5.細波のよる月花

わたしが思う〝好き〟と、向こうの思う〝好き〟は、多分違う。

1.青天の霹靂

 周りにはいつしか人だかりができていた。

 四方八方から向けられる好奇の目が全く気にならないわけではない。注目を集めてしまっているこの状況から逃げられるものなら逃げてしまいたかった。とはいえ現実はそう簡単ではない。アデレードの足はまるで根が生えたようだ。


「どけっつってんだろ! てめえの耳は飾りか!? ああ!?」


 思わず身を竦めた。胸元で抱えている帽子にもし命があったなら悲鳴が上がっていたことだろう。実際に耳に届いたのは布が立てる軽い物音だけだったけれど。


「──その台詞、そっくりそのまま返してあげるよ。先に聞いてるのはこっちだろ」


 落ち着いた声音に勇気をもらった思いでアデレードはそろりと目を開けた。

 数歩の距離をあけたところで背丈の対照的な二人が対峙していた。一直線上に並んだアデレードから見えるのは小柄な男の後ろ姿と、その向こうにいる背の高い人物の立ち姿。先ほどから怒鳴っているのは小柄な方で、長身の彼からはまるで笑みさえ浮かべているような鷹揚な雰囲気だけが伝わってくる。


「質問にちゃんと答えな。あんた、あの子から盗っただろ」

「人聞きの悪いこと言うんじゃねえよ。何の証拠があってそんな」

「今なら見逃してやってもいい。さっさと認めて盗った物を出すことだね」


 そこで僅かな間があいた。そう感じたのはきっとアデレードだけではなかった。

 突如、小柄な男が右手を突き出し、長身の彼が身を引いた。押されるままに倒れると思われた一瞬後、アデレードは自分の予想が間違っていたことを知った。

 小柄な男の身体が鮮やかに反転し、宙を舞う。

 急に時の流れがゆるやかになったような錯覚に陥った。綺麗な放物線を描いたあと、男はどんっと背中から落ちた。

 周りから歓声ともどよめきともつかない声が上がった。そんな中を長身の彼は颯爽と歩いていく。

 すらりと細い体躯の一体どこにそんな力があるのか、見事な背負い投げを披露してみせた彼は未だ倒れたままの男につかつかと歩み寄り、傍に転がっていた何かを拾い上げた。それから注意を引くようにその塊を掌上で二度三度と宙に浮かせる。

 男の様子を窺っているのか、起き上がるのを待っているのかしらないが──アデレードのいる場所からはただ首の後ろでひとつに結った長い髪が風にふわふわ揺れているのが見えるだけだ。拾われた塊はなんとなく見覚えある色のようだけれど確信が持てない。もう少し近づいて確認するべきかもしれない。


 やがて咳き込みながら半身を起こした男は自分を見下ろす顔とその手にある物とを交互に見やり、きつく眉尻を吊り上げた。音が聞こえてきそうなほど強い視線を長身の彼とその後ろ──すなわちアデレードにも飛ばしてくる。予期せず昏い光を突きつけられた少女は一歩踏み出した姿勢のまま息を呑んだ。


「すみません、ちょっと、通してください」


 耳が馴染みある声を拾った。人混みを掻き分け前に出てきたのは、少し前からはぐれてしまっていた人物だ。自身と同じ色をした目が驚愕に見張られる。


「姉さん!? これは何の騒ぎです?」

「アッシュ!」


 人々の意識が姉弟に向く。それは今まさに睨み合っていた二人も例外ではなかった。その僅かな隙を小柄な男は見逃さなかった。彼は瞬時に身を翻し、人垣の一ヶ所に乱暴に体当たりした。


「どけ!」


 幾人かが倒れ悲鳴が上がった。男は脇目も降らずに邪魔な障害物を乗り越え、戸惑う観衆を掻き分け駆けていく。





「……姉さん」


 ひとりふたりと野次馬が離れていく。嵐の去った方角を呆然と見ていたアデレードは間近から聞こえた声にひくっと身を強張らせた。

 振り返った先にあったのは目を据わらせた弟の姿。眉間に皺を寄せ、真っ直ぐに向けられたその眼差しに滲むのは紛れもない怒気だ。そして理由を聞くまでは逃さないという気迫も。


 ──今度は何をしたんですか。


 言外にそう問われていた。けれどどこから説明すればいいのだろう。アデレードにとっても青天の霹靂であったことを。何をしたと言われても、アデレードには何も出来なかったのに。


「はい」


 アッシュとの間に格子柄が割り込んできた。見覚えのある色と柄にアデレードは思わず飛びついた。


「わたしのお財布!」


 一拍おき、差し出してきた手をそろそろと辿っていけば存外温かな光を宿した双眸と目が合った。吊り気味の涼やかな目元がふっと細められる。


「大丈夫かい? 他に盗られた物は?」

「……」


 アデレードは大きく目を見張った。目鼻立ちのはっきりした華のある顔だった。いや、驚いたのはそこではなくて──すらりと背が高く、人ひとりを軽々と投げ飛ばしてみせた腕からてっきりだと思い込んでいたのだ。服装だってどう見ても男物だし。

 柳眉が怪訝そうに寄せられてアデレードは我に返った。慌てて首を横に振ると長身の女性は満足そうに口角を上げ、気を付けなきゃ駄目だよと結んだ。


「ありがとう、ございました」


 小袋を受け取り、精一杯の感謝を込めてお辞儀する。「じゃあね」と踵を返しかけた彼女の横顔にアッシュがすかさず声を投げた。


「姉を助けて頂いたようでありがとうございました。私にはどういった経緯でこの情況を招いたのか事情がよくわからないのですが、もしよろしければ少々お話をお聞かせ願えませんか?」





 * *





 時間は半時ほど巻き戻る。


「……ねぇ。本当に見に行く必要あるかしら?」


 馬車を先に降りた弟にアデレードは何度目かの問いを投げていた。聞いたところで答えはわかっていた。けれど聞かずにはいられなかった。


「では姉さんはここで待っててください。すぐ戻りますから」


 振り返ったアッシュの目は生き生きと輝いている。知識欲の高い弟は〝知りたい〟と思ったことをこれから知ることができる喜びでいっぱいらしい。

 アデレードは口をへの字型に曲げ、小さく溜息を落とした。


「……一緒に行くったら。わたしがついて行かないとアッシュいつまでたっても戻ってこないもの。だけどあれが何の騒ぎかわかったらすぐ出発するわよ。先はまだ長いんだから」


 こういうときは何を言ったって右から左。押し問答をするだけ時間の無駄というものだ。




 一歩外に踏み出した瞬間、アデレードの頭上からすさまじい熱量が襲ってきた。蒸し暑くて密度の濃い空気が身体中に纏わりつき、毛穴から一気に汗が吹き出してくる。

 このまま回れ右をしてしまいたい。涼しい馬車の中に戻りたい。そんな誘惑を振り払い、アデレードはつば広の白い帽子を目深に被り直した。

 出発前、鏡の中に見た自身の栗毛によく合っていると確信した真新しい帽子だった。レースで縁取られシフォンのリボンが結ばれたそれがアデレードの今のお気に入り。だって被るだけで簡単に〝お嬢さま〟に仕立て上げてくれるのだもの。


 ──これならウィルトールの隣に並んでも遜色ないはず。


 夜明け前の空を思わせるあの藍色を意識した途端、胸が小さく痛んだ。アデレードは僅かに目を伏せる。どうにか意識して、自分で自分を鼓舞する。

 きっと大丈夫だ。ウィルトールは一度した約束は必ず守ってくれる。だから今まで通り優しく微笑んで、似合うよって言ってくれる。




 足早にそわそわ歩いていくアッシュの後ろをアデレードはのろのろついていった。

 天頂を過ぎたばかりの太陽がふたりを容赦なく照らしつけていた。帽子のおかげで直射を避けられているとはいえ、脳裏に浮かぶのはたった三文字の言葉である。


 ──あつい。


 言って涼しくなるものなら幾らだって口にする。けれどどんなに唱えたところで気温を左右できるような不思議の力などアデレードは持ち合わせていなかった。だから心に浮かべるだけでやめておく。あついアツイ暑いあつい。

 きちんと着込み、アデレードよりも露出の少ない格好をしている弟はどうしてあそこまで涼しげなのか。さっさと遠ざかっていく背中を恨めしげに眺めながら、もし極意があるのなら今度ぜひ教えてもらおうと心に誓う。

 白んだ大地が目に眩しい。少女の視線は右手を流れるトゥルーズ川にゆるりと吸い寄せられていった。

 ヴィーナ湖から伸びるこの川はやがてフォルト川へと注ぎ込む。見慣れたフォルト川の光景に比べるとトゥルーズ川は幅が狭く、水の透明度は低いようだ。

 とは言え濁っていても水は水。暑い日差しを遮るように吹き渡る風は汗ばんだ肌に心地よかった。夏の日差しをきらきら反射しながら穏やかに流れていく水面に涼を感じ、アデレードの心は僅かに安らいだ。


「あれは……」


 落とされた固い声音に前を向いた。

 たくさんの人と、それを取り囲むように停められた馬車と。人混みの向こうには橋も見えている。


「……舟に乗る人の列ですかね」

「ふね?」


 訝しげに投げた視線の先には一艘の小舟があった。船首の向きからしてヴィーナ湖方面へと川を遡っていくようだ。そうして見てみれば川面には幾つも船影がある。


「──どういうこと?」


 纏わりつく熱にアデレードの声が虚しく溶ける。ここは橋が渡されているだけで、街や、小休憩できるような施設はなかったはず。

 見てきます、とアッシュが走っていった。引き止める間もなかった。追いかける気力は無論なく、やがてアデレードは再びとぼとぼ歩き出した。




 橋のたもとから見下ろした河原は人で溢れ、船着場よろしく乗り降りがなされていた。


「どこへ向かうのかしら……」


 〝船〟ではなく〝舟〟である。座席代わりの板が数本渡されただけの簡素なもの。釣り舟と称するのがふさわしいそれに行列を成し、乗り込んでいくのは明らかに身なりの良い人々だ。釣りを楽しむようには見えないし、かといって遊覧というにはあたりの空気が殺伐としている気がする。


「やぁ、ずいぶん混んでるな」


 至近距離から聞こえた声にアデレードはびくりと振り向いた。すぐ背後に男がいた。その目は河原の人混みに注がれているのでどうやら話し掛けられたわけではなさそうだ。

 よっこらしょという掛け声とともに、男は背負っていた大きな皮袋を下ろした。物音からしてすごく重そう。横目にこっそり観察するアデレードに気付いているのかいないのか、腰を伸ばしひとしきり身体をほぐしたふうな男は再び視線を河原に投げた。


「今から並んでも日暮れ前にクラレットに着くのは厳しいかな、あれじゃ」

「クラレット? あれはクラレットに向かう舟なの? それならわざわざ舟に乗らなくても、橋を渡れば行けるでしょう?」


 おや、とそこで初めて男がアデレードの姿を視界に入れた。

 短く刈り込まれた髪によく日に焼けた面差し。無精髭を生やしている割に不潔な印象はあまりない。アデレードはもちろんのことウィルトールよりも年上のように感じられる顔だった。


「お嬢さんは連絡船に乗るためにここに来たんじゃないのかい」

「違うわ。わたしはメリアントへ行くの。ここを通りかかったら人がたくさん見えたから、何事かと思って見にきたのよ」

「メリアントか。ならよかったな。少なくともあの行列に並んでくたびれる必要はないわけだ」


 快活に白い歯を見せる男につられてアデレードの口角も小さく上がる。特別格好いいわけではないけれど、人好きのする笑みを浮かべたその顔付きに警戒心はゆるゆる解かれていく。


「クラレットへの道は現在封鎖されているんだ。土砂崩れがあったらしい」


 男は無精髭を撫でながら彼方に望む山々を指差した。

 橋を渡りクラレット方面に進むと道はだんだん険しくなり、やがて岩山に囲まれた谷底のような地に差し掛かる。道幅が狭く馬車がすれ違うのもやっという箇所さえあるそこの岩肌が崩れ、道を塞いでしまったそうだ。現在復旧作業が行われているようだが安全に通れるようになるにはまだ数日かかるとか。


「おれも昨日知ったのさ。もっと早くわかっていれば対策のしようもあったってのに……。せめて日持ちしないものだけでも先に運べないかと見にきてみたが、うーん……あの舟じゃあそれも難しそうだな。お手上げだ」

「日持ちって?」


 男はにやりと片頬を緩めた。先ほど降ろした荷物の口を開け、おもむろに差し出してきたのはアデレードにはあまり馴染みのない鮮やかな色をした手の平大の果実だ。鼻先にふわりと甘い香りが漂う。


「喉は渇いていないかい? こいつは南国でしか手に入らない、甘さも瑞々しさも折り紙つきの一級品だ。一口齧ればあっという間に疲れが取れる。もし少しでも哀れんでくれるなら、幾つか買ってもらえると助かるんだがなぁ」


 どうだいお嬢さんと首を傾け尋ねる男の笑みにはどこかおもねるような色が滲んでいた。

 ああ、困ってるんだわ。日持ちがしないって言ってたもの。──人の良いアデレードがそう思ったのは自然な流れだったと言える。


「……二つでもいいかしら」


 たっぷり数秒おいてからアデレードはそろりと男を見上げた。勝手に荷物を増やすわけにもいかないのでたくさんは買えない。けれど二つほどならアデレードの持ち金でも足りるだろうし、人助けと言えばアッシュだってきっと怒りはしない。

 男がもちろんと頷いた。それでアデレードは貴重品を入れてある小物入れを取り出した。……まさかその直後突き飛ばされるなんて、そんな人物がすぐ後ろにいたなんて思いもしなかった。




 グルだよ、と。静かに紡がれた言葉にアデレードは口を噤んだ。

 騒ぎのあと、アデレードたちは橋から少し離れた木陰のひとつに場所を移していた。向かい合って座り込む三人の元へ、川面を吹き抜けてくる温んだ風が申し訳程度に涼を運ぶ。


「グル、ですか?」

「そう。ひとりが注意を引いて、まんまと財布を出させたところでもうひとりが盗る。人混みを歩くときは特に用心した方がいいね。中にはこっそり鞄を切って目当てのものだけ抜き取る輩もいるから」


 話に合わせて片手で物を掴み取る仕草をして見せる。目を瞬かせる姉弟に苦笑を送ると彼女は立てた膝に頬をついた。


「さっきはあいつらがあんたに近付いていくのをたまたま見ていたからさ。ああいうのは目付きが違うからすぐわかるんだ。恐らくクラレットに行く気なんかさらさらなくて、単に育ちの良さそうな子を狙ってたんじゃないかな。言い分を素直に信じてくれそうな、ね」

「育ちがいい……」


 ワンピースの裾をきゅっと握る。俯いた姿勢でも視界の端に入る白い帽子のつばがアデレードを一層悲しい気持ちにさせた。そんなつもりで選んだ帽子ではなかったのに。

 ぽんぽんと肩を小さく叩かれアデレードは顔を上げた。視線の先で紫紺の瞳が柔らかく細められていた。


「あまり気にしないことだよ、いろんな人がいるんだから。できる範囲で自衛したら、あとは寄り道しないで行くのがいいね。……さて、あたしもそろそろ行くとするか。日暮れまでにクラレットに着くのは確かに難しそうだし」

「クラレットですか? では今からあの列に?」

「いや、明日の朝また出直すよ。この近くに村があるって聞いたから」


 女性は前髪を掻き上げ立ち上がると村の方角を指し示した。それまで大人しく話を聞いていたアッシュは導かれるまま彼方に視線を投げる。口許に手をやり思案に耽ったのはほんの一瞬。身なりを整える彼女を仰ぎ「もしよろしければ」と声を上げた。


「よろしければご一緒しますか。私たちが向かうメリアントはヴィーナ湖のほとり。クラレットのちょうど対岸です。二日に一度定期船が出ていますよ」

「……ええ?」

「仰る村は確かにここから一番近い。昼前に通ったとき、何故こんなに人が多いのかと疑問だったんです。今やっと理解できました。……メリアントの船も混んでいる可能性は高いですが一度にさばける人数はこことは段違いのはずです。なので、よろしければと。これも何かの縁ですから」


 口角を上げ、そんな誘い文句を口にしながらもアッシュは話の最後に「私たちを不審に思うなら遠慮なく断って頂いて構いません」と付け加えた。しばし考え込む素振りを見せていた女性はその途端に破顔した。


「不審に思ってたらそもそも助けてなんかいないよ。あんたも、あんたのお姉さんも素直でいい子だっていうのはわかってる」


 始めにアッシュを、次にアデレードを窺うように視線を合わせた女性はやがて口の端に承諾の笑みを乗せた。


「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな。──あたしはアネッサ。しばらくの間よろしくね」

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