第44話 上機嫌な立華一織

火曜日から更新再開します!


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 例え呼び方が変わったとしても関係は変わらない。呼称はあくまで呼称でしかなく、それは関係性の本質を表さないからだ。例え立華さんが今日から俺の事を「山吹さん」と呼び始めたとしても、それでいきなり疎遠になる事はない。


「立華さん……?」

「…………」


 立華さんはバックヤードの椅子に座り、真剣な表情で今週の売り上げグラフを眺めている。集中しているのか、俺の呼びかけは耳に入っていないみたいだ。


「立華さん?」

「…………つーん」


 前言撤回、バッチリ聞こえていた。立華さんはわざとらしく俺から顔を背ける。昨日去り際に放った一言は冗談じゃなかったのか。一晩経ったら冷静になってくれると思っていたのに。


「…………立華さん?」

「あーあ、何も聞こえない。何も聞こえないなあ」


 呆れたような声がバックヤードに響く。更衣室の鏡で見た目をチェックしていた古林さんが何事かと顔を覗かせた。「何かやったんですか?」そんな疑いの目が俺に向けられていたので、慌てて首を横に振る。


 …………言うのか?


 今ここで?


 古林さんもいるのに?


 それは物凄く高いハードルに感じた。でも、立華さんがこの先ずっとこの態度を取り続けるというのなら、遅かれ早かれ古林さんには絶対にバレてしまうだろう。ならもういっそ今楽になってしまった方が良いような気もした。何にせよ、日常的に立華さんの事を名前で呼ぶのは俺の気力が持たないと思うけど。


「…………い、一織?」

「何だい夏樹?」


 振り返った立華さんは凄くいい笑顔だった。視界の端では、古林さんが目玉が飛び出そうな勢いで俺達を見ていた。そうだよな、びっくりするよな。俺も同じ気持ちだよ。


「いや、何でもないんだけどさ…………本当に名前で呼ばなきゃダメかな……?」

「別に構わないけど、聞こえないかもしれないよ。立華って聞き取りにくいから」

「全然そんなことないと思うけど……」


 立華さんの意思は固いようだった。これはもう腹をくくるしかないのか。呼ぶ度に俺の体力が減少していくけど我慢するしかない。


 立華さんはくるっとパソコンに向き直り、カチカチとマウスを操作する。何か見たいデータがあるのかと思ったけどそういう訳でもないようで、不規則に画面を行き来させているだけだった。いつの間にか古林さんがすぐ横に立っていて「説明を要求します」と書いてある視線で俺を突き刺している。


「…………夏樹さ」

「ん?」


 やる事もないので立華さんの後頭部を眺めていると、立華さんが画面を見ながら呟いた。


「一昨日の夜────起きてた?」


 一昨日の夜。


 俺と立華さんが初めて電話をした夜であり、同時に俺がとんでもない夢を見てしまった夜でもある。あの夜のせいで俺はこんなに立華さんを意識してしまっていた。


「あ、ごめん。あの日いつの間にか寝落ちしちゃってさ。あんまり記憶がないんだよね」


 仕事疲れたー、とかそういう話をしたのは何となく覚えてるんだけど。何か重要な会話をしたという記憶は全くない。


 …………あと古林さん、首を絞めようとするのは止めてくれるかな?


「何を話したとかも全然覚えていないのかい?」

「…………正直」


 ごめんと頭を下げると、何故か立華さんは上機嫌だった。

 …………何で?


「いやいや、謝る事はないんだよ夏樹。今だけはその睡眠欲に感謝しようじゃないか」

「…………?」


 よく分からないが兎に角助かった。立華さんは椅子から立ち上がると、大きく伸びをした。高い腰がさらに上に伸びて、スカートとニーソの間に健康的な領域が出来上がる。蒼鷹生が立華さんを見に来る理由の大部分がこの絶対領域らしい。


「いやあ、良かった良かった。おかげで今日の労働は精が出そうだよ」


 よく分からない態度の立華さんに、俺と古林さんは目を見合わせる。そっと首から古林さんの手を外した所で、朝礼の時間になった。



「一織、ちょっといい?」


 名前を呼ぶ度に、口がふわりと飛んでいきそうになる。流石に名前を呼ばないと仕事にならないので今日だけで何度も口にしているけど、慣れるにはまだまだかかりそうだ。


「どうしたんだい?」


 結局立華さんは今日一日ずっと上機嫌だった。もう九時を回ろうというのに元気溌剌としている。


「そろそろレジ点検しようと思って。一緒に見ていて欲しいんだ」

「それくらいお安い御用だよ」


 立華さんが隣にやってくる。それだけなら良かったんだが、何故かぴとっと身体をくっつけてきた。お互いメイド服姿なので二の腕が直に触れる。


「…………立華さん?」

「…………」

「…………一織?」

「どうかしたかい?」


 ニヤッと笑みを浮かべる立華さん。離れてくれるかと思ったら、逆に肩をぶつけてきた。


「離れてくれないと作業出来ないんだけど…………」

「おっと、そうだったね。これは失礼した」


 一歩離れてくれる。それはいいんだけど、流石に上機嫌すぎて怖い。今までの立華さんだったら勤務中にここまでくっついくる事はなかった。一昨日の夜に一体何があったんだ。


「あのさ、勘違いだったらいいんだけど…………一昨日の夜、もしかして俺何か言っちゃった?」


 おそるおそる訊いてみると、返ってきたのは衝撃的な言葉だった。


「────ボクの事が好きだって言ってたよ。寝言でね」

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