六の話

 ぎのない着物に袖を通したのは、初めてかもしれない。

 着古ししかなくて、ごめんね。着物を見立ててくれた飯屋の娘に言われ、李花は慌てて首を横にふった。

「とんでもないことでございます。私には勿体もったいないです」

 無地だが紅色が鮮やかな着物は、自分よりももっと似合う人がいるはずだ。そう思ったが、着物を頂ける手前、変なことは言えなかった。

 追い出されるように旅籠屋を出て、未明びめいの知り合いだという飯屋に転がり込んだ。

 朝早いというのに、飯屋の主人は嫌な顔ひとつせず、未明と李花を迎えてくれた。

 白粉おしろいが崩れ、下卑げびて派手な着物を着させられた李花を、飯屋の娘が面倒をみてくれる。

「よく生き抜いてくれたね」

 着付が終わり、娘は櫛で李花の髪を梳く。

「あの旅籠屋は、働き手をこき使うって噂が絶えないんだよ。あなたくらいの歳の子を外に出さずにいいように働かせているって。でも、旅籠屋を裁く罪状はないから、お役人様に訴えることもできない」

 李花は話を聞きながら目を伏せ、震える手を握ったり開いたりする。

 李花ほどの歳の人は、何人か働いていたと思う。親しい人はいなかった。皆、言いつけられた仕事を行い、罵倒され耐えることで精一杯。給金をもらっていない、と女将に訴えた人は、激しく叱責され、薪で殴られた。



 ――着るものも食べるものも住む場所も用意してやっているんだ。給金からその金を差し引いて、お前に渡す金が残るとでもいうのかい。お前はそんなに働いていないよ。むしろ、足りない分を支払ってほしいね。



 もちろん、李花も給金を戴いたことはない。

 着るものはあった。継ぎ接ぎだらけの、寸足らずの色褪せた着物が。

 食べるものはあった。白湯のように色も味も薄い、汁と粥がわずかに。

 住む場所もあった。夏は朦朧とするほど暑く、冬は歯の根が合わぬほど凍える、使用人部屋が。ほとんど布一枚のような、薄い布団も。

 体は毎日のように清めることができた。一年中、氷のように冷たい水を頭からかぶって。

 日の光の下を歩いたことは、ほとんどない。洗濯物を干すときに表に出るくらいだ。

 それに対し、大の大人は酷い扱いを受けず、しかし女将に何を言われても黙って従っていた。

 つらい、とか、逃げたい、と思うことはなかった。何かを感じる気持ちが麻痺し、唯一の感情らしい感情は、恐怖心しかなかった。犯されたくない、という恐怖心だけ。



「赤の他人のあたしが言うのもなんだけど」

 娘は李花の髪を、布紐で束ねてくれた。

「ありがとう。生きてくれて」

 娘が鼻をすする音が、一度だけ李花の耳に入った。



 とん、と。

 李花の胸の内から、胸を打つものがあった。

 目頭が熱くなる。体の内からほのかに熱が生じる。

 李花の脳裏をよぎったのは、昨夜の出来事。未明に手をさすられ、握り返した、ぬくもり。

「はい、できました」

 娘に背中を軽く押される。

「可愛い! 李花は美人なんだね。あと二、三年もすれば、もっともっと綺麗になるよ。いいなあ」

 あなたこそ。口から出そうになった言葉を、李花は飲み込んだ。明るく、はきはきした娘の方が、李花なんかよりずっとずっと美しい。そう思っても、口に出すことははばかられた。気を悪くしたらどうしよう。罵られたらどうしよう。恩人の気を悪くさせることは、できない。

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