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なぜ書くのか?

人間って、好きなことはほっといてもやるものだ。そして時間をかけたことは自然とうまくなっていく。ゲームが好きな人はひとつのゲームに何千時間も平気で費やして、化け物みたいにうまくなっていく。達人と呼ばれる人々が無趣味の仕事人間であることが多いのは、仕事を仕事と思ってなくて、ずっと好きなことだけをやっているからだろう。

ずっと続けているのにうまくならなくてやる気を失っているとき、ふと振り返ると、実はそれほどそれが好きでなかったことに気づく。好きでないから、チャンスがあればすぐにサボってしまって、やらなくちゃと気持ちがせき立てられている割にはたいして時間をかけてないのだ。

好きでなくても身につけなくてはならないことはある。たとえば、仕事のために法律を勉強しなくてはならないとか、ドローンの免許をとらなくてはならないとかだ。そんなことは誰にだってある。だけど、そればかりになってしまったら、生きることはただの苦行になってしまう。興味のないことを勉強するのは苦痛だし、苦痛を避けようとちょこちょこサボり続けるので上達しないからますます興味が持てない。

仕事の中で好きになれるところを探すべきだ、というのはちょっと違う。嫌いなものを好きと思い込もうとしていると、だんだん心が死んでいってしまうのではないか? 小さな子どもは好きなことはするけれど、嫌いなことは強制されない限り決してやらない。大人になっても、人間の中には子どもの部分があると思う。嫌いなものを好きと思い込むことは、自分の中の子どもを傷つけるのと同じことだ。

煮詰まったら、ときどきサボって旅行にでも行くといいかもしれない。自分がどれだけ我慢していたかに気づけるから。

わたしにとっては、小説を書くことも、自分の中の子どもとつきあうためのひとつの方法だ。わたしの小説の一番の読者は、わたしの中の子どもなのだ。他人は関係ない。最近は、なるべく人に見られないように、予約投稿で深夜2時にアップロードするようにしている。へたに反応があると、受け狙いで、書きたくないものを書くようになってしまうかもしれないからだ。自分が自意識過剰だということは嫌というほどわかっている。

じゃあ、最初から公開しなければいいじゃないか。そうなのだけど、わたしは暗い人間なので、ひとりで書いているとどんどんダークサイドに落ち込んでいって、日記帳が呪詛で満ち満ちてしまう。適度に人目を意識した方が、多少は前向きになれるのだ。

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