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没入感

 以前、義理の弟からスマートフォン用のVRのヘッドセットを頂きました。百均の玩具とは違い、少しグレードアップされたものでした。嫁さんには言えないんですが、そのヘッドセットを装着して、更にイヤホンを付けると……これが凄すぎる。公開されているVRアプリも、勿論凄いのですが、もっと凄いのはAV(下ネタな話ですみません)でした。まるで、目の前に女の子が存在している様な錯覚。極めつけは、耳元で囁かれる、女の子の誘いの言葉。ちょっと、擽ったい……。つまらない表現で申し訳ないのですが、まるで目の前に女の子が存在しているような錯覚をしてしましました。

 ただ、そこまでリアルに感じることが出来るに、触ることが出来ない。抱きしめることが出来ない。技術としては、凄いのだけれど、最後まで感じさせてはくれない。結局のところ、肩透かしを食らったような、物足りなさを感じました。

 過去において、文字であらわされた小説というのは、娯楽だったと思います。古文のように、難しい言い回しで、分かりにくい文章であっても、当時はそれが人々の娯楽でした。今では、漫画もありますし、映画もあります。先程紹介したVRだってあります。そうした、文字だけの小説に比べて、圧倒的に情報量が多いそれらのコンテンツに対して、文字だけの小説の優位性って、何でしょうか?

 様々な意見があるかと思いますが、そのコンテンツに対して、人間が持つ想像力をどこまで発揮しなければいけないのか? というのは大きな分水嶺だと思います。

 一般的に、情報量が多くなれば多くなるほど、人は受け身になると思います。情報量のシャワーが多すぎて、主体的に情報の選択が出来ない、一方的に受けきるしかない。つまり、コンテンツに、人間が合わせなければならない。

 対して、小説は、それらのコンテンツに比べると、情報量は文字しかありません。更に、自分で、読まなければいけません。受け身では、読むことは出来ません。主体的に、自分の意思で読み進めなければ、物語は進まないのです。更には、情報が少ない小説ですから、表現されていないディティールは、自らの経験で補完しなければいけない。つまり、想像しなければいけない。

 同じ登場人物であっても、その登場人物のイメージは、読み手に左右されます。ヒロインであれば、モナ・リザのような西洋の美女を思い浮かべる方もいれば、身近な女子高生をイメージする方もいるでしょう。このように、読み手が持つ情報を利用しながら、想像を膨らませることが出来るのは、小説の利点だと思っています。

 であるならば、小説の描写というのは、あまり細かく描写をする必要はないと思っています。ある程度は、丸投げして読者に任せる。そうした思い切りは大切だと思っています。ただ、全ての小説に当てはまる事ではないのですが、文字だけの小説だからこそ描写にこだわりたい部分はあります。それは、心の動きです。

 人間が持つ、心の動きの描写は、漫画や映像、VRでは表現しきれない分野だと思っています。小説であっても、ハードボイルドのように、心の描写を一切排除した表現方法の分野もあります。それは、否定しません。ただ、僕が言いたいのは、人間の心が織りなす、心の変化こそ、読者が強く共感する部分だと思うのです。その心の琴線に触れたとき、人は強い没入感に襲われて、物語を楽しめると思っています。また、そうした、物語を、僕が書けたらいいなーと思っています。少し、酔っています。

 推敲を続けている「逃げるしかないだろう」ですが、八割ほど完了しました。あと、十数話で完結いたします。応援してくれている皆さま、ありがとうございます。とても、励みになっています。

 読んでくれた!

 これほど嬉しいことはありません。今後とも、宜しくお願いいたします。

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