みはじめていたのかもしれない。」

 玲は、黙ったまま、拓真の言葉を聞いていた。

「鋏は、母の眼の届かないところに隠すようになった。母はもう、調理をできるような状態じゃなかったから、宅配弁当をお願いするようになっていたし、生活に必要ではないって僕が判断して、台所の包丁は全部捨てた。」

「そうだったんだ…。」

「けれど、少しずつ、生活が追いつめられて…。父さんはなかなか帰ってこないし、母と二人きりの空間で過ごす時間が長くなるにつれて、僕は、だんだん母との時間が荷が重くなっていったんだ…。」

「……当然だと思う。」

玲は言った。玲の言葉に構わず、拓真は話を続けた。

「僕は、あの日の前日、真新しい包丁を買ってきた。切っ先の尖ったのを選んだ。」

「…………。」

「僕が学校に行く前、まだ母は布団の中にいた。その間に、台所の包丁立てに、僕はその包丁を収納して…。きっと、母はそれを見つける。確信して学校に行った。」

「…………。」

「僕は、覚悟していた。学校から帰った瞬間、僕は刺される。それでもいい、ここから逃れられるなら…。そう思って、深呼吸して、玄関のドアを開けたんだ…。」

 拓真の声は、低く、低く沈んだ。

「母が刃物を向けたのは、自分自身だった…。その時、悟った。僕は、自分が死にたかったんじゃない。母を殺したかったんだ。母を殺したのは、僕だってね……。」

 拓真の声は途切れた。

「だから、僕、帰れないんだ…。帰りたくてもね……。」

 

 拓真は再び、顔を伏せて嗚咽した。玲は立膝で一歩、前に進んでから、その背をそっと撫でた。

「拓真は悪くないし、殺したとか思いつめないほうがいい。…お父さんも反省していた。拓真になにもかも押し付けすぎて、自分が妻に向き合わなかったって。そのせいで拓真を壊したって…。」

 泣きじゃくる拓真の背を撫でながら、玲は言葉を続けた。

「…拓真が包丁を買ってこなくても、結果はこうなってた。私はそう思うよ。あまり気に病まなくていい。」

「…そうじゃない、僕が明確な殺意を母に抱いた、そのことが問題なんだ。」

「追いつめられてたら、誰でもそうなる可能性がある。私でもそうなるかもしれない。こんなことは言いたくないけど、大森さん…お父さんにも責任があるよ。申し訳ないとか思わないほうがいいよ。」

「父さんは……。そうするしかできなかったと思う。今ではわかる。」

 拓真は顔を上げて、涙をぬぐって、開かれた窓のほうへ目をやる。そこからは青く広がる海の一部が見えた。

「父さんは……もともと母さんを愛していなかった。よく離婚しなかった、と思う。」

「…どういうこと?」

 拓真は一度、言葉を切って、再び語り始めた。

「僕が小学校のころの母さんは、ちょっと神経質なところはあるけど、穏やかな人に見えた。…でも病気を発症して、一度入院して、退院した後は、がらっと人格が変わっていた。」

「どんなふうに。」

「…一見、妄想の症状は治まっていて、普通に生活しているように見えたけど、まるで人が違っていた。これが母さんか、別の人じゃないか、って思えるぐらい。」

「…それも症状の一つなんじゃないの?」

「そうかもしれないけど、その時の僕には、変わってしまった母さんが、怖かった。妄想におびえ続けている母さんのほうがましだった。」

「…どうして怖かったの?」

「母さんと二人で夕食を取ってると、『あの人、遅いわね。』とか言い始める。父さんのことなんだけど、僕の前で、父さんのことを『あの人』なんて言ったことないからびっくりした。『仕事でしょ?』って僕が言うと、『どうだか…。』って皮肉にニヤッと笑って、また黙々と食事を続ける。」

「前は、そんな人じゃなかったんだね?」

「うん、覚えてる限り、『おとうさんは、私たちのために頑張ってくれてるから、いつも遅いのよ』って優しく言ってくれるような人だった、と思う。」

 再び、顔を伏せて、拓真は言った。

「退院した母さんは、母さんじゃなくて、ただの女になってた。」

「…………。」

「ある時は、こう言った。『あなたが出来てなきゃ、あの人、私と結婚してないと思うわ。』ってね。そして、ニヤッと笑ってこう言った。『作戦、成功したわね。』」

「…病気よ、病気がそう言わせてたんだと思う。真に受けちゃダメ。」

「……そうかもしれない。きっとそうだったんだと思うし、そう思いたい。でも、ある日言われた。『あの人、お人よしね、あなたが本当に自分の子かもわからないのに、疑いもしていない。』ってね。」

「………きっと、それも真実じゃない。病気が言わせてるだけだよ、信じちゃ駄目。」

 充血した目で、拓真はキッと睨むように玲を見る。

「玲さん、どう思う。最初に僕に会ったとき、父さんに似てるって思った?」

「…………。」

 最初に出会った日を思い返す。…確かに、あまり似ていないと思った…でも。

「笑い方が、似てるって思ったよ。」

「…思い込みだよ。目は?鼻は?口元は?輪郭は?どこか僕、父さんに似てる?」

 拓真の言葉の鋭さに、玲はたじろぐ。 

「……僕はね、母さんにもちっとも似ていなかった。いったい僕は誰に似てるんだろうって、子どもの時、不思議に思ってた。周りから言われるからね。お母さんといるときは『お父さん似なのかな?』、父さんといるときは、『男の子はお母さんに似るって言いますよね。』とかね。一緒にいるときに『そっくりね』なんて、一度も言われたことなかった。」

「………そういうことだって、あるとは思うけど。」

「母さんの言葉で、すべてが腑に落ちた。なぜ父さんが、あまり病気の母さんを顧みないのかも、なぜ、仕事にかかりきりであまり家にいないのかも…。」

「そんな疑い、大森さんは持ってなかったように見えたけど…。」

 玲は思い返す。

「少なくとも、お母さんが亡くなって、拓真が学校に通えなくなったとき、拓真が留学したいって行ったら、土地を売ってまでその費用を捻出してくれたり、一緒にコーディネータにあって相談してくれたりしたんでしょう?父親だと思ってるからこそ、そこまでしたんじゃないの?」

 玲は思い出しながら語る。

「…そうかな?罪悪感じゃないかと思うけど。」

 拓真は下を向いてぼそぼそ言う。

「母さんが死んだあと、父さんはそれまでの冷たい態度が一変した。とても優しい父親になったように見えた。でも、それは、罪悪感から来るものだと思う。自分が妻を見殺しにして、そのせいで僕が壊れて…その罪悪感に苛まれたんじゃない?」

「…………。」

 反論する言葉がとっさに出てこない。玲は黙る。

「じゃあ、なんで、父さんじゃなくて、玲さんが僕を探しに来るの?しかも、玲さん言ってたよね。別に父さんに頼まれてきたわけじゃないって。」

「…そうだけど。でも、拓真がハワイで行方不明になった時は、大森さん、探しに行ってたよ?」

「だったら、なぜ今は探さないの?生きてるってわかったら、むしろ会いたくなくなったんじゃない?…父さん、別に僕を探す気、無かったんじゃない?」

「そうじゃ、ないと思う…。」

 玲はあの時の苦悩に満ちた克哉の顔を思い出す。いくらここで自分が克哉の弁護をしたところで、拓真の猜疑心は消えないのではないか。

 二人の沈黙の中、波の音だけが響く。この家に入った時間よりも潮が満ちて、海が迫ってきているようだ。

「今日は帰って。」

 うつむいたまま、小さな声で拓真が言う。

「夕飯には行けない。母さんにそう言っておいて。」

 悩んだ末、玲は黙って立ち上がった。今度は拓真も引き止めなかった。出口から出る前、一度拓真のほうをちらりと見たが、拓真はそのままの姿のままだった。


 レノの家に帰って、アロファを通じて、拓真がきょうは来ないことを告げると、レノの母は頷いて何か言った。特に驚いた様子もなく、普通に受け止めているようだった。そういうことが時々あるのかもしれないと、レノの母の態度からは思わせた。

 夕食が終わると、レノの母が何か言い、ソロファがいくつかバナナの葉の包みを持って家から飛び出していった。きっと拓真の元に届けられるのだろう。レノの母は、何か一言二言玲に言って、にっこりと笑って肩のあたりを慰めるように撫でてくれた。

「心配しなくてもいい。」

 そう言われたような気がした。きっと、拓真のことを考えて沈んだ表情をしていたのだろう。玲は気を取り直して、ソロファが帰ると、きょうもあやとりを子どもに見せてやる。ソロファに使い終わった不要なノートをもらって、折り紙にも挑戦してみる。鶴やスズメやハトなど、鳥ばかり作ってみる。その鳥を持ったアロファとソロファがそれぞれ鳥の鳴き声をまねるが、それはどう聞いてもスズメやハトではない、聞いたこともない鳥の鳴き声で、それが異国にいることをしみじみと思わせる。やがて寝支度をして、玲は眠りについた。


 朝になると、やはり拓真は玲を迎えに来た。今まで水汲みの際は快活な表情だったが、今日は朝から沈鬱な顔をしている。

 黙ったまま歩く拓真に、玲は話しかける。

「…とりあえずさ、お父さんのことは置いておいて、拓真は日本に帰ってくればいい。お父さんには会いたいときや必要な時に会えばいい。無理に一緒に暮らすこともないでしょう?」

「………。」

 拓真は黙ったまま水桶を持ち直す。

「拓真は日本のこと、懐かしんでたじゃない。レノに枕草子なんか教えたり、私に日本の歌、歌わせたり。本、読みたがったり。」

「…………。」

「帰りたい思いがあるなら、それは大事にしてもいいと思う。お父さんのことは、帰国後に考えればいいじゃない。」

 水場につくまで、拓真は無言のままだった。拓真が水浴びをしている間、玲は持っている文庫本に目を落とした。

 不意に上半身裸の拓真が玲の目の前に立った。玲が目を上げると、拓真は水浸しの体のまま、玲に抱きついてきた。文庫本が泉に落ちた。

「玲さん、帰国しても、僕と一緒にいてくれる?」

 拓真の体が、細かく震えていた。濡れた拓真の背を、抱きしめられたまま、そっと玲は撫でた。


 帰り道、拓真は目に見えて明るくなっていた。

「僕、島に来て、体力だけは自信がついたから、日本に帰っても、肉体労働系の仕事なら、割と大丈夫そうな気がする。学歴中卒になっちゃうけど、身体使う仕事なら、働きながら資格取っていく感じでいいよね?」

「いいんじゃない、それも。」

 玲は微笑みながら答える。

「小さいとき、僕、大型重機とか好きだったんだよね。クレーン車とか。パイルドライバーとか。ああいうの使う仕事って、ちょっと憧れてた。そういうのもいいよな…。」

「そうなんだね。私も施設にいるとき、小さい男の子たちが見たがるから、工事現場とか、よく見に行ってたよ。暑い中、何時間でも結構見るんだよね。男子は、好きな子は好きだよね、ああいうの。」

「玲さん…僕を子どもだと思ってない?」

 拓真が拗ねると、より少年らしい顔になる。

「まあ、思ってる。まだ未成年だし…。」

 冗談のように玲は言う。

「ひどいな…。日本に帰れば、来年からは選挙権あるよ。…島じゃ、義務教育終えたら、大人扱いされるのに、日本は遅いよね、大人扱いされるの。二十代でもヒヨッコ呼ばわりされたりするんでしょ?」

「そうだね…。」

 玲は苦笑する。

「二十代前半の新卒なんて、まだまだ使い物にならないみたいな言い方されるね。…やっと社会人らしくなってきたな、と自分で思ってた頃に、会社が傾いて…。」

「…そっか。玲さん、何の仕事してたの?」

「植物性タンパク質を利用するダイエット食品の基礎研究。ま、つまんない仕事だったよ…。私にとってはね。マウスに、どのタンパク質を与えると太りやすいとか太りにくいとか…どの配合にするとより効果が出るかとか…。」

「理系だね…。」

「そうだね…。ほんとはそういう仕事がやりたかったわけじゃないんだけど…。」

 玲はため息をつく。

「看護師になりたかったんだっけ?」

「そうだね…。」

「…なればいいじゃん、今から。」

 え、と玲は目を上げて水桶を抱える拓真を見る。

「今さら?」

「今さらって、全然玲さん、若いと思うよ。」

「だって、学費もかかるし…。」

「父さんから出させなよ。」

 拓真は笑いながらそんなことを言う。

「はい、お望み通り息子を探してきました、帰国させました。それの報酬くださいって感じで出させたらいいじゃん。」

「いやいや、そんなことしたくないよ。そんな目的でここに来たわけじゃないし…。」

 玲が否定すると、拓真がニヤッと笑う。

「じゃあ、後で返しますっていう形で借りたら?返さなくても文句言わないと思うよ。あの人、土地売って無駄に金持ってるよ。結構な高収入だし。」

「悪いこと考えるんだね…拓真。」

 玲はあきれる。

「…で、帰国したら、一緒に住もうよ。」

 拓真は言う。

「イヤだよ。なんで一緒に住むのよ。」

「え、家賃シェアしたほうが安上がりでしょ?僕、働くし…。玲さんまた学生になるんだったら、生活費厳しいでしょ?」

「困ったな…。」

 玲は本気で悩む。こうなることは島に来るまで、予想してなかった。

「…拓真は若いんだし、日本に帰ったら、いっぱい良い出会いがあると思うから、こんなおばさんと一緒に住むことないよ。」

「玲さん、別におばさんじゃないでしょ?まだ二十七なんだし…。」

「十九歳に比べたら、全然おばさんだよ…。」

 玲はため息をつく。

「それに私、恋愛とか結婚とか、そういうのは一生無縁なつもりで生きてきたから、誰かと一緒に暮らすとか、思ってもみなかったな。」

「…なんで一生無縁だとか思ってるわけ?」

「…社会の片隅で、ひっそりと自立して、誰にも迷惑かけずに生きていくのが私の希望だったんだけど。」

「意味わかんないな…。なんで玲さんは一人で生きていきたいの?」

「………佐緒里を見送ったら、あとは私の余生だと思ってたから、かな…。それだけでもない、鉄仮面て言われてた昔から、なんとなくそう思ってた気がする。相変わらず、そこに理由は無いけど。」

「僕は玲さんと一緒に生きていきたいな。」

「日本に帰ったら、拓真も、気が変わるよ。」

 不意に拓真が立ち止まって、水桶を乱暴に下に置く。水桶は揺れて、少し水がこぼれる。

 拓真はまた玲を抱きしめる。

「嫌だよ!僕から離れないでよ!玲さんがいないと、僕帰れないよ!」

 玲はまた、拓真の背を撫でながらため息をつく。特殊な状況下で拓真を依存させてしまっているが、ここで突き放すのも得策ともいえない。

「わかったよ…拓真。帰国したら、とりあえず一緒に暮らしてみよう。…友人としてね。」

「友人として…?」

「うん、今はそうとしか思えないから…。」

「ずるいよ、玲さんは…。」

 拓真は抱きしめながらつぶやく。

「ごめんね、拓真。」

 玲はささやいた。


 海辺で釣りをしながら、

「玲さん、免許、持ってる?」

 と、拓真に聞かれる。

「持ってるけど、ペーパードライバーだよ。車無いし。」

 玲は答える。

「僕、電車乗れないって聞いてる?」

「うん。」

「…やっぱり何でも知ってるね…。」

 拓真はため息をついて言葉を続ける。

「電車乗るより、僕、免許取って、自分で好きに動けたほうがいいかな、と思って。」

「それもいいかもね。」

「あと、都会に住むのは嫌だな。島暮らしに慣れちゃったから、そこそこ田舎がいい。…田舎にも看護学校あるかな?」

「…さあ、探せばあるかも。」

「あんまり田舎じゃ、僕、職が無いかな…。」

「どうだろう…若者がいないから、逆に貴重かもよ?」

 玲は気休めを言ってみる。どちらにしろ、自分でも想像がつかない。

「豚や鳥がしめられても、釣りができても、ココナツ削れても、日本じゃ何の役にも立たないね。僕、仕事とかできるのかな…。」

「今から覚えればいいよ。まだ若いんだし。私より全然。」

「子ども扱いしないでよ…。」

 拓真は顔をしかめる。

「そういうわけじゃ…。」

 玲は言葉に詰まる。


「…ま、いいや。アルバイトでもなんでも仕事覚えて、資格取って、少しずつ進んでいけばいいよね、玲さんが側にいたら、僕、何も怖くない気がする。」

「…………。」

 拓真の言葉に、玲はしばし考え込む。

「ね、拓真、島と違って、日本に帰ったら、悪い人いっぱいいるよ。簡単に人を信じちゃ駄目だよ。」

「……どうして?」

「……だって、出会って四日目で、私と一緒に住む話持ち出すほど、拓真は人を信じやすいでしょう。ちょっと心配で。」

「玲さんだからだよ…。」

「違うよ…。拓真は重症のホームシックだ。同じ日本人てだけで、私を信じ込んでる。」

「違うよ、玲さんは特別だ……。玲さんこそ、どうして僕を信じてくれないの?」

「信じる信じないじゃなくて、私は拓真が心配だ。」

「…………。」

「ね、私は拓真が心配だから、帰国しても一緒にいる。約束する。でも、拓真が自立して生きていけるようになったら、いったん離れよう。」

「………嫌だ。」

 釣竿を握り締めて、拓真は言った。

「玲さんは僕と一緒にいるんだ。ずっと一緒に。いったん離れるとか絶対嫌だ。…玲さんが言うなら、友人でもいい。どういう形でもいいから、一緒にいてほしい。」

「………わかった。じゃあ、拓真がもういいって思うまで、一緒にいるよ。」

「もういい、なんて思うわけない。」

「………拓真が必要なだけ、一緒にいる。」

「玲さんはずっと必要だ。」

 駄々っ子のような拓真の言葉に、玲はため息をつく。

「拓真ってさ、…佐緒里と同じ生まれ年なんだよね…。」

「だから何?弟にしか思えないって?」

「そういうわけじゃないけど、佐緒里に出会ったころを思い出す。思い込みが激しくて、絶対離してくれない感じが佐緒里に似てる。…また佐緒里に会ったみたい。」

「でも、会いに来たのは玲さんのほうじゃん。僕に会いたかったんでしょ?そういう運命なんだよ。僕たち。」

「…でも、佐緒里と拓真は違う。拓真にはこれからの未来がある。私は、拓真の未来を縛りたくない。」

「…僕は逆だ。ずっと玲さんに僕を見ていてほしい。ほんとは僕は、日本に帰りたいんじゃないのかもしれない。玲さんが日本に帰るっていうから、僕はついていきたいだけかも。」

「拓真は、島に残りたいの?」

「玲さんも島にいてくれるなら、別にそれでもいい。」

「………。」

「僕が、玲さんを必要としているように、玲さんにも、僕を必要としてほしい。」

「………。」

「そういう意味では、島にいるほうが対等でいられるかもね。玲さん、僕がいないと島で暮らせないでしょう?」

「………。」

「日本に帰っちゃうと、その力関係が崩れちゃうな。それが怖い。今までみたいに僕を頼ってほしい。」

「………。」

「どう?僕、ホームシックじゃないでしょう?別に島でずっと暮らしてたっていいよ、玲さんもいるなら。あの海の家で、玲さん、僕と一緒に暮らすっていうのはどうかな?」

 玲はふうっと息をついて、目を海にそらした。

「私、何しに来たんだろ…。」

「ごめん、困らせたね…。」

 拓真は黙った。それから長い時間、二人は黙り、数匹の魚を拓真が釣り上げた後、二人は浜を引き上げた。拓真は今日も、玲の片手を掴んだまま、黙ってレノの家への路を歩んだ。

 いつものようにレノの家で夕食を済ませ、名残惜しそうに拓真が帰った後、寝床で一人になり、玲は悩む。拓真の帰郷したいという思いが、自分の出現で奇妙に歪んでしまった気がする。玲にとっては、拓真の激情は一時のものにしか思えない。ベッドで玲は苦笑する。二十七歳という半端な自分の年齢がいけないのだ。もっと若ければ、拓真と一緒に迷わず前に進む道を選ぶかもしれないし、もっと年齢を重ねていたら、拓真が玲に抱く思いも違ったものになっていただろう。玲はまた、それ以上考えるのをやめて眠りについた。


 次の日の海で、釣竿を持つ拓真の横に、玲はいつものように座り、

「今日は、拓真に歌、歌ってあげる。前に歌った歌の続きを思い出した。」

「うん。」

 素直にうなずいた拓真の横で、玲は「椰子の実」を歌い始める。


「名も知らぬ 遠き島より

流れ寄る 椰子の実一つ


故郷の岸を 離れて

汝はそも 波に幾月


旧の木は 生いや茂れる

枝はなお 影をやなせる


われもまた 渚を枕

孤身の 浮寝の旅ぞ


実をとりて 胸にあつれば

新なり 流離の憂


海の日の 沈むを見れば

激り落つ 異郷の涙


思いやる 八重の汐々

いずれの日にか 国に帰らん」


 歌い終わった玲は、「島崎藤村の詩だよ」と拓真に言う。

 拓真はしばし黙る。

「玲さん、僕をどうしてもホームシックにしたいみたいだね。…違うって言ったでしょう。僕はただ、玲さんが必要なだけだ。玲さんが日本に帰るなら、僕も帰る。玲さんが島に残ってくれるっていうなら、僕も残る。」

 言い切った拓真は、言葉を続ける。

「僕だって、島崎藤村なら知ってる。国語の時間に暗誦させられたの、まだ覚えてる。」

 と言って、強い調子で詩を語りはじめる。


「まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり


やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたえしは

薄紅の秋の実に

人こひ初めしはじめなり


わがこころなきためいきの

その髪の毛にかかるとき

たのしき恋の盃を

君が情に酌みしかな


林檎畑の樹の下に

おのづからなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと

問ひたまふこそこひしけれ」


 釣竿を握り締めたまま、よどみなく力強く「初恋」を諳んじ終った拓真は言う。

「僕はね、何人も島の女の子と寝たけど、恋なんてしたこと、一度も無かった。日本にいたときは、母さんの病気でそれどころじゃなかったし、玲さんに会うまで、恋が何かなんてわかってなかった。」

 そして、釣竿を乱暴に放り投げた拓真は、玲をまた抱きしめる。そして、耳元でささやいた。

「ね、今晩、僕の家においでよ。」

 玲は拓真の腕を振り払って逃れ、怒った眼で拓真をにらんで言った。

「嫌だ。」

 玲はそのまま、浜辺に拓真を一人残して、先に村に帰った。


 レノの家に帰ると、レノの母も子どもたちも、すでに家に帰っていた。レノの母は、なにか織物をしていた。アロファが横に立っていた。色鮮やかな布に目を奪われる。アロファが、これは自分の着る祭りの衣装だと嬉しそうに教えてくれる。

 祭りが近づくと、レノが帰ってくる、そう拓真が前にそう言っていた。レノがいつごろ帰ってくるか、アロファに聞いてみる。アロファが母と何か話して、答えてくれる。

「祭りは三週間もしたら始まるが、準備があるので、来週の終わりには戻ってくるのではないか。」

 そんな内容のことをレノの母は言ったようだ。……レノが帰ってくれば、膠着した拓真との関係に、なにか解決する方法を示してくれるのではないか。何かにすがるように玲は考えていた。


 次の日の朝、窓の外から、水汲みに行く拓真に声をかけられた。いつものことなのだが、

「今日は行かない」

 玲は答える。

「昨日のことはごめん、僕が悪かった…。だから、一緒に行こうよ。」

 弱々しく謝る拓真の声に、仕方なく玲は支度をして出て行った。

 拓真の後ろを、ちょっと距離を取って、玲は歩いた。

「そんなに警戒しないで。何もしないから。」

 そう言われて、玲は隣に黙って並んだ。拓真も沈黙し、長い道中を二人で黙ったまま歩いた。

「玲さんはさ、僕と一緒に帰国して、それからどうしようと思ってたの?」

 泉も近くなってから、拓真に聞かれる。

「大森さんも、拓真に会いたくて、探したくてたまらないのに、我慢してるふうだったし、葉書を読むと、きっと拓真も同じ気持ちなんじゃないかって思ってたから、だから、実際会ってしまえば、わだかまりも解けるんじゃないかと思って。二人を会わせたかった。」

「玲さんは…?」

「拓真を大森さんのところに送り届けたら、仕事を探そうと思ってた。」

「それだけ?」

「…のつもりだったんだけど。」

 玲はため息をつく。

「それが、どうして、僕と一緒に暮らすなんて言ってくれるわけ?」

「……拓真にとって、それが必要なら、仕方ないかと思って…。」

「なんだよ、それ…。」

 拓真はぶつぶつ言う。

「ただのお人よしじゃん、玲さん。」

「誰にでもお人よしってわけじゃないよ。拓真と……佐緒里にだけ。ほかの人にはむしろ冷たいと思う。水川の両親にとっては、酷い娘だよ。たまの電話も取らないし、めったに帰りもしない。職場の人間からの誘いもぜんぶ断るような人間だよ、私。」

「……でも、レノの家族には優しくしてるじゃない。玲さん。」

「それは、寝食お世話になってるんだし、人として当然のことだよ。」

 泉に着いた。拓真は黙って水浴びを始める。玲もいつものように岩に腰かけて、文庫本を広げる。水浴びが終わると、また拓真は玲の前に立った。玲が目を上げても、今日は目の前に突っ立ったままの拓真が言う。

「玲さんがただのお人よしだったら、僕、とことんそれにつけ込むことにする。…どういう形であれ、僕を特別に思ってくれてるのは、確かみたいだから。」

 それから、拓真は下を向いて照れ笑いをして、桶を抱えていつものように滝壺に水を汲みに行った。玲も苦笑して、再び文庫本に目を落とした。

 拓真がいったんレノの家に水を置きに戻っている間、玲はゆっくりと水浴びをしながら考える。考えるが結論は出ない。とりあえず、拓真とのことは、日本に帰ってから考えよう。玲は思った。


 海辺で拓真は、またも憂鬱そうな顔をして釣竿を垂らしている。

「海では、いつも暗いね、拓真。」

 玲がそう言うと、拓真は皮肉な笑みを浮かべる。

「綺麗すぎてね。日本の海と全然違うよね。」

 見渡す限りつづく薄い透き通った鮮やかな水色の海が広がる。どんな画家でも、これを絵に描ききるのは難しいのではないか。切り取ってしまえば、単純な南国の海なのだが、どこまでも続く美しい波の連なりは表現のしようがない。

「いつまでも、この綺麗さに、僕は馴染めない。島の言葉をいくら覚えても、村の人間と親しくなっても、ここにいちゃいけない人間なんだって、思ってしまうんだ。海を見るとね。」

「……どうして?」

「……僕は汚れた人間だからね。」

「お母さんのことだったら、気にしなくていいと思うけど…。拓真は悪くないよ。」

「気休めはいいよ。実際、僕の買ってきた包丁がなければ、母は死ななかったかもしれない。いや、結果はどうあれ、僕があれを買ってくるような人間だってことが、汚れてる証拠だ。」

「…………。」

 玲は黙り込む。追いつめられた思春期の拓真の、衝動的な行動に、それほど責任を感じなくても良い気もするが、実際に直後に母が死んだことに対しての重みが、拓真の胸にのしかかっているのだろう。

「玲さんも綺麗すぎてね、時々一緒にいるのがつらくなる。僕みたいな汚れた人間と一緒にいてくれるなんて、いいのかなって思うけど、それでも、一緒にいてほしい。僕は我儘な人間だ。海が綺麗でつらいのに、一番海の近くで過ごす時間が長い。結局、この美しさに囚われて逃れられないのかもしれないね。」

「私は、沈んでほしくないな。拓真に。」

「沈まないよ、玲さんがいてくれるならね。」

「そう…じゃあ、沈みたくなくなるまで、一緒にいようよ。」

「そういう風に期限があるみたいな言い方、してほしくないんだけどな…。」

 拓真はそう言って、口をつぐんだ。引き結んだ唇がさびしげに震える。玲はいたたまれなくなって、目をそらす。

「…島の女の子と何人も寝たって、拓真言ってたけど、ステディはできなかったの?」

 玲は聞いてみる。

「いないよ。レノが出て行って、僕がここで暮らすようになって、入れ替わり立ち代わり、レノの仲間の女の子がここへ来るようになった。…最初はちょっと興味もあったし、なによりも断り方もわからなくて、いろんな女の子と寝たよ。…たくさん、女の子の身体をほめる言葉も覚えた。…でも、愛のない行為はじきに飽きる。…正直、女の子たちが職を求めてか、男を求めてか知らないけど、みんな島を出て行ったら、ほっとしたよ。女の子たちも、日本人の僕がもの珍しかっただけだ。ステディなんて、なりようもなかった。」

「そう…。」

 玲は相槌を打つしかできない。最初から妙に女性に手慣れた風に見えたのは、そんな背景があったのかと納得するだけで、嫉妬やその他の複雑な感情も起りようもない。

「レノは来週の終わりに帰ってくるみたいね。お母さんがそう言ってた。」

 玲は話題を変える。

「そうか。楽しみだね。久々に会える。」

「そうだね。私は二回しか会ってないけど、とってもいい人だった。」

「レノが島に帰ってきたら、いずれ、ファウラの代わりになるだろうって、みんな言ってる。」

「そうなんだ。人望があるんだね。」

「そうだね。僕が島で受け入れてもらえたのも、レノが僕を家族として受け入れてくれて、弟のように可愛がってくれたからでもあると思うよ。」

 玲は、レノの真摯な瞳を思い返す。

「レノは、拓真のことを心配していた。拓真が帰国したがらない理由を、僕の代わりに聞いてくれって、そう頼まれた。」

「そう…。」

 拓真は口をつぐむ。

「葉書を書かせたのも、レノだって言ってたね、拓真。」

「そうだね…。世界で一番、純粋に僕のことを心配してくれてるのは、レノなんじゃないか、って思ったこともある。いいやつだよ。」

「そっか。」

「…だから、レノの彼女が日本人だって聞いたとき、僕、嬉しかったんだけどな…あの時は。」

 再び拓真は口をつぐんだ。

 …あれから一週間も経たないのに、長い時が過ぎたようにも感じる。それだけいろいろなことが短い期間に起りすぎたのだ。特に拓真の心の変化はすさまじいものがある。

「いま、ほんとに玲さんがレノを好きになったら、僕、困るな。」

 拓真の言葉に、玲は返事に詰まる。

「……言ったでしょう。私、恋愛の外側で生きてる人間だって。そういうの無縁だって。」

 やっと、玲はそう返す。

「それはそれで、困るんだけどな…。」

 拓真は小さくつぶやいた。玲は急いで、また話題を変える。

「ね、レノはお祭りの準備に早めに帰るって言ってるけど、準備ってどんなことするの?」

「んー、櫓組んだりね、大きな顔だけの神様の飾りを作ったり、結構力仕事だよ。レノだけじゃなくて、島中の若者が早めに帰ると思うんだけどね。今の大人だけじゃ、人が足りないと思うからね。」

「そっか。一週間ぐらい準備して、お祭りはどれぐらいするの?」

「三日間だね。」

「村を上げての盛大なお祭りなんだね。」

「そうだね、そして、夜はアレ、飲まなきゃ…。あー、あれだけはどうも嫌だ…。」

 拓真は顔をしかめる。

「前に言ってた、泥水みたいな飲み物だっけ?」

「そうそう。いいよね、玲さんは女で。」

「前も、そう言ってた。そんなに嫌な飲み物なんだ…。」

 玲はクスクス笑った。

「…やっと、笑ったね。」

 拓真が言った。

「ここのとこ、困った顔や怒った顔は見れたけど、ずっと玲さん笑ってなかった。…僕のせいなんだけどさ。」

「…そんなことないよ。」

「玲さんには、ずっと笑っててほしいな。子どもみたいな顔でさ。」

「失礼な。」

 玲はもっと笑った。

「玲さん、笑うと幼くなるよね。ずっと、その顔、見ていたいな。」

 不意に恥ずかしくなって、玲は顔をそむけた。日はまだまだ長く、瑠璃色の海から優しく風が、二人を包んでいた。

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