第1話 〝死神〟と〝英雄〟

 ——夢を見ていた。


 みんなと幸せに笑っていられる世界を。

 でも、でも。

 吹雪いて舞い散った桜のように。夜空に瞬いて消えた星のように。

 失ったものが、あって。

 世界は平等だ。平等に全てを与える。

 どうして、こうなってしまったのだろう。

 力をどれだけ尽くしても、大切な存在は消えてゆく。

 自分の前から、去ってゆく。

『約束』は、とっくにもらっているけど。

 オレはお前すらいない世界で、耐えて生きて、いけるんだろうか。

 常にそう、考えてしまう。

 だから問うた。

 絶望に争い続ける彼女、絶望を超えてなお足掻き続ける『死神』へ。

 生きて、戦う意味を。

 ……彼女は笑って言った。


 ——未来のため、と。


 ああ、なるほど。

 築き上げた屍の山に、未来の答えがあるのなら。

『英雄』は、再び立ち上がれる。






「——レイン、全てが終わったら子供を作ろう」






 どうしようもなくリアルな夢を見ていた気がする。

 もう思い出せないけれど、鮮明な情景が過ぎ去っていった。

 いや、いい。

 そんなことはどうでもいい。

 頬を伝うものが血か雨か涙か、それが重要だ。

 きっとどれでも大差ないのだろうが、自分が今どういう顔をしているかを見てみたい。

「これが、戦争ってやつか」

 オレは、戦場の地面だった。

 まだなりかけというところだが。

 考えても見てほしい。ここも、数時間前まではただの荒野でしかなかったのだ。なのに今では火の手が上がり、血と肉と、焼けた木々の臭いが充満する地獄だ。嗅覚も狂ってしまって役に立たない。

「兵士ってなんだよ」

 ——誰のものかもわからないような血溜まりの中に、少年は転がっている。

 そこらに落ちてるガラス片には、ブロンドの髪がなびく、女みたいな男の顔が映った。煤だらけで赤泥まみれの汚い姿と、非常にお似合いの顔だ。鈍く光る金色の瞳には、絶望だけが漂っていた。

「はぁ——」

 オレ——キサラギ・ヒロは、

「弱ぇー」

 かすれた声で、自嘲する。

 なんでこんなことになってるのか。孤立しているのか。もちろん、一人で戦いに来た戦闘狂いってわけじゃない。

 戦闘開始直後は、敵味方入り混じる乱戦(パーティー)だった。オレの何倍も強そうなオッサンたちが、あっという間に次々とやられてくのを、ただぼーっと見てた。

 オレが所属してる部隊の隊長。

 名前はそう、ダヤンだ。

 出撃を前にガッチガチの新兵を、彼が鼓舞してくれたことはよーく覚えている。

 ——ああ、凄かったさ。さすがベテランだ。激励の言葉を聞いただけで、何でもできるような気がしたぜ。

 だけど今、隊長の首は足元に転がっている。おい、本当に隊長か?

 彼の顔は、目ん玉をひん剥いていた。死の間際の表情がそのまま張り付いているわけだ。つい数刻前まで頼もしく見えていた顔立ちから目を逸らし、ヒロは逃げ走ってきた。

 部隊は壊滅状態。はぐれた味方が何人生き残っているのかわからない。

 考えもまとまらない。だから、手元にある己の剣を、オレは何気なく見やる。その刀身には赤黒い血がびったりだけど、それは自分自身がつけたものじゃなく、血溜まりに落としたからであって。

 剣の扱いに慣れていても、人を斬るのはまた難しいものだった。いざ敵を前にした時、自分が何をしたか。ビビって焦って転んだだけだ。

 兵士一人の命がチリ紙よりも軽い戦場でそんなチンタラとしたことをやってれば、役立たずの新兵なんて呆気なく吹き飛んでしまう、はずだったのだが。

 ——もし死神なんてものがいるんだとしたら、そいつは平等じゃないらしい。

 んじゃ、なんだ。えーと、敵の魔法でぶっ飛ばされて。ここで呑気にオレは寝てたわけだ。気絶ってもんを初めて体験したぜ。

 敵にも味方にも、死体だとでも思われてたんだろうな。きっと。剣と魔法の嵐の中、五体満足なのは運がいいとは思うけど……。

 起き上がってみれば、隊長の首がこんにちは。

 あー、やめだやめだ。思い返しただけで気分が悪くなるぜ。さっさと仲間と合流しねえと。アッシュの野郎、マリーたちも、生きてんだろーな。

 そういえばさっきから、腹の下が妙にムズムズするのが鬱陶しいな。クソ、小便でも漏らしたのか?

 ……と、誰のものかもわからない野太い悲鳴が響く。近い。敵か。味方か。オレが知るわけない。一目散に立ち上がり移動する。

 しかし、悪運もついに尽きる。

「おい……マジか」

 黒を中心とした兵装をまとった帝国兵が三人、噴煙の中から現れた。

「敵だ! 一人見つけたぞ!」

 帝国兵は剣を振り上げる。鋭い刃はヒロの首を正確に狙っていた。

 やばい。近づく死の気配。体は動かない。

 やばい。いわゆる詰み、というやつだ。

 剣は動かず、仲間もおらず、守るべき女の子もおらず。

 戦場でただ無様に逃げ惑うことしかできない少年。

 ——まったく、何が英雄だよ。父さんの言う通り、戦争なんてロクなもんじゃなかったな……。

 思わず、オレは目を瞑った。

 せめて苦しまずに……。

 …………ッ。………………あれ?

 いつまで経っても衝撃は訪れない。そして、『何かが崩れ落ちる音』。

 ……なんだ?

 恐る恐るヒロが目を開くと、そこには。鮮血の泉の中で倒れ伏す敵兵たち。ぴくんぴくんと蠢くそれは、徐々に活力を失ってゆく……。

「お前、大丈夫か?」

 ふと鳴いた涼やかな声。女の声だ。

 オレは耳を震わせた方向を見やる。


 ——紅く美しい、一人の少女が立っていた。


 黒髪の少女だった。

 腰に届くほどの、艶やかな黒い髪。

 黒を象徴するほど濃く染まった少女の髪は麗しい。その髪と同化するかのような、全身を覆うタイトな漆黒のスーツに細身の体躯を包んでおり、そこから伸びる艶やかで鮮やかな肢体。整い過ぎた顔立ちと、血に染まったが如き紅の双眸。

 ……ぁ。

 今まさに、危うく死にかけたばかりだっていうのに、オレは彼女に見蕩れてしまう。軍に女性兵がいないことはないが、戦場に女性がいるのはやはり珍しい。どこか気品のある雰囲気もまとっており、澄み切った……されとて吸い込まれるような赤い瞳とその立ち振る舞いは、人の目を惹く。

 とはいえ問題なのが、

 ……しかし若いな。いや一五歳のオレが言えた立場じゃないけどよ。あどけない顔立ちっていうのか? 女兵士ってより、女の子だ。

「大丈夫かと、聞いている」

 少女——そう形容するのが一番相応しい——が、再度オレに問いかける。

「えっ……、あっ……はい」

 オレは口をもごもごとさせながら答えた。

「ッ……これ、あなたが倒したんですか?」

 続けて、それだけの言葉を紡ぐ。声はまだ震えている。

「見ていなかったのか?」

「……?」

 何を?

「見てないのなら、それでいい」

 一人納得した様子で、少女は呟く。

 彼女は長剣を一振り携えていた。その眼下で倒れている兵士たちの奇妙な違和感に気づく。

 外傷が……ほぼない?

 力無く伏せている彼らに、相応しい血溜まりはできていないのだ。ただ、どこまでも透明な彼女の殺意が敵兵を殺したのだということは、確かに理解できる。

 ともかくオレは立ち上がった。

「その……ありがとう、ございます。助かりました」

「怪我はあるか?」

「いえ、おかげさまで無事です」

 全身血まみれではあるが、これは血溜まりで転んだだけで大きな怪我はない。

「そうか。……あちらも、どうやら終わったみたいだ」

 少女は空を見上げながら、言う。

 つられてオレも空を見上げる。明るい発光色の狼煙が打ち上げられていた。

 ——王国軍の勝利の報せだ。

「戦いに、勝った? 終わったのか……」

 終わった? ああ、それはいいことだ。味方は壊滅状態で? 自分はなんの戦果も上げていなくて? そんな状態を勝利と呼んでいいのか。

 でも、命はある。

 とりあえずはそれだけで——、

「おーい、ヒロぉ! 生きてるかぁ⁉︎」

 背後から声が飛ぶ。

 声の方向には、同じ隊の兵士のアッシュの姿。大きく手を振って自らの居場所を伝える彼は、後ろに二人の仲間を引き連れていた。

 リュシー、マリーも……、よかった……無事だったのか。

 煙で視界が悪いせいか、少女の姿は見えていないようだが。とにかく見知った友人の無事に安堵して、返事を返そうとすると、

「お前が、ヒロ」

 再び背後から、声がする。

 これまたオレが振り返ると、先ほどの毅然とした表情と違って、少女の顔はかけらばかりに緩みがあった。

「そう、ですけど」

 反して、オレの表情は強張る。

「…………いや、気にするな」

 ふっ、と彼女の顔に翳りが戻る。

「自分の勘違いに気づいただけ……女か、男か、見た目でわからなかったんだ」

 …………。

 い、いきなり何言い出すんだこの女……。

 少なくともボディースーツに首輪をつけて……なんてパンクなファッションな奴に言われたくねえよ。

 とはいえ、状況が状況。

「あの、あなたこそ……どうして、オレを助けて?」

「味方を助けた。自分は王国に雇われた……傭兵だからな」

 傭兵。

 名声と利益と己の力のみを信ずる、歴戦の強者たち。

 容姿や見た目の年齢だけで考えれば、そんな風には決して見えないがしかし、戦場での立ち振る舞いの貫禄は、まさしく戦士のそれだった。

「自分の名前は…………レイン。今はあらゆる時間が足りないようだ。また、今度話そう」

 レイン……、レイン。

 レイン、と名乗った少女は端的に告げると振り返り、ヒールブーツで小気味よく土を踏みしめながら、走り去ってゆく。

 ……何者だよ、いったい。

 戸惑いつつも、華奢な背中が見えなくなるまで、目で追い続けることしかできなかった。


 結局オレは、アッシュたちと合流した後、友軍に回収されるのを待つことに。その合間にアッシュから簡単な報告を聞き、突然の出会いで失念していた恐怖が再び蘇る。

 同時に——。

 恐怖をものともせず戦場を駆けていった、ヒロとそう変わらない年齢の少女。

 その、美しくも儚げな顔が、彼の脳裏に強く深く刻みつけられた。


 ノールエスト・レムナンティア戦争。

 これは、アイトスフィア大陸北部に位置する、二つの国家による争い。

 一年半前。事は起こった。

 北で勢力を拡大している大国——レムナンティア帝国。彼の国が、大陸北東端の小国であるノールエスト王国に向けて、突如として宣戦布告したのだ。

 侵攻の理由は不明。

 声明では『これは報復である』という旨だけが伝えられた。友好の証として、帝国の第三皇女をノールエスト王が娶ったにもかかわらず、だ。

 唯一考えられる理由として、その第三皇女が若くして逝去されたことが関係しているのではと噂されているが、これもまた真相は闇に包まれている。

 ——冗談じゃない、あまりにも曖昧な、現実だ。

 開戦してからというもの、戦線では水際の攻防が続いている。圧倒的に国力・兵力で劣るノールエストには、敵軍を追い散らす程度の力すらなかった。

 今回、戦場となったジュラート荒野は、両国の国境線のノールエスト領側に広がる土地である。

 オレはこの攻防戦にノールエストの新兵として参加した。

 そう、オレは英雄に憧れていたのだ。

 例えば——たった一つの剣とともに、世界の平和を守ったり。

 例えば——固い絆で結ばれた仲間と、凶悪な怪物に立ち向かったり。

 例えば——助けを求める女の子の前に、颯爽と駆けつけたり。

 そして例えば——不幸なお姫様を、悪逆の王から救い出してみたり。

 そんな存在になってみたかった。

 憧れた理由? そんなの決まってる。原因は父さん。そう、父さんがかっこ良すぎたのが悪いんだよ。間違いねえ。

 守りたいもんを守れる力を身につけろ。父さんの口癖だ。ガキの頃からさんざん剣を振り回してきたんだ。戦える自信がなかったわけじゃない。

 けれど戦場は、半年間の『柔い』訓練を終えた新兵の哀れな妄想を、ことごとくぶち壊した。

 自分で選んだ道なのに、考えが甘かった。

「……、…い!」

 甘い。甘いな。この酒は、甘い……。

「おい! 聞いてんのか⁉︎」

「……ああ。聞いてるよ」

「嘘つけ! 上の空じゃねえか」

 唐突に意識は戻される。ちょっと考え事にふけっていたオレだった。

「レインって名前の女傭兵について知りたいんじゃねえのかよ」

 と——端正な顔立ちと右目の泣きぼくろが特徴的な、垢抜けた薄い茶髪の男、アッシュ・グラハムは、酒が入ったジョッキをカウンターテーブルに勢いよく叩きつけながら、そう言った。

「そうだ。そうだった。どんな些細なことでもいいから、何か知ってることはないか?」

 地獄の初陣から数日経った夜。激動の傷跡も覚めやらぬ中、通常業務を終えたヒロは同僚のアッシュと一緒に、王都のとある酒場へと繰り出していた。

 アッシュとオレは同期だ。奴の方が年齢は二つ上だが、王国軍に入隊して訓練兵になった時からの仲で、共に先の初陣を生き抜いた戦友でもある。

 背はオレよりも高いが決して大柄とも呼べず、手先が器用なくせして片刃の大剣を豪快に扱うというアンバランスな男だ。とはいえ、初陣ではそこそこ活躍したと本人から聞いた。

 実はアッシュの父親は、グラハム商会というノールエストでは五指に入る商会の会長であるらしく、言うなれば『箔』がある家の出だ。しかし、一悶着あって喧嘩別れした後、そのまま軍の詰所の門を叩いて入隊……という、なんとも子供じみた理由で兵士になったらしく——故に、グラハムの姓を名乗るのを、アッシュはあまり好まない。

 もっともこんな与太話を知っているのは、入隊して間もない頃に、明らかに近寄るなオーラを出していたオレに、無理やり自己紹介を垂れたからだが。そのすぐ後、女だと思って声をかけたなどと言われてぶん殴りたくなったものの……話をするうちになし崩し的に仲良くなってしまった、というわけである。

 ある意味攻略されてやがるな、よく考えれば。

 オレの髪はたしかに、ロングと十分に呼べるくらい長いさ。さらに女顔でもあるから、女に間違えられるのはアッシュに始まったことじゃなかった。が、やっぱり男としては複雑な気分になるんだぜ。

「ほら」しかしオレはめげずに、「前はなんかさ、やべー女騎士の噂話してただろ」

「あー、あのプロパガンダ姉さんなら、可哀想に。前線であっさりおっ死んだらしいよ。何も本当に戦場に行かせることないのにな。聖女様も楽じゃないってか」

「そりゃ可哀想だがあの人は多分、そんなんじゃない。そんなんじゃ、ねえよ」

 あの少女は、おそらく本物。

「黒い髪の女兵士ねぇ」

「傭兵」

「黒い傭兵ね。うーん、聞いたことがあるような、ないような……」

「どっちなんだよ」

 歯切れ悪く答えるアッシュに、グラスを少し傾けながら不満を漏らす。

 ったく、酒飲みが……でも、噂好きのこいつが知らないなら、マリーとリュシーに聞いたところでだろうしな。

 適当な答えに辟易とするも、頼るところが他にあるわけでもない。そもそもオレが所属する部隊は今回の戦いで、オレとアッシュを含め四人しか生き残っていない。隊長以下一九名は帰らぬ人となった。

 王国軍は戦いの後、被害を算出し部隊を再編成。そこで再びアッシュと同じ部隊になり、一応の祝杯ということで酒を飲み交わしているわけだ。

「そいつは剣士なのか?」

「帯剣してたから、たぶん剣士だとは思う。……まあ、敵を剣で斬ったって感じはしなかったけど」

「はあ……そりゃあ珍しい。なに、殴り倒したの?」

 なんだそりゃ、といった様子でアッシュは目を丸くする。

「いや、なんていうか……思い返してみれば、そんな致命傷じゃないだろ?みたいな。敵の死体が魔法をかけたみたいに、綺麗なままというか」

「……『魔法』、ねえ」

 魔法、とは。

 人間は誰しも、多かれ少なかれ『魔力特性』という超常の力を秘めており、それを用いて頭の中の想像イメージを通じて、さまざまな事象を引き起こすことを『魔法』と呼んでいる。

 そして、それを行使できる者を『魔法使』と呼び、個人によって『才能』はあるものの、日常にせよ、戦場にせよ、数多の場所で活躍する超常の力というわけだ。

 オレも少し特殊とはいえ、一応使える。『剣一本で戦場を駆け回る』にはうってつけの力だ。アッシュも、実戦ではあまり役立たないが、『変身魔法メタモルフォーゼ』と分類されるユニークな魔法を持っている。

 だから互いに、ある程度の知識はあるが……、

「ま、そもそも目を瞑ってたから何とも」

「おいおい……そもそもお前を殺そうとした奴らはちゃんとくたばったんだろうな? 峰打ちとかじゃなくて」

「ああ……それは間違いない、絶対に。……目が、死んでた」

 思い出したくもねえ。首だけになった元小隊長と同じ『色』だった。

「なるほどね……」アッシュは一人頷き、「眉唾物だが一つ、女って点でいえば当てはまる噂がある。『死神』って呼ばれる女の話だ」

「そのいかにもな名前の女がどうしたって?」

「聞いて驚け。その『死神』はな、目を見ただけで人を殺せるらしいぜ。お前の言うわけのわからん敵の死に方は、もしかすると、だ」

「目を、見ただけ……」

 目を、合わせる。

 おおよその一対一の戦闘行動において、その状況が起きないことなどないと言っていい。人は、特に優れた戦士は、相手の肉体的な動きのみならず目線、殺気を読み取って戦う。そのスキルが肝心なわけではなく、無意識に読み取ろうとのだ。

 如何程の脅威か。

「そんなことが本当にできるんだったら、対人戦なら無敵だな」

「奴の逸話は数だけは多くあるぜ。曰く、彼女は万の軍勢をも一人で相手取ることができる。曰く、彼女にはどんな魔法も通用しない。曰く——彼女は絶世の美女である……ってな」

 なぜか得意げに、アッシュは渾々と『死神』とやらの逸話を枚挙する。

「無茶苦茶盛られてるじゃねえか」

 言いつつ、オレはすでに馬鹿らしくなっていた。こんなの戦場によくある馬鹿話の域じゃねえか。

 アッシュの口が重かった理由もわかるというものだ。

「絶世の美女ね」

「らしい」

「たしかにあの人も綺麗な人だったけど」

「じゃあそうなんじゃねーの?」

「さあ。さっきのプロパガンダ騎士様といい、美しいのがそんなに大事なのかね」

「人間ってのは、大抵幻想を抱くもんだろ。女の子だってんなら、綺麗に越したことはねえ」

「そんな『化物』が綺麗だったところで嬉しいかなぁ」

 だいたい、恐怖の方が勝っちまうんじゃねえのか?

「ま、言っただろ。あくまでも噂だってな」

 アッシュは冗談めかして肩をすくめる。

 んだよ……こいつも信じちゃいねーのか。

「一応、助かった」

「おうよ」

 そこでアッシュは、ジョッキの中の酒をぐびっと再び飲み干し、テーブルに置く。そうして、オレの『奥』を見透かすような笑いを浮かべて言った。

「で、お前、その女のどこが気に入ったんだ?」

「……どういう意味だ?」

「わざわざ探し回るってことは、そいつに気があるんだろ?」

 オレはいきなり心臓を掴まれたような気分になった。

「ばっ、そんなわけねえだろ!」

 慌てて否定するが、

「きゃっ!」

 仰け反った拍子に給仕をしていた少女に肘をぶつける。

「あ……すみません」

「いえ、大丈夫です」

 幸い少女はよろめいただけのようで、料理を床にぶちまけていない。少女は頭を下げると、いそいそと他の客の元に料理を運びに向かう。

「……」

「…………」

 少女を引きつった笑顔で見送ったヒロが、再び弁明のため振り向くと、彼は先ほどよりもさらに意地の悪い笑みを浮かべていて……、

「予想以上の反応だなぁ、おい。ひょっとして、図星か?」

「お前な……オレは彼女の名前くらいしか知らないのに、いきなり好きになったりするかよ」

 たしかに、彼女に興味がないと言えば嘘になるさ。そりゃあ、そうだろ? 唐突に名前を聞かれたり、なぜかまた後で話そうと言われたり、よくわからないことだらけだしな。

「んじゃ、嫌いなのか?」

 ここぞと、アッシュは顔をぐいっと近づけて、言う。

「嫌いなんかじゃねえけど、そもそも好きだとか、そんな話じゃないだろ……」

 綺麗だったのは認めるけど……と、心の中だけで呟く。見蕩れてたことも内緒の話だ。

「はぁー。こりゃ、次の戦いは危ねえかもなぁ。死神に恋をしちまった馬鹿が同じ隊にいたんじゃ、命がいくつあっても足りやしねえぜ」

「おい……それはあくまで噂だって、お前が言ったんだろ」

「細かいことは気にすんなって! 頑張れよ!」

 アッシュが快活に笑ってオレの肩を組む。

 酒臭っ! 相変わらず酒に弱いな、こいつ。だから飲むなって言ったのに。

 鬱陶しく絡んでくる友人を引き離すと、グラスに残った酒を飲み干し、軽くため息をつくヒロ。明日の非番をいいことに、すっかり酔いつぶれてしまったアッシュを、これから兵舎に連れて帰るのかを考えて億劫になっていた。

 吐かないでくれよ、頼むから……。

 酔っ払いたちの喧騒の中、夜が更けていく——。


アイトスフィア歴六三三年九ノ月一二日


 朝日が差し込む王国軍兵舎の一室で、オレは目を覚ました。

 どうにも変な夢を見たような気がしたが、とっくに記憶は朧げになっている。

 寝ぼけ眼で壁に備え付けてある時計は、長針は五時の手前を刺していた。夜が明けて少し経ったくらいだ。同室のアッシュは当然、夢の中である。

 起き上がっていつもの白シャツを羽織る。そして、肌身離さずと言っていいほどに常に持ち歩いている愛剣を、ベッドの下から引っ張り出してくる。

 東洋の国に古くから伝わる剣。『カタナ』と呼ばれているらしい。刀身が少し曲線を描いており片刃で、そのぶん扱いは難しいが、斬れ味は抜群である。柄の部分には、『大地ノ剣』と銘が彫られていた。

 この剣は、今現在行われている戦いで戦死した父さん——カイトの肩身だ。二本の剣を持っていた父は、隻腕故に対の剣を息子に託し、母の形見の方を持っていった。荒々しく掘られたその文字に、自然と持ち主のことを追想してしまうのは仕方のないこと。

 ったく、冒険者って奴は……最後までかっこつけやがる。

 そして母さんも、オレがまだ物心着く前に死んだ。

 今は季節病となった流行りの病で、当時は為すすべもなかったと聞いている。銀色の髪と金色の瞳の、魔性の美貌を持つ女……。オレのギラギラした金眼は、母親由来なんだろう。

 どいつもこいつもガキを置いてくなよってのが、オレの一番の感想だが……まあ、過去の話だ。

 男手一つで育てられたことも、剣を教えてもらったことも。

 国に父親が殺された話も。

 開戦直前。地力で圧倒的不利な王国軍は、戦力不足を補うために兵を急募していた。そりゃあ父さんが、どんな冒険譚を紡いで、どんな偉業を成し遂げてきたかなんて知ってるさ。息子だぞ。けどたった一人の父親なんだ。

 ああもう。クソみたいにしつこかったのを覚えてる。今でもあの役人の顔に唾を引っ掛けてやりたいぜ。

 当然、任意ではあった。が、嫌ならこの国から出て行けと言わんばかりの、クソみたいな対応だったこともはっきりと、この目と耳に記憶している。何が王のためにだ。てめえらがこっちに何をくれたんだ。威光を掻っ攫っただけだろうが。

 そんなことだからオレは、傭兵として参加するという条件の下、召集に応じると言い出した父親を全力で止めた。正直、ありえねえと思った。

 しかし、ここはオレの故郷ふるさとだから、というそれだけの言葉を繰り返す『男』を、クソガキに止めることなんてできなかった。

『心配すんな、ヒロ。必ず帰ってくる。戦争なんてロクでもねえモン、さっさと終わらせてきてやるよ』

 一年後——。

 父親が戦死したことを、淡白な一枚の手紙によってオレは知った。

 その知らせを読んで、何を思ったんだったか。お国のために立ち上がったわけではないことは確かだが、父親を殺されたことへの復讐……というわけでもない。

 ただ、いた。

 困っている人々を助け、女の子を救い、華々しい誉れとともに『英雄』になる。

 子供の頃、男なら誰もが考える夢物語。

 それを体現したかのような冒険を成し遂げてきた父さんは、幼いオレにとって理想の英雄像だった。

 でも——『英雄』は死んだ。

 だから、己の英雄あこがれが破れた戦争てきを超えたかった。

 ただ、それだけ。

 一四歳の半ば頃。自分の剣に確信を持ったヒロは、村の人たちが止めるのを跳ね除け、決して多くない全財産と遺された剣を持って王都へ登った——。

 はっ。なんだよ。よくよく考えたらアッシュのことを馬鹿にできないくらい、オレも馬鹿だ。

 その結果が危うく命を落としかけ、たまたま見知らぬ女性に命を救われる。

 笑っちゃうような、そんな有様。

 英雄への幻想は、いともたやすく打ち砕かれて。

 ただ、兵士を辞めようという気は不思議となかった。勇気でも無謀でもない。ただ、ここで逃げてしまったら何も残らないような確信があったのだ。

 物思いに耽りながらも、朝霧が漂う兵舎の裏手に向かう。

 当然だが誰もおらず、目立つものがあるとすれば、アッシュが実家で手に入れたらしい、『サクラ』とやらの木があるのみだ(アッシュはこう言っていた。『絶対に他の地域では咲かないってもんをさ、咲かせてみたらかっこよくねえか?』)。いろいろ小細工を使った——魔法的ふしぎなスパイスとか——とはいえ苗木から樹と呼べるくらいの高さまで育てた彼を、オレは少し見直した。

 朝はいつも早起きで剣を振っている。故郷にいた時からの日課で、剣を振っている時が逆に一番落ち着けるのだ。

 趣味は剣を振ることですと答えるくらいには、剣に狂っていた。

 女にも、食にも、寝ることにも愉しみは見出せない。

 考えれば考えるほど、何もない自分に嫌気がさす。今はその不安を打ち払うべく、こうして剣を振っているのかもしれない。

 ただひたすらに幻想の敵と切り結ぶ時間が過ぎて——。

 三〇〇は、虚空を裂いた後。

「……今日はこんなもんか」

 髪を伝う雫を振り払って、オレはカタナを鞘に収める。もう十分に汗をかいた。

 通用口から自室に戻る。タオルでも持ち歩くべきか、でも邪魔だしな……、などと考えつつ、二段ベッドの下段に腰をかけると汗を拭う。普段通り、それこそ己のパーソナルスペースに入って油断しきっていたところで、


「精が出る。こんな朝早くから」


 女がいた。

「のわッ——⁉︎」

 瞬間的にオレは構えるが、それは形だけのもので。

 女はごく自然にオレのベッドに腰掛けて、それはそれは、自分のものであるかのようにくつろいでいて。ましてや、微塵も気配を感じなくて——、

「どうしたの? 奇妙な声をあげて」

 ここ数日、戦場での恐怖と共に頭を離れなかった紅い少女——人物は、本当に不思議そうに小首を傾げて、そう言った。

 おかしな存在におかしいと言われるのが、どれだけ『奇妙』に思えるか。言葉に詰まるのも致し方ないというものだろう。

「ん〜、うるせえぞ、ヒロぉ。今日は休みだろうが……」

 と、頭上から、がさがさと体を起こす音が聞こえた。

「……さすがに起きてしまったか。一応、気配を消して大人しくしていたが……お前が声をあげたのも悪い」

 と、わずかながら口の端をすぼめる少女だが、あいにくそれどころではなかった。

 ——まずい。これはまずい。

 年頃の女と同一空間で寄り添っているという状況が、脳内の過半数を常に『ガール』という文字で埋め尽くしている野郎の目にどう映るか——。

 これ以上、考えている余裕はなかった。

「ちょっと……こっちに!」

 少女の片腕を引っ掴んで部屋から連れ出す。続けて裏口へと向かう。オレにしては強引に事を運んだ。

「おーい、ヒロ? おーい?」

 アッシュがオレを探している。

 危ねえ……。

 ……それはそれとして守衛は何やってんだよ。スルーか。スルーでいいのか?

 オレの想いとは裏腹に不器用な行軍を通用口の衛兵が咎めることはない。つまり彼女は兵舎に入るにあたって正当な手続きを踏んだ、ということであるが、焦ったオレからはその選択肢は抜け落ちている。むしろやばい魔法でも使っているのではないかと邪推すらしていた。

 再び、兵舎裏へと移動する。

「意外に積極的なことをするんだな」

 と、足を止めるなりそんな声を出す少女に、腕を掴んでいたことを思い出す。黒張りの布越しの肌は妙にゴツく、筋肉質、とはまた違った感触がした。

 落ち着いたからこそこういった別の思考が回るわけだが、同時に自分が行った大胆な行動に気づくわけで。

「っ……急いでたから、つい」

 すぐに腕を離し向き合うが、何も言葉が出ない。

「それは気にしていない。それよりなぜ、部屋を移動した?」

「いや。だって、部屋にはアッシュがいるし……ってか、そもそもなんでオレの部屋に……」

「なんでとは……お前に会いに来たからに決まっている」

「……オレを、探してたんですか?」

「言ったはず。また会おう、と」少女はなんでもないふうに言うが、わずかに間を置いて首筋に手をやると、「…………覚えて、ないのか」

「……レインさん、ですよね」

「…………そうだ」

「です、よね?」

 歯切れの悪い返事に、ひょっとして別人か? と不安になる。

 深く腰に届いていた髪先は頭の低い位置で結ばれており、なぜかが、間違いなくあの時の少女のはずだ。

「——なんでもない。さすがに覚えているようで安心した」

 首をわずかに振ったレインさんは、遠慮なしといった感じでオレに近寄ってくる。

 それこそ——剣の間合いくらいまで。

 何よりレインさんの服装は、一言で言って、オレはたまらず目を逸らした。

 ところどころが拘束衣じみたピッタリとしたジャケットの内で、特大の胸ははちきれんばかりに存在を主張しており、コルセットのようなものでキュッと締められた腰と合わせて美しい造形を描いていた。そこへ繋がれるショートストレートスカートと太腿をキツく絞り出すロングブーツが、晒された絶対領域をより強調させている。

 戦場で纏っていた妙に艶かしい全身ボディスーツも蠱惑的であったが、こちらも体のラインをより良く見せるエロティックなファッションであった。

 ——って、何を真剣に考察してんだよ、オレは……。

 慌てて、別のことに思考を無理やり持っていく。

 傭兵……傭兵ってわりには今日は武器を持ってないよな。オフの格好? 一応、私服ってやつなのか、いやとんでもないセンスだけど。無理だ。どうしても体を意識するだろ。

 それぐらいインパクトのある肉体なのだ。

 戦場では意識することのなかった『女』に、オレの思考は半分乗っ取られていた。

「命の恩人を、簡単に忘れないですよ」

「まあ、当たり前のことだと思う」

「はあ。そうです、よね」

「おまえ」「あなたは……」

 言の端が被る。

「……先、どうぞ」

「おまえは、ヒロ、で間違いないか?」

 それは、先の戦場と同じ言葉で。

「え、はい。キサラギ……、キサラギ・ヒロです」

「キサラギ、か。……やはりヒロの方が呼びやすい」

「そう、ですか」

「次はお前の番だ」

「へ、」

「さっき、お前も自分に何か聞こうとしていた」

 何を聞こうとしたか忘れてしまった。

「ああ、そうでした。…………えと、その髪型もいいですね?」

 ヤケクソだった。

「そう、ありがとう。——まあ、それはそれとして」

 そうして息を吸ったレインさんは、

「ヒロ」

 いきなり、名前を呼んで。

 そして、


「——自分と、セックスしてほしい」

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