【コミックス1巻発売記念】御子ふたり



 あとから考えてみれば、自分は御子の影武者のようなものだったのだろう。


 旬国王家の後宮にて、王の御子達には必ず二人以上の乳母が用意される。

 高貴な身分の女性にとって、我が子に自らの乳をやることはないのが基本らしい。自らの乳で育てる者は貧しい者であり、乳母を雇える身分だということが重要なのだという。

 玉柚ぎょくゆうの母もそうして王宮に雇われた女だった。

 ただひとつ、他の乳母達と違っていたことは、彼女は生まれて間もない我が子を連れて王宮にやって来たということであった。


 後宮で乳母として雇われる者達は、子供が一歳を過ぎて乳が必要としなくなってきた頃、子を実家に預けてやって来るのが普通だった。高貴な王の子と、出自が違う子が同じ乳首を吸うことが無礼である、という理由らしい。

 けれど、玉柚の母は、生まれて半年程の娘を伴って入城した。


 母が仕えることになったのは、世太子の側室の一人で、平民出身の女性だった。

 その出自の所為か、彼女は乳母を雇うということに消極的だったのだという。自分の乳の出がよかったこともあるのだろう。

 それでも、仕来たりに添って乳母を雇っていたのだが、彼女達は次々と身体に不調を訴えるようになり、ひと月程すると辞任するしかなくなってしまったのだ。

 大事な御子の乳母だ。たとえ身分が低い平民達でも、乳の出がよくて健康で、変な病気を持っていない女達が選ばれて来る。それなのに、次々と体調を崩してしまう。

 仮病ではないのは確かだった。やって来たばかりの頃はつやつやと健康的な顔をしていた者達が、次第に痩せて顔色を悪くしていって、ふらふらと眩暈を覚えるようになっていくのだから、本当に何処か悪くしてしまっていることは明白だった。


 そうして辞めてしまった乳母が三人。

 新しい乳母を募ろうとしていた矢先に、玉柚の母は実妹が女官として奉公していたので、たまたま話を持って来られただけだ。

 もちろん不安は感じていたらしい。健康な者達が次々に身体を悪くしてしまう環境だなんて恐ろしくて、進んで近づきたいとは思わないだろう。

 それでも、不運な事故で夫を亡くしたばかりの彼女は、なかなかに魅力的な額の給金に惹かれて「子供と一緒でいいのなら」と引き受けたのだった。


 玉柚は藍叡らんえい生誕のひと月後に生まれたのだが、二日に渡る難産の末に生まれた巨大児は、ひと月の月齢差など感じさせないような立派な体格をしていた。先に生まれた藍叡の方が小さいくらいだった。

 それ故に、影武者にさせようとしたのではなかろうか。


 二人はまったく同じ衣裳、同じ髪型をさせられ、揃って「こう」という幼名で呼ばれていた。女官達もどちらがどちらとして分けて扱うことはなく、二人ともに御子として接していたので、どちらが本当の御子なのか他からはわからなかったことだろう。

 実際、顔立ちはまったく違うものだったのだが、年齢を経て多少個性が出てきても、裸にされない限り二人はどちらがどちらなのかわからなかった。それぐらい完全に平等として扱われていた。

 父である世太子も二人を分け隔てることなく、どちらも我が子のように扱った。名を呼べば二人揃ってやって来るので、どちらも抱き締めて撫で、両膝に乗せてあやしてやっていたのだから、他人が御子達を見分けることなど出来る筈もなかったのだ。


 そんな状況を苦々しく感じていたのは、側室母子を憎々しく思っていた世太子妃梨姫りきとその取り巻き妃嬪達だろう。

 害してやろうにもどちらがどちらかわからず、使いに出した女官が躊躇うのだ。その一瞬の躊躇を不審にとられて警戒され、排除される――お陰で上手くいかない。

 食事に毒を混ぜるのも、新しい乳母がやって来てから無理になった。世太子の命で、側室の住まう局に煮炊き場が用意されてしまったからだ。平民出の側室と乳母が料理上手であった為、平然と自分達で食事を作るので、よそから手を回すことが非常に難しくなってしまっていた。食材に異物を混入させようとも、不審があれば調理に移る前に廃棄されてしまう。


「康様、おやつですよ」

 部屋の中から女官がそう呼べば、外で草を千切ってはかけ合って遊んでいた二人の幼児は揃って顔を上げ、どちらが先に着くかと駆けっこで戻る。

「あらあら、泥だらけね。さあ、おててを洗いましょう」

 戻って来た子供達に側室は微笑んだ。促された二人はそれぞれ女官の差し出してくれた桶に手を突っ込み、別の女官達に支えられながら手を洗う。

「こう、これあげる」

 揃っておやつを食べ始めると、少し大人しい方の御子がもう一人に言った。

「でも、そえこうのだよ」

「いいの。こうはこれがすきでしょ」

「しゅき!」

 元気いっぱいの御子は満面の笑みで答え、差し出された菓子をぱくりと食べた。

「じゃあ、こうにはこっちあげゆね」

 お返しにと元気いっぱいの方が別のお菓子を差し出せば、大人しい方は少し躊躇ったあと、様子を窺うようにして口を開けた。その中へ笑いながら押し込む。

「おいしい、ね」

「ん! おいち!」

 二人はお互いに食べさせっこしては笑い合い、卓の上を少々散らかしながら楽しいおやつの時間を過ごした。そんな様子を母である側室と乳母はもちろん、女官達も微笑ましく見守っている。

 少し気を抜けばこの愛らしい幼子達に危険が及ぶような環境ではあるが、女達は力を合わせて守り育てていた。それ故に、誰もが母親のような気分でいて、二人が健やかであることがなによりも喜ばしく感じている。



 二人がもうすぐ五歳になろうかという頃、乳母は自身の立場に非常に困っていた。

 なんといっても『乳母』である。どんなに遅くとも三歳にもなれば歯もしっかり生え揃っていて、普通の食事もしっかり摂れるようになっているので、お乳はもう必要ない。

 他の妃嬪に仕える乳母達も、御子が三歳になる前には仕事を終え、家族が待つ家に戻るのが普通だ。いくら唯一の家族である我が子を伴って来ているからといっても、三歳以上になっても後宮に留まるのは異様だった。

 我が子を御子の影武者にしてしまっているので、連れて出ることも、置いて帰ることも出来ないのはわかっている。けれど、やはり奇異の目で見られるようになり、監督役という上級職に在る妹が取り成してくれてもいるが、後宮に仕える女達を取り仕切る女官長からもチクチク言われるようになっていた。


「それは……、申し訳ないことをさせてしまっているね」

 事情を聞いた世太子は、本当にすまなさそうにそう呟き、表情を曇らせた。そんな様子を御子達は膝の上から心配そうに見上げる。

「あなた方母子おやこには危険なことをさせてしまっているし、言葉には出来ないほど感謝しているんだ」

「滅相もございません、殿下。夫を亡くして路頭に迷いそうだったところをお声掛け頂き、娘と共に衣食住が保証され、こちらこそ感謝申し上げます」

「いや、しかし……これ以上つらい目に遭わせるのは忍びない。少し考えるから、もう暫し待っていてくれぬか?」

 子供を二人同時に育てるというこの策は、予想していたよりもかなり上手くいっている。このままもう少し大きくなり、せめて披露目をして、周囲に人の目が増える七歳まではやり過ごしたい、と世太子は言った。


 そもそも御子と生母はここのように一緒に暮らしたりはしないものだが、出産前から隠すようにしていたので、そのままになっている。今となっては、隠さなければならなかった相手にすっかりその存在も知られてしまっているので、他の御子達と同じように住居を分けてもよかったのだが、一箇所に纏まっていた方が身を守りやすかったのだ。

 御子は生まれるとほとんどすぐに御子達用の宮に移され、そこで乳母や女官達と暮らすことになるが、七歳になると男女の住居を分けられ、男児の場合は女官達ではなく男性の内官達に囲まれて成人まで育つようになる。

 梨姫や、彼女に忠実な女官長の息のかかった女官達に囲まれる環境から、自分の手の内に近くなる七歳になるまで、なんとか生き延びさせたかった。


 そんな世太子の心中は、二人の母も、御子に仕える女官達もとてもよく理解していた。

 あと二年、なんとか今の状況を維持したままでいたい――その結果、乳母はその身分を生母付きの侍女ということにして、披露目の時期まで留まることとなった。


 それでも、木工職人の娘である側室にたいした力はなく、いつ子供達に危害が加えられるかわからない状況は続いていた。


 そんな不安のある彼女を助けてくれたのが、ねい徳妃だ。

 寧徳妃は後に藍叡の側室となる菖香しょうこうの叔母であり、優しくもしたたかな女性だった。公主一人しか授からなかった寧徳妃は、身分の低い側室の産んだ男児の後見を買って出ることで、自分の立場を強化しようとしていた。

 利害の一致した二人の妃嬪は協力することになり、頻繁に行き来するようになる。

 多くの女官を従える大貴族寧家の姫の許へ出入りすることが増え、人目につきやすくなると、いくら王の公主であり世太子妃である梨姫でも、おいそれと手出しは出来なくなった。彼女もそこまで愚かではない。


 そして、この頃になると、梨姫につき従う女官達は少し疲労を感じ始めていた。

 梨姫が目の仇にして追い詰めようとしている側室は、平民の出でたいした力はない。男児を生んだからといっても、元気が有り余り気味の第一太子も既にいるのだし、少し前に淑妃の許に第三太子が生まれたばかりだ。生母の身分が低いその第二太子が王位に就く可能性は限りなく低い。そんなに躍起になって害する必要のある存在だとは思えなかったのだ。


 しかし、梨姫にとっては違った。自分より先に子を生したことが許せなかったのだ。

 あの側室は、梨姫が男児を授かる為の占見によって見出された筈なのだ。それなのに、未だに梨姫には懐妊の兆候は一切なく、あの女の子供は何度殺そうとしてもすくすくと元気に育っている。こんな状況を許せるわけがない。

 大貴族関家の姫の胎から公主として生まれながらも、同日に生まれた世太子に後宮のみならず王宮すべての関心を奪われ、それ以降誰からも顧みられることなく育った梨姫がようやく手にした世太子妃という権力だ。それを盤石にさせる為には、どうしても子供が必要だった。


 子の一人もいないまま父王が崩御してしまえば、世太子が即位する際に、男児を生んでいる関貴妃が王后に封じられるかも知れない。

 形式的な序列を作る為に、世太子の妃嬪達にも国王の後宮と同じ呼称と地位を与えられているが、あくまで仮のものだ。即位して王宮内の人事が改められるときに、後宮内の身分も正式なものになる。旬国のその慣習がこのときばかりは恨めしい。

 同じ関家に連なる者であろうとも、関貴妃とは良好な関係にはない。今でさえ、第一太子を生んでいる彼女からは陰で見下されているというのに、地位が入れ替わるようなことがあったらどうなることか。

 なにもかもが忌々しい。


 万が一にもそんな事態に陥らない為にも、早く子が欲しかった。けれど、なかなか身籠もる気配がない。

 梨姫の立場を気遣ってくれているのかどうかは知らないが、世太子は頻繁に梨姫の許へ通ってくれてはいた。だが、彼は元々身体があまり丈夫ではないので、事に至ることが儘ならない夜もしばしばあった。

 無理をさせて死なせてしまっては元も子もない。梨姫も世太子の体調に心を配り、献身的な妻の表情を向けるように努めていた。

 その精神的な抑圧と負担さえも、梨姫の心を更に苛んだ。


 鬱々と溜まり続けていくその苛立ちは、強い憎しみとなって、子を生した側室達へと向けられていった。




 世太子が期限として目指していた御子の七歳まであとふた月程となった頃、その生母たる側室が亡くなった。

 正確には、処断と言う名目で、殺されたのだ。


 報告を受けた世太子は側室の遺体を確認する為に急いで現場に向かったが、彼女の遺体はその場になかった。

 後宮の慣例として、暗く淀んだほりに棄てられてしまっていたのだ。

「何故そのようなことを!? 早く引き揚げよ!」

 衛士達に命じて水底を浚わせ、遺体を引き揚げようとしていると、梨姫が鬱陶しそうにやって来た。

「おやめくださいまし、殿下。これは充媛に相応しいものです」

「相応しい? 亡骸を濠に棄てるのは、罪人に対するものではないか!」

 後宮内で特に重い罪を犯した者は、処刑後に後宮を取り囲む深く淀んだ濠に沈められることになっている。弔われて輪廻に帰ることは許さぬ、死後も罪を背負っていろ、という意図から始まったことだと聞いたことがある。

 彼女がそのような罪を犯す筈がない。芯が強く、心優しい女性だったのだから。


 驚愕と怒りと悲しみといった感情の波に交互に責め立てられ、世太子は息苦しそうに荒い呼吸を繰り返し、胸許を掴んだ。

 苦しげに喘ぎながらも、その鋭い視線は梨姫を見据えている。

 そんな夫のことを冷ややかに見つめ返すと、梨姫は濠から上がってくる淀んだ臭気に顔を顰めるが、扇子の陰で口許を歪めた。


 そうして、弱々しい夫に向けて、彼の質問へ答える為の言葉を紡いだ。

「重罪人に決まっていましょう。何故なら、あの女は姦通を行ったのですから」

「姦通……?」

 初めて耳にした言葉かのように首を傾げる世太子の様子に、梨姫はせせら笑った。

「えぇ、そう。あの女――もく充媛は、この後宮を抜け出し、あろうことか、外で待ち構えていた男へ駆け寄ったのです」

 後宮で暮らす女達には外出の為の特別な許可がいる。それは女官のみならず、水汲みや掃除などの雑事を行う下女に至るまで、すべての女達に適用される決まりだ。妃嬪の外出に至っては、許可が下りるまでに何日も待たされるような、更に厳重な手続きが必要になる。

 出入りする商人に会う場合はそう難しくはないが、決められた面会室を使用し、女官や衛士を複数人同席させてのこととなる。それぐらいに厳しく、女達は王宮外との関わりは禁じられていた。

 それはひとえに、後宮の主である男以外の種を、間違っても王宮内に持ち込ませない為だ。


 梨姫の言葉に世太子は更に青褪め、さっと濠へと視線を戻す。そうして、今にも倒れそうなほど苦しげに喘ぎ、胸許を押さえながらも、捜索をしている衛士達に向けて「二人だ!」と叫んだ。

「捜すのは女性と男性の二人だ! 急いでくれ!」

 衛士達は一瞬戸惑うような表情になったが、命じられたのだから従うまでだ。長い棒で慎重に水底を突き回しながら、捜索を続ける。


「殿下、随分とお苦しそうですわ。侍医を呼んだ方が」

「必要ない!」

 気遣うように伸ばされた手を払い除け、よろめいたところを侍従に支えられる。その支えを受けながらも、梨姫に向ける視線は強い怒りを湛えていた。

「……其方の差し金だな」

「なんのことでございましょ?」

 世太子の震える糾弾の声を、梨姫は涼しげな笑みで受ける。

「わたしは桃児とうじに里帰りの許可を与えた。陛下からも王后様からも許可を頂き、三日間実家に帰ることが許されていたのだ。女官長にもそう伝えた筈だ。もちろん衛士長にもな」

 現在の後宮の長である現国王夫妻に許可を得て、後宮の女達の動向を取り仕切る女官長と、人の出入りに目を光らせる衛士長にも自ら申し送りを行った。伝達に不備が生じないように念を入れたのだ。

「実家から迎えが来てくれることも伝えた。だから、桃児は侍女を一人だけ連れて、里帰りする筈だった」

 平民出身の彼女の生家は、他の妃嬪達の実家のように大きな家ではない。職人達が集う地域に在るので荷馬車が行き交えるほどに道幅は広くとも、複数人の護衛や女官を引き連れて向かえるような場所ではないのだ。それ故に、実家から荷物持ちの迎えが来て、こちらからは数日分の身のまわりの品と土産などを持って行けるようにしていた。


 すべて伝えていたことだ。女官長も衛士長も確かに承知し、同席していた補佐役達も一緒に聞いていた筈だ。

 それなのに、殺されてしまった。迎えの者が姦通相手だとして。


 見つかりました、と声が上がったのは、それからすぐのことだ。

 引き上げられた亡骸は汚泥に汚れてはいたが、投げ入れられてからの時間が浅かったこともあり、まだ綺麗なままだったのは幸いだ。

 周囲が止めるのも聞かず、世太子は女性の遺体に駆け寄り、その顔の汚れを袖で拭った。

「桃児……!」

 顔を確認しなくてもこれが彼女だとわかっていた。けれど、間違いであって欲しいという気持ちがあったからこそ、確かめずにはいられなかった。


 彼女が暮らした局の者達がその顛末を知ったのは、その日の夕刻のことだった。

 綺麗に清められて戻って来た亡骸を前に、誰もが茫然とした。

 彼女が「約十年ぶりに実家に帰れる」と嬉しそうに微笑んでいたのは今朝のことだ。長く患っていたらしい母親の見舞いから、その葬儀への列席に変更という喜ばしくはない理由ではあったが、久々に会える肉親への想いを許可が下りたときから度々口にしていた。

 御子は残して行くように条件をつけられていて、両親に孫の顔を見せられないのは残念だ、と苦笑していたその顔は静かな死に顔へと変わり、優しく我が子を呼ぶことはない。


 母の亡骸を前に、御子は首を傾げている。

「母上は如何なさったの? 今日からしばらく、おじじ様やおばば様に甘えてくるのではなかったの?」

 何日か留守にする話を言い聞かされていた御子は、昼前に出かけた筈の母が戻って来ていることが心底不思議でならなかった。しかも、眠ったまま運ばれて来るなんて。

「康……」

 不思議そうに母の亡骸を見下ろしているが、聡い彼は自分の母がどうして眠っているのか、その理由をわかっている筈だ。

「ねえ、康。母上はお出かけをやめられたのかな? 体調がお悪いのだろうか」

 だから眠っているのだろう、と言う彼を、もう一人の康は駆け寄って抱き締めた。


 その夜すぐに葬儀はひっそりと行われ、棺は世太子の命で後宮の外へと運び出された。

 不調をおして世太子が同行し、一緒に犠牲になった男性の亡骸と共に向かった先は、彼女の生家だった。

「いつか必ず家に帰らせてやると、桃児と約束していたのです。それがこのような形となり、申し訳ない」

 妻の葬儀の準備で忙しなかった男は、目の前に置かれた生き別れた一人娘の亡骸と、弟子の亡骸と、深々と頭を下げる高貴な身分の男の姿に言葉を失った。けれど、自分のような者は、この貴人を問い詰めることも責めることも出来ない。

 わざわざ謝罪の為に訪れて頭を下げてくれただけでも、本来ならあり得ない事態であり、感謝すべきことなのだ。自分自身になんとか言聞かせて悲しみと怒りをぐっと飲み込み、礼を返すのが精一杯だった。

 亡くなった娘には息子が一人いることを教えてくれた貴人は、強い表情で「その子だけはなんとしてでも守り抜く」と誓ってくれたが、娘を守ることが出来なかった男の言葉に信用は出来なかった。




 突然母を亡くして沈み込んでいた御子だったが、七歳の祝いの日がいよいよ近づいてきていた。

 服喪の最中であるので小規模で密やかに執り行われることになっているが、その席で、寧徳妃が後見に就いてくれることを伝えられた。

「これからは私が康殿の母代わりとなります。けれど、無理に母と呼ぶ必要はありません」

 披露目の打ち合わせとして面会した寧徳妃は、御子にそう説明するが、彼は不思議そうに首を傾げる。

「わたしにはもう一人母上がいます。更に寧徳妃様まで母上となられるのですか?」

 母親というのはそんなにたくさん必要なのだろうか、と真面目な顔で悩んでいるので、寧徳妃は気不味そうに、彼の傍に控えている乳母だった女を見上げた。

 その視線を受けた元乳母は、申し訳なさそうに御子へ視線を合わせる。

「康様。お母様を失ったばかりのあなた様をお一人にするのは大変に心苦しいのですが、七歳のお披露目が済みましたら、お住まいを移られることになります」

「うん、知ってる」

「新しいお住まいは、身の回りのお世話を行うのは男性の内官達になるそうです。女官は二人ほどしか置けない規則になっていると」

 何年も後宮に暮らしていたが、安全の為に閉ざされた環境にいたので、人員の配置や階級のことなどはよく知らない。説明を補足してくれるように寧徳妃に視線を向ければ、彼女も心得たもので、今後、御子がどうなるのかを簡易的に説明してくれた。


 話を聞き終えた御子はすっかりと顔色を失っていた。

「では……では、わたしは、これからは皆と離れて、見知らぬ者達と一人で暮らさねばならないのですか?」

「ええ、そうなります。そして、今まで康殿のもう一人の母であった恵海けいかいは、乳母――もうお乳の必要ない康殿の許は去らねばならぬのです」

 今までは生母の侍女として召し上げられていたので、共に暮らすことが出来ていた。しかしその生母も亡くなり、御子は内官達の手に委ねられることになるので、彼女を後宮に留まらせる理由がなくなってしまったのだ。


「康も、いなくなるの?」

 泣きそうになるのを堪えながら、物心つく前からずっと一緒にいた乳兄妹を見遣る。

 自分とそっくり同じ格好をして同じ名前で呼ばれているが、この子が女の子だということは知っている。つまり、男ばかりの住まいに移るときには離れなければならないのではないか、と御子は思った。

 そして、母親が後宮を去るのなら、彼女も共に去るのではないか、と考えたのだ。


 その縋るような不安そうな目を見ていたもう一人の康は、緊張した表情で少し黙り込んだあと、ニッと笑みを浮かべた。

「大丈夫。行かない」

 その答えに御子は嬉しげにホッと表情を緩めるが、寧徳妃や周囲の女官達は困ったように眉を下げた。

「もう一人の康殿。それはなりません。出来ませぬよ」

 ぬか喜びをさせては可哀想だ、と慌てて諭す寧徳妃に、小首を傾げて見せる。

「でも、母さんや叔母さんのように女官になれば、ここにいてもいいのでしょう?」

 違いますか、と尋ねられた寧徳妃は言葉に詰まった。

 確かにそれならば問題ない。お付き女官になることがなくとも、王宮内の何処かにはいられることになるので、会おうと思えば会うことも可能だ。

 だがそれは、彼女の今後の人生もすべて、この後宮という閉ざされた世界に完結されてしまうことに他ならない。後宮がどういう場所かと知っている身からしてみれば、それはあまりにも不憫に思える。


 けれど、小さな彼女の下した決意は変わらなかった。

 寧徳妃や女官達の雰囲気におどおどとしている御子の手を取り、にっこりと笑う。

「康が引っ越したら、今までみたいに毎日一緒にはいられないかも知れないけど、いつでも会えるように、ずっとここにいるよ。康と一緒にいるよ」

「康……、本当に?」

「うん。だからまた遊ぼうね」

「うん!」

 幼い手がしっかりと握り合わされ、約束が交わされる。


 その約束は、御子が『藍叡』という名を国王である祖父から与えられ、もう一人の康が『玉柚』という本来の名と性別に戻り、離れて暮らすようになっても確かな絆となって二人を結んでくれていた。


 その絆と信頼を頼りに、国主となった藍叡は言った。

「近日中に、王后が療養に出る」

 急な召喚を受け、側室への打診を断ったとき以来十年近く振りに二人きりになった室内で、玉柚は首を傾げた。

「昨日ご成婚となられたばかりですのに、如何なさいました?」

 王后となった幼い少女は、連れて来られてからずっと泣き暮らしていると聞いている。その所為で気鬱にでもなっているのだろうか。

「……都の空気が合わなかったようだ。静かなところで静養させるのがよかろう」

 藍叡の説明に、なるほど、と頷き返す。

「お前には、王后付きの侍女となってもらいたい」

 藍叡の即位と時を同じくして、玉柚は後宮の綱紀を取り締まる部署に配属されている。その役職を離れろという辞令らしい。

 元は公主付き女官として働いていたのだし、またお付き女官に戻ることに問題はない。あまり深く考えず、玉柚は王命を受け入れた。


「玉柚」

 療養先の離宮へ向かう為の準備を整える為、早々に話を切り上げて辞去しようとすると、藍叡がぽつりと名を呼んできた。その声音にほんの少しの違和感を感じ取り、玉柚は窺うようにじっと目を凝らす。

 呼び止めた藍叡は、言葉を探すように視線を伏せている。なにか言いたいのだけれど、言っていいことなのか迷っているような雰囲気だ。

 その様子に、玉柚はニッと唇を持ち上げた。

「なにを悩んでいらっしゃるのか存じませんけれど、この姉さんに任せなさいな。上手くやってみせましょう」

 とんと胸を叩いて告げられたその言葉に、藍叡は呆気にとられたように目を見開くが、すぐに苦笑を浮かべて肩を竦めた。

「俺が兄だろう」

「あら、そうだったかしら?」

「ああ。俺の方がひと月少し生まれが早かった筈だ」

 軽く応じる様子に、玉柚はほんのり安堵する。先程までの気不味そうな雰囲気はない。


 だから、にこりと微笑み、丁寧に叩頭した。

「どうかご安心を、主上。幼き王后様は、この玉柚が必ずお守り致します」


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