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『忠臣蔵を阻止しようとしたら、なぜか明治日本が変わってた~(以下略)』の設定がどうしてこうなったか

『忠臣蔵を阻止しようとしたら、なぜか明治日本が変わってた~(以下略)』への応援ありがとうございました。無事完結を迎え、おかげさまで「カクヨム」では週間4位をいただいております(2024/4/25の7:00時点)。そして「なろう」では何と歴史ジャンル日間1位、週間2位、月刊10位をいただくことができました(2024/4/25の7:00時点)。感謝の言葉もございません。

さて、完結したので、この作品をなぜこんな設定にしたかの裏話でも書きたいと思います。

この作品は、オチというか、そもそも「何で『大日本史』が南朝正統論だったか」ということを書きたかった作品なんですよ。

本編でも書いたとおり「何で武家政権の長である将軍の一族であるはずの徳川光圀が、『大日本史』において天皇親政を志して武家政権を否定した後醍醐天皇の南朝を正統にするんだろう?」という疑問をずっと持ってたんですね。

その理由に気づいたのが、全然別の作品を構想してたときなんですよ。
徳川家って新田氏の一族って言ってるけど全然嘘(粉飾)だろう……というのは、まあ歴史スキーにとっては常識なんですよ。それを逆手にとって、本当に新田義貞の隠し子というか、知られていない子が、南朝側に最後まで立っていた新田義貞が討死して、その後抵抗を続けた新田宗家(三男の新田義宗)も滅亡するときに逃げ延びて、流浪の僧徳阿弥として三河に流れ着いて松平氏の祖となり、子孫に「いずれ足利を滅ぼして天下を取れ」と遺言する……みたいなネタを考えたんですよ。
そのときに「あ、そういや徳川家って公式には『南朝の忠臣』新田氏の一族だって言ってたんだわ。そりゃ南朝正統にするなあ」と気づいたんです。前記の「徳川が新田の一族ってのは嘘(粉飾)だろう」という歴史スキー的常識の方が、そのことに気づくことの邪魔をしてたんですね。

それがずっと頭の中にあったとき、カクヨムで読んでた転生系歴史物の作品で、松平家康が三河守になるのに結構苦労してるって話を読んだんですよ。新田系の源氏は三河守に任官したことがないから、いちいち藤原氏になった得川の子孫の徳川ということにして、何とか三河守になったって史実を紹介してたんですね。

なるほどねえ……と思ったときにピコーン! とひらめいたんです。

確か『忠臣蔵』の吉良上野介の祖先って、この頃の三河に居たよな、って。
「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」は、むしろ今川義元が天下を狙う理由付けのエピソードとして歴史スキーの中では比較的知られているフレーズです。

そして、義元が三河掌握のために三河守に任官してたってことも、歴史スキーだったら知ってること。昨年の大河ドラマでも軽く触れられてたみたいですし(直接は見てない)。

だったら「足利系の源氏は三河守に任官した先例がある」ってことです。しかも、ググってみたら、そもそも論として足利尊氏本人が三河守に任官してるじゃないですか。

じゃあ、家康が吉良家を継いだら、簡単に三河守に任官できるってことです。それで、現代人が吉良家の祖先に転生して、家康に吉良家を継がせるという話を思いついたんですね。理由はモチロン『忠臣蔵』の阻止のため。誰に転生させたらよいかなと思ってググってみたら、実に都合が良いことに、吉良義安という家康のマブダチポジションのご先祖様が居るじゃないですか!

かくして、この話の設定ができあがったワケです。

後半部の明治日本が大きく変わったっていうのは、当然「尊王論」が無くなったからで、実は「鳥羽・伏見の戦い」で慶喜が腰砕けにならないということくらいしか考えて無かったんですよ。その後の展開は結構アドリブですが、歴史スキーとして色々な仮想戦記を読んできたネタが詰まってます(笑)。結果として、相当な老境(後期高齢者超え)になるまで西郷隆盛と大村益次郎が無双することになっちゃったんですが(爆)。

お楽しみいただけたのでしたら嬉しいです。ありがとうございました。

2件のコメント

  • 週間4位おめでとうございます。

    なかなかに歴史好きのツボを押さえた話だったと思います。
  • ありがとうございます。
    歴史スキーのツボを押さえられたのなら嬉しいですね。
    何と、今日は2位に上がってましたよ。
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