五 白鷺姫の宴(二)


 到着した晩に歓待の宴を催さないのは何故かと思ったら、夜通しの墓参りだったからか、と納得しつつ、鈴雪りんせつは三人がかりで着つけられていた。


 今夜の衣裳は、金糸の刺繍の入った白絹の胴衣に黄色の衣を重ね、金糸の帯を締め、山吹色に金糸の刺繍の入った長衣を羽織るようになっている。貴色である黄を基調にしているこの装いは、王后らしいものといえた。

 髪も高く結い上げて龍と蓮を模った大きな簪を挿し、慣れない鈴雪にとっては重たいくらいだ。首を動かすのも躊躇ってしまう。


「少し派手ではないでしょうか?」

 ぎこちなく振り返りながら恵世けいせいに尋ねると、彼女は大きく首を振った。

「とんでもございません。これでも相当控えさせて頂いたくらいです」

「でも、身動きが取れません」

 しゃらりと涼やかな音を立てる簪を見上げると、その仕種で鈴雪がなにを心配しているのか気づいた恵世は、思わず吹き出した。

「大丈夫ですよ。意外と落ちないものです」


 そうかしら、とまだ不安を感じながら慎重に肯首すると、首飾りを選んでいた玉柚ぎょくゆうが眉を寄せて見つめてきた。

「だから普段からもう少し着飾るべきだと申し上げていたのです。それなのに、いつもあんな采女げじょのような服装をしていらしたから、ちょっと盛装しようとするとそうなってしまうのです」

 その言葉に今度は鈴雪が眉を寄せた。

「だって、そんな贅沢なものはいらないではないですか」

「王后様なのですから、普段から着飾るべきなのです」

「着飾っていたら動けな……」

 そこまで言いかけて、ハッとして口を噤む。恐る恐る見上げると玉柚はじろりと睨みつけていた。


「王后様が水汲みやら拭き掃除やら、菜切りなどする必要はないんですよ!」

 八年間ずっと言われ続けていた小言が蘇る。ああ、と鈴雪は溜め息を零した。これは盛大な藪蛇だった。


「そんなことをなさっていらしたのですか?」

 離れて暮らしていた恵世は驚いたように鈴雪を見つめ返し、そのバツの悪そうな顔を見てすぐに納得したようだった。困ったように小さく息をつく。

「鈴雪様……」

「わかっています。玉柚にも何度も言われていました。でも、私は……誰かになにもかもをして頂くという環境が、慣れないのです」

 もちろん今でもそうだ。着替えなど自分一人で出来るし、髪結いだって鏡と櫛があれば出来るし、湯浴みだって一人で出来る。繕い物も掃除も得意だし、五つになる頃には厨に入って手伝っていたのだから、煮炊きも問題ない。

 それでも、こうしてかしずかれて身支度を整えられ、美しく装って微笑んでいるのが正しいのだと言われるから、後宮に戻って来てからは一切を女官達の手に任せている。


「……でも、まあ、それでお元気に過ごされているのですから、あまりうるさく言うのもよろしくありませんね」

 思わず気持ちを沈ませると、玉柚は顰めっ面のままそう言った。

「当然こちらにお戻りになられたら、そういうことが一切出来なくなっているのですから、過去のことをこれ以上とやかく言うのもね。もう止めに致します」

 ふん、と鼻を鳴らし、瑪瑙の首飾りを差し出す。玉柚なりの妥協らしい。

 この厳しい師がそういう判断を下したのなら、鈴雪もこれ以上うじうじと話を蒸し返すようなことはするまい。頷いて首筋を差し出し、首飾りをつけてもらう。

「さあ、そろそろ刻限ですし、参りましょう」

 促されて立ち上がった鈴雪は、まっすぐに背筋を伸ばす。

 やはり簪が重くて頭が揺れるが、痛みそうな首筋もまっすぐに伸ばし、そんなことを感じさせないように姿勢を正す。正面しか見えないその姿勢の所為で裳裾を踏みそうだが、それは過去に玉柚から叩き込まれた足運びでなんとかなるだろう。


 部屋を出てしばらく行くと、庭園を挟んで向こうの回廊を進むねい貴妃きひ一行の姿があり、また別の回廊にもこう賢妃けんひの姿が見える。よう昭儀しょうぎあん充媛じゅうえんは少し離れた房に住まわっているので、使う回廊が違うのだろう。


 このままではかち合うな、と思っていると、案の定、後宮を出る玉門という名の朱塗りの境界門の前に、寧貴妃とほぼ同時に辿り着いてしまった。

「ご機嫌麗しゅうございます、娘子じょうし

 寧貴妃は鈴雪に向かって優雅に腰を折った。

 今日の装いは刺繍のされた黄色の胴衣に、彼女が好きだという紅の長衣を羽織っている。簪の数も今までで見た中で最も多く、首が折れるのではないかと思えるくらいに挿しているのには、慣れない鈴雪はうっかり感心してしまう。

(さすがに龍の簪はないのね)

 王を示す龍を身に着けるのは、王とその正室だけだ。

 今までの状況と態度から、当然のように龍の模られたものを身に着けているのかと思ったが、寧貴妃の簪は鳳凰を模したもので、さすがにそのあたりは弁えていたらしい。

 そうしてこうべを垂れたままにしているので、鈴雪は頷き、衛士に「開けよ」と開門を命じた。


「卑しい女」


 当然の順序として開かれた門を先に進むと、小さく囁き声が零れる。

 寧貴妃の声ではない。けれど、彼女の供としてやって来た女官の誰かの声だ。


「今なんと……っ」

「およし、玉柚」

 まなじりを吊り上げて振り返る玉柚を、鈴雪はひとことで押し留める。そうして、こういう場合にどういう態度を取るのが適切か、と逡巡し、一瞥をくれることもなく口許を軽く押さえて嘆息した。

「小虫の羽音など、捨て置きなさい。煩わしいだけ」

 汚いものを目にしたような口調で呟き、顔だけで寧貴妃を振り返る。

「寧貴妃、せっかく美しく装われておられるのに、小蝿がたかるだなんて、清掃が行き届いておられぬようですね。この暑さでなにか腐らせでも致しましたか?」

「いいえ、娘子。お耳汚しを失礼致しました」

「私のことはよいのです。ただ、これからお客様の歓待の宴の席に参ろうというのに、そのような不潔なものを持ち込むのは如何か、と思います」

「仰せの通りでございます」

 寧貴妃は鈴雪の言葉に頷いて深々と叩頭すると、従って来た女官達を一瞥する。大きく頷き返して動いたのは、彼女の気に入りの女官なのだろうか。二人が素早く立ち上がり、青褪めた表情の若い女官の腕を両側から掴んだ。

「あっ、貴妃様! お、お許しを……っ」

 腕を掴まれた若い女官は悲鳴じみた声で許しを乞うたが、寧貴妃は一瞥をくれることもなく、鈴雪へと目を向けた。


「貴妃様! 私は、ただ……ただ……!」

 若い女官は尚も声を上げるが、寧貴妃は「偲媚しび」と傍らの女官を呼んだ。はい、と頷いた彼女は先日鈴雪が使い走りを申しつけた女官だった。彼女は無表情のまま、許しを乞うている若い女官の頬を平手で打った。茫然とする若い娘の顔を、偲媚と呼ばれた女官は二度、三度と打ち据えた。


「失礼致しました。私が責任を持って教育し直しますので、本日のところはこれでご容赦くださいませ、娘子」

 偲媚は床に手をついて深々と頭を下げる。その後ろで、打擲された女官は唇の端に血を滲ませながら茫然としていた。


 鈴雪は静かに眉根を寄せ、叩頭したままの寧貴妃に立つように告げる。

「女官の躾はあなたの品格にも関わるもの。ご留意なさいませ」

「寛大なご処断、有難う存じます。娘子のお言葉、しかと胆に銘じます」

 頷いて許しを与えながらも、また面倒なことが起こってしまった、と鈴雪はひっそりとうんざりする。

 鈴雪の性格上、ああいうものは普段は無視をする。けれど、ここは他人の耳目が多くあるし、なにより寧貴妃の供の者達の前で甘い態度を取ると、すぐに舐められてつけ上がられるのは目に見えている。毅然とした態度で、無礼を働いた者を罰しなければならなかったのだ。


 ただでさえ憂鬱な酒宴の前であるというのに、こんな無用のやり取りをしてしまい、更に気分は滅入った。


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