第13話 お粥とお漬けもの

「あら、これ何?」

 と、朝食の時、ふと気づいたように母さんが言った。さっき私が台所の窓際にペットボトルを動かしたからだ。

「自家製ジンジャーエール」

 言うだけで自然に顔がほころんでしまう。ふひひ。 

 ちょっと笑い声が邪悪な感じになっちゃったけど、魔女直伝レシピだし! ちょっと変な笑い方をしてもいいよね。 ふひひ。

「自家製?」

 昨日の夜遅く出張から帰ってきた父さんが少し驚いたように聞き返しながらテーブルにつく。まだ眠そうだ。疲れてるんだね。

「うん。出来上がったら、みんなで飲んでみよう?」

「ジンジャーエールって家でできんの?」

 タケシはぼさぼさの頭のまま味噌汁をかきこむ。こちらもまだ眠そうだ。けど、これはもらったばかりのスマホが嬉しくて無料ゲームをいっぱいダウンロードしたからだって、お姉ちゃん知ってるよ。

「できるの! 発酵させるんだよ」

「うへ。なんか気持ち悪くね?」

 ——やっぱり、私の弟はアホの子だ。

「すごく美味しいよ!」

 私はコップの水を飲み干す。

「いただきます!」

 パクっとご飯を口に入れると、母さんがびっくりしたように私を見た。

「また雨かなあ……やだな」

 タケシがぼやきながら目玉焼きを箸で切った。




 くしゃくしゃになったドトールのナプキンを取り出して、私は頭の中を整理する。

「自分で自由になるお金が欲しい」

「大学には行きたい」

「高校には行きたくない」

「ごはんを自分で作れるようになりたい」

「自分の好きな服が着たい」

「母さんに見られたくないものを隠しておきたい」

 思いつくままに並べた「やりたいこと、やりたくないことリスト」の隣には重要度が丸の大きさで示されている。どれも大きかったけど、「大学には行きたい」と「自由になるお金が欲しい」には特に大きな丸がつく。

 食べ物も、着るものも、自分で自由になるお金が、もう少しあれば自動的に解決するものね。

 でも、高校はバイト禁止だ。

 厳密に言うと禁止じゃないんだけれど、親の理由書と同意書が必要だし、今の登校状態でバイト許可願いを出すのも——とても、とても気がひける。

 ——もしも、学校をやめてしまったらどうなるんだろう。

 もう半年くらい、たいして学校に行っていない生活をしているのに、学校をやめる、というのはかなりドキドキする選択肢だ。

 もしも何かあって逮捕されたら、高校生じゃなくて「無職16歳」になっちゃうよ。

 逮捕されないように気をつけなくちゃ。

 政府テンプク計画とか、ダメ、絶対。

 母さんにされたくないことリストもあった。というか、最初、ドトールのナプキンには両方混ざって書いてあった。色々。たくさん。

 ——でも。


 そちらは、後回しだ。と、脳内ホームズが言った。

 君にできることは極めて限定的だからな。まずは情報収集だよ。ユキノ君。


 スズキ先生のオフィスの外に置いてあった不登校相談窓口のチラシには来所相談と電話相談の案内があって、カバンの中に大切に入れて持って帰ってきたんだけれど、家に帰ってきたら冷蔵庫の横に同じチラシが貼ってあって、ぎゃっ! てなった。なんで気づかなかったんだろ。

 ——この半年間。父さんも母さんも、いろいろ調べていたんだ。

 でも、私が母さんから聞いたのは「いろいろ道はあるけど、まずは元気になろう」っていうことだけだった。だから、私は高等学校卒業程度認定試験についても、定時制高等学校についても、通信制の学校についても、なんだかぼんやりとしか知らない。

 まずは、自分でちょっといろいろ調べてみよう。

 おー!

 こぶしをにぎって、えいや! って上にあげる私の後ろで、ジンジャーエールがコポコポ小さな音を立てる。

 



「お昼ご飯なんだけど、お粥でいい?」

 髪の毛がぺったんこになりそうな雨の中訪ねると、ニワトコさんはなんだか気もそぞろ、って感じだった。

「お粥、好きです……けど」

 6月のむしむしした暑さの中で食べたくなるものではないような気がする。普通。

「忙しいんですか? コヴンの準備?」

「うん……それもあるんだけど」

 ニワトコさんは心配そうに少しだけ眉をよせた。

「キワコさんがちょっと調子が悪いみたいで」

「……本当? 熱出しちゃったの?」

「なんだか、だるいんだって。夏風邪っぽいって、言ってた」

「キワコさんは?」

「今、あっちの部屋で寝てる」

 だから、ちょっといろいろやることが増えちゃって、とニワトコさんは言う。

「あ、あの、私、何か手伝えること、ありますか?」

「うん。お粥を持って行ってあげてくれる?」


 コトコトと煮込まれた柔らかいお粥と、細く切った針生姜。それにお漬物が何種類か。小鉢にはまん丸な卵の黄身。それに小さなお醤油さし。木製の小さなスプーン。

 トントン、と引き戸をノックしてから声をかける。

「キワコさん。入りますー」

 キワコさんはベッドの上に、タオルケットだけかけて、くったり横になっていた。

「お粥、もってきました」

「ユキノちゃん」

 キワコさんは、そっと目を開ける。

「大丈夫ですか」

「ちょっと疲れちゃっただけなの」

 キワコさんは小さな声で言う。

 元気がなかった。いつもみたいなキワコさんオーラがない。

 いつものキワコさんは、別に声が大きくなくても、物腰が柔らかくても、なにかオーラがある。ふんわりと、キワコさんから滲み出してくる何かとても明るいもの。

 今日のキワコさんは、とても静かで、光がチカチカ細く揺れるロウソクみたいで、でも、私を見ると微笑んでゆっくりと上半身を起こした。

「嫌だわ、寝てなきゃいけないほどじゃないんだけど、ニワトコが心配しちゃって……」

 お粥の乗ったお盆を膝に乗せてキワコさんはちょっと目をしばたかせた。

 ほんとだ。つらそう。

 ニワトコさんが心配するのも無理ないよ。

「ご飯を食べて少し横になってればすぐに元気になると思うわ。でも寝てると退屈なの。……ユキノちゃん、そこに座っていろいろお話ししてくれる?」

「はい!」

 私はキワコさんの役に立てるのが嬉しくて、そわそわ小さな丸椅子に腰掛けた。

 そしてキワコさんに聞かれるままに質問に答える。ジンジャーエールのこと。新しく読んだ本のこと。ここに来る途中、角の靴屋さんの紫陽花が綺麗に咲き始めたこと。

 キワコさんは唇にほんの少し微笑みを乗せて私の話を聞いていた。時々、スプーンを口に運びながら。

「あそこのお家の紫陽花はいつも綺麗だものね」

「とっても大きな花がぽってり咲いてました」

「ふふふ」

 キワコさんが柔らかい笑い声を立てる。

「お孫さんが、今つたい歩き始めたばかりなの。引っ張ってちょっと下の方の枝が折れちゃってました」

「ああ……」

 キワコさんはため息ともつかないような声を出して、ふっと枕に頭を下ろした。おいしかった。と、お盆を私に返して。

「ちょうど後追い期ね。あそこの子も」

「……あとおいき?」

「小さな赤ちゃんがね、お母さんの後を追いかけて、追いかけて、ちょっとでも見えなくなると泣きだす時期があるの」

「……」

「そりゃあ、大変よ。トイレも一人で行けないの。ちょっと見えないだけでも泣かれちゃうから。遼太郎も盛大にやってくれたわ」

「そうなんですか」

 私はキワコさんの息子さんを思い浮かべる。父さんより少し若いくらいの男の人だ。その人がキワコさんの後を追いかけて回るのは想像しづらかった。赤ちゃんだったんだろうけど。

「でもね、それって子供がちょうど自分でいろいろ動けるようになってくる時期なのよね」

 キワコさんの目が遠くを見るものになった。

 面白いと思わない? 自分が遠くに行こうと思えば行けるようになる時と、親の様子をずっと見てる時期が大体同じなのよ。

 親から離れていくことができるようになった子供が、親がどこにいるかを確認するのね、きっと。

 自分が、自分の力で親から離れていけるようになって、ドキドキワクワクして、でも、親と離れてしまうことも怖くて、きっと、親がそこにいることを確認して、安心して動けるようになっていくのよね。

 多分そうやって、親との関係を確かめるのがとてもその時、必要なことなのよね。

「……」

「だからニワトコも……」

 すごく小さい声でキワコさんが言った。

「ニワトコさんが?」

 私は聞き返す。

 返事はない。

 代わりに規則的な寝息が聞こえてきた。



 そうか。

 ニワトコさんも、お父さんが生まれた国にやってきて、お母さんが信じた魔女の生活をここで経験しようとしてるんだ。

 よくわかんないけど。

 でも。たぶん、そういうことだ。

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