「そこ、母上のお墓なの」


 休息の為に腰を落ち着けた紫耀しようは、幼子の悲しげな声にハッとする。

 そこ、と示されたのが、つい今し方、自分が腰を下ろした石のことだとすぐに気づいた。

「すまぬ」

 慌てて立ち上がり、懐から手拭いを出して拭う。汚れた身体で触れていたわけではないのだが、そうするべきだと思ったのだ。

 紫耀のその行動の意味は子供に伝わったのか、悲しげだった表情は和らぎ、ふるりと首を振った。

 子供は小さな手に握って来た花を石の前に供える。野に咲く名もなき花のようだが、青い色が可憐な小花だ。


 紫耀は供の者に声をかけ、饅頭を二つ受け取った。

「坊や、大変な失礼をしてしまった詫びに、これを母上殿に供えさせてはくれぬか?」

 そう言って饅頭を差し出すと、子供は目を真ん丸にして振り返り、笑顔を浮かべて礼を言った。

「ひとつはお前が食え。母上殿と食べれば美味かろう」

「ありがとう、おじさん」

 子供はその小さな掌を額の前で重ねたかと思うと、ぺたりと地面に平伏した――目上の者に対する宮中式の礼拝だ。

 その様子に気づいた紫耀は、供のうちの一人を振り返る。彼も気づいたらしく、頷き返した。


「坊や、そこの村の子か?」

 嬉しそうに饅頭を食べ始めた子供に茶を注いでやりながら尋ねる。うん、と子供は頷き、躊躇いがちに湯呑みを受け取った。

「名前は? 年は……今、六つか?」

 気が急いてしまって矢継ぎ早に尋ねると、子供は少し迷惑そうな顔をした。その様子にハッとして黙るが、代わりに供のうちの一人が子供の顔を覗き込む。

「おじさんは、そう星晏せいあんという。この村に機織りと刺繍絵の名手の女性達がいると聞いて来た。その人は、失せ物捜しが得意だとも聞いているが、知っているかな?」

 うん、と子供は頷き、口の中の饅頭をもぐもぐと飲み下した。

「うちのお母さん達のことだよ、きっと」

「お母さん?」

 亡くなったのではないのだろうか、と子供の隣の石を見やる。供えられた小花が風に吹かれてころりと転がった。

「これはね、僕を生んでくれた母上のお墓。お母さんは、赤ん坊だった僕を育ててくれた人達」


 饅頭を食べ終えた手を上着の裾で拭うと、ひょいっと身軽く立ち上がる。

「お母さんに用があるなら、家まで案内してあげる」

 来て、と小さな手を振りながら駆け出してしまうので、紫耀と星晏は慌てて立ち上がり、あとを追った。


 あばら屋というほどではないが、富裕なほどでもない家々を眺めながら子供の小さな姿を追っていると、彼は途中で遊んでいた子供達と挨拶を交わし、また走り出す。友人が多いようだ。

 その子供達の集団とすれ違うとき、彼等は紫耀達のことを物珍しそうに見上げていたが、見知らぬ村外の人間が少し恐かったのか、わっと声を上げて駆け去って行った。


「こんな村に……」

 寂れた小路を見つめながら紫耀がぽつりと呟くと、星晏は静かに頷き返した。

「彼女が幼い頃暮らしていた御廟の近くです。身を潜めるには丁度よかったのでしょう」


 子供は奥まったところまで辿り着くと、鶏が放し飼いにされている庭のある家の中へ入って行った。

「あ、坊ちゃん!」

 子供が戻って来たことを見咎めて声を上げたのは、野菜を抱えて裏手から戻って来た背の高い女達だった。呼びかけ方からすると、使用人だろうか、と紫耀はその女達の容姿に目を留める。

「お母様のお墓参りですか? もう。それでもちゃんと言って行ってくださいまし。お姿が見えなくて、芳蘭ほうらん様が先程からお怒りですよ」

 女の一人が膝をついて子供の顔を覗き込みながら、少しきつい口調で叱る。子供は「えー」と嫌そうに零し、唇を尖らせた。

「さ、行って。芳蘭様に謝っていらっしゃい。手習いをサボるから叱られるんです」

「はぁい……あ、その人達、お母さん達のお客さんだから」


 子供を追い立ててしまうと女はこちらに振り向き、他の二人も同じようにこちらを見て、それから揃って深々と頭を下げた。

玉柚ぎょくゆう……」

 一人は兄の乳兄弟だった女だ。そして長い間、兄の正妻の侍女を務めていた者でもある。彼女と共にいる女達も同様の者だった筈だ。


 この家で間違いはないのだ、と紫耀は確信した。


「このような姿で拝謁すること、お許しください」

「よい。突然訪ねて来たのはこちらだ」

 姿勢を直してくれ、と告げると、女達は静かに顔を上げる。

「……わたしがこちらを訪ねた意味が、わかるな?」

 はい、と頷いた玉柚は、共にいた小玉しょうぎょく紅可こうかに抱えていた野菜を渡し、紫耀に振り返る。

「こちらにどうぞ。今お茶をお持ち致します」

 そう言って案内してくれたのは、恐らく食事をする為の場所なのだろう。土間打ちされた寒々とした部屋で、卓と長椅子が並んでいる。他には特になにもない。


 供の武官達は外に待たせて紫耀と星晏が腰を下ろして待っていると、何人か分の足音が近づいて来た。

 ややして戸口に現れたのは、人数分の茶碗を運んで来た小玉と、元賢妃けんひこう芳蘭、そして、玉柚に手を引かれた鈴雪りんせつだった。


「――…惨いことを」

 鈴雪の姿を目にした紫耀は、思わず呟いた。


 嘗て聡明な光を宿していた美しい瞳は、大きな醜い傷の下に隠されてしまっている。


 噂には聞いていたが、実際に目にすると痛ましい気持ちになる。紫耀は眉根を寄せ、拳を握り締めた。

「お見苦しい姿で申し訳ございません、紫耀殿」

 卓に着くと、盲目であることを感じさせない自然な動きで茶碗を手にし、鈴雪は口許に笑みを浮かべた。

 いいえ、と首を振り、紫耀は早々に本題を切り出す。

「六年もかかってしまいました」

 その言葉に、はい、と二人の元妃嬪達は頷いた。




 六年前――


 天麗てんれい公主の事件が明るみに出たあと、辺境に移されて生涯の蟄居を命じられた筈だった永清君えいしんくんが、王座の簒奪を目論んで挙兵した。

 王都から遠く引き離したことが裏目に出た。もちろん監視はつけていたが、その目を掻い潜り、生母であるかん氏の一族を筆頭に、援助をする有力者を集めていたのだ。


 内乱はふた月ほど続き、最終的に藍叡らんえいが弑されたことで、簒奪者の永清君に軍配が上がった。


 女官も含め、藍叡に仕えた後宮の女達は皆殺しにされるという話が出て、女達は逃げ出すことになったが、鈴雪は後宮の主として、采女げじょに至るまで脱出するのを支援していた結果、逃げ遅れて永清君の軍に捕まった。


 虜囚となった鈴雪から光を奪ったのは、そう権清けんせいだった。

 逸早く永清君の叛逆の徒に加わっていた権清は、捕らえた鈴雪を痛めつけ、己の不遇を招いた原因は鈴雪だと断罪し、刃を振り翳して「その生意気な目つきが気に入らぬ」と両目を潰した。そうして、手当ても碌にしないまま郊外に棄て、生き地獄を味わえ、と嘲笑ったのだ。

 すぐに玉柚達によって助けられた鈴雪だったが、その目が二度と光を取り戻すことはなく、命を繋ぎ止めることで精いっぱいだった。


 しばらくしてねい貴妃きひと黄賢妃一行と合流し、鈴雪が幼い頃を過ごした辺境の御廟へと隠遁した。この場所は、鈴雪を預けるように命じた先王と両親と、迎えに来た藍叡他少数の者しか知らない本当に辺境の地で、王都から険しい峠道を越えねばならぬことも幸いだと考えた。親代わりだった神女達も協力してくれた。


 そこで鈴雪達は子を授かった。寧貴妃が宿していた小さな男の子を。

 藍叡の――王家の正当な血筋を受け継ぐ男児を。




「あの子なのですね?」

 紫耀は二人に尋ねた。

 是、と芳蘭が頷く。

「我が取り上げた。寧貴妃が命を懸けて生んだ、主上の御子だ」

 度重なる流産や死産から、もう子は望めまいと言われていた寧貴妃だったが、四十も間際にして奇跡的に授かったその子を大切に守り抜き、命を賭して産み落とした。


「名は、龍環りゅうかん

「龍環……龍は、巡ると。よき名だ」

 王を表す龍の字を与えられた子の姿を思い返し、紫耀は微笑む。


 星晏と共に立ち上がり、その場に拝跪した。

「今日まで主上の御子をお守りくださり、心よりの感謝と御礼を申し上げます」

 その言葉に、芳蘭は僅かに戸惑いの表情を浮かべる。

 紫耀がいずれ龍環を迎えに来ることは、彼が一年前に永清君を倒す為に挙兵したときにわかっていた。この地に逃れる前に、そういう約束を交わしていた。


 しかし――と、芳蘭は溜め息を零した。

「本当に、あなたが玉座に就くおつもりはないのか? 年齢からいっても、龍環が王になるよりも、あなたがなられる方が妥当と考える者が多かろう」

 龍環はもうすぐやっと六つになるところだ。一国の主となるには幼すぎるし、紫耀が摂政になるというのならば、藍叡の弟である彼が玉座に就いても同じことではないか。


 いいえ、と紫耀は首を振る。

「わたしは摂政とはなりません――なれないのです」

 その言葉に、何故、と鈴雪と芳蘭は困惑気な表情を向けた。

「永清君は随分な昏君でした。玉座に就いてからのたった五年で、これほどまでに国を荒れさせた。その男を討つのにわたしは兵を募ったのですが、影で行っていたこととはいえ、五年もかかった。討伐を果たして、荒れた宮廷をなんとか安定させるまでに更に一年もかかった――つまり、わたしには、その程度の力しかないのです」


 叛乱の折、紫耀は王命で外洋へ留学していた。海峡を隔てた異国の地で永清君挙兵の報を受け、すぐに帰国をしたが、そのときにはもう藍叡は討たれ、王宮は逆徒の手に落ちたあとだった。

 そこからすぐに有力な氏族に声をかけ、簒奪者を討つ為の力を集めようとしたが、なかなか揃わず、挙兵するまでに五年もの月日がかかってしまったのだ。

 それは叛乱の折に、紫耀太子派だった寧伯黎はくれいや宋利星りせいなどの有力な貴族達が処刑されてしまい、大きな力になれる者がいなかったからだろうが、人望がなかったからだ、と紫耀は言う。だから自分では、王となっても国を支えることは出来ないし、力なき王がその地位に在れば、また永清君のような存在を生み出すことになってしまうのは明白だった。


「長く宮中から離れていたわたしには、まつりごとのこともよくわかりません。だから、あなた方も共にお戻りください」

 永清君が玉座に就いたときに、藍叡の時代に政の中枢を担っていた人々の殆どは処刑され、辛うじて生き残った次世代の官吏達も経験の浅い者ばかりだ。

 叛乱のときに尽力したからと、権清のような藍叡の時代には閑職に追いやられていた暗愚を多く重用した結果、官庁はその機能を死なせてしまっており、この一年手を尽くしてみたが元通りにはまだ遠い。

 武力だけはあることを知られていたから、隙を突いて隣国に攻められることはしなかったが、これからはどうなるかわからない。その前に早々に政の機能を回復させ、元のように平定させなければ。


「あなた方なら、それが可能ではないでしょうか」

 紫耀は鈴雪と芳蘭を見つめる。

「兄上の治世の折、常に朝議の場におられた王后様と、後宮一の才媛と呼ばれていた黄賢妃様。お二人が支えてくだされば、龍環は立派な王となりましょう」

 どうか、と紫耀は頭を下げた。


「わたくしからもお願い申し上げます。どうかお戻りください」

 続いて星晏も頭を下げた。

「お恥ずかしながら、わたくしでは父達のようにはいかぬのです。我が兄も、寧の黎亮れいりょう殿もご尽力くださっていますが、藍叡王の時代のように回っておりませぬ。経験も知識も足りぬのです」

 星晏の声音に苦しげなものが滲む。


 鈴雪は唇を噛み締め、しかし、と声を上げようとするが、察した星晏はそれを遮る。

めしいまなこでは無理だと仰られるなら、わたくしはあなたの目になります。手足にもなります。どうか、お二人のお知恵をお貸しください」

 お願い申し上げます、ともう一度頭を下げられ、芳蘭は大きく溜め息を零した。

「如何なさるか、娘子?」

「…………」

 僅かに考え込む仕種をした鈴雪は、玉柚を呼び、龍環を呼んで来るように頼んだ。


 しばらくしてやって来た子供は、紫耀達の姿を見上げ、その向かいに座った二人の母へと視線を向けた。

「龍環、大事な話があります」

 そう言って鈴雪が手を差し出すと、龍環はすぐにその手に頬を寄せた。

「私達は大きなお家に移ることになりました」

「えっ、みんな一緒に?」

 龍環は驚いた顔をして鈴雪の手を握り締める。


 何度も母達から聞かされていた。いつか龍環は皆から離れて、一人で大きなお家で暮らすことになるのだから、そういう覚悟を決めておきなさい、と。

 けれど、鈴雪は今『私達』と言った。龍環一人ではないのだ。


「本当に? 雪母さんも蘭母さんも、玉柚も小玉も紅可も、みんなみんな一緒に?」

「そうです。どうしますか?」

「どうって?」

「大きなお家に移ったら、今までのようには暮らせません。それでも行きますか?」

 少し声を低めて尋ねると、龍環は僅かに表情を強張らせたが、うん、と頷く。

「だってそれが、僕の『』なんでしょう?」

 母の問いかけに答える幼い瞳には、決然とした意志が込められている。

 龍環は幼いながらも、己に課せられた責任と使命があることを自覚し、それを成し遂げようと考えているのだ。


 これが自分に欠けているものだった、と紫耀は思う。自分には、龍環や、亡き兄と違い、この強い意志がなかった。


しゅんは、次代もよき王を戴ける――」

 小さく零された紫耀の呟きに、鈴雪と芳蘭も静かに頷き返した。




 藍帝治世二十年晩夏、永清君かく維信いしん逆徒を募り乱を起こす。

 後、国政甚だしく乱し、混迷を招く。

 郭維信簒奪五年初春、稜応君りょうおうくん郭紫耀起つ。逆賊郭維信を討ち、王位を奪還す。

 翌初夏、藍帝が一子郭龍環践祚す。名を紅龍こうりゅうと改める。

 治世、暫時乱れるも平定。後五十七年続く。

 郭紅龍、生母は貴妃寧氏菖香しょうこう。摂政に王太后宋氏鈴雪、賢妃黄氏芳蘭を擁す。

 宋氏黄氏、紅帝治世の内に五十巻に及ぶ指南書を共に上梓。数百に及ぶ政策案、兵法案を綴り、後の世に伝える。

 妃嬪への後宮指南を記した書も含め『雪花妃伝書』と称し、継嗣必読指導書として後世に受け継がれる。




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