第8話 アールグレイういろう

「だからさ、ユッキは変だったんだって!」

 タケシがイライラしたように、母さんに言い返した。

「中学2年生になってスマホ持ってないヤツなんて、いねーよ。友達と連絡もとれないじゃん」

「お母さんのスマホでやってるじゃない、LINE」

 母さんは、肩をすくめる。私も中学生の時は母さんのスマホでLINEをしていた。

「だから、それ、めちゃくちゃ変だって。内藤だって杉腰だって持ってんだよ。オレだけだよ、持ってないの」

「他の人が持ってるからって必要なわけじゃないでしょ。何でも内藤君と同じにするんだったら、何? 内藤君が死んだらタケシも死ぬの?」

「誰もそんな話してないしー!」

 タケシは弾けるように笑い出す。

「何なの、母さん、ボケツッコミの練習なの?」

 いつものことながら、私はほんの少し驚いてタケシを見る。私はこういう時、笑うことなんてできない。

 いいな。

 うらやましいな。

「ボケてないわよ!」

 真面目な顔で言い返しながら母さんも笑い出した。

「ほんと! 考えといてね! 父さんが出張から帰ってきたら話し合っといて!」

 タケシはまだ笑いながら、そう言うと駆け出した。

「んじゃ、学校行ってくる! またねー、ユッキ」


 ドアを開けて飛び出したタケシを見て、母さんがため息をついた。

「本当、ユキノはずっと安心だったんだけど、タケシはすぐに周囲に流されるから……」

 行ってくるわね、と言う母さんに「行ってらっしゃい」と私は手を振った。


 ——私だって、スマホあったら、きっと嬉しかったよ。友達からのメッセージ、読まれないってわかってたらずっと気楽だったと思うよ。


 言えない言葉は胸のどこかでぐるぐる回る。



 中学二年生の時、仲が良かった友達が二人いた。

 二人とも私より成績が悪くて、一緒の高校に行けないことはわかっていて、でも私たちはとても仲が良かった。そのころ私はスマホを持っていなかったけれど、母さんのものを使わせてもらっていて、そりゃあもう、いっぱい話をした。好きな漫画の話や本の話も。

 でも、絶対にできない話もいっぱいあった。私のアカウントは母さんがいつでも見ることができるって、二人とも知っていたから。



 みんながでかけた後、少し勉強してから私は家を出る。今日は、二時間目から学校に行く予定だった。

 保健室で一度心の準備をしてから、教室に入ることは出来たけれど何も頭に入って来ない。学校には雑音が多過ぎる。

 ここが本当に勉強のための場所だとか、信じられない。

 クラスの子のスカートの長さとか、休みがちの私をちらっと時々かすめていく視線とか。なんとなく見えるクラスの勢力地図とか。誰かがくすくす笑っている声とか。情報の多さがしんどい。どうしてこんな圧力鍋の中みたいなところで、みんな勉強できるんだろう。

 昼休みまでにはフラフラになってしまい、担任の会田先生に早退のお願いをしにいく。

 会田先生はジャージ姿で、職員室の窓際で隣の先生と話していたけれど、私が入口で呼ぶと、「おおう」と声を上げてのっそりこちらに歩いて来た。

 「よく頑張ったな。そろそろ帰りたいか?」

 私は黙ってコクリと頷く。

「保健室で少し休んだら午後、もう少し出れないか?」

 私が首を横に振ると、会田先生はため息をついた。

「そうか……残念だな」

 私は黙ってうつむく。何を言っていいのかわからない。

 ここが学校で私がいるべき場所だって言うことは百も承知だけれど、ここにいる間、私の頭は全く働かないし、ぐったり疲れるのだ。この前みたいに胸もドキドキする。家で一人で勉強している方がずっと息ができる。

「……」

 しばらく無言で私を見下ろしていた会田先生が、早退の書類にため息をつきながらハンコを押した。

「坂井もな、頑張ってるのはわかるんだが……あんまりお母さんを心配させるんじゃないぞ。お母さんお前のために一生懸命なんだからな」


 ギュッ。


 私の胸の奥で小さな毛糸玉が絡まる気配がした。 

「ありがとうございます」

 でも私のソトガワは、母さんに教え込まれたように、丁寧にお辞儀をした。

「頑張ってるので、もうちょっとだけ……時間をください」

「わかっているとは思うが、義務教育じゃないからな。そろそろちゃんと考えろよ」

 会田先生は優しい声で言った。

 ギュギュギュ。毛糸はもっとねじれる。


 ——今まで私が何も考えて来なかったとでも?


「はい。ご心配ありがとうございます」

 それなのに私のカラダはまたお辞儀をする。



 私のカラダは時々私が思ってもいない行動をとるし、私の口は私が思ってもいないことを言う。私はいくつにもいくつにも分裂していて、もう、それが苦しいのかどうかもわからない。




 一人で、帰り道、お弁当を公園でちょっとだけ食べ、残りをどさっと捨てる。そしたら足が自然と吉田たばこ屋さんに向いた。まっすぐ家に帰る気にはとてもなれなかった。


 ぼんやりキワコさんの家のベルを鳴らすと、「あら! ユキノちゃん!」と明るい声でキワコさんが顔を出した。

「あがってあがって!」

 なんだかんだ言ってほぼ毎日ここに来ている。この前は友達って言ってくれたけど本当はどう思われているのだろう……と私はキワコさんの顔を伺う。

「どうしたの? 変な顔をして」

「にゃ〜ん」

 返事をしようと口を開けた時、足元をベルベットのような感触がかすめた。

「ジュード! ……おいで」

 私は黒猫を抱きあげる。私を見上げてくれた黒猫が、なんだか歓迎してくれるような気がして嬉しかった。

「お茶飲んでいくでしょう?」

 と、キワコさんが優しく尋ねる。

「お腹空いてる? 今日は私だけでお昼を食べちゃったから大したものはないのよ」

 あ、あの、お弁当食べましたから、と私は慌てて言う。いつもお昼ご飯目当てできている——わけじゃないけど、ニワトコさんのお昼が美味しくて、好きなのは事実。

「ニワトコさんは、今日お昼当番じゃないんですか?」

「それがねえ、午前中近くの小学校でボランティアを始めたんだけど……帰りにネズミを買って来るって言ってたから、遅くなるかもしれないわねえ」

 そろそろ帰って来るはずなんだけど、とキワコさんは肩をすくめた。

「ネズミ……ですか?」

 私はちょっとびっくりして尋ね返す。さすが魔女。男だけど。魔女。ペットのチョイスが普通じゃない。

「ハツカネズミか何かでしょうか」

「……ねえ?」

 キワコさんも首を傾げる。

 でも……。

 膝の上でゴロゴロ言っているベルベットみたいな猫を撫でながら私はつい、言ってしまう。

「テスとジュードがいるのにネズミなんて……大丈夫なのかなあ」

「でしよ?」

 キワコさんは頷いた。

「それ、心配よねー」

 いつになく深刻なキワコさんの顔を見ていたらなんだか申し訳なくなってしまって私はワタワタしてしまう。

「あ、でもニワトコさんですから、きっと色々考えていると思います……!」

「イギリスに帰るときどうするのって聞いたんだけど、持って帰るからって……」

「飛行機とか、券買うんでしょうか……」

 ペットを連れて海外旅行をするようなセレブは知り合いにいないので、質問する声も弱々しくなってしまう。

「どうぞ」

 うふふ、と笑ってキワコさんは私の前に白い粉引の湯呑みをおいた。ほうじ茶の匂い。

「ユキノちゃん、ういろうは好き? ニワトコが作ったのがあるわ。食べてみる?」

 キワコさんの質問に私は思わず質問で返してしまう。

「ういろうって……家で作れるものなんですか?」

「電子レンジでできるわよ」

 キワコさんの答えは歌のようだ。

「あ、でも、今日のはアールグレイで作ってたから……ほうじ茶とあわないかもしれないわねえ」

 ——アールグレイういろう。電子レンジ。

 いつものことながらニワトコさんの料理はいまいち説明だけでは想像がつかない。

「まあ、ね。ネズミ、どうしょうもなくなったら、私が飼ってあげなきゃいけないかなって。覚悟を決めたのよ」

 キワコさんの笑顔はやわらかい。ゆったりとした所作で食器棚に向かい、小さな粉引の皿にういろうをのせて出してくれる。

 膝の上でゴロゴロとジュードが喉を鳴らす。猫の体のくったりとした重さと温かさが嬉しい。

 私は添えられた小さな銀のフォークでういろうを切る。

「あ。すごい。アールグレイの匂い」

 コンデンスミルクが入っているんだろうか。濃厚な甘みがある。ほうじ茶よりもミルクティーの方が合うかもしれない。

 でも、ミルクの甘みには何か気持ちをすとん、と落ち着かせるものがあった。

「……今日はテス、いないんですね」

「……きっと天使でも見に行ってるのよ」

 キワコさんはくすくす笑った。

「テスはエンジェルが好き。すぐにフラフラ探しに行っちゃうの。天使のほうがテスを好きかどうかはわからないけれどね」

 確かに時々猫は天使か何か、この世のものでないものが見えているような目つきをする。

「キワコさん、それで昔いっぱい猫を飼っていたの? 猫には天使が見えるから?」

 よせばいいのに、質問はするりと喉からこぼれ出た。

「違うわよ」

 キワコさんの返事は笑い声と混ざっていて——でも確かにちょっと暗いものを孕んでいた。

「動物はずっと子供の頃から好きだったけれどね。あの頃はちょっとバランスを崩していたみたい。自分に世話ができる以上の猫がそばにいたの。遼太郎が帰ってきてくれなかったらちょっと大変なことになっていたかもしれないわ」

「……」

「アニマルホーダーって言うんですって。精神病の一種なのかしら、なんかそんなことを遼太郎が言っていたわ。動物をいっぱい集めちゃうのね。あの頃うちに来てくれた猫ちゃんたちにはかわいそうなことをしちゃった」

「そう……なんですか」

 私は何を言って良いのか分からないで、ほうじ茶を口に含んだ。

「遼太郎が、みんないい飼い主さんを見つけてくれたから、きっと幸せでいてくれるって思うけれど、でも時々ごめんなさいって思うわね」

「……」

 キワコさんは、私にとって、落ち着いたの代表だ。

 母さんよりずっと落ち着いていると思う。そのキワコさんが「バランスを崩す」ということが、よくわからなかった。

「人生は長くてねえ。色々なことがあるのよ」

 うふふ。と、キワコさんが笑う。

「とても短いという気持ちになることも多いんだけど、でも、よく考えてみるとそこそこ長いのね。それに想像もしなかったことが起きるの」

「……キワコさん」

 私は何を言って良いのかわからずに目前の白髪の女性に呼びかけてしまう。

 五月の終わり。坪庭からの光を受けて、キワコさんのおくれ毛がキラキラした。

「私みたいな歳になっても色々あるんだから、ユキノちゃんはのんびりしてればいい。私はユキノちゃんのこと、全然心配してないわ。あなたはちゃんと、まっすぐな、強いものを持ってる。大丈夫よ」

 膝の上でゴロゴロと言っていたジュードがぺろり、と私の手を舐めた。

 ザラザラしていた。



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