十七の話

 足音の主は、ふたりに気づかず厠に入っていった。

李花は安堵し、薄い胸をなで下ろす。しかし、老人の腕を見ると、無意識に眉をしかめてしまった。

 傷口を圧迫して止血したつもりが、できていない。止血しようにも、紐も布も持っていない。

 李花は気ばかりがいて、何もできない。何もできない自分が、苛立たしい。

 老人は、怪我をしていない方の手を伸ばす。びくりと震えた李花の頭を、二度、軽く叩いた。

「わしは、お嬢ちゃんが好かんよ」

 言葉とは裏腹に、老人は皺の深い顔を綻ばせる。

「あんたは、心根の優しい子だ。ただ、それだけでは損をする」

 ふところを探り、出したのは、印籠いんろうの形をした薬入れだ。

「手が荒れているな。これを使いなさい。狸の油だ。何にでも効くよ」

「では、お怪我に」

「あんたが使いなさい」

「でも、お怪我なさっているのに」

 老人は李花に薬入れを押しつける。

「あんたがわしにかまってくれたように、わしはあんたを見捨てられなかった。それだけの話よ」

 血の止まらぬ腕を押さえ、月を見上げる。

「世の中は、あんたが思っているほど厳しくはない。誰もが持ちつ持たれつの間柄で、感謝しながら暮らしている。それを忘れてはならない。感謝を忘れて他人から搾取することだけに気を取られた者とは、つき合ってはならぬぞ。お嬢ちゃんの優しさは取り柄であるが、つけ込まれやすくもある。少しは狡賢ずるがしこくなりなさい」

 老人は、ふらふらと歩みを進める。倒れてしまうのではないかと李花は心配になったが、先に言われてしまう。

「この先に、かくまってくれる者がおる。だから、お嬢ちゃんは心配しなさんな」

 ざり、ざり、と砂が鳴き、老人の背中が遠くなってゆく。

「あの」

 李花は薬入れを握りしめ、唾をのんだ。すると、するりと次の言葉が出る。

「お薬、ありがとうございます。大切に使います」

 老人は歩みを止めるが、振り返らない。それでも、李花は頭を下げ、訊ねる。

「あなた様は、お医者様ですか?」

「いいや、彫り師だ」

 背を向けたまま、老人は答えた。

「彫り師、蜥蜴とかげ。そう呼ばれていた」



 冷たく乾いた風が吹く。

 李花は今頃になって、鼻の頭も足先も冷えていることに気づいた。

「李花」

 温もりのある優しい声に呼ばれ、李花はその方を見上げた。

未明びめいおにいちゃん」

 未明は目をしばたかせた。色の薄い髪は、月明かりを浴びて輝く。

「寒いだろう。何かあったのか」

「ご老人が怪我をされていました。手ぬぐいで傷口を押さえたのですが、血が止まらず、それなのに、行ってしまいました。私にお薬をくれて」

 李花は、薬入れを未明に見せる。

「狸の油だそうです。何にでも効くそうです」

「民間療法じゃねえか」

 ばっさりと言葉で切り捨てるも、未明はその薬を李花の手に塗ってくれた。空気が冷たくて寒いのに、手は熱を帯びて熱くなる。心臓しんのぞうが早鐘を打つ。

「おいで、李花」

 李花は未明に抱きかかえられ、落ちないように抱きつく。

 はらり、と白いものが一片ひとひら舞った。

風花かざはなだ。どこかで雪が降ったようだね」

「まるで、お花みたいです」

 李花がこぼすと、未明は李花の背中を撫で、そうだね、と笑みをこぼした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る