Your story with あなたとクルマの物語/著:秋田禎信 企画・原案:STORIES(R) LLC

秋田禎信/ドラゴンブック編集部

第1話 父の足音 篇

 一刻も早くここから出ていく。

 そのために受験勉強に打ち込んできた。

 なにをするにも落ち着かないこの場所から。

 本当に、急がなければならない。

 足音に追い付かれてしまう前に。


 音が近づいてくる。

 それがまず差し当たって居心地の悪い原因だ。

 それから逃げるというのは大袈裟なんだろうか。

 だから逃げるわけでもない。怖いのではないのだ。嫌なのでもない、と思う。

 ただ誰かが書いた予定表のように、それは定められている。

 その音が聞こえる前から、このルーティーンは始まっている。

 まず、ぼくが家にいる。夕食も終えてリビングで勉強をしている。

 母は夕食の準備中だ。

 ぼくは先に済ませているので、母が用意しているのはふたり分だけだった。

 受験が近づいて、夜に集中したいので早めに食べさせてもらっている……ということになっている。

 これは嘘じゃない。でも本当のことでもない。

 音が聞こえたら動けるように、先に済ませておかないとならないのだ。

 つまり、そう、なにもかもルーティーンの話だ。

 ともあれぼくは、ある音を聞くまでは勉強に集中している。

 受験勉強はまさにルーティーンそのものだ。

 時期的にも大詰めになってきて、今さら新しいなにかを習うわけもないし、内容に波はない。反復して範囲を広げていく。

 母の食事の支度もそうだ。メニューは毎日違うけど、一方でいつもまったく変わらない。

 だからぼくは時おり横目で、その成り行きを追う。

 時計よりも母のほうが正確に時間を知っているんじゃないかと思う。だって母は、毎日決して同じ時刻というわけでもないあるタイミングにぴったり合わせて準備を整えるからだ。まるで予知でもするように。

 それを見ているとぼくは、あの音が聞こえてくる時が先に分かる。

 遠く……といっても大通りから曲がって入る路地のほうから。

 ぼくも小学校からずっと通学路にしているので、自然とその場所の風景が頭に浮かぶ。

 この家へと続く道。大通りから三十メートルくらいだろうか。

 隣の田村さんは年配の、物静かな人たちだ。ぼくが子供の頃からお爺さんだったしお婆さんだった。昔は犬を飼っていた。室内犬で、去年に死んでしまった時はぼくも結構寂しく思った。

 生きていた時は、その音が近づいてくると鳴くのが聞こえたりしていた。小さい犬なので、吠えるってほどじゃない。だから以前は、犬の鳴き声もこのルーティーンの中に入っていた。

 噛むかもしれないからという理由で、田村さんの犬には触らせてもらえなかったけど。当時、ぼくは、犬が鳴くのを不思議に思っていた。震動が嫌なのね、トラックが来たり、地震の時もそうだもの、と田村さんのお婆さんは話してくれた。

 でもぼくはもっと違うことかもしれないと思うようになった。高校に入ったくらいの時からだろうか。

 あの犬は、別に怖がっているのでも嫌がっているのでもない。ただ、そういうものっていうだけで、理由なんかなかったのだ。自分でも分かってなかったんだ。

 とにかく、その音が近づいてくる。

 表のアスファルトに重みがかかるけど、それはとても軽く、滑らかに動いている。

 低く……そして高く。

 そう大きな音ではないので、移動の変化がよく分かる。

 道路のわずかな凹みを踏むリズム。速度。曲がるタイミング。すべてが毎日同じ、繰り返される。

 この家の前で減速して、道路から車庫に乗り入れてくる。その時にはもう、ぼくは広げていたノートや筆記具をまとめて、居間から出ている。

 階段を上って自分の部屋へ。

 急ぐわけじゃない。その音のリズムに乗るように、ぼくの歩幅もテンポもいつも同じだ。

 だから決して間に合わないことはない。玄関の扉が開く前に、ぼくは部屋に入ってドアを閉めている。

 いつもこうなっている。

 父が帰宅する時間。入れ替わるようにぼくは、自分の部屋に入る。

 机についてから五分ほどして、ぼくは勉強を再開する。反復して、広げていく。テキストの内容は読めば理解できるので、ぼくはそっちに集中できる。


 父と顔を合わせることがないわけじゃない。

 朝の支度はさらに分刻みの手順だ。

 目覚まし時計が鳴ったら起きて、洗面所で顔を洗う。冬場はお湯が出るまで三十秒ほど待つ時間も加わる。

 水からお湯への変わり目は必ずあるはずだけど、見えたことはない。何度か指で触って確かめる。

 顔を洗いながら今日なにがあるのかを思う。

 学校には行くけれど、もちろんもう授業はあってないようなものだ。

 先生もやる気はないし、受験の邪魔にならないよう向こうのほうが気を遣っているくらいだった。だからといって全日自習にもできないのは、そっちの事情があるんだろう。

 どうでもいいけど。と思ったところで、たいてい、洗顔が済む。

 水を止めて手を伸ばし、いつもの場所にあるタオルを取る。

 顔を拭いてダイニングに行くと、必ずそこに父がいる。母が台所から朝食のトーストを持って顔を出し、ぼくの席の前に置く。

 父が言ってくる。

「おはよう」

 ぼくは黙って椅子に座る。

 朝食のメニューもそう変わりはしないので、食べ終わるタイミングも毎朝同じだ。

 空になった皿を台所に返す。母は皿を受け取る。母はぼくらが出て行ってから朝食をとるので、先に片づけを済ませてしまう。非効率に思えるのだけど、母には母のルーティーンづけがあるんだろう。

 食器置きには既に、父の分の皿が洗い終わっている。

「早く支度しなさい。お父さん待ってるから」

 と、母が急かす。

 ぼくは洗面所にもどって歯を磨いて、急ぎ足で階段を駆け上り、着替えを済ませる。

 それが終わる頃に、窓の外から音が聞こえてくる。

 これが朝の終わりだ。

 父が車のエンジンをかけている。ぼくはそれを聞いて階段を下りていく。


 駅までを父の車で送ってもらう、数分の間。

 正直に言って落ち着かない。

 自分がそこにいない気がする。

 ぼくはここにいてもいいんだろうか。

 ぼく以外の誰も、それを疑問には感じてないのか。

 もちろん座席があるのだから、居場所がないっていうのもおかしな話だ。ぼくはそこにいて、そこにいるしかない。

 逃げ場がないっていうほうが正しいのかもしれない。

 同じ時間、同じ道、同じ父の運転。目を閉じていても今どこを走っているのか分かるだろうと思う。

 居場所ということでいえば、ここは父の場所だ。と感じる。

 どこを走っていても車内の空気は変わらない。昔から父は音楽をかけない。聞こえてくるのはエンジン音ばかりだ。吸い込まれるような……でも広がるような旋律に、静かにドッドッとリズムが加わっている。

 父はそれを邪魔したくないように、無駄なく車を動かしていく。それとも車が勝手に走って、父は手を添えているだけなんじゃないか。そんな手つきだった。

 なにか普段と違ったことが起こったとしても、父が慌てる姿っていうのはあまり記憶にない。運転中もそうだし、そうでない時もだ。

 ここが父の場所だというのは、父がここと一体化して離れないようだからかもしれない。自動車の一部分か、それとも音の一部でしかないみたいに。

 ……もちろん単に、ほとんどここでしか父と一緒にいることがないからかも。

 車の中っていうのは奇妙な空間だ。

 生身では、時速何十キロで走ることなんてほとんどない。もしやったらその速度は恐ろしいだろう。

 でもここでは危険を感じない。駆動音も風の音も、聞こえているのに触れない。世界から切り離された別空間だった。

 父はそれを占有している。

 他人が入り込んでもそこは父の場所であって、それ以外ではない。

 道を走っている他の車とも、全部違う。父の運転は父だけのものだ。動きも、音も。音……車の足音とでもいうんだろうか。同じような速度で同じように走っているようでいて、みんなそれぞれ違う音を出している。

 いつも父の運転は整然としている。

 けれどそれを乱すように父がつぶやいた。

 今日は信号の運が悪かった。だからなのか。

「学校は、どうだ?」

 たまに発される問いだ。

 ぼくが昔……小学校に入ったばかりの頃、学校に行きたくないと愚図ったことがある。理由は忘れた。友達と喧嘩したとか、そんなことだったか。

 そんなのは遠い昔の、もうなかったことになったような出来事なのに、父はそれから度々これを訊いてきた。本当に興味があってなのか、ただなんとなくなのか、それは分からない。

 ぼくの返事も、いつも同じだ。

「別に。普通だよ」

 少し間をあけて父が繰り返す。

「普通か」

 またもう少しして問いを続けた。

「ちゃんと勉強してるのか」

「してるよ」

 この時期に、していないわけがない。

 無意味な会話だって分かってやっているんだろう。

 父の視線を感じるけれど、きっと錯覚だ。父は運転中だし、ぼくも前だけ見ている。でも見られているように感じた。ここが父の車内で、逃れられないからか。

 本当に、他に話しようがない。別にそれだけなのだ。特になにもない。学校で問題はないし、毎日のルーティーン通り、普通だ。

 沈黙が、また音を大きく感じさせる。この車の……つまり父の車の足音を。

「ここでいい」

 駅まではまだ少しあったけれど、ぼくは言った。

 ルーティーンとは変わるけれど、こういうことも結構ある。これより駅に近づくと顔見知りや友達に出くわすことが多いし、それはなんだか決まりが悪い。

 停めてもらった車から出る。

 と、去りかけたぼくを父が呼び止めた。

「タカシ」

 閉じかけたドアをもどしてぼくが覗き込むと、父はお守りを取り出したところだった。

 差し出されたそれには、合格祈願とある。

 ぼくはそれを受け取ってドアを閉めた。


「それマジ反抗期まるだしじゃん」

 去年、クラスの奴にそう笑われてから、父のことはもう一切誰にも話さないことに決めた。

「そんなんじゃねえよ」

 とぼくは反論したけれど、それ以上を説明するのは難しかった。

 気持ちじゃない。ただのルーティーンに過ぎないからだ。とはその時思いついたことだ。でも、口には出せなかった。納得させられる自信がなかったからだ。

 でもうまく説明できないとしても、それが正しいのは分かってる。そんな、ただの反抗期じゃない。まるだしでもない。簡単に言えて、簡単に解決できてしまえそうな、そういうことじゃない。

「あー、つれーな」

 ぼくの前の席で、椅子を傾けるくらい仰け反って頭を掻いているのは、まさにその会話をした奴なのだけれど。

 そいつは、すっかり覚えてもいないだろう。椅子ごと転倒しかけてから慌てて机にしがみついて、そのついでにこっちに振り向いた。

「こんな時に期末試験とか、ヤメになんねえのな」

「サボっても構わねんじゃね?」

 これはもうひとり横から、別の友達だ。

 ぼくは頬杖ついたままうめいた。

「試験出ないのはまずいだろ。赤点じゃあ内申もあるし」

「さすがに内申は変えねえだろ。なんのための学校だよ」

「まあ、クイズ程度の問題にしてくれるってよ」

「〇×ってことかあ? 確かに目ェつぶって書いたって半分当たるけどさ」

「俺、全部〇にしてみるかな。さすがに零点か。舐めんなよって」

「別にそんな挑戦しないでいいだろ。普通にやれよ普通に」

 ……こんなことを言っていられるうちは、実はまだまだ余裕があったのかもしれない。

 やがてその期末試験も終わった。

 冬が進むにつれて風は冷たくなっていく。でも雪が降るのでもない。

 まるで空振りのように空だけが凍っていく。

 試験までの日数、頭の中でカウントダウンするようになった。

 それが一年後でもなく、あと何か月でもなく。

 何週かになって、あと数日になる。

 思っていたことが夢として消えるんじゃなくて、現実に近づいてくる。

 それをなんて呼ぶのかよく分からない。

 進んでいるようで、ただ繰り返しているだけのようで。

 勉強も、母の料理も、友達との会話も、子供の頃から同じ顔に見える田村さんも。

 そしてもちろん、父の足音も。

 ぼくはルーティーンをこなしながら、決定的な合図かなにかが身体を通るのを待っていた。

 そんなものはなかった。水を網ですくうみたいに全部通り過ぎていく。

 なにも残らない。なにも持ってもいないのに。

 このまま、ずっとそうなんだろうか。

 おおよそひと月かけて入試の日程も終わった。

 母は気遣ったのだろう。手ごたえがどうだったか訊かれることはなかった。

 正直なところ、できたかどうか、ぼくにもよく分からない。

 これまで準備したことを答案に書いてきただけで、閃きがあったわけでもないし、起死回生の逆転もない。そもそも窮地もない。前もって分かっていなければ、分からない問題は分からないだけだ。

 問題文にミスがあったと気づいた箇所もある。でもそれも数日後、軽くニュースになっていた、それだけだ。

 学校に行っても、互いの自信を試すようなことはみんな自然と避けていた。これは別にエチケットというより、確かめるまでもなかったからだ。結果はだいたい事前に分かっている。そのための模試だ。それでいいんだろう。別にわくわくしたくて受験をしてるんじゃない。

 合格通知が届いたのもただ順当だった。案内や書類が同封されているので中身を見るまでもなく分かるようになっている。

 第一志望のものが最初に届いたから、これで他の結果を知る必要もなくなってしまった。合格だったと母に告げて、書類一式を渡した。母はおめでとう、大変だったわね、と言った。泣きそうな顔に見えた。

「うん。でも、終わった」

 とだけ、ぼくは答えた。

 他に言うべきことを少し考えたけれど思いつかなかった。それとも、分かっていても口から出なかった。

 それでも部屋にもどってベッドに寝ころび、深く……深く息を吸って、吐き出した。そのまま眠ってしまった。朝まで目が覚めなかった。こんなに長く眠ったのは初めてだった。

 いや、もっとずっと記憶にないくらいの遠い昔、子供だった頃には同じくらい眠ったんだろうか。

 そんな時代に還る夢を見たかもしれない。でも眠りから覚めたらはっきりとは思い出せなかった。

 起きると、身体に毛布がかけてあった。この部屋のものじゃない。客間の押入れから出したものか、少し薬剤の匂いが残っていた。

 そして机の上に記入済みの書類が揃えてあった。保護者の欄にあったのは父の字だった。なんでか意外に感じた。書類がぼくの机にあったこともだ。父が部屋に入ったことなんてこれまであっただろうか。

 父が書いて、母が置いていったのかもしれない。分からないけれど特には確かめなかった。


 大学からひとり暮らしをすることは、志望校を選んだ時から決まっていた。

 だから引っ越しも、友達との別れ(卒業までまだ会うけれど)も、日程は慌ただしくても心の準備は必要なかった。

 二月の最後の週末に、向こうの不動産屋に行った。父が一緒だった。

 新幹線で隣に座っている父は、いつもと変わらないのに、父とは違うみたいだった。

 言葉少なに本を読んでいる。あまり面白くはなさそうな、歴史かなにかの小説だ。

 そんなものを読むんだ、と思った。知らなかった。

 アナウンスがあるたびに顔を上げて、父は表示板を見て停車駅を確認した。アナウンスしているのだからわざわざ見る必要はないのだけれど。

 少し落ち着かないようだった。車を運転している時と違って、ぼくと同じくらい慣れていないのかもしれない。ここは父の場所ではないし、父の足音も聞こえない。

 不動産屋を二軒ほど比較して、学生用の部屋が多そうなほうを選んだ。

 交渉や内見の間は、ほとんど父が話していた。不動産屋で担当したのは若い元気そうな男で、大学に入るぼくの部屋と聞いて、かなり大袈裟におめでとうございますを繰り返した。

「へえ、あの難関に! それはおめでとうございます。いえ、もちろんお世話させていただいているお客様には大勢いらっしゃいますが。はい、お得意様のようなものでして……ええ、やはりいいところの学生様というのはお部屋の使い方も綺麗にしてくださって。大変ありがたいですよ」

 そこまで持ち上げるほどだとはぼくは思わなかったし、どちらかというと話が進まないから端折ってもらいたかったけれど、父はそれを遮らなかった。

「それで、もちろん今年卒業される方のお部屋というのもございます。そちらは大学近くで、もちろん寮ではないですが同じ学生様の入居が多い物件で。大学からもお近くです。それとも、少し離れますがお静かで手頃な物件というのも。タカシ様はどちらがご希望でしょう?」

 最初、ぼくのことをお坊ちゃまと呼んでいたのだけど、ぼくが少し嫌な顔をしたのをすぐに察したのだろう。次から呼び方を変えていた。それもぼくは、そこまで気にしていなかったのにとは思ったのだ。急に名前で話を向けられるほうがギョッとする場合もある。

 今がそうだった。気を抜いていたところで名前を呼ばれて、数秒、考えがまとまらなかった。不動産屋だけではなく、父もぼくの返答を待っている。

「静かなほうが……」

 と、ぼくは口に出した。

 言ってから、それは選択肢があまり絞れないし、内見の手間も多くなるんだと気づいた。だからあまり不動産屋の望んだ答えじゃなかったんだろう。でも、アパート全部が同じ大学の学生ばかりなんて薄気味悪いと感じた。

 今現在あいていて、内見できるところを五個ほど選んだ。ぼくは二軒くらいでいいと思ったけれど、父がちょっと粘った。帰りの時間もあるから急がないとならないのに。別に泊りになったっていい、会社には伝えてある、と父は言ったけれど、それはさすがに無理だと思った。それに、何十軒回ったからってひとつだけ条件のいい物件があったりはしないものだろう。

 結局、同じような部屋を見て回ってその中から問題なさそうなのを選んだ。どの部屋でも父は水道を出したりトイレを何度も流したりしていた。

「水回りが大事なんだ、こういうのは。傷むのは大体、水のことだからな」

 父はひとり暮らしをしたことがあったんだろうか。考えてみたら、そんなこともよく知らないでいた。

 部屋が決まって、また来るのも手間なのでこの場で契約もした。最初の支払いは現金でないといけないらしくて、父が鞄から結構厚い封筒を取り出した。ぼくはずっとそんな額を持ち歩いていたのも気づいてなかったので、変なところで急に緊張してしまった。

 帰りは夜になった。父は小説は読み終えてしまったようで、駅で弁当と一緒に雑誌を買って、それを何度も読んでいた。

 ぼくは窓の外を見ていた。すっかり暗くなった風景と、ガラスに反射して映るぼくと父とを全部一緒に。

 今、家に向かっている。そしてまた来月、あっちに帰ったらあの部屋に住むことになる。

 これまでの生活の全部が変わる。ひとつも残さずになにもかも。そのことは分かっていても、どうしても実感はなかった。


 引っ越しは母も手伝いに来た。

 部屋に荷物が到着する時間に合わせて、今度は人数が増えたのもあって車で移動した。運転席と助手席の両親が引っ越しのことを話すのを、ぼくは黙って聞いていた。おかげでというのか、それほど気まずさはなかった。

 ベッドは安売りのものを新調したし、学生向け物件だからか冷蔵庫のような大きい家電は部屋の込みになっていたのもあって、引っ越し荷物自体はそう多くなかった。だから手伝いも必要なかったのだけど、母が聞かなかった。

「本当にひとりで大丈夫?」

 部屋にまで来て、何度も訊かれた。

 ぼくは最後にはうんざりしていた。

「大丈夫」

「おい、行くぞ」

 父が玄関から、母を呼んだ。

 母はようやく根負けしたように腰を上げた。

「じゃ、行くからね」

「うん」

 ふたりが出ていくのを、ぼくは見送らなかった。

 最後に父が言い残していった。

「ちゃんと食べるんだぞ」

「……分かってるよ」

「なんかあったら電話するのよ」

「はいはい」

 扉の閉まる音がして、ぼくはそっちを見た。

 しばらくして音がした。

 父の足音。車のエンジン音。

 その音が、近づくのではなくて遠ざかっていくのを初めて聴いた気がした。

 初めてのはずはないのだけど。

 ぼくは見慣れない部屋の中でひとり、荷物を出す手を少し止めた。


 新しい生活にも慣れて、新たなルーティーンが始まった。

 大学での友達もすぐに出来たし、今のところ生活が大学の中で完結するので簡単だ。講義は、入学前に思っていたほど楽ではなさそうだけれど、本格的にやらないといけなくなるのは来年からだろう。

 ひとまずは落ち着いて、バイト先を探した。まだ欲しいものがあったわけではないけど。なにかある前に貯めておいても悪くない。順序の問題だ。

 夏になる頃、ふと気づいた。

 まったく新しい生活を始めたのに、どうしてか時おり、父のことが頭を過ぎる。

 理由は窓の外にあった。

 二階のぼくの部屋から見下ろしたところに家がある。

 日曜日に子供の声が聞こえたりで、家族が暮らしているんだなというのはなんとなく知っていた。ガレージに車があるのも。

 アパートの出口とはちょうど反対側になるので、その家の前を通ったことはぼくはない。特に気にもしていなかった。

 けれど、音だ。

 聞き慣れたエンジン音だった。父と同じ車だったのだ。

 それを知ってから、車が出入りするたびにぼくは窓に近づいた。

 車の出入りは、人の、そこに住む家族の出入りだ。

 父親、母親、そして女の子がどこかに出かけようとはしゃぎ……帰ったきた時には楽しげに今日の出来事を話している。あるいは、疲れて眠った子供を親が抱えている時もある。

 のぞくのは変だと思うけど、ぼくは何度もそれを見た。

 珍しい光景だった? そんなわけはない。

 どこにでもあることだし、ぼくもよく知っていた。はずだ。

 ああやって、家族で出かけた頃のことを。

 でも、だからって自分がなにを分かりかけているのか分からない。

 気になって、その車のカタログを取り寄せてみたりもした。

 そこに答えはなかった。

 蓋でもされたみたいに。

 ただのルーティーンに収まらない、謎だった。

 父のくれたあのお守りはまだ持っていた。

 こういうのは合格したら、神社とかに返すべきなんだろうか。

 なんでまだ持っているんだろう。もういらないのに、見えるところに置いてある。

 このお守りを、父はどこで買ってきたんだろう。

 どこかで見かけた神社だろうか。なんで父はそこに寄ろうとしたんだろう。そんなことしなくたって良かったはずだ。

 これを渡す時、なにを考えていたんだろう。車の中、父の場所で。ぼくと同じように父も気まずさを感じていただろうか。それでも父はぼくに訊いた。学校はどうだ? と。必要もないことを。どうして。

 どうして父は毎朝ぼくを送ってくれたのか。歩いて行けない距離でもない。どうして。

 どうして父は毎日帰ってきたんだろう。どうして。

 どうして……

 最初って、なんだっただろう。

 身体に染み付いた習慣というのか、ぼくはやっぱり順番を考えた。

 遠い、遠い記憶を遡る。

 ぼくは父と母の家に生まれた。当たり前だけど。

 小学生になった頃、仲の良かった友達が突然、学校からいなくなった。

 前日までなんにもなかったのにだ。今にして思えば教師はいくらか言葉を濁して説明していたんだろう。家庭の事情で引っ越したというような話だった。

 その後に噂が流れた。耳ざといクラスメイトが言い出したんだと思う。お父さんが浮気をしていたのがバレて、怒ったお母さんがそいつを連れて田舎に帰ったとか。

 子供が面白がって言って回ったような話なので信憑性は微妙だけど。

 当時のぼくは信じて、ふさぎ込んだ。

 友達が別れも言えずにいなくなったから、じゃない。

 そいつにとって、家がなくなってしまったんだと思って怖かった。

 お母さんの実家に帰ったんだから住む場所がなくなったとかじゃない。

 家と呼んで信じられるものがいきなり壊れてしまうというのを、ぼくは考えてもいなかったのだ。

 ぼくの訴えを聞いて、父と母は困惑したんだろう。すぐに答えはもらえなかった。

 それが木曜日だったのは、はっきり断言できる。

 翌日に学校を休んで、父がこう言ったのがさらにその次の土曜日だったからだ。

「タカシ、行ってみよう」

 どこに? と訊くぼくに、父は続けた。

「どこにでも行けるぞ」

 土曜の朝に車に乗って、父とぼくは出発した。

 父が連れて行ってくれたのは、そいつの引っ越した先だった。

 後から知ったのだけれど、そいつのお母さんがぼくのことを気にして、連絡してくれたのだそうだ。

 高速に乗って、何時間も。ぼくにとってはそんな遠いドライブは初めてだった。

 ぼくはその間ずっと、頭を抱えてうずくまっていた。

 外に出るのにもかなりグズった。話もしたくなかったから、車内はずっと無言だ。

 ただ、車が走る音を聞いていた。

 目的地に着く頃にはだいぶ落ち着いていて、友達にも会えた。引っ越しの理由が実際になんだったのか、そいつ自身にもよく分かってなかったのか、はっきりしたことは分からなかった。

 でも帰り道には、ぼくはもうそのこと自体をあまり気にしなくなっていた。前と変わらずにふざけ合うこともできたから、なんとなく納得したんだと思う。そいつがこの世から消えてなくなってしまったわけじゃないって。

 夜、暗い中を走りながらやっぱりそんなに話はしなかったけれど、父がぽつりとこんなことを言い出した。

「どこにでも行けるんだ」

「どこでも?」

「ああ。お前をどこでも連れてくのが、父さんだから」

「でも、行きたいところなんて、そんなに知らないよ」

「これからいくらでもあるさ。行きたいところ、やりたいこと、なんだって父さんが助けてやる」

「……これからずっと?」

 というと、父はほんの少しだけ寂しそうに笑った。

「ずっとじゃない」

 父の場所、父の音、父の言葉で。

 最後にこう言った。

「お前が、自分で行けるようになるまでだよ」

 それから、毎週どこかに連れて行ってもらった。

 行きたい場所を決めるのはぼくだった。本を読んだり、隣の田村さんにつきまとって話を聞いたり、とにかく地名という地名を頭に入れ込んだ。

 父は車で必ずそこに連れて行ってくれた。

 それはどこか、ぼくにとっては大事なことだった。だから絶対行けないような場所は言わなかったけど、それでも土曜と日曜両方使って、月曜の朝、学校に直接ゴールするような強行日程も組んだことがある。

 山にも行った。海にも行った。休憩はファミレスやサービスエリアを利用したけど、たまに車で泊まるようなことになって、警察官に職質された。

 そんなことが一年くらい続いた。

 そのうちにぼくもまた友達を作って遊ぶようになったり、父も仕事が忙しくなったり、さらにはこの週末のドライブについて家庭訪問で注意されたりということもあって、旅行の頻度は少なくなっていき、やがて途絶えた。

 そうしてすっかり忘れていた。

 本当の父の足音は近づくのでも遠ざかるのでもない。ましてや追いかけてくるのでもない。ぼくを乗せて走る音だった。どれだけ遠くても必ずそこまで連れて行ってくれる。

 ぼくが自分で行けるようになる時まで。

 自分で行けるようになったら、もう必要ないものなんだろうか?

 父の寂しい笑顔が、頭から離れなくなった。

 思い出した……というのも、少し違うのだろうか。父のその顔は、そのあと何度も見たのだから。

 それこそ、毎朝、送ってもらった時にも。

 いくつも、いくつも、いくらでも尽きない。

 父と母のしてきてくれたこと全部が。

 いや、全部じゃない。きっとぼくが知らずにいたことだってあったんだろう。

 その時に、思ったんだ。

 なにかを少し変えられるんじゃないかって。

 人生のすべてが大きく変わるわけでなくても。

 それで大人になっていくんじゃないかって。

 夏休みに入ってから、ぼくは母の携帯にメールした。

「やっぱり里帰りする。会社の休みを教えて」


 ほんの数か月ぶりに、あのいつもの駅に帰って。

 でもぼくは、違った風景を見ている気がした。

 やがて聞こえてきたのは車の音だった。

 停車するフロントウィンドウの奥に父の姿がある。

 父の運転はやはり落ち着いていた。

 余計な音を立てることなく滑るように近づいてくる。車内にいても分かるけど外にいるともっと分かりやすい。吠えるのではなくて語るようなエンジンの音。

 ああ、やっぱり。忘れない、父の足音だ。そう思った。

 ドアを開けて、少し懐かしく感じる父の世界に入れてもらって。

「ただいま」

 と言うぼくになった。

 連れて行ってくれる音から、迎えてくれる音に変わっていた。


 聞き慣れたはずの音が恋しいことに気づいたとき、ぼくは素直になれた。

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