第五章

 朝、再び顔を見せた拓真は陽気だった。

「玲さん、ココナツオイル持った?」

「うん、持った持った。着替えもあるし。大き目のタオルもある。今日は洗濯、しなくちゃ。」

 玲は下げている袋を見せた。

「あ、あとこれね、玲さん専用のヤシの実石鹸。身体洗いにも洗濯にも使えるよ。」

 拓真は緑色の四角い石鹸を渡してくれる。

「ありがとう。シャンプーもコンディショナーもボディソープも持ってるんだけど、なんか、この自然の中で使うのはためらわれるよね。」

「そうだね…。僕も持ってても使わないだろうな…なんとなく。」

 そう言いながら拓真は軽々と水桶を抱える。

「二往復もするの、大変でしょう、毎朝。」

「最初は足腰痛かったな。でも、もう慣れた。良い運動だよ。」

 そして、昨日のように先に水浴びを済ませた拓真は、水で満たした水桶を軽々と持ち上げ、

「じゃあ、また後で。」

 とくるりと背を向けた。

 昨日のように、鳥の啼き声を聞きながら、水浴びをして身を清めた玲は、タオルで身体を拭いて、新しい服に着替えた。そうして岩の上で考える。これ以上、拓真の抱える心の闇に踏み込むことは、本当に良いことなのだろうか?彼の望む通り、祭りが済むまで一緒にいて、そして拓真の無事を克哉に報告するだけで良いのではないだろうか?彼の心を、これ以上かき乱してはいけない…。

 足を水に浸し、物思いにふけっていた玲は、すぐそばまで拓真が帰ってきてたことに気が着かなかった。

「なにぼんやりしてるの、玲さん。じっとしてたら蚊に刺されちゃうよ!」

 拓真は陽気に笑った。

 玲も微笑み返す。

「そうだね、でも、朝は蚊が少ないよ。」

「油断すると、蛇も出てくる。」

 拓真はニヤッと笑った。

「え?蛇?」

 長いものが嫌いな玲はしり込みする。

「大丈夫、僕がいたらなんとかする。ま、あまり離れないで帰ろう。」

「うん…。」

 急に怖くなった玲は、寄り添うように拓真について村に帰った。

「いろんな生き物がいるね、見たことのない…。」

「そうだね、熱帯だからね。おまけに島だから、外敵も少ないんだろうし…。カブトムシの仲間なんかも、結構デカいよ。僕、ゴホンヅノカブトの本物初めて見たときは興奮したな。」

「ゴホンヅノカブト?」

「頭が日本のカブトムシの色してるんだけど、羽は黄土色というか茶褐色というか…。よく見たらツノが数が少ないからゴホンヅノカブトではないかもしれないけど、ま、よく似てる。面白い。」

「カブトムシに詳しいんだね、拓真。」

「男子はそういう人間多いんじゃない?日本みたいに図鑑があったらな。」

 ちょっと悔しそうに言う拓真は小学生のようで、玲は面白かった。

「あとね、毒々しいカエルもいる。色だけじゃなくて、ほんとに毒もってるんじゃないかな?両生類には詳しくないけど、確か、種を守るために鳥なんかに食べられたら、そのカエルにあたった鳥は、二度とその色のカエルを食べないからって、わかりやすい色をしてるらしい。小学校の頃、何かで読んだ。」

「…読書家だったんだね。」

「そうでもないよ。わりと記憶力はいいほうだと思うけど。」

 …記憶力が良かったら、忘れたい記憶も忘れがたくて、つらいのではないだろうか。そんなことをふと思って、玲はため息をついて、首を振った。いま、余計なことを考えないでおこう。

 間もなく村に戻り、拓真は水瓶の水を満たすと、朝食を摂ってさっさと仕事に行ってしまった。玲はまた、レノの母の手伝いで畑に行く。今日は長い長いイモを掘った。昨日の五本足のようなイモも掘る。掘り返したところには、イモの一部や茎を適当に埋めて、元通りにする。昨日収穫した芋類も食べ切れてはいないのだが、とにかく収穫する。果物も獲る。葉物野菜も刈り取る。

「食べるだけなら、この島、特に困らない。」

 拓真も言っていたが、その通りだ。あまり広くない畑とはいえ、次から次へと収穫できるようだ。毎日収穫するのは、そうしないと育ちすぎてしまうということもあるのではないか。玲は考えた。島の人間のおおらかな気質は、この豊富な食料を得られるという安心感から来ているのだろうか。

 重い袋を下げて、レノの母と村に戻り、作物を洗った後、玲は一度洗濯をしに村の井戸に戻った。


 水分を補給して、玲は昨日のようにコプラ工場に向かった。洗濯していた分、昨日よりも時間は遅い。拓真はもう仕事を終えているだろうか。

 工場にはやはり、拓真の姿はなかった。サバナの店に行くと、店の奥でサバナと談笑しながらサイダーを飲んでいる拓真が見えた。玲を見ると、にっこり笑って、片手をあげる。

「遅いよ、玲さん。まあ、サバナ母さんと久しぶりにゆっくり話せたけど。」

 玲はやはりほっとする。言葉のわからないレノの母と畑仕事をしたり、村の女たちに交じって洗濯をするのは、やはりどこか緊張をする。異国で同国人に会えるとは、なんと心強いものか。

「今日もパン買ったほうがいいかな?」

「パンはいいけど、缶詰は今日はもういいんじゃない?昨日たくさん買ったし。サイダー少し買いなよ。」

「わかった、そうする。あと、洗濯板みたいなの、ないかな?さっき洗濯してた時、隣の人が使ってて便利そうだった。」

「あるんじゃない?」

 拓真がサバナに何か言うと、サバナはすぐに洗濯板を出してきた。玲はありがたく受け取る。

「助かった。これで、明日からもう少し早く来れる。」

 玲が笑顔を見せると、拓真は笑って、ぽんぽんと玲の頭を軽くたたく。

「そうやって笑うと、玲さん、子どもみたいな顔するね。」

「からかわないでよ、年上を…。」

 玲は顔をそむけるが、拓真は構わず店の外に出た。玲も支払いを済ませて外に出る。

 今日は彼の笑顔を曇らせるようなことは聞かないでおこう、玲はあらためて決意する。同郷のよしみで、思いがけず簡単に心を許してきた拓真だが、それゆえ無神経に立ち入ると、簡単に傷つけてしまいそうだ。もともと傷ついた心を癒すために留学を考えた彼なのだ。今でもその傷が完全に癒えているとはいいがたいだろう。

「ね、今日は私にも釣りを教えてよ…私も釣竿があるといいんだけどな。」

「いいよ。レノのがある。一緒に釣ってみようか。」

 玲の言葉に拓真が笑顔を見せてくれてほっとする。間もなく村について、昨日のように家から釣竿を取ってくる拓真。約束通り、釣竿を二本持ってくる。

 昨日の岩場に出て、昨日のように小さな魚を釣り上げた拓真は、小刀でバラバラにして、それを玲の持つ釣竿にもつけてくれる。

 二人で並んで糸を垂らすと、それだけで何か楽しい気分になる。

 まもなく、中ぐらいの大きさのアジが釣れた。

「アジだね。」

 玲はそう言う。

「ああ、そうなんだ。これがアジなんだ。現地語でしか知らないや、日本では開きか刺身しか食べたことなかったし。」

 拓真が感動したように言うので、玲はおかしくなった。

「食べたとき、わからない?」

「母さんはこの魚は丸ごと、ザブンと油に投入する調理法だからな…、調理法が違うとわからないよ。」

 拓真も笑って答える。「母さん」と呼ぶのは、自分の母もレノの母も同じだから、一瞬、どっちのことを言っているのか戸惑うこともあるが、自分の母のことを呼ぶときは、総じて憂鬱そうな表情をする。対してレノの母のことを語るときは、たいてい笑顔だ。日本で母の病気と死で傷ついた心を、レノの母がほんとうの母代りになってくれることで、拓真の心がすこしずつほぐれていったのだろう。彼が得たくても得られなかった家族愛が、この島でもたらされる不思議に、玲は思いをめぐらせる。

 切り立った岩場が、ちょうど陰を作ってくれるので、ここは幾分か涼しい。

「いつもここで釣ってるの?」

 玲は聞いてみる。

「潮の満ち引きで変えるかな。もう少ししたら大潮になるから、ここは沈んでしまう。逆に引きすぎると、ここは海から遠い。時期や時間帯でいろいろ場所があるんだよ。」

「そうか。」

「年に一度の大潮の時は、僕の家から釣れるんじゃないかってぐらい、海が迫る。」

「…怖くない?」

「別に…。ただ、海の底が近づいたな、って思う。」

「……沈まないでね。」

 思わずそんな言葉が、玲の口からついて出る。

「…うん、わかってる。父さんが悲しむしね。」

「そうだよ…。」

 答えながら、玲は思う。会いたくはないと思っていても、拓真は自分の死で父をこれ以上傷つけるのをやはり、恐れている。克哉と、拓真は、やはり親子だ。考え方がとても似ている。近づくのを恐れながら、遠くでお互いを気にかけている。

 拓真は、釣り糸を垂らしながら、玲に聞いてくる。

「ね、玲さんは、『おせっかいな生き方をしてきた』って言ったけど、あれってどういう意味?」

「うん、私ね、施設で育って、養子に行ったって言ったじゃない?」

 玲は、佐緒里とのことを拓真に話し始めた…。

 一通りのことを話し終えると、拓真は少し黙った。

「…じゃあ、玲さんは、妹さんのために養子に行ったってこと?」

「…そうだね、佐緒里を看取るために養子になったんだよ、私。」

「…おせっかいを超えてるよ、それ。」

 拓真はつぶやいた。

「自分で決めたことだから。」

 玲はきっぱりと言う。

「後悔はないの?」

「佐緒里を看取ることができたのは、後悔はないよ。」

「………。」

「でも私、佐緒里がいなくなった後のことを、ちゃんと考えてなかった。そこは後悔している。」

 克哉に、佐緒里のことを話した時に、涙が出た。その時は、理由がわからなかった。でも、今はわかる。玲にとって、水川の家に入った後は、佐緒里との生活がすべてで、すべて佐緒里を中心として時間が動いた。時には学校を休みがちなこともあった。学校が終わるとすぐに佐緒里のために家に帰る玲には、当然友人も出来なかった。大学も、もっとも家に近いところに決めた。残り少ない佐緒里との時間を保つために。

「佐緒里が亡くなった後もね、私は自分の人生を取り戻せていない。それは、私自身の責任だと思うんだ。そのあと、大学は文学部英文学科から、理学部の生物学科に変えて、一生懸命勉強した。佐緒里を亡くした悲しみを、勉強することで忘れようとしたんだ。でも、そこに目的は無かった。大学を卒業して、なんとなくゼミの教授に勧められるがまま、会社に入って、仕事について…。で、会社が倒産して、そして思った。なにか、流されるまま、ここに来てしまったな…って。」

「でも、大学を転部したのはどうして?」

「…もともと私、理系で、英語も嫌いじゃなかったんだけど、やっぱり理系がいいな、と思って。あと、理系のほうが実験とか多くて、夜遅くなったりすることも多いから、家にいる時間が少なくて済む。佐緒里のいなくなった水川の家は、私には住みづらかった。」

 言いながら、玲は思い返す。佐緒里の消えた水川の家は、しんと静まり返って、母も父も、ほとんど口を開くこともなく一日を終えていた。玲に関しても、冷淡とは言わないが無関心に見えた。それでいながら、看護学部に転部は許さない、と、言い切られた。

 もう、家にいる時間が減るなら、どうでも良かった。玲は一心に勉学に打ち込んだ。実験や実習で夜遅くなることが、むしろ嬉しかった。大学を卒業すると、さっさと家から出た。自立できるなら、それで良かった。

 時々、母から着信があるが、ほとんど電話に出ることは無い。盆暮れには一応、顔を出すが、それも気まずく、泊まることもない。もはや他人よりも遠い存在だ。

「佐緒里亡き後も、私たちの心の支えとなってくださったら。」

「私たちを家族と思っていただけませんか。」

 養子に入る前の、そんな父の言葉がむなしく思える。結局、玲と水川の家をつなぐものは、病んだ佐緒里の存在でしかなかったのだ。

 佐緒里の葬儀の時、水川の遠い親戚だという人物が近づいてきて、焼香をすると玲の耳にささやいた。

「うまいことやらはりましたな、これで水川の家も財産も、みな、あんさんのものになりますやろ。」

 涙を流しながら、凝然と玲は立ち尽くした。人からそう思われてもしょうがない自分の立場だ。せつに乞われて養子になったとはいえ、世間から見ればそんなものだ。その時から、玲は水川の家から離れることを考え始めた。

「もともとね、子どもの時から、私、難しい性格で、生意気で可愛げのないことばかり言っていたから、養子が欲しいって人が施設に来ても、私は見向きもされなかった。別にそれで良かった。私は早く大人になりたかった。早く大人になって、自分の力で暮らしたかったのに、佐緒里と出会って…佐緒里におねえちゃん、って言われて…それで、私ね…。」

 玲は涙が出てくるので、釣竿を置いて、あわててタオルでぬぐった。

「佐緒里が、ただ一人の家族だった。佐緒里が私を見つけてくれたの。…施設で暮らす仲間は、仲間であって、家族じゃない。でも、佐緒里はただ一人の、私の家族だった。少しでも長く生きてほしいと思ったし、一緒にいたいと思ったから、私は、佐緒里と一緒に暮らすことを望んだ。でも、佐緒里がいなくなったら、私、なんとなく生きているだけだった。余生みたいなものだった。」

 タオルで顔を隠して、玲は言葉を続けた。

「拓真のお父さんから、拓真の葉書を見せてもらってね、『海の底で、なんとか生きてる』って書いてあって、それで、拓真って、私と一緒なんじゃないかって思って、それで、会ってみたくなった。それで、こんなところまで、押しかけて、ごめん。」

 玲は立ち上がった。

「ごめんね、今日も釣りの邪魔、しちゃった。帰って、何かお母さんの手伝いしてくるよ。」

 立ち上がった玲の手を、拓真がつかんだ。

「待って、まだここにいて。…それに母さんはまだ工場だ。まだ帰ってきてないよ。」

 言われるがまま、玲は再び拓真の隣に座った。

「変なこと聞いて、ごめん。…でも、会いに来てくれて、うれしかった。」

 それから、拓真も黙った。玲も、もう何も言わなかった。

 玲はもうその日は釣竿を持たなかったが、黙ったまま、拓真は釣りを続け、何匹かの中型の魚を釣った。釣りが終わると拓真はバケツの中の水を捨て、慣れた手つきで、絞めた魚を網に入れて、玲の手を掴んだまま、黙ってレノの家まで歩き始めた。

 村に近づくと、さすがに拓真は玲の手を放したが、一言、口にした。

「明日も、海へ来てね。」

「わかった。」

 玲も短く答えた。


 夕食もにぎやかだった。おなじみの芋料理に加え、モロヘイヤのような野菜とコーンビーフの煮た料理も出てきた。拓真の釣った魚も、生のままスライスされ、果汁と塩をかけられて出された。刺身と言うよりマリネのような食べ方だが、新鮮でおいしい。

「獲れたては美味しいね。」

 と言うと、拓真はにっこりと笑う。

「玲さん、ココナツミルク味、飽きてこない?」

 島の料理では、ココナツミルクは日本の醤油のようにさまざまな食材の調味に使われる。

「美味しいよ。」

 玲が答えると、拓真は微笑む。

「僕はしばらくしたら胸やけがしてきて、当分、塩味だけで乗り切ったことがある。今はだいぶ戻った。」

「私はまだ大丈夫。」

 食卓で拓真と交わした言葉はそれぐらいで、あとは子どもたちと話す。

 食後は求められて、またあやとりをして見せた。目をきらきらと輝かせて見入る笑顔が、玲にとって懐かしい。施設にいた頃を思い出す。折り紙も日本から持ってくるんだったな、と思う。この子たちに見せてやりたい。暗くなりかけると、拓真は名残惜しそうにレノの家を後にした。レノの母が、笑って玲に何か言う。ソロファに聞いてみると、「今日は拓真が長くいた」というようなことを言っているようだった。

 次の朝、待ちかねたように拓真は玲を迎えに来る。朝の拓真はいつも快活だ。島の人や生き物の話を楽しそうにいろいろ話してくれる。

「ソロファは水筒要らないって言ってたね。」

「ソロファはすごいよ。あっという間に高いココヤシの木に登って、ココナツ抱えて降りてくる。それをナイフでこじ開けて、中の水を飲む。小遣いがほしくなったら、ココナツもって僕の働いてる工場に来る。そうするとわずかな金額だけど買い取ってもらえる。その金をためて、サバナ母さんの店で好きなものを買う。」

「たくましいね。」

 玲が笑うと、拓真も一緒に笑う。

「僕がココナツ飲みたいって言うと、僕にも取ってきてくれるけど、ちゃっかりコプラ工場で売るだけの金額を請求してくる。まあ、払うけど。僕には取れないから。」

「シビアだね。拓真の釣ってきた魚を食べてるくせに。」

 玲は笑う。

「そういえば、玲さんにはただで取ってきてあげてる。ちくしょう、あいつに今度文句言ってやらなきゃ。」

「拓真は家族だと思われてるから、遠慮してないんだよ。」

「でも、母さんやアロファにももちろん、ただで取ってきてるぞ、僕だけか、あいつから搾取されてるの。」

 ぼやく拓真がおかしくて、玲は声を出して笑う。こんな明るい拓真を見たら、克哉もきっと安心するだろう。


 昼間、海辺でいつものように小魚を釣り上げて、器用にばらばらにしている拓真の手元をじっと見ていたら、

「…もう、刃物大丈夫なんだ、とか思ってる?」

 と、玲の気持ちを見透かしたように言う。母が包丁を自分の腹に突き立てている姿を見て、拓真は刃物が触れなくなった、と克哉から聞いていたのだが、拓真はこの島ではまったく抵抗なく刃物を扱っている。

「うん…。」

 玲がためらいながら答えると、ふっと拓真は微笑んだ。

「詳しいこと知らないって言いながら、ほんとはいろいろ聞いてるんだね、玲さん。……僕が最初に島に来た週の日曜日、僕が来てくれたお祝いだって言って、レノが豚肉をふるまってくれるって言ったんだけど、その前日の豚の屠殺に、僕、いきなり手伝わされた。」

「…そうなんだ…。」

「ソロファが子豚にまたがってさ、僕が豚の頭を押さえるように言われて、レノが暴れる豚の前足を押さえながら、ブタの頸動脈を切ったんだ。」

「………。」

「血がそこらじゅうに飛び散るし、当然、僕は気分が悪くなった。でも、とにかく僕のためにそうしてくれてるのがわかったから、なんとか耐えたんだ…。」

「…………。」

「さすがに解体の時は気分が悪いからって、家の中で休んでいたんだけど、あの蒸し料理って時間かかるじゃない?だんだん腹が減ってきて、そして、料理が出来上がった時は、その時の肉、普通に食えた。うまいと思った。」

「そうか…よかったね。」

「うん、荒療治だったけど、カウンセリングや、薬より、よっぽど効いた。今じゃ、僕、鶏も豚も自分でしめられる。ソロファに手伝わせて二人でやってる。」

「そうなんだ。たくましくなってて、安心した。」

「そういう意味ではね…。」

 言葉を途切れさせて、黙って拓真は釣り糸を垂らす。朝と違って、海辺ではいつも憂鬱そうな表情を見せる拓真が気にかかるが、玲はもう、何も自分からは言わない。

 やがて、見たことのない大きい魚が拓真の釣竿にかかる。拓真は何も言わず、その魚を釣竿から離して、海に放ってやる。

「今の魚、食べられないんだ。」

「うん、毒を持ってる。レノに教えられた。」

 ぽつんと拓真はそういうだけで、また餌をつけて、釣竿を再び垂らす。

 もしかして、自分がここにいるだけで、拓真を傷つけていることになりはしないかと玲は思うのだが、拓真のそばから離れるのもためらわれる。玲は今日は釣竿を持たずに、黙って膝を抱えて拓真の横に座る。

 しばらく黙ってそうしていたが、拓真が沈黙を破る。

「今日は喋らないんだね。」

「うん、何を話そうか、今考えていた。」

「つまんないんなら、帰ってもいいよ。アロファたちはそろそろ学校から帰る。遊んでやったら喜ぶ。」

 突き放すように拓真が言う。

「別につまらなくはないけど、拓真が言うなら、そうしようか。」

 立ち上がった玲の手を、拓真がつかむ。

「待って。…やっぱり行かないで。」

「わかった。拓真がそう言うなら。」

 玲は拓真の隣に素直に座る。

「玲さんは、素直すぎて、困る。」

 拓真はそう低く言って、再び黙った。

「ごめん。」

 玲は謝った。それに何も答えず、拓真は黙々と釣りを続けた。


「私ね、中学校の時、鉄仮面って呼ばれてた。」

 玲は話し始める。

「鉄仮面?」

「うん、いつも無表情で、登下校の時も、教室でも、怖い顔してたみたい。…そんな私を、佐緒里はよく見つけてきたな…と思ったんだけど…。」

「そう…。」

「最初はね、うっとおしいとか、重いとか思っちゃった。死んだ姉の生まれ変わりみたいに言われて…。」

「それが普通の感想だと思うよ。」

 拓真は不機嫌そうに言う。

「でも、なぜか、私、佐緒里に会うって言っちゃって、ほんとに会ってしまって、一緒に遊んで、『もうしょうがない、この子のために、私全部を諦めよう』って思ってしまった。」

「なんで?」

「そういう運命だと思ったから。」

「意味わからない。…じゃあ、僕の話を父さんから聞いて、やっぱり佐緒里ちゃんの時みたいに同情して、『もうしょうがない』って来たわけ?」

「そうじゃないよ。会いたいと思ったからだよ、拓真に。」

「……言っておくけど、僕、玲さんみたいにできた人間じゃないよ。玲さんとは全然違うよ。」

「…別に私、できた人間じゃないけど?中途半端に流されて生きてる人間だよ。」

「自分で言ってたでしょう。『私が佐緒里と暮らすことを選んだ』、『私がここに来たくて来た。』って。流されてないじゃん。」

「そうだね、流されてはない。その時その時の行動は自分自身で決めてるけど、それはなぜか考えていない。深く考えたこともない。「そうしなきゃ」「そうしたい」って思って決断した行動に、理由はないの。」

「…そうか、わかった。じゃあ、僕も理由は考えない。玲さん、一緒にいて。」

「わかった、そうする。」

「…ずっといてほしいって言ったら?」

「それは困る。お祭りが終わったら、私は帰る。」

「終わっても一緒にいてほしいって言ったら?」

「そう言われても、帰る。」

「…確かに、玲さん、自分で決めてるね。」

 やっと拓真は笑顔を見せた。

「ちょっと安心した。…このままだと、際限なく甘えてしまいそうで、怖かった。ダメならダメってはっきり言ってもらえるとわかりやすい。」

「うん、はっきり言うよ。…でも、そこに理由は聞かないで。」

「わかった。」

 言いながら、玲は思った。なぜここに拓真が留まっているか聞くよりも、自分がしたいと思うことを伝えたほうがいいのだと。

「私は、できれば、お祭りが終わったら、拓真と一緒に日本に帰りたい。」

「………。」

「拓真が帰りたくないなら、それでいい。私は、自分のしたいことを言う。私は拓真と帰りたい。」

 不意に拓真が嗚咽を漏らす。

「…僕は帰れない。父さんに合わせる顔がない。」

「どうして…。」

 拓真は釣竿を放り出す。そして、玲の膝に顔を伏せる。

「僕は母さんを殺したんだ。」

 玲が絶句する中、拓真の慟哭は続いた。


 長い時間が過ぎたように思った。波の音と、海鳥の鳴き声だけが響く中、玲はただ、泣いている拓真の背をさすっていた。

 やがて拓真は起き上がり、道具を片付けはじめた。竿を持った手で空のバケツと魚籠を持って、もう片方の手では、玲の手を昨日のように掴み、歩き始めた。だが、向かった方向は村のほうではなかった。

「家で、全部、話す。」

 拓真はぽつんと言う。

「わかった。」

 玲も答えた。

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