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かくかくふわふわ

カクヨムに久しぶりに小説を上げてツイートして、いざ蓋を開けると二日で3PVだったのでまあそんなもんかという感じに落ち着いたのだが、このPVって自分も見た分が入ってたら自分しか見てないのでは?
っと思ったりTwitterが仕様変更で今はビュー数が常に表示されてるので、嫌でも目に飛んできてしまうが、投稿を知らせるツイートの表示数が100ビューちょいぐらいだったのでそこからリンクを押した人が二人ぐらい居たか、カクヨムでランダムに表示されて見たのかそれとも誤クリックかわかんないけどなんとなく二人くらい読んでくれたというか表示してくれたのだろうか?
自分が毎回出てるコミティアでもだいたいいつも手に取ってもらえるのは10部くらいで、そこに身内がなんとなく手に取ってくる数部乗っけて15部前後くらいだから、自分が書く話に興味を持ってくれる範囲は大体10人いくか、いかないかぐらいの範囲ではないだろうか?
この規模はコミティアで小説を発表始めた17年前ぐらいから全くほとんど変わってないので、何度か最高に素敵な挿し絵買いてもらってオフセットで出した本が50部か100部かもうちょいぐらいだったので、あれだけ周りに苦労かけて申し分けなさすぎて、それ以降、奇跡の合同誌を除けば気楽にコピー本で10人ぐらいに向かって小説を書くことを続けている。
もちろんもっと多くの人に読んでもらいたいという気持ちがないわけがない、コミティアで黒字になってみたい、毎回赤字だけど好きでやってるし、コミティアに参加するたびに何十冊も他の人の新刊買うからこれを収益出て黒字にするには・・・・・・を考えると全然楽しくないので、40年近く生きてきた人生の中で身につけた「考えることを止める」スキルで毎回乗り切っていこうと日々努力してるので、殆どの人に読まれる事のない小説を書き続けられているのかなあとぼんやりとカクヨムの小説のPV数が表示される画面をのぞき込んだ。
その画面をキャプチャーしてTwitterに言い訳っぽく「こんなに読まれてない」と書くのも恥ずかしいので適当なコメントとともにツイートした後にしまったコレは「僕が好きなTwitterじゃない」という事に気がついた。
不平不満がよくないという事ではなく、なんとなく生身で言葉を何も包まないで出すのが嫌いな気がする。
ソーシャルメディアという見知らぬ人と交流する場で生身の言葉を使うのはあまり良いことではないと思っている。
むき出しの言葉は全方位、色々な立場、考え方から照らしてみると角度によっては突然ギラつくわけで、それを見て動物的本能で動いてしまうのがとても怖い。
っと恐れたところで自分のフォロワー数だったらたいしたことないので一度やってみた方が良い気もするが、それができずに数十年うだうだと言い訳がましい長文を書き連ねている。
苔の一念で包むのが巧くなったので長文は書けるようになって来た、これくらいは通勤電車の1時間以内でスラスラと書けた。
この無駄スキルを使って何か生み出せるものはあるのだろうか?
そんなことを新年早々の初出社が嫌すぎて何度も起きてしまい寝不足で変な頭痛がする中でキーボードを窮屈な姿勢で叩いてみた。
まあTwitterでTLに流れてくる素敵なイラストにいいね押してくよりは幾分なにかやったような、軽い承認欲求は得られた気がする。
書くと言うことは目的を明確にしなければ、なんと気持ちよく自己完結してるものだろうかと考えて、だから僕の小説はたくさんの人に読んでもらえるクオリティーにたどりつかないんだよなあと、いつも多くの人に自分の作品を届けようと第一線で踏ん張り続ける友人や知人たちの背中を思い出した。
彼らの矢面立つ表面は個性的でみな違う表情ながら、新しい事に挑戦して苦悶してたりするけど、たまたま近くでその裏側を、背中を見てるといつも威風堂々としてただ憧れる。
表では何万人、何十万人の視線が待ってるのだけど、作者の背中はひとつ、とても孤独で素敵だ。
凄いなあと思う。
自分の背中は見れないのでアレだけど、あのように誇らしいものではないんだろう。
ここまで書いて電車はちょうど池袋に着いたので、特にオチも無い文章になったのだが、まあ新年始まったばっかりだから良いかなあと。
(私小説ってこういう感じなのかな? 違う?)

コメント

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