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村上春樹はお好きですか?

今さら村上春樹もないんじゃね? という声も聞こえてきそうですけど、いいのです。

私は最近ようやく、村上春樹、好きですっておおっぴらに言えるようになりました。それまでは、なんとなく言いにくかったんです(素直じゃないのね)。

理由はいろいろとありますけど、それも含めて、追い追い。

前回のノートで@kobuupapaさまからネタを振られまして、せっかくだし、コメントも増えちゃったしで、新しいノート作ります。

村上春樹の小説はとても多層的なので(でも実はシンプルでもある)、語りだすときりがないのですけど、でも、好き勝手語っていきます。

34件のコメント

  • @kobuupapaさま

    で。村上春樹ですねー。前にも書きましたけど、私も村上春樹はほぼ読んでいます。いくらでも付き合いますよー。

    これはご本人がおっしゃってるんですけど、村上春樹の小説には二種類あるそうです。『ノルウェイの森』や『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『国境の南、太陽の西』(もそうだと思うんですけど、私としては微妙です)、短編集『女のいない男たち』といったリアリズム小説と、それ以外です。

    リアリズム小説は、その名の通り、あくまでも現実に即したことしか起こりません。リアリズム小説以外の小説はちょっと現実とは外れたことが起こります。私が「こことは違う、向こうの世界(たいてい邪悪なものと通じている)へ行って、戻ってくる構造」と言ったのはリアリズム小説じゃないほうを指しています。

    でも、『ノルウェイの森』も確かに@kobuupapaさまのおっしゃるように、主人公はちょっとあちら側(この場合は「死」ということになるのでしょうか)に行きかけてますよね(読んだのかなり前なのでちゃんと覚えてませんけど)。

    いきなり話が逸れますけど、『ノルウェイの森』って、ちょっと不思議な構造をしていると思いませんか? これ、現在の主人公が(確か飛行機の中で)昔のことを思い出す、回想からスタートしますよね。つまり、物語はずーっと主人公の回想なんですよ。といいますか、作中ではっきりとこれは僕(ワタナベトオル)が昔を思い出しながら書いてる、みたいなことが出てきたと思うんですよね。で、ラスト。主人公が緑ちゃんに電話をかけている場面で終わるんですけど、結局、回想から戻ってきてないんですよね。普通は戻ると思うんですよ、最後は。なんかそれが読んでてすごく不安になりました。自分が今どこにいるのかわからない、迷路に迷い込んだまま、終わっちゃった、みたいな。本来なら、これから緑ちゃんと、現実を生きていこうというラストですよね。でも、そういう前向きな感じが一切しないんです、私には。

    すみません、話を戻します(村上春樹は切り口がたくさんありすぎて、語りだすと止まらないのです)。

    リアリズム小説じゃないほうの小説は、じゃあ、なんなのでしょう? 村上春樹自身は特に定義はしていませんけど、私は、かなり広い意味でのマジック・リアリズム小説だと思っています。マジック・リアリズムはWikiによると、「日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法」となってます。

    あ、ところで、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も、やみくろのいる地下の世界に行って、戻ってきませんでしたっけ? 図書館パートをどう捉えるかが難しいですけど、この小説も往って還ってくるお話だと思います。

    >リアリティを感じないんですよね
    その原因の一つは、たぶんこのような小説の構造に起因するものだと私は思います。リアリズムじゃないほうの小説は、どこかスーパーナチュラルな要素が入り込んでいますよね。日本の作家でマジックリアリズムというと、真っ先に中上健次が思い浮かびますけど、あちらが日本土着の魔術的世界だとすると、村上春樹はあまり日本的ではないですよね。これも、リアリティを感じない要因のひとつだと思うんです。村上春樹を語うえで、もう一つ欠かせないのが、海外文学との関りだと思うのですけど、とりあえず今回はここまでにします。

    文体とか、説明できない読後感については、また次回! ではでは~。
  • 『ノルウェイの森』のラスト、思わずさっき確かめちゃいました。

    「あなたは今どこにいるの」って緑ちゃんに訊かれて、「僕は一体どこにいるんだ」ってなるんでしたね。


    緑ちゃんはの言葉は、物理的な居場所を聞いているようにも思えるけど、レイコさんと関係を持ったりして「直子ちゃんの世界」に戻りかけてた「僕」にとっては、あっちの世界にいるのかこっちの世界にいるのか、そのどちらでもない世界にいるのかわからなくなって、ラストの「どこでもない世界から〜」。

    「僕」にとっては必要な回り道だったのかもしれないけど、緑ちゃんにとっては「何を今更」。
    あるいは「あなたはこっちの世界にちゃんと戻ってきたの? 私にはあなたが居たいと思ってる場所がどこなんだか、もうわからない」。
    だからみどりちゃんの言葉は「静か」だった。

    こんなことを思って読み終わったのを思い出しました。
    相変わらず捻くれてるな私は
    ……。

    現実の飛行機の中から回想に移って始まった物語だから、「僕」は自殺もしなかったわけだし、なんだかんだで現実の世界にとどまってちゃんと生きてきたんだろうから、あのラストはよけいに、モヤモヤするんでしょうねー。


    そのあと「僕」は一体どーしたのよ!
    受話器握りしめて固まってる暇があったら、なぜ直接会いに行かないの!
    (まあでも、奥さん消えて井戸に潜って考え込む主人公よりは、まだリアリティがあるか……)
  • Han Luさま

     お邪魔します。奈月です。近況にコメありがとうございます。

    『命がけで南極に住んでみた』
     著者が女性なので読みやすかったです。基地での日常や女性スタッフたちの活躍も紹介されてたので、そこはやっぱり同性の目を通した方が共感できるし、読んでて安心感が違います。

     シャクルトンは日常においては「ダメ人間」だけど探検においてのリーダーシップがものすごかったのでしょうね。部下に自分の存在価値や目的意識なんかを目覚めさせる。カリスマですね。そういう二面性にも引かれるなーなんて。
     そういえば最近カリスマって言葉聞かなくなりましたね。マスコミがナントカ王子くらいの価値観でしか使っていなかったのか、そういうリーダー自体いなくなってしまったのか。

    『宇宙よりも遠い場所』
     これ、GYAO!で配信されてたのに気づくの遅くてまだ見てないけど、GWに一挙配信されないかしらって思ってます。

     新作銀英伝は一話目さっそく見ました。ファンとしては言いたいことは色々ある。色々あるけど、一話目の盛り上がりとしてはすごかった。ヤン提督の登場を引っ張りに引っ張って最後に後ろ姿だけ登場という王道の憎い演出。いいもんっ。いつも指揮官卓に胡坐をかくから、痔にならないか? ってファンに心配されてた御尻を見れただけでも良いもんっ。引っ張ったからにはすんばらしく素敵な顔見せなのでしょうねええええええ。

     冬アニメは全然追えなかったけど、春アニメは頑張ってチェックしようと思ってます。
  • @kobuupapaさま

    緑ちゃんの「あなたは今どこにいるの」って、明らかに物理的な場所として書かれているわけではないですよね。

    >あっちの世界にいるのかこっちの世界にいるのか、そのどちらでもない世界にいるのかわからなくなって

    私も同じ感じで読みました。そしてやっぱりモヤモヤしたんですよねー。回想である以上、主人公はあれからちゃんと生き続けているわけなので、余計に。輪は閉じられていないんです。ということは、作者自身にも決着はついていないということなのでしょうか。

    ところで。
    >村上春樹ワールドってのはそう言う世界のことをいうんでしょうか。リアルに見せかけた虚構とでも言うのか?
    について。

    今はもうさすがにそういう声は聞きませんけど、ある時期までアンチも多かったですよね。中身がないとか、スノッブだとか、気取ってるとか、カッコつけてるだけとか、小道具(ジェイズバーとかジャズとかビールとかブライアン・ウィルソンとか……って別に普通じゃん!)があざといとか。特に初期三部作(風の歌、ピンボール、羊)に対してはそんな声がたくさんありました。

    またまた話は逸れますけど、今『風の歌を聴け』を読んでみてください。すっごくまともな青春小説です。びっくりします。私、数年前に久しぶりに読んでびっくりしました。でも発刊当時、ほとんどの人たちは表層的な部分(文体とか雰囲気とか小道具)にしか目を向けることができなかったんですよね。

    たぶん村上春樹自身は自然に取り入れているつもりのアメリカ文化的な匂いに対して過剰に反発する人たちが多かったのだと思います。でも確かにそれは、かつての村上春樹ワールドを形成する大きな要素の一つであったことは否めないです。

    村上春樹が生まれ育った芦屋は神戸に近くて、アメリカ文化に触れやすい土壌だったと言えます(今の神戸はさすがにそんなことないですけど)。高校生の時、神戸の古本屋さんで船員が置いていったアメリカのペーパーバックを大量に買って読み漁ったって言ってますよね。たぶんそこでフィッツジェラルドや、ブローディガンなど、彼に影響を与えた作家や、もしかしたらパルプ小説なんかにも出会ったのでしょう。

    初期の作品の世界観は独特ですよね。日本じゃないみたいです。でもたぶんそれが彼にとっての普通の世界なんですよね。虚構的なものを感じるのはやっぱりそういう部分なのかもしれません。今読むとそこまで違和感はないんですけどね。

    それと、これも確か本人が言ってたと思うんですけど(要確認)、『風の歌を聴け』は、いったん英語で書いて、そのあと日本語に翻訳し直したらしいです。

    長くなってきちゃいましたー。なので、文体については次回! ではでは、また!

  • 奈月さま

    なるほど、著者は女性の方なんですね。ますます読んでみたくなりました。シャクルトンもずーっと気になってたんですよねー。日常ではダメ人間ってとこがまた惹かれます。

    カリスマ、そういえば最近聞きません。90年代くらいまででしょうか。カリスマ美容師とか。今だとたぶん、引くわーってなるのでは。KYという言葉が出てきたくらいから、日本はますます異端なものや多様性に対して狭量な風潮になっている気がします。同調圧力がパネェっす。

    GYAO!の一気配信期待しましょう!

    さて、新作銀英伝ですが……。いい! いいです。一話目としては完ぺきじゃないでしょうか。ほぼ原作通りですけど、視点はなるべく固定して(両艦隊のカットバックだけ)、すごく見やすい。旧作は、フェザーンとかお姉さんとかミッター&ロイとか、イゼルローンとかいろんな視点が入り込んでいて、いわゆる神視点なんですよね。それはそれで、いかにも壮大な戦争絵巻っていう感じなんですけど。新作はもしかしたら、思い切ってヤンとラインハルトの二つの視点のみに絞っちゃうのかも。視点のお話をしていたので、見方が深まります。

    そして。やっぱり、この脚本演出コンビ、上手いですー。

    ヤン、引っ張りましたねー。後ろ姿だけ。しかもお尻なめで。次回、期待大ですねー。

    ところで、ヤンの名前を聞いても、ラインハルトとキルヒは反応しませんでしたよね。エルファシルの英雄の名前は知られていない?

    あーん。なんかむっちゃ楽しみになってきましたよー。
  • Han Luさま

     もっかい一話目見てました(暇人か)
     あの手前のお尻はラオ大佐かしら~なんて(また尻か)


     キルヒアイスがいまいち好青年に見えないーとか、ファーレンファイトはもっとシュッとしたニヒルな美形ならよかったーとか、言いたいことは多々ありますが。それでもいい出来ですね。滾ります。

     確かに旧作の一話目はキャラの顔見せ的な演出でファンサービスですね、あれ。そらウィークリービデオシリーズなんか原作ファンしか申し込まないでしょうから。
     新作は新規のファンを獲得しようって点で見やすさ重視か? 今のアニメは話数が短いこともあって、的を絞った構成になること多いですよね。見やすさ重視。そんな中でも分かる人には分かる細かいカットで、長年のファンを「おっ、あれは……」って喜ばせてくれると嬉しいのですけどね。

     原作だと、あの二人お互いのことあまり意識してるわけじゃないのですよねー。アムリッツァが終わるまでは両陣営で話題にもあがらないし。アニメは映画などで過剰演出だった気が。「常勝VS不敗」ってキャッチフレーズ大好きですけど(中二か)

     二話超楽しみだー。ヤンの声は違和感なくてびっくりしました。なんかとっても富山さんチック。鈴村健一さんてこんな声だったかーって驚き。

     KYね。なんかその後、渡辺淳一が鈍感力とか言い出して、どっちやねん?! って(笑) 空気読めたところで、危険予知能力がなってないじゃんって思っちゃうよ。
     この頃から日本賛美なTV番組が増えたりしてさ。それ以前は逆に海外のものを尊ぶ風潮があったから日本にもいいとこはあるのに……って思ってたのに、マスコミが舵を切って自国の賞賛を始めたから気持ち悪くてさ。何なのでしょうかねえ。ほんと日本人て右向け右だなあと。


     ごめーん。私は村上春樹は『ノルウェーの森』からもう受け付けられない。女性器を隠花植物とか例えてなかった? そっからもう駄目。受け付けない。好みの問題だねえ。
  • 奈月さま

    私も多分もう一回見ます。いえ、もう二回かも……。

    そうか、旧作の一話目はファンサービスなんですね。私はテレビで見ていたので(す、すみません!)。

    新作は第一期は全十二話で、第二期は来年みたいですね。でも第二期は全国の映画館でイベント上映予定らしい……。どういう構成になるのか分かりませんけど、やっぱり話数は少ないですよね。このお話は長いスパンでやらないと意味がないと思います。続いてほしいですね。

    そうでした。原作はあのふたり意識してないですよね、最初は。アニメは最初映画でしたからね。

    ヤンの声、違和感ないですね。鈴村さん、昔の人っぽい声もだせるので、ぴったりだと思います。富山さんチックですね。

    鈍感力、ありましたねー。マスコミの日本賛美は気持ち悪いです。私は最近民放は見なくなっちゃいました。日本人ってほんと、懲りないです。


    春樹、ダメですかー。でもそれ、実はすごく分かります。そういう人、けっこう多いと思いますし(上に書いたような理由ではなく、ほんとに好みの問題で)。うん、分かります。だってなー。僕ちゃんですから。『ノルウェイ』が分かれ目というのも。
  •  僕ちゃんか。そうかも。私、太宰もダメなんだよねー。
    「うわっ」(ドン引き)ってなるとその後まったく受け付けなくなっちゃう。それで損してる部分もあるかもしれないけど、人生は有限なのだよ。


     そうそう。帝国軍艦隊の指揮官の椅子とか豪華でまばゆかったです。なんじゃ、ありゃ。(ラインハルトの金髪負けてちゃ駄目でしょ)

     ノイエサンスーシーとかどんだけ華麗になるのでしょうねえ。楽しいです。イゼルローン早く見たい。
  • あー。太宰だめだっておっしゃてましたよね。むっちゃわかる。自分大好きな人はねー。やっかいですよね。

    帝国艦隊の椅子。なんですかね、あれ。あと、音がね。ブーツの音とか、軍服のこすれる音がねー。むっちゃいいの。

    ラインハルトの金髪はこれから伸びていく……はずっ。

    イゼルローン、見たいですねー。わくわくしますねー。
  • Han Luせんせい。

    あー私もどっかでそれ読んだ記憶がある。
    だからこその翻訳風文体。

    昨夜30年ぶりくらいに『ノルウェイの森』開いてみたら、昔読んだ時と印象違いますねー。
    『風の歌を聴け』は読んだ当時は「この人一体どこに住んでるんだよ異世界かよ」って感じでしたけど、今読んだら多分印象はまるで違うんでしょうね。
    ちょっと本棚探してみようそうしよう。
  • Han Lu さま

     音とかいうから、音量上げてもっかい見ちゃったじゃないかー。ほんとだ、むっちゃいい!

     旧作の最大の汚点といえば帝国ファッションにロココを採用してしまったことだけど、冒頭の船上パーティの服装見る限り今回はバッスルスタイルみたいでホッとした。男性は燕尾服みたいだものね。

     ん~、でもそうすると門閥貴族共も洗練された外見になっちゃうのか。フレーゲルとかあの外見だから間抜けさが増して許せたんだけどなー。

     ていうか、何度見てもシュナイダーがカッコよすぎる(EDにもいるし)。メルカッツもあれだけカット入れて来るってことはリップシュタットまでやるのかしらー。ドキドキ。
  • あれ、記憶違いかな。
    英語訳も使ってた、だったっけ?
    あれー???


    ーー

    完璧な記憶など存在しない。
    完璧な絶望が存在しないようにね。

    by ハートフィールド?

    ーー


    当時の私がハートフィールドの本を一所懸命探したのは、内緒です。
  • @kobuupapaさま

    英語で書いて……の件、やっぱり、そうみたいですよ。私は読んでいませんけど一番最近出たエッセイ『職業としての小説家』に書いてある、という文章がネットにありました。村上春樹のエッセイはけっこう同じことを繰り返し書いているので、私は最近あまり読まないです(それだけ軸がブレていないということなのですけど)。

    ハートフィールド。この人、こういうの上手いですよね。
  • 奈月さま

    やっぱり、リップシュタットまでやりたいですよね。だって……ねぇ? でも十二話で……なんとかぎりぎりいける?

    シュナイダー……ってメルカッツさんの副官でしたっけ。亡命してからもずーっといた人?(あんまり覚えてない)。

    そうか。旧作、なんか違和感あるなーと思ったら、ロココ調だったのね。それは確かにちょっと古すぎ……。帝国側のコスプレも楽しみですねー。うふふふ。
  • 私も見つけた。
    村上せんせいが自分のサイトで書いてたんですね。

    ハートフィールドの件、あとがき(?)に墓参りの話まで書いてたりして、批評家がハートフィールドの作品に知りもしないのに触れたりしたら大笑いしてやろう、的な意図でもあったのかと勘ぐってしまいます。
    そういう引っ掛けは古今東西よくある話だし。
    しかも全集に入れるときには、あとがき削ってるしねー。
  • こんばんはですよ。


    多分猫を埋めるお話は、ナチュラルに読んだらいつも通りのHan Luせんせいワールドなんです間違い無くね。
    私はまだ、あっちの世界に引っ張られてるので、まるであの人の作品の終わり方のような錯覚を覚えているだけなんです。

    てか、意識してやった部分ないですか?
    ないんだとしたら余計に、先生も相当あのせんせいのファンだと思えるなー。


    失礼を承知で書かせてもらいましたごめんなさいm(_ _)m
  • @kobuupapaさま

    こんばんは~。

    さっそく、コメントと、★と、そしてレビューまで、ありがとうございました!

    意識してやった部分はないです。そんな器用なことできないですよー。なので、もし似てるとしたらたぶん無意識ですね。それはやっぱり、影響を受けているところはありますよね。

    ただ、今回はちょっとまだ自分でもしっくりきてないところがあって、困ったなーと思っています。うーん。
  • 作者様がしっくりこない部分は、読者が勝手に補完してLCLに還元しますので、大丈夫です。
    村上春樹のファンは、そうやって生きてきたのです。

    今回は出だしのFMのナレーションに、まずはやられました。
    今日と明日が出会う時、思い出したこのフレーズは懐かしい。あまりにも懐かしい……。
  • で、ですね。
    色々と豚切れてしまいましたが、Han Luせんせいの「文体と説明できない読後感」へのお話、待っているのです。
  • >作者様がしっくりこない部分は、読者が勝手に補完してLCLに還元しますので、大丈夫です。
    いい読者さんだなー。いやいや、甘えちゃだめだ、甘えちゃだめだ……。

    あの番組、若かったからなんとなーく聴いていましたけど、今考えるともっと真剣に聴いとけばよかったなー、とたまに思います。

    さて、文体の話なんですけど、これは地の文の話とも関連するのですが、私、村上春樹の文体は、そんなに独特だとは思わなかったのです(初期の村上春樹の文章を対象にしています)。どちらかというと、読みやすい、私にとっては読み慣れた文体だなーと思っていました。

    実は私、若い頃はほとんど日本の小説を読んだことがなくて、海外小説ばっかり読んでました。翻訳ですけど。日本の小説は、漱石とか、谷崎とか、芥川とかいわゆる昔の文豪の作品は読んでいましたけど、現代の、特にエンターテイメント系の日本人の作品はほとんど読んでなかったのです。

    またまた話が逸れます。

    前回のノートであれこれと書いていた地の文の問題、地の文の違和感って、日本の小説だけに感じることで、海外の翻訳小説で感じたことは一度もありません。なぜ翻訳小説の文体は私にとって違和感がなくて、日本の小説の文体は違和感があるのでしょう。このあたりの問題は、前回ノート「一人称小説の地の文問題」で奈月さまが何度か触れている、日本文学、ひいては日本人の内面の脆弱さにも通じていく、なかなかに根深い話なのではと思っているのですけど、それはひとまず置いておきます(これもいつかちゃんと書きたいのですよ)。

    前回触れたように、彼の文体は明らかに海外の、特にアメリカ文学からの影響が大きいですよね。しかも、デビュー作は一度英語で書いて日本語に変換している。だから、まるで翻訳小説を読んでいるみたいな感じがするんですよね。

    初期三部作の村上春樹の文章から感じる印象は、サリンジャー、ジョン・アップダイク、カート・ヴォネガット、アーウィン・ショー、ジョン・アーヴィングといった人たちの文体と同じ感じです。それは一時期私がとても親しんだ作家たちなのです(でもフィッツジェラルドには及ばない)。

    昔、村上春樹のアンチの人たちがよく言ってたのが、「いかにも喫茶店のマスターが書いたような文章」というものです。なんじゃそりゃ、と思いますよね。今なら。全国の喫茶店のマスターが怒りますよ。誰か言ったのか知らないですけど。その人もたぶんこういう翻訳小説っぽい匂いが鼻についたのでしょう。

    でも、文体、変わっていきますよね。徐々に。私があれーって思ったのは、『アフター・ダーク』からです。たしかあれって、三人称でしたよね。こんなに文章上手かったけ? と、びっくりした記憶があります。たぶんもう今は誰も翻訳小説っぽい、とは言わないでしょう。最近のこの人の文章はすごいと思います。無駄が一切ないです。『騎士団長殺し』も、基本構造はこれまでの、向こう側に行って戻ってくる話ですけど、もう、文章がねー、素晴らしいのですよー。ただただ、文章を読むという行為が純粋に楽しいという体験はあまりありません。

    >それともあの独特の文体のせいで、読んでるうちに自分が哲学者になったような錯覚に陥ることをいうんでしょうか

    少なくとも初期は、独特の文体(日本人の文体に慣れている人にとってはなおさら)ではありましたけど、今はもうそんなことはないですから、村上春樹好きなんだけどうまく言えない、説明できない読後感、の原因は、私は文体ではないと思います。

    長くなりそうなので、続きはまた次回! ではでは~。
  • なるほどー。


    翻訳調に慣れてれば、あまり独特の文体と感じないのかもですね。
    漱石・谷崎・芥川となると、現代語じゃない的なところもあるからなぁ(ちょっと言い過ぎかな)。

    私は翻訳小説ってほとんど読んだことがないんですよ。
    ライ麦畑はちらっと読んだはずなんだけど覚えてないし、ギャッツビーすら読んだことがない。村上春樹訳のやつくらい、読んでみればよかったかな。

    翻訳小説って、当然訳した人によって印象とかも変わってくると思うんですけど、どうなんでしょう。
    原文が素晴らしくそして力強く訴えるものを持っていれば、訳者が違ってもその真髄は伝わるものなんでしょうか?
    現文読んで幾つかの訳を読み比べてみないと本当のところはわからないんだろうけど、Han Luせんせいはどう思われます?


    こんなこと言ったら怒られそうなんですが、実は私、村上春樹の長編小説は『ねじまき鳥クロニクル』までしか読んでないんです。色々あって頭が文章を読める状態じゃなくなって、それっきりなんですよね。
    だからそれ以降の彼の文体の変遷がわからんのですお恥ずかしい限りです。


    話は逸れますが、そのあと読んだ小説って、麻生幾さんの『宣戦布告』と夢枕獏さんと今野敏さんの何作かと、あとはHan Luせんせいに始まるカクヨムで出会った作者様たちのものなんですよね……。


    話はさらに逸れるんですけど、私は『国境の南、太陽の西』の主人公が嫌いで嫌いで。あんな我儘なやつは見たことがないというか。
    自分の恵まれた環境を恥じるのは日本人の良くないところだ、と誰かが言ってましたが、あんだけのことをしてもらっておきながら「これは本当の僕じゃない」とか、もうね。
    「私と代わってくれ!」って言いたかったっけ(笑。

    あの主人公って(それまでの)彼の長編作品の主人公の中で、一番存在にリアリティが感じられて。
    だから余計にいけ好かなく感じたのかなあ。
    いや、私にないものをいっぱい持ってて、さらに贅沢言ってるからコノヤローと思っただけかも(>_<)

    だからといって、『国境の南〜』が嫌いなわけじゃないってのが、これまた不思議。
    私が天邪鬼なのか、これがまた彼の作品の不可思議な魅力の一つなのでしょうか???
  • 翻訳小説は当然ながら翻訳者によって印象は変わる部分がありますね。村上春樹は、昔から翻訳もかなり積極的にやってますね。特に最近は、既に日本で翻訳された作品の新訳(ライ麦畑やチャンドラー、ギャツビーなど)に力を入れています。

    確かに、村上春樹が言うように、何十年も前に翻訳された文章は、今の時代に合わなくなっていて、翻訳もブラッシュアップすべきという意見ももっともだと思う反面、その小説が書かれた年代が古いのであれば、訳も古いままで別にいいのでは? と私なんかは思ってしまうのですけど、そういう意見はついぞ聞いたことがありません。

    それはともかく、翻訳者が変われば印象も変わってしまうんですけど、あくまでも私の経験から言うと、一番最初に読んだ翻訳が一番自分にしっくりくるような気がしてなりません。

    村上春樹の新訳の『ライ麦畑』、『長いお別れ』、『ギャツビー』、『フラニーとゾーイ―』を読んでみましたけど、いずれも私は旧訳のほうがしっくりきます。翻訳家としての村上春樹の力量が旧翻訳家よりも劣っているとは思えませんので、これは好みの問題ですね。

    ちなみに、複数の翻訳と原文を読み比べてみたことも何回かありますけど、まず私の英語力では原文をちゃんと読み解けないので、そこは何とも判断できません。ただ、「原文が素晴らしくそして力強く訴えるものを持っていれば、訳者が違ってもその真髄は伝わる」と私は思います。

    優れた文章かどうかは翻訳者はよくわかっているはずですから、そういう文章はとにかく必死になってうまく訳そうとするはずで、そういう文章はやっぱり読んでいてわかりますよね。ああ、ここ気合入ってるなーって。

    『国境の南、太陽の西』の主人公って、そんなにわがままでしたっけ。私はこれ、比較的よく覚えている方なんですけど……。島本さんが出てくるやつですよね。でも突然消えちゃう。ヒステリア・シベリアナが出てくる(こういうホラがほんと上手いですよね)。

    私も、この小説、妙にリアルだなーという印象が残っています。私の場合は主人公のことじゃなくて、小説全体ですけど。この小説は、島本さんが消えちゃうところ以外は、基本的にリアリズムで書かれているので、リアルと言えば当然なんですけど、この人のほかの小説と比べると妙にリアルなんですよね。私もこれはなぜなのか、わかりません。本当に体験したか、体験した誰かから話を聞いたのか、そんな感じがします。あと、確か数年後に町で偶然島本さんを見かけたと思うんですけど、そのときの描写もものすごくリアルな感じがしたような。なんなんでしょうね。

    主人公の印象が薄いのは、私はこの人の小説の主人公(私は「僕ちゃん」って呼んでいるのですけど)は基本的にすべて、すっごく嫌な奴という認識なので、あーまたかー、と思ったきり深く考えなかったのではないかな、と思います。ほんと、いけ好かない男ばっかだなーと思いますよ。最近の作品はそうでもないですけど。だからといって、作品自体が嫌いなわけではないんですよ。不思議ですねー。

  • 旧訳と新訳、なるほど。

    現代風のこなれた日本語よりもってのはあるかもですねー。
    あと、一番最初に出会ったやつの印象ってすごく強く残るから、そういう理由もあるのかもしれませんね。
    「このちょっとこなれてない不器用な言い回しが物凄く好きだったんだけど」みたいなの、私にはよくあります。

    複数の訳と原文の見比べ、やってたんですねー、流石だ。
    私は必要にかられてやらざるを得なくてやったことがありますが、自分のフィールドの学術書だったので出来ただけで(実際には出来てなかったかもしれないし、やった理由は誤訳のチェックだったりする)小説なんて無理です……。

    話変わりますが、
    『国境の南、太陽の西』がそれまでのやつと比べて妙にリアルに感じる理由の一つに、「僕」は離婚もしてないし子供もいるし、親友の誰も自殺なんてしてないし、奥さんも失踪したりはしないし、消えてしまった島本さんも多分自殺してない、というのがあると思います。
    そして色々あったけど結局奥さんと元の鞘に収まるところが、とてもリアル。


    主人公の「僕ちゃん」の我儘さ加減は色々あるんだけど、生き方そのものがイラつくほど我儘なんだけど、一番顕著なのはラストです。
    初版のハードカバーだったらp225のチャプター14以降、特にp284以降の「僕」のセリフ。
    「僕」は、島本さんにハンドルを切られて死ぬんじゃなくて、奥さんにメッタ刺しにされた方がいいだろう、と思えるくらいに、この人はひどい。

    そして私は、この物語を読んだ10年後くらいに、このどうしようもない「僕ちゃん」と同じことをやりかけたという、ひどい奴です。
    だから私のこの主人公に感じる思いは、道徳的観念からのものではなく、言い訳の許されないリアルなものだったりするのが、なんともね。
    (はぐらかすしかない……)
  • そうなんですよ、「一番最初に出会ったやつの印象ってすごく強く残る」から、結局比較はできないんですよね。もし、あとから読んだのを最初に読んでいたら、と思うと。

    『国境の南、太陽の西』、最後の方をざーっと読み返しました。なんかいろいろ思い出してきました。

    まず。正直な感想をいっちゃいますけど、これはしょうがないなーという気がします。確か昔読んだ時もそう思いました。島本さんはねー、たち悪いですよ。このひと。「僕ちゃん」なんかじゃ太刀打ちできないですよ。だから私はこの「僕ちゃん」、そんなにわがままな印象がないんですよね。ひとことでいうと、可哀そう、です。ひどいとは思わないです、私は。

    なんかでも、微妙に記憶が間違ってますね。島本さんが消えるところ、別にそれほどおかしくはないですね。それよりも封筒のほうが謎? あと、町で島本さんを偶然見かけて、そのあと、初老の男性と会うシーンがあったような気がしたんですけど、何か別のと勘違いしてるのかなー。

    まあでも、リアルと言えばリアルだけど、相変わらずカッコつけてる(と一般的に思われても仕方のないような)ところはつけている、微妙な立ち位置にいますね。この小説は。

    最近の小説は、もう昔みたいな鼻につくような部分はそぎ落とされていますので、機会があれば一度読んでみてください。

    まだまだ続きますけど、とりあえず、ここまでで~。
  • 島本さんは、自分の欲しかったもの手に入れたら痕跡残さず消えちゃいましたからねー。
    散々思わせぶりなことして「私を取るなら中間はないの」とまで言っといてこれだから、まあ大したものです。
    『失楽園』や『あいるけ』にならなくてよかったとは言えるけど。


    この小説の舞台はバブル絶頂期で、主人公は義父の援助で脱サラして外車乗り回しジムに通うジャズ・バーの経営者。
    まあ、普通に描いても鼻に付くカッコよさぷんぷんになるだろうから、村上春樹の手にかかったらなおさらね、というところですかね。


    ちなみに「僕ちゃん」が外苑東通りで見かけたのは、島本さんとは「逆」の足を「未だに」引きずっている「とてもよく似た人」のようです。
  • こんにちは!

    私も村上春樹は好きだったけど最近ドロップアウトしてます。

    で、気になったのは下記の文章
    初期三部作の村上春樹の文章から感じる印象は、サリンジャー、ジョン・アップダイク、カート・ヴォネガット、アーウィン・ショー、ジョン・アーヴィングといった人たちの文体と同じ感じです。

    全く同じ感想です。
    私も上記の作家から逆に村上春樹にたどり着いてます。すごく翻訳の文章に近い、それもすごく上手に訳している感じを受けました。
    それを逆手にして、日本の日常的世界観、幻想文学の雰囲気を取り込んでいるのかな、そんな印象を持ってました。初期はそれが濃厚で楽しかったんですよね。

    上記の作家たちの翻訳は、とても味があって好きですね。私はサリンジャーとヴォネガットに嵌まってました(ヴォネガットの書き方は手本にしております)。
    地の文章の表現は端整で無駄がなく、会話文に装飾がある、そんな風に解釈しています。しかも会話文の装飾に訳者の個性が出ていたのかなと考えてます。

    割り込み失礼しました!
    ではまた。
  • 関川せんせいこんにちは。
    お名前は「課長さん物語」のコメとかで見知っております。
    乱入大歓迎ですよねHan Luせんせい。

    ところで、翻訳されたものしか読んだことのない(原文知らないし読んでもわからない)私には、どうしても解決できない問題があります。
    サリンジャーやアップダイクやフィッツジェラルドの文体に近い、というのが、多分そうなんだろうと思いつつもどこがそうなのかがわからない。

    何でもいいんですけど、ここの部分が、みたいなの教えてもらえません?
    わがまま言ったら、原文&初出訳&村上春樹訳なんて見られたらいいなー
    (←バキ)

    ………。
  • あーまた間違って消した……。
  • 関川せんせい。

    「それもすごく上手に訳している感じを受けました」
    実は私は、むしろ逆に、とてもわざとらしくぎこちなく嫌と言うほど翻訳っぽい文章を書いているように感じてました。
    この辺の印象の違いは多分、私が翻訳小説をあまり読んでいないからなんでしょうね。
    うん、とても興味深い。
  • @kobuupapaさま

    まだ仕事中なのでしばらくお待ちください。
    とりあえず消えたやつ、サルベージしておきます。以下、@kobuupapaさまのコメントです。

    ーーーーーーーーーーーーーーー

    えと、、、
    翻訳口調だからじゃないのはわかってるんです。
    あの独特の、なんて言ったらいいんだろう。
    ボールを自分で投げといて、後頭部の左斜め45度から帰ってくるようなあの世界???

    あーもう、こんなにすごい人たちと話し(?)が出来るとわかっていたら、もっと勉強しておけばよかった……。
  • Han Luせんせい、ありがとうございますm(_ _)m


    あいぽんで全部やるのは限界があるなあ。
    でも私のMacんは、基本的に奥さんに占領されてるから(>_<)
  • 関川さま

    いらっしゃいませ~。

    嬉しいです! 勝手な思い込みかもしれませんけど、カクヨムって、あまり海外文学・海外小説の話題が上らない気がしていて。やっぱり海外小説ってあんまり読まれないのかなーと思っていたのです。

    初期の村上春樹はあの文体が気持ちよかったですよね。

    サリンジャーとヴォネガット、実は私も大好きなんです。サリンジャーは今でもよく読み返します。ヴォネガットは独特のユーモアがあっていいですよね。アメリカ文学は、文章の中にどこかユーモアが潜んでいて、それが逆に精神的な強さみたいなものを感じさせてくれる気がします。

    確かに、地の文はとてもシンプルな気がします。そして、会話(というか、セリフ回し?)がうまいですよね。会話の中のいい回しは、確かに訳者の個性が出ますね。

    お仲間発見でうれしかったです。

    またいつでもお越しくださいねー。ではではー。




  • 削除

    @kobuupapaさま

    もちろん乱入大歓迎ですよー。

    >ボールを自分で投げといて、後頭部の左斜め45度から帰ってくるようなあの世界???

    って、わかんないよーっ。まあでも、なかなか説明しづらいことはよくわかります。


    >実は私は、むしろ逆に、とてもわざとらしくぎこちなく嫌と言うほど翻訳っぽい文章を書いているように感じてました。

    私はそんなにぎこちなくは感じなかったです。どちらかというと、自然に身に着いたものが出てるなーという感じでした。ほんとのところはわからないですけどね。


    >何でもいいんですけど、ここの部分が、みたいなの教えてもらえません?わがまま言ったら、原文&初出訳&村上春樹訳なんて見られたらいいなー

    またまたなんという無茶振り―。でもむっちゃおもしろそー。ちょっとやってみます! 一時間ください!
  • @kobuupapaさん、こうしてお話しするのは初めてですね。
    ということで初めまして!

    ちょっと誤解的な書き方しました。私も原文は読んでませんし、読めません(笑)
    ここからは主観的な話になりますが、翻訳された小説はその根底に、共通のものがある気がしております。簡単に言うと、違う言語で書かれたものだな、という小さな違和感です。
    これは外国に行った時の空気感にも似ています。あ、ここは日本じゃないな、と言うような違和感と空気感ですね。

    さらに上記の作家には上昇していた頃のアメリカの時代性と雰囲気、そこから下降していくジレンマ・ノスタルジーみたいなものが感じられるんですよね。
    そして訳者の人も、同時代ならではの感受性をもって訳している。そんなものが合わさって、なんともいい雰囲気を出していた気がします。

    まぁこれは主観なので参考にはなりませんよ(笑)私もその当時をリアルタイムで過ごしていませんしね。

    ただ翻訳文学の心地よさ、読みやすさ、雰囲気の良さ、をこの辺りの作家から色濃く感じるのです、という話です。

    私の読書歴もひどいものなので、あまり突っ込んだ話は期待しないでくださいね!
    あと先生でもなんでもないので、お互い「さん」付けくらいで楽しくお話しできればと!
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