初恋は泡沫

 現在コミカライズが諸事情により休載中なので、

 その穴埋め…にはなれてないとは思いますが、

 なんかそういうつもりで書かせて頂きました。

 寧貴妃の少女時代のお話です。


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 刺繍絵は苦手だ。嗜みとしてやりはするが、やらなくていいものならやりたくない。

 どうせなら花を生ける方がまだいい。草花を見るのは大好きだから、こんな味気ない布と糸を触っているよりは楽しい。育てるところからやれたらもっと楽しい。

 そんなことを悶々と考えながら、菖香しょうこうはぶすりぶすりと針を突き刺していく。

 今の題材は蘭の花だ。好きでもない刺繍絵をやらなければならないのならば、少しでも気分が乗るように、植物を題材に選ぶことが多い。それでも元々気乗りしていないので完成までに時間はかかる。


「お茶を淹れましたよ、お嬢様」

 花の芳しさを表現する為に蝶を舞わせろ、と母に言われていたことを思い出していると、乳姉妹ちきょうだい偲媚しびが声をかけてきた。菖香が作業に飽き飽きしてきていることに気づいたのだろう。

 菖香は頷いて針を置き、茶器の用意された卓へさっさと移動する。

「進みは順調ですか?」

「そんなわけないでしょう。ご覧なさいな」

 完成には程遠い出来映えの布を指さし、菖香は唇を尖らせる。子供っぽいその仕種に偲媚は笑った。

「とてもお上手でいらっしゃいますのに」

「そうね。時間をかければ、誰でもある程度の作品には仕上げられるものよ」

「そんなにご自分を卑下されなくとも……」

「卑下しているのではなく、ただ事実を言っているだけよ。……もういいから、お前もここに座って。一緒にお茶を飲みましょう」

「はい」

 偲媚は呆れと微笑ましさを感じるものが混じった苦笑を向け、指示された通りに対面に腰を下ろした。その間に菖香がお茶を注いでくれている。

 二人は揃ってお茶を啜り、ふふっと微笑み合った。


 乳姉妹である二人は、気がついたときには既に一緒にいた。大貴族ねい家の娘である菖香にとって、この偲媚は多忙な両親や兄達よりも近しい存在であり、菖香を最も理解してくれて支えてくれる大切な存在だった。

 五年前に乳母が亡くなり、遺された偲媚は親戚に引き取られることになったときも離れがたく、菖香は初めて我儘を言って両親に頼み込んだくらいだ。それくらいに偲媚のことは無二の存在だと思っている。

 けれど、立場は主家のお嬢様と使用人である。本来ならこんな風に同じ卓に着き、一緒にお茶を飲んでお喋りなど許されない行為だ。何度か母や使用人頭に叱られたこともある。それでも、菖香の部屋に二人でいるときだけは対等な友人として接したかったし、偲媚もそれに応えてくれていた。


「あらぁ! よかったじゃない!」

 今日のお茶請けは偲媚が作ってくれた揚げ菓子だと説明を聞いていると、外からやけに弾んだ女の声が聞こえた。

 菖香の部屋は使用人達が寝起きしている別棟に近いので、よく雑談の声が聞こえてくる。

「……なにかは知らないけれど、誰かにいいことがあったみたいよ」

「あの声は娥蓉がようさんだと思います。いいことがあった人は誰でしょうね?」

 娥蓉は主に料理をしている気さくな中年女だ。声が大きいので、屋敷の何処にいても笑い声がよく聞こえてくる。

 二人はこっそりと窓から顔を出し、いったいなにがあったのかと様子を探った。


 思った通り、娥蓉はかなり遠い場所で誰かと立ち話している。声が大きく恰幅のいい彼女のことはすぐにわかるが、話し相手はこちらに半分背を向けているし、中肉中背であまり特徴がなくてわからない。

「本当にめでたい、めでたい! 幸せになんな!」

 そう言いながら相手の肩をバンバンと叩いている。相手は何度も頭を下げるような仕種をしているので、祝われたことに礼を言っているのかも知れない。


 なにかしら、と首を傾げる菖香の横で、偲媚は納得したように「あー」と呟いた。

「なぁに?」

「いいえ。あれ、たぶん春玉しゅんぎょくさんですね」

 それは可愛らしい顔立ちのまだ若い使用人だ。見目がよくて手先が器用なので、お客様が来たときの給仕役としてよく駆り出されている。普段は針子仕事を主にしているので、菖香と偲媚は彼女に裁縫の手解きを受けた。

「たぶんですけど、結婚が決まったんだと思います」

「お嫁入りが?」

「はい。子供の頃からずっと想い合ってる恋人がいて、そろそろ夫婦めおとになりたいなぁって、前からよく言ってたんですよ」

 使用人部屋での会話らしい。春玉の恋人はそろそろ独り立ちも出来そうな腕前の料理人らしく、二人で一生懸命にお金を貯めて、屋台を出せるようになったら所帯を持とう、と約束していたそうだ。


「夢が叶ったんですね」

 しみじみと呟く偲媚の言葉に、ふぅん、と頷き、菖香は立ち去って行く娥蓉と春玉の後ろ姿を見送った。

「恋人かぁ……。それって、とても喜ばしいことなのよね?」

「喜ばしいことじゃないですか。夢だった屋台を出して、ずっと好き合っていた人と一緒になるんですから」

 不思議そうに偲媚が言い返すので、菖香は軽く肩を竦めた。

「よくわからないわ。私の結婚相手は恋人ではないと思うから」

 菖香の言葉に、思わず眉を寄せて首を傾げかけた偲媚だったが、言葉の意味に気づいてハッとし、気不味そうな顔つきになった。そんな様子に菖香は軽く首を振って微笑み、少し風が強くなってきたので窓を閉めようと手を伸ばす。

「……早く決めてくださらないかしらね」

 戸が閉まる音に重ねるように零された呟きだったが、偲媚は聞き逃さなかった。


 菖香は生まれたときから「将来は国王の妃嬪きさきとなるように」と、とても厳しく育てられている。時期が来たら他の貴族令嬢達と共に後宮に入り、国王の寵愛を得て、丈夫な男児を生むことを両親から求められていた。その為、入宮後は少しでも王の気を惹けるようにと、幼い頃からあらゆる教養を身に着ける為の勉強漬けの毎日だった。

 贅沢な暮らしを許される高貴な家柄に生まれながら、自由のない生活を強いられている可哀想な少女――それが、偲媚から見た『寧菖香』という人物だ。

 菖香も今年十三歳になったので、その厳格な生活にもそろそろ終わりが見える頃かと思ったのに、去年の春先に父親から言葉を濁されたらしい。

 曰く、現在の世太子の素行があまりよくないので、廃嫡にされるかも知れない可能性が強くなり、菖香の嫁ぎ先として望ましくないということだ。失墜する可能性が高い太子と縁を結んでも無駄だ。下手をすれば巻き添えを食って菖香は殺されるし、家にも少なからず打撃が来ることが予想される。

 素行不良の世太子が廃嫡後、新しく世太子となる太子に嫁ぐことにするのか。それとも、他の家格の釣り合う貴族に嫁ぐことになるのか、菖香の父は悩んでいるようだった。

 それから一年以上も経ったのに、話は保留のままらしい。

 先程の菖香は、そういった宙ぶらりんな状態に嫌気が差してきている心情を、思わず呟いてしまったのだろう。結婚に本人の意思はないといっても、元々決められていた話が立ち消え、代案が用意されるわけでもなく、なにも知らされない状態でいるのは嫌なものだと思う。


「まあ。お茶がもう冷めてしまったわ。すっかり涼しくなったのねぇ」

 沈んだ表情の偲媚を気遣ってか、菖香はわざとらしいぐらいに明るい声で驚いたように言い、おどけてみせた。

 その優しさに応えるように、偲媚は笑みを浮かべて「新しいものをお持ちします」と頷いた。




 年が明け、二人はこっそりと家を抜け出し、新年祭を見物に来ていた。

 街中のお祭りに偲媚は何度か来たことがあるが、箱入り娘の菖香はほぼ初めてのことだ。道に狭しと並ぶ出店とそぞろ歩く人々の多さに、目をキラキラとさせて楽しそうにしている。

「すごいわね、偲媚。人がこんなにもたくさんだわ! 王都中の人が来ているのかしら?」

「ええ。ですからお嬢様、私と逸れないようにしていてくださいね」

「子供じゃないんだから大丈夫よ」

 胸を張って言いはしても、興奮気味にフラフラと歩き回っている様子は幼児と変わらないように見える。偲媚は軽く溜め息をつきつつ、菖香の手を握り締めた。

 多少は気分転換になるかと思って連れ出したのだが、楽しそうにしているので偲媚は僅かに安堵する。菖香に気鬱な様子は似合わない。

 出店をひやかしながらはしゃいでいる菖香は、偲媚のそんな気遣いにもちろん気づいている。だから今日は、良家の娘らしく上品に振る舞っている外面を脱ぎ捨て、いつもは内に閉じ込めている快活な性格を全開で楽しむことにした。


 可愛らしい帯飾りを見て、お揃いの髪紐を買い、美味しそうな焼き物の匂いにつられ、綺麗な飴細工に目を輝かせる。

「ねえ、偲媚。あれも美味しそうだわ」

「もうやめた方がいいですよ、お嬢様。夕餉が入らなくなります」

「だって美味しそうなのだもの。二人で半分にしたら大丈夫じゃないかしら?」

「しょうがないですねぇ……」

 財布の紐を握っているのは偲媚だが、持ち主は菖香だ。今までお金のこんな使い方をしたことがなかったので、祭りの熱気と相俟って菖香はワクワクしているし、大金を預かる偲媚はドキドキしている。


 出来立て熱々の揚げ菓子を手に、通行人の邪魔にならないように端に寄って食べよう、ということになったのだが、あまり外歩きに慣れていない菖香が雪に足を取られて転んでしまった。

「お嬢様! 大丈夫ですか!?」

「え、えぇ……大丈夫よ」

 今日は晴れて気温が高かった所為で積雪が解けかけ、ぬかるんでいたので滑りやすくなっていたのだ。油断していた、と菖香は頬を染めた。

 とにかく端に寄ろう、と偲媚が手を貸すが、菖香は呻いて蹲ってしまった。どうやら何処か痛めてしまったようだ。

「ど、どうしましょう……」

 青褪めておろおろとする偲媚に、菖香は「大丈夫だから」と笑みを向けようとするが、思ったよりも痛くてそれどころではない。


「どうしたの、お姉さん達?」

 こういうときはどうすればよいのだろうか、と二人揃って泣きそうになっていると、小さな男の子が声をかけてきた。

 膝をついている偲媚と視線が同じくらいなので、五歳とかそれくらいだろうか。手にした菓子をもぐもぐと咀嚼しながら首を傾げている。

「転んだの?」

 泥がついている菖香の着物を見て、賢くも事態を把握したようだ。

 食べていた菓子の包みを懐にしまうと「ちょっと待ってて」と言って背を向け、そのまま駆け去ってしまう。いったいなんなのだろうか。

 二人は茫然と男の子を見送ってしまったが、いつまでもこんな場所に座り込んでいることは出来ない。人通りの邪魔だ。先程からチラチラと投げかけられる視線が痛いのだ。


 偲媚の手を借りてなんとか立ち上がったが、痛めたのはどうやら足首のあたりのようだ。歩こうとするとズキンとひどく痛む。

「お嬢様……」

「だ、大丈夫よ。少し痛むけど、大丈夫」

 自分にも言い聞かせるように大丈夫と何度も呟くが、それで痛みが軽減されることもなく、菖香は唇を噛み締めた。

 よたよたとだがなんとか歩き出したところに、先程の男の子が戻って来た。早く早く、と言いながら誰かの手を引いている。


「怪我をした人がいるって?」

 手を引かれて来た年上の少年は、二人に尋ねた。

 菖香は驚いて顔を隠し、偲媚も年頃の菖香を隠すように前に出た。

 少年はちょっとだけ双眸を瞠ったが、二人の態度の理由をすぐに察したようで、軽く肩を竦めて笑みを浮かべた。

「失礼を承知で申し上げます、お嬢様。ここでは満足に様子を診ることも出来ませんので、端に移動する為にお運びしたいのですが、わたくしめがお身体に触れることをお許し頂けるでしょうか?」

 わざとらしいくらいに遜った物言いをされ、菖香は自分の態度がなんだか恥ずかしくなった。けれど、今更改めることも出来ないので、頬を染めながら「許します」と答えた。

 少年はさっと腕を伸ばすと、菖香を軽々抱き上げた。

あん、その辺に腰を下ろせそうな場所はあるか?」

「あっち!」

 男の子の先導に菖香を抱えた少年が続き、そのあとを偲媚が追いかける。


 露店が並ぶ賑わいから離れると、男の子が茶店を指差している。そこの店先の席を借りようというのだ。

「店主、怪我人だ。すまぬが一時店先を貸してくれ」

 少年が店内に声をかけると、奥から壮年の男が出て来て笑った。

そう家の坊ちゃん方じゃないですか。今日は祭りに客を取られちまって暇だし、構いませんよ。中へどうぞ」

「有難い」

 礼を言った少年は閑散とした店の中へ入り、店主が案内してくれた奥まった席に菖香を座らせた。

 見知らぬ異性にこんなことをされたことがなかった菖香は、ドキドキと早鐘を打つ心臓と火照る頬に困惑しながらも、動じてない様子を装ってツンと澄ました表情を取り繕っていた。逆に偲媚は、大切なお嬢様に怪我をさせてしまった上に、見ず知らずの男子と身体を密着させるようなことをさせてしまい、横でおろおろとしている。


「痛めたのは何処ですか。足? それとも腰とか?」

「足首だと思います」

 跪いて尋ねる少年に、偲媚が泣きそうな声で答える。そう、と少年は頷いた。

 丁寧に断りを入れてから裾を捲くり上げる。これは怪我の状態を確認する為であって他意はないことは十分わかっているが、菖香はぎょっとして身を固くした。

「腫れてきているな……。少し触りますね」

「いっ……!」

「よかった。折れてはいないようです」

 少年は慣れた様子で確認を終え、懐から手巾てぬぐいを出して「妟、これに雪を包んでおいで」と男の子を外へ行かせた。

「初めによく冷やしておけば腫れもすぐに落ち着くと思います。けど、これは素人の応急処置です。長引いたり悪化したら困りますし、家に戻ったらちゃんと医師に見せてください。それとも、このあと町医者のところにお連れしましょうか?」

「いいえ。そこまでして頂かずとも十分です」

「では、家までお送りしましょう。寧大臣のお宅でよろしかったですよね?」

 少年が正確に家を言い当て、二人はギョッとした。


 警戒した偲媚が睨みつけたところに、男の子が駆け戻って来る。

黎亮れいりょう殿の妹御でしょう? お名前は存じ上げないが、お宅にお邪魔したときにお見かけしたことがあります」

 雪を取る為に真っ赤になった小さな手から手巾を受け取り、少年は菖香の腫れ上がった足首にそれを押し当てた。

「……兄をご存知なの?」

「はい。塾の同輩です」

 帯に下げていた飾り紐を解いて手巾を括りつけると、顔を上げて笑みを向けた。

「宋家の星浄せいじょうと申します。こっちは末の弟の星妟せいあん

 名家中の名家である。身元がしっかりしている人物だったことがわかり、菖香も偲媚も少しだけ警戒を解いた。

 それに彼の妹である星蓮せいれん銀華ぎんかは知っている。直接に家を行き来する友人というほどに親しくはないが、何度も同席する程度に付き合いがあるお茶会仲間である。


 二人が安堵したようだと察すると、星浄はもう一度笑みを浮かべて頷き、菖香に向かって背中を向けた。

「わたしの背にどうぞ」

 菖香は思わず「えっ?」と声を漏らして戸惑った。

 この背に乗れということなのだろうか。しかし、それでは先程よりも身体が密着してしまう。そんなはしたない真似を出来るわけがない。

「横抱きで長く歩くのは安定が悪いのです。負ぶった方がいいかと」

 さあ、と促すように両手をひらひらとされるが、菖香は躊躇ってしまう。善意だとわかっていても、異性と身体を密着させるだなんて有り得ない。

 しかし、体格が同じぐらいの女の偲媚に背負ってもらっても、日暮れまでに家に帰り着けないかも知れない。彼に背負って送ってもらうのが一番無難だ。

「でも、私、泥だらけで……」

「構いませんよ。さあ」

 菖香はおずおずと手を伸ばし、星浄の背に寄りかかった。




 星浄に送られて家に帰り着き、母にこっぴどく叱られてから数日――

 足の怪我はもうすっかりよくなっているが、勝手に家を抜け出した罰として自室謹慎を言い渡された菖香は、連日ぼんやりとしていた。

 いつになく刺繍絵には身が入らず、知らずうちに何度も針を持つ手が止まっては、ほう、と溜め息が零れる。

 そんな主人の様子を見て、これはあまり望ましくない傾向ではないかと心配になると同時に、年頃の少女らしい情緒の顕れに微笑ましさを感じ、偲媚はなんともいえない心地になっていた。応援すればいいのか窘めればいいのかわからない。

「とても好人物でいらっしゃいましたね」

 どうにも集中していないようなのでお茶を差し出しながら言うと、菖香は「えっ!?」と小さく叫び、それから真っ赤になった。

「先日お助けくださった、宋家の若様です」

「え、あっ、そっ……、そうね! ええ、とても親切な方だったわ。お兄様のご友人らしいけれど、意地悪な私のお兄様とは大違い!」

 真っ赤な顔で慌ててお茶を啜り、その熱さに悲鳴を上げている。常の彼女らしからぬ動転ぶりだ。

 これは完全にだ、と偲媚は思った。


 菖香は宋家の親切な若様に恋をしている。


 宋家は幸いにも寧家と対立している家ではないし、釣り合わないほどに身分差があるわけでもない。年齢も丁度いいぐらいだし、縁談を持ちかけるのに問題がある人物ではない。

 適齢期に入る菖香には、いい加減に縁談が用意されるべきだ。

 幼い頃から決められていた後宮入りを保留延期にされているのだし、それならば、協力関係を築きたい家門へ嫁入りする方がいいと思う。王の妃嬪の一人として埋もれてしまう未来ではなく、家格の釣り合った家に嫁ぎ、お互いを大切にし合える夫婦になれる相手の方が望ましいのではなかろうか。

 もちろん菖香の父になにも考えがないわけではないと思われる。延期保留にしているのにも理由があるのだし、政治の道具にする為に大切に育て上げた娘を、そんなに簡単に手放す筈もない。


 けれど、菖香が生まれたときからずっと一緒にいて、彼女を実の妹のように大切にしている偲媚としては、幸せになれる結婚をして欲しいと思っている。

 好いた男性がいるならばその人と縁づいて欲しいし、この美しい華を是非にと望んでくれる情熱的な人に愛されて欲しい――偲媚の大切なお嬢様には、世界で一番幸せになって欲しいのだ。


「お礼の品、喜んでくださったかしら……」

 菖香がぽつりと呟く。

 あの日、怪我の手当に使ってくれた手巾と飾り紐を綺麗に洗い、新しいものとお菓子を添えて返却したのだ。

 飾り紐は菖香がさんざん悩んで選んだ色で編み、手巾にも丁寧に刺繍を施した。男性でも使いやすいように小さく品のある図案で刺したが、予想以上に満足のいく出来映えに仕上がり、嫌々やっていた刺繍絵の手腕が活きたわ、と自信たっぷりに微笑んでいたものだ。

 それらを宋家に届けたのは偲媚だが、星浄は不在だった為に直接渡すことは叶わなかったので、どんな反応をされたのかがわからない。もしかすると、特に気に留めていないかも知れない。

 悩ましげな溜め息をついている菖香に少し申し訳なくなりつつ、偲媚はお茶のお替わりを注いだ。


 そんな仄かに甘く、不安と希望に揺れる淡い慕情に菖香の心が浮き沈みしている頃、王宮では素行不良の世太子がとうとう廃嫡される運びとなった。


 世太子蒼雲そううんの態度はあまりにも尊大で傲慢で、横暴で残酷だった。

 彼の振る舞いの所為で職を失するだけではなく、心体に深い傷を負った者も多く、側室として後宮に入った娘達の中には命を落とした者すらも在った。

 蒼雲の蛮行については何年も前から取り沙汰されていたが、現在の宮廷で最も権勢を誇るかん氏筋の太子であるだけに、なかなか廃嫡にまで踏み切られずにいたのだ。だが、今回も太子の行状の所為で新たに死者が出てしまった為、気が弱い王もとうとう重い決断へと踏み切ったのだった。


 現王には他に三人の太子がいる。次男は勤勉であるが生母の身分が低く、立場が弱い。三男は長男と同じく関氏筋の側室を母に持つゆえ、大きくなり過ぎている関氏の勢力を削ぎたい思惑のある現王や重臣達としては、次男かまだ幼い四男を新しく世太子に封じたいと思っていた。

 寧家としては、菖香の叔母である徳妃が後見についている次男を推したいところである。

 人格には問題がないので、あとは血筋の不利をどうにか出来ればいい。その為には、次男にもっと強力な後ろ盾が必要だ。生母の身分の低さなどを覆せるような、強い味方が必要なのだ。

 手っ取り早いのが婚姻だ。次男に嫁いだ娘の実家が後ろ盾となる。

 白羽の矢が立ったのは、藍叡らんえい太子と同じ年頃の娘のいる寧家、宋家、張家、李家の四家だった。

 しかし、宋家は現王の異母姉である公主の降嫁した家である。偏りが出ることはいけない、と当の公主から辞退の申し出があった。占見うらないでも娘は他の貴族へ嫁す方が国の為になると出たそうだ。

 王宮の方でも占見を行ってみたところ、次男の妃嬪には「同じ年の娘が運を開く」と出た。早春生まれの藍叡と暮れ近く生まれの菖香は、一応同年生まれである。


 寧家は現王に、藍叡を世太子に据えるのならば寧家の娘を嫁がせ、その後ろ盾となる、と密かに進言した。寧家と協力関係にある家々も、娘の選出を辞退した宋家もそれに賛同した。

 王はしばらく悩んでいたが、先王の時代に何人もの寵妃を輩出し、その恩恵で長年権力を握り続けた関氏の横暴さは目に余る状況になっており、三男に継がせるのはその権勢を長引かせるだけになるのは目に見えている。

 結論はひとつしかなかった。


 あらゆる根回しや水面下でのやり取りが行われ、菖香が父から後宮入りの話を正式に伝えられたのは、その翌年の秋頃のことだった。


「年が明けたら吉日を待ち、藍叡太子が世太子に封じられる。お前はその側室として後宮に上がるのだ。時期は夏か秋頃になると思われる。それまでは今まで通りに研鑽に励みなさい」

「承知致しました、お父様」

 菖香は不満のひとつも見せずに微笑み、父からの話を丁寧に受けた。

 お付きの者として、命じられるその場面に同席していた偲媚は、なんとも言えない心地になる。


「よろしいのですか、お嬢様?」

 部屋に帰り着いたと同時に、偲媚は口を開いた。

 尋ねられた菖香は少しだけ目を眇め、気のない風に「なにが?」と応じる。

「先程のお話のことです。後宮に入られるだなんて……」

「だから、なにがよくないことなのよ。私は王の妃嬪になる為に育ってきたし、将来はそうなるべきだと思っていた。問題があって何年も停滞していたけれど、結局は当初の予定通りになっただけのことなのに、なにがよくないというのよ」

 言いたいことの意味がわからない、と眉を吊り上げられるのへ、偲媚は我慢がならずに詰め寄る。

「宋家の若様のことです」

 途端に、菖香の瞳が揺れた。

 偲媚はその隙を更に詰め寄った。

「偲媚はお嬢様のお気持ちを存じ上げております。若様に好意を寄せておられたでしょう? 諦めてしまわれるのですか? せめて想いを」

「偲媚!」

 言い募る偲媚の言葉を、菖香は大きな声と卓に手を叩きつけることでやめさせる。


 あまりにも出過ぎたことだった。偲媚は口を噤んで控えた。

 菖香は大声を出して興奮した為に肩で息をしていたが、何度か深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻すと、卓に打ちつけた掌をぎゅっと握り締めた。

「……確かに、私は星浄様を素敵な方だと思いました。なんの見返りも求めずに、通りすがったからと親切にしてくださったのだもの」

 そんな優しい人を好意的に思わないわけがない。ほんの一時の出会いであったとしても、人柄に惹かれるのに時間も理由も必要ないのだと思う。

 家柄も釣り合うし、年齢も丁度いいし、後宮入りの話がこのまま流れてしまうならば、と夢想することもあった。それくらいに心惹かれていたのは事実だ。

 それならば、と偲媚は言いかけるが、菖香は睨みつけてその先を言わせない。

「でもね、偲媚。私は動かなかったのよ。あの方にお会いしてから一年以上も経っているのに、私はなにもしなかったの」

 なにか理由をつけて会いに行くことも出来たし、兄は彼と塾仲間で親しいのだから機会を設けてもらったり、彼の妹達とは知己なのだから仲を取り持ってもらう為に話をしたり、または親から話を通してもらう為に父に相談することも出来た。そのいずれも菖香はしなかった。


 つまり、そういうことなのだ、と菖香は笑う。

「私は臆病者なのよ。両親の期待を裏切るかと思ったらなにも出来なかったし、想いを告げて断られるのも恐かった。……だからずっと、この窓からただ想いを馳せるだけで、なにもしなかったのよ」

 諦めたように呟きながら浮かべた笑みがなんとも悲しげで、偲媚は泣きそうになる。

「でもね、偲媚。お相手は藍叡太子よ? 叔母様が後見されている方だから、ご挨拶に伺ったときに何度もお会いしたわ。口数は少ないけれど、小さな紫耀しよう太子ともよく遊んであげているし、子供好きで優しい方なのよ。それくらいに知っている方なの。なにも知らない方に嫁ぐより、ずっといいと思わなくて?」

 だからこれでよかったのだ、と菖香は呟く。自分に言い聞かせるように。

 偲媚は頷いた。頷くしか出来なかった。菖香がそう納得しているのならば、自分からはなにも言えないのだから。


 入宮に向けて準備が進められ始める中で、偲媚は菖香の母経由で縁談を持ち込まれていた。ずっと菖香付きの使用人として尽くしていたので、彼女が後宮に入る以上、他の仕事に回されることになる。それならばいっそのこと所帯を持つのもいいのかも知れない、と今までの労いを込めて探してくれたのか、とても良縁だった。

 けれど、偲媚はそれを固辞した。

「お許し頂けるのならば、お嬢様について行きたいのです」

 気心の知れた者を傍に置くことは許されている。それ故に、女性の使用人なら実家から何人か連れて行ける筈だ。

 そう言ってせっかくの縁談を断る様子に、菖香は呆れた目を向けた。

「後宮になんて入ったら、あなた結婚出来ないじゃない」

「いいのですよ。私は生涯お嬢様に尽くすと決めていたのですから」

「馬鹿じゃないの……」

 溜め息混じりに呟くが、その表情は何処か嬉しそうでもある。偲媚はそれに対して満足そうに笑った。




 宋家に不吉な子が生まれたと騒ぎになったのは、それからしばらくしてのことだった。

 王の異母姉である銀蓮の嘆願と、藍叡の立太子という慶事の直後という恩赦により、宋家が取り潰されることはなかったが、宋家一門は暫し要職から離れることとなった。

 その様子を聞いても、菖香は「そう」と頷くだけで特に反応を示さず、そのゴタゴタで自分の後宮入りが少し延期されたことに不満を零していただけだ。

 その年明けに、菖香は後宮に入った。

 大貴族寧家の娘らしく華々しい行列を引き連れ、美しい宮殿へと入って行く。

 それはその年の新年祭の、前日のことであった。




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