その16:いざ城下へ!
ベルナデットが紅茶を飲んでいる間に、アンリエットは頭の中で経路を確認する。ティーワゴンに隠れたベルナデットを堂々と連れ出すつもりだが、ぼろを出さないためにもあまり人には会いたくない。
アンリエットの服も持ってきている。セルジュと出かけるときに最初に着ようとした簡素なグレーのワンピースだった。城門を出る前にこっそりと着替えるためにもすぐに脱ぎ着できるワンピースは便利でいい。
「そろそろかしら?」
にっこりと微笑んでベルナデットがティーカップを置く。
「そろそろ、ですね。ベルナデット様、心の準備はよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
それでは、とアンリエットは息を吸い込んだ。むしろ心の準備が必要なのはアンリエットかもしれない。
バレたらどうなるだろうかという恐怖はある。けれど、ベルナデットとこんな無茶ができるのも最初で最後だろう。
吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。
華麗なる脱走劇の始まりだ。
ワゴンを下げに行ってくる、と言ったアンリエットを侍女たちはもちろんそれは自分たちの仕事だと言って止めたが、言い訳はちゃんと用意していた。
「ベルナデット様にお使いを頼まれてしまって。このまま城下に行くついでですから」
こう言っておけば、アンリエットがしばらく戻ってこなくても不思議だとは思われないはずだ。侍女たちもそうでしたか、と納得してくれた。
嘘をつくことには慣れなくて、今も心臓はばくばくと音をたてている。しかし『ベルナデットに頼まれて城下に行く』ことは嘘ではない。
「ベルナデット様は先ほどお眠りになったので、起こさないで差し上げて」
親衛隊の仲間たちにはそう一言添えて、ベルナデットが身を潜ませるティーワゴンを押して行く。怪しまれないように、ゆっくりと、早足にならないように注意した。
ベルナデットの私室から離れ、人の気配がないことを確認すると、アンリエットはベルナデットに声をかけた。
「ベルナデット様、もう出てきて大丈夫ですよ」
「あら、でもまだ城内でしょう?」
それほど移動していないことはベルナデットにもわかるのだろう。ベルナデットは顔も出さず、声だけが小さく聞こえる。
「さすがにこのまま外には行けませんから」
ベルナデットはそろりとティーワゴンの下から出てくる。王女様に随分と窮屈な思いをさせてしまった。
「そこに隠れていてください。これ預けてきちゃいますから」
遠くに見えた侍女に、ワゴンを預けに行く。
ベルナデットは言うとおりに、物陰に身を潜めていた。
それから裏庭を抜けて使用人や騎士たちの使う通用門へと向かう。途中でアンリエットは木の陰で騎士服からさっとワンピースに着替えた。平素の騎士服はシンプルなもので正装ほどごちゃごちゃしていないから、多少はかさばるが丁寧に畳んで鞄に詰め込んでしまえばいい。もちろん、もとは着替えのワンピースを入れていた鞄だ。
「はい、これをどうぞ」
「眼鏡?」
「伊達ですけどね。あと帽子を被ってください。さすがに通用門で誰にも会わないっていうのは無理ですから」
一瞬だけ誤魔化すことができればいい。通用門にいる門番はたいていが顔見知りだから、アンリエットが通るときにそれほど警戒はしないはずだ。
まして王女様がこんな格好で通るとは思わないだろう。
通用門が近づくにつれ、アンリエットの心臓は痛いほど鳴っていた。ここが最後の難関だろう。
思ったよりもスムーズに抜け出せたからなおさら、人と顔を合わせなければならない門は緊張感が増す。
「……あれ?」
門番はアンリエットの知らない人だった。
交代制とはいえ、門番はそれほど多くもなく、貴族とはいえ庶民派のアンリエットは見習い騎士の頃から通用門を多く使ってきたから全員が顔見知りのはずなのだが。
たらり、と冷や汗が流れる。
(だ、大丈夫かな……)
顔見知りゆえの油断を計算に入れていたのに。まさか今日に限って知らない人だなんてそんな偶然があるだろうか?
「……お疲れ様です。えっと、いつもの人じゃないんですね」
おそるおそる声をかける。ベルナデットは深く帽子を被ったまま俯いていた。
「ええ、今日一日臨時で。体調不良などで代われる者がいなかったものですから」
「そうなんですね。ベルナデット王女にお使いを頼まれたので城下に行ってきますね」
親衛隊であることを示すブローチを見せる。
「こちらの方は?」
「ベルナデット王女付きの侍女です。ごめんなさい、この子人見知りで男の人に慣れていなくて」
ベルナデットが話を合わせて怯えるようにアンリエットの背に隠れた。
「何かあればベルナデット王女に確認をとってください。こちらが身分証です」
侍女には騎士のようにブローチは与えられていない。門を通るためには上司等の証明書が必要になるが、当然ベルナデット本人が書いたものなので問題ないはずだ。
「確認しました。お気をつけて」
「ありがとうございます」
にこやかに挨拶をして、アンリエットは門を通過した。ついベルナデットの手を握ってしまったが、しっかりと握り返されたのでベルナデットも緊張していたのかもしれない。
門を出て、橋を渡る。少し歩くと人通りのない街角に着いた。王城から城下まで近いのがエヴラール王国の王都の特徴でもあった。
無言のままここまで来たが、二人は誰もいないことを確認すると、はー、と息を吐き出した。
「ふふ、ふふふ、すごい! とっても緊張したわ! バレるんじゃないかひやひやしちゃった!」
「あたしだってそうですよ! まさか門番が知らない人だと思わなくて! いつもなら顔パスなのに!」
顔を見合わせると、じわじわと笑いがこみ上げてきてアンリエットもベルナデットも声をあげて笑った。
「すごい! 来ちゃったわね!」
「あんまりはしゃがないでくださいね。それに、一時間ちょっとで帰りますから!」
「もちろんよ! わかっているわ!」
そう言いながらもベルナデットは楽しそうにきょろきょろと周りを見ていた。まだ城下街の端っこだ。見たところで楽しいものなんてないはずだが、ベルナデットにとっては何もかもが目新しいものなのだろう。
「大通りに行きましょう。露店なんかもありますから」
アンリエットはベルナデットの手を差し出した。街中ではぐれるわけには行かないし、手を繋いでいたほうがいいだろう。そもそもベルナデットは人混みにも慣れていない。
「そうね! しっかりエスコートしてくださる?」
「お望みのままに」
茶目っ気たっぷりに微笑むと、ベルナデットは満足気にアンリエットの手を取った。
さすがに買い食いは、と思っていたアンリエットだが、驚くことにベルナデットから「あれが食べてみたい」と飴細工を所望された。
ベルナデットに選んでもらって、猫の形の飴と、鳥の形の飴を買う。
「鳥はアンリのよ」
猫はどうやらベルナデットのものらしい。自由気ままなベルナデットにはぴったりだ、とは思っても口に出さないでおいた。
ふと、セルジュと行った店の近くに来て、アンリエットの顔が曇る。ベルナデットの髪を飾るリボンを買ったあの店だ。
(あのリボン、結局少ししかつけずにまた机の中か……やっぱりもったいないかなぁ……)
けれど、使ってみたいという気持ちはすっかり萎んでしまった。
セルジュには心に決めた人がいる。
ならどうして、アンリエットにやさしくしてくれるのだろう。昼食だって、わざわざアンリエットと一緒に食べる必要はないのではないか。アンリエットの予想通りセルジュの想い人がルイーズなら、一緒に食堂に行けばいいのに。
沈んだ顔のアンリエットを見て、ベルナデットは意地悪く微笑む。
「あら? 浮かない顔ね。わたくしとのデートはそんなに退屈かしら?」
「い、いいえ! そんなことないです!」
慌てて首を振るアンリエットに、ベルナデットは帽子を被り直しながら微笑んだ。
「行き交う人たちが皆楽しそうで、生き生きとしていて、わたくしはとてもしあわせだわ」
その横顔は、どこか遠くの果てを見つめているようだ。
大通りですれ違う人々は忙しなく、けれど楽しげで、がやがやと賑わう通りでベルナデット一人が溶け込めずに立ち尽くしているようで、アンリエットは繋いだ手を強く握った。
ふふ、とベルナデットが微笑む。
「今日の記念に何か残るものが欲しいわね。案内してくださる?」
「え、えーと、残るものですか……」
これはなかなか難しいリクエストだ。城下にベルナデットが持っていて違和感のないほど高級なものなどそうそうない。
高級街に行けばいいのだろうが、それではベルナデットの正体がバレてしまう危険が高まる。
「もう、鈍いわね。このリボンを買ったところへ連れて行ってと言ってるの」
「ああ、それならこの近くですよ」
なんせそのせいでアンリエットは気持ちが沈んだのだから。
「お揃いのリボンを買いましょう!」
「またリボンですか」
「いいじゃない。あって困るものでもないわ」
それもそうか、とアンリエットは苦笑する。
楽しそうなベルナデットを見ていると、無茶をしてでもやって来て良かったと思ってしまうあたり、アンリエットはやはりお人好しなのだろう。
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