一 王后帰還(一)


 朝議の場は紛糾していた。

 こんな光景をいつぞやも見たな、と藍叡らんえいは玉座から見下ろしていた。


「主上、ご決断を!」

 沈黙を保っていた王の様子に痺れを切らしたように、臣下の一人が叫んだ。その声に呼応するように、居並ぶ者達から次々と同じ言葉が上がってくる。

(――…ああ、面倒だ)

 藍叡は隣に控える侍従を見遣り、顎先で臣下達の最前列に座る宰相を示した。

「本日の朝議はこれまでとする」

 指示を受けた宰相は散会の言葉を口にするが、皆興奮冷めやらぬ様子で、しばらく不満の声を口にしていたが、藍叡が席を立ち去るとしばらくして声を落とし、そのまま渋々とした様子で広間を出て行った。


「どう思う? 竣祥しゅんしょう

 広間の奥にある休憩所として使われる小部屋に入ると、藍叡はあとをついて来た宰相に尋ねた。

「くだらない妄言だと思いますが、ここまで広まっているとなると、見過ごせない事態でもありますね」

 二年前に老齢の父から位を引き継いだ若い宰相は、勧められるままに王の対面へと腰を下ろし、出された茶を受け取った。


 先日、藍叡の子供が死んだ。生まれてからようやく三月になろうかという頃だった。

 死産や流産した子などを含めると、これで十二人目だ。側室は四人いるが、生まれた子供は一人として無事に成長していない。念願の男児で、世継ぎが誕生したのだと喜びが広がったばかりだっただけに、藍叡や生母である側室のみならず、臣下の落胆も大変大きなものだった。


 城下の民草の間にも訃報は伝わり、何度目かわからない御子の訃報に、何処からともなく不吉な噂が流れ始めた。


『離宮に幽閉された王后おうひが、御子みこ様達を呪い殺しているのではないか』


 婚礼を挙げてすぐに離宮に追いやられた王后が、元は神仏を祀る御廟に仕える神女しんめだったという経歴があり、人を呪うくらい簡単にやってのけているのではないか、という噂だった。

 仮にも王族に対し、なんとも無礼な噂話である。藍叡が彼女を幽閉しているつもりもない。

 しかし、王の子が一人として無事に育っていないことから、その噂は妙な信憑性を帯びて広がり、ついには重臣の間にもそれを信じる者達が増え始めたのだ。

 元々占見うらないを尊ぶ風潮にあるだけに、呪いとかそういったものにも異様に食いつき、いつの間にか信じるところがある国民性が仇となっている。


 藍叡は鈍痛のする蟀谷こめかみを押さえ、溜め息を零した。

「あれがそういうことをするような女ではないことなど、臣は知っていように……なにを根も葉もない愚かしい噂話に踊らされるのか」

 共に過ごしたのはひと月ほどだ。それでも、妻となった少女が気弱そうで、子供を呪い殺すなどという苛烈な性格をしていないことくらいは知っている。

 何度か遠目に見かけただけの竣祥でも、あの小さな少女が呪詛などしそうにはないことを理解していた。婚儀に列席したほどの高官となれば、竣祥と同じ程度の認識は持っている筈なのだ。それなのに、重臣達の間に噂は淀みのように広がっていく。

「しかし、主上。世継ぎが生まれないことに不安があるのは確かです」


 藍叡は今年三十五になる。即位してから十六年が過ぎていて、最初の側室であるねい貴妃きひを傍に置いてからも十八年が経っており、太子も公主も一人もいない状況は異様だった。

 先王には王后と側室が六人いて、藍叡を含めて太子が四人と公主が十人いた。その前の王には王后が三人いて、側室に至っては十六人もいた。子供は夭逝した者も含めて太子が十三人と公主が二十八人いたという。その第六公主が藍叡の王后である鈴雪りんせつの祖母銀蓮ぎんれん公主であった。

 先王達に比べて藍叡に側室が少ないのだとしても、四人もいるのだし、御子は五人ほどはいてもおかしくはないのだ。

 懐妊には至るので、種胤たねがないわけではない。側室達の身体に大きな問題があるわけでもなく、ただ子供が上手く育たないのだ。御典医に診せても、特に悪いものはないという。


 では何故か――そうなったときに、王后の呪いだという噂に行き着く。


 託宣の通り、鈴雪を娶ってから国内の不安定な情勢は落ち着きを取り戻し、旱魃や水害などで飢饉が起こることもなく、隣国に攻められることもなく平穏そのものだ。まさに治世は安泰である。しかし、幼い娘の人生を奪った故の代償なのか、世継ぎが育たない。これでは完全な安泰とは呼べなかった。

 婚儀を執り行い、その後三日三晩続く祝賀の宴を終えたあと、鈴雪は王都から馬で半日ほどの場所にある離宮へと移り住んだ。それから十年近くが経っている。


「……は、いくつになっただろう」

 藍叡はぽつりと呟いた。

 彼の記憶にある王后の姿は幼く、そしてそのほとんどが怯えた泣き顔ばかりだった。

「十八……十九歳になられた頃かと」

 竣祥が少し考えてから答えた。それは藍叡が即位した年齢と同じ年頃で、世間的にも一人前の大人として扱われるような頃だ。人によっては子供の一人二人も設けているかも知れない。


 あの婚礼のとき、それくらいの年齢だとよかったのだ。

 初夜の褥で、恐ろしさで震えていたのだろう幼い后は、やって来た夫を滂沱の涙を零して拒絶し、悲鳴を上げて小さな手脚で必死に藻掻いていた。片腕で易々と動きを封じられるような肢体を組み敷き、折れそうなくらいに細い手首を押さえつけて蹂躙しようとしたことは、いくら苛立ちに駆られたとはいえ、苦く胸の奥に蟠る後味の悪い記憶だった。

 帰らせてください、と懇願する細い涙声を、今でも覚えている。託宣によって妻となった幼い娘が藍叡に向けた言葉は、そのひとつだけだったと言っても過言ではない。彼女の口が紡いだそれ以外の声を、藍叡は覚えていなかった。

 最後に見たのは、離宮へ行く為の輿に乗り込む小さな後ろ姿だった。政務の合間を縫って藍叡が見送りに来ていたことに気づいていただろうに、一度も振り返ることなく、その枯れ枝のような細い身体に見合わぬ王后の為の豪奢な衣裳を引きずり、王宮から静かに去って行った。

 寧貴妃との間に生まれた三歳になる太子が亡くなったのは、それからひと月ほどあとのことだった。続けてよう昭儀しょうぎの生んだばかりの公主が亡くなり、以来、側室達には流産や死産が続き、無事に産声を上げた三人の子供達も次々に夭逝した。


「どう思う? 竣祥」

 先程の問いをもう一度発した。

 若い宰相は少し考え、ゆっくりと藍叡へと視線を戻した。

「ご逝去あそばされた太子様のことでしたら、今も調査を進めております。こう賢妃けんひ様の拒絶もあって難航しておりますが……。王后様のことでしたら、お迎えに行かれては如何でしょうか」

 静かに告げられた提案に、藍叡は双眸を眇める。

「離宮に移られてからもう八年も経つのだし、お戻りになられてもいい頃合いと存じます。お戻りになり、来月に行われる重陽ちょうようの宴で仲睦まじいお姿をお見せになれば、重臣達も黙りましょう。陛下御自らお迎えに行かれずとも、使者を出し、そうお命じになられればよいかと」

「戻ると思うか?」

「それは……正直のところわかりません。王命に背く方ではないと思いますが、仮にも唯一国王の命に対立することの許される王后様ですし、どういう答えを返されるか……」


 鈴雪は周囲に迷惑をかけてまで命令に背くような性格でない。大人しくか弱く、従え、と命じれば黙って俯き、すぐに泣く幼い娘だった。

 だが、その鈴雪も大人になっている。神仏に仕えて慎ましく暮らしているから大人しい性格だったのが、かしずかれて暮らすうちに、ありふれた貴族の娘のように気位が高く、横柄で生意気な娘に成長しているかも知れない。そういう性格の娘に成長していたとしたら、呪い殺しているという噂にも信憑性が出てきてしまうのではないか。


「それとも、あまり建設的ではない提案になりますが……新たにご側室を選ばれますか?」

 考え込んだ藍叡に向かい、竣祥は付け足すように尋ねた。答えはあまり期待していないような口調だった。

 四人の側室達はまだ十分に若いが、度重なる流産や死産で疲弊している面があるのは明らかだ。それよりも新しい側室に賭けてみるべきか、と竣祥は控えめに提案する。


 藍叡は暫し沈黙し、考えを巡らせる。

 あの細い背中を見送って以来、鈴雪には会っていない。供につけた女官から様子の報告を受けていたが、それも一年程で不要と打ち切った為、幼い王后の動向はまったく把握していない現状だ。大病をしたという話も聞かないので、息災なのであろう。その程度にしか知らない。それ故に、幼い鈴雪が、静かに暮らしてきた御廟から無理矢理連れ出し、妻にした藍叡のことをどう思っているのか、まったくわからなかった。彼女に行ってきたことは、呪詛をかけたいくらいに恨まれていても仕方がない所業だったことくらいは、想像に難くない。

 下賤でくだらない噂ではあるが、もしも本当に鈴雪が呪っているのだとしたら、新しい側室を迎えることは無意味と言えよう。どうせ子は育つまい。


 藍叡は竣祥を見遣った。

「明日一日、宮を空ける」

「主上?」

「王后を迎えに行く。こう侍従、同行させる者を選んでおけ。三人ほどでいい」

 驚いている竣祥の後ろで、侍従が「畏まりまして」と叩頭し、命を遂行すべく退室して行った。

「馬を走らせれば半日の距離だ。俺が行けば、あれも抵抗はするまい」

 今は政務も落ち着いている。民からの陳情嘆願も少なく、一日くらいなら抜け出せる余裕がある。


 竣祥は少し呆れたような顔を隠しもせずに見せたが、すぐに頷き、帰城する王后を迎え入れるのに必要な準備を整える、と告げて立ち上がった。


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