35. 浅き夢見し(5)

 前触れなく、がたん、と勢いよく引き戸が開けられた。次いで、ずかずかと中へ入ってくる足音。

――助かった?

 男たちが手を止める。声を上げる。

「なんだ、近野こんのの旦那じゃないか。こんな夜更けに来るとは、珍しい」

「連れ立ってどうしたんだね?」

「済まない、力を貸してくれ」

 知っている声に息を呑む。

「なんだい喧嘩ですかい?」

「ああ。博打いつもよしみで頼む」

 辰之助たつのすけは、床に転がったままの結衣に見向くことなく、ずかずかと真ん中まで来て。

「お奈津なつ!? ここになんでいるんだ!」

 叫んだ。

 返事はない。その代わり。

「知り合いで?」

 と、別の男が言った。

「こいつ、さっき急に飛び込んできたんですよ。どうも、昨日転がり込んできた莫迦のイロらしくって」

「莫迦って…… 賢太郎けんたろうか!?」

 辰之助がさらに甲高い声を出す。

「もしかして、こいつが旦那方が捜していた男で?」

 戸惑う声が応じる。

「一昨日からウロウロしていたんですよ。それをようやく捕まえて殴ってやれたのが、今日の昼」

「おまえたちが捕まえていると知っていれば、榮屋さかえやに殴りこむこともなかったのに」

「なんだって!?」

 結衣を押さえつけていた一人がするりと手を退けた。

「旦那、今なんて言った」

 蒼褪めていると分かる声。それも一つでない。

「榮屋に何をしたって?」

「先ほど、討ち込んできた。懲りずに賢太郎を中に匿っていると思ったんだよ」

 辰之助が訝し気に返すと、先に社に居た方の男たちが、かたん、かたん、と立ち上がる。

 結衣ゆいも慌てて体を起こした。

 奥には変わらず、素っ裸の上に縄を巻かれ、呻き声だけを上げる賢太郎と、彼を抱きしめて顔を上げない奈津。中央には大小を腰に差した男が五人と辰之助。壁際で尻餅をついたような格好になっている、襤褸を着た男たち。

「喧嘩って榮屋が相手かよ!?」

「本当に行ったのか。止めておけって言ったじゃないか」

「千住の街を歩けなくなるぞ!」

 辰之助が眉を跳ねさせる。

「下町の口入屋風情を、そんなに恐れているのか」

「当たり前だ!」

 金切り声。

「この辺りを、堅気から破落戸までみんなまとめて面倒を見ているのが榮屋だってのに……」

 一人、ひえっと声を上げて社を抜け出した。それを皆が黙って見送ったが、彼はすぐに駆け戻ってくる。

「駄目だ、もう駄目だ!」

「なんだってんだい」

「もう無理だ。提灯の灯りがいくつも、こっちに向かってきているんだ」

 結衣は瞬いた。近くに来ているのだろうか、と後ろにずる。両手で襟の合わせを押さえる。

 蒼褪めた男たちは頭を抱えている。襤褸を纏った者だけでなく、大小を差した男たちもだ。

「なんか、よく分からんがヤバそうだな」

「どうやって立ち向かうんだよ」

「妙案があるよ」

 くすっと辰之助だけが嗤った。

 蛇のような眼が、結衣と奈津を舐める。

「人質がいるじゃあないか」

 奈津がひっと息を呑んで、賢太郎を抱きしめる。結衣は、そろりそろり、後ろにそのまま下がっていく。

「お奈津がいるのは吃驚だったけれど、背に腹は代えられないからね」

 また腕が伸びてくる。己を叩いた手、沙也さやを斬った手が。

――やっぱり、また、だ。


 顔中が歪んで、頭の中で何かが、ぷつん、と切られた。


「近寄らないで!」

 思わぬ声が出た。辰之助の手を叩き、ばっと立ち上がる、後ろを向く。

「おい、待て!」

 目の端で、焦る男たちと、睨みつけてくる奈津が見えた気がした。

 でも止まらない。

 外に飛び出す。夜の闇の中、裾は乱れたまま、草を踏んで走る。

――本当だ。

 灯りが近づいてくる。思いっきり走る。

 星明りも助けてくれる。

 人影が見える。

「結衣姐ちゃん!」

 呼ぶ声。

伊織いおり!」

 駆け寄ってきた自分より小さな体を思いっきり抱きしめた。

「うえええええ! 良かったぁ! なかなか帰ってこないから心配したよ!」

 ぐす、と結衣も鼻を鳴らす。そのままへたり込む。

 すぐ隣に灯りと人の影。見上げると、苦笑いをした相模さがみだ。

 ばさっと何かが落ちてくる。

 見慣れない羽織。

「これ?」

「上に被っておけ。目のやり場に困る」

 言われ、かっと頬が熱くなる。

「姐ちゃんはお胸ちっちゃいねえ」

「え……?」

「母ちゃんのはぽよんぽよんで気持ちいいのに」

「伊織。殴られたくなかったら、黙っておけ」

 くっくっと喉を鳴らした相模が、そのまま屈んで顔を覗き込んできた。

「帰ってきたら、沙也は血を流しているし、あんたはいないし。俺の寿命は縮んだんじゃないかな?」

「お沙也さんは……」

「無事だよ。腕と肩を斬られたけれど。伊織が怒りまくってて、辰之助に一矢報いるっていうから連れてきたんだよ」

 ああ、と瞬く。

 幾つもの灯り。聞きなれた声と声。お結衣ちゃんだ、と名を呼ばれて涙が出る。

 三人組だけでなく、顔馴染みとなった大工や棒手売りの面々だ。皆、笑っているような怒っているような、複雑な顔つきだ。

「あとは辰之助他をとっ捕まえるだけだな」

 応と木霊する声。

「この先のお社で間違いないんだろう?」

「入って行ったのを見たって話をいくつも聞いたからな」

「どうなんだ、お結衣ちゃん?」

 問いかけられて、振り向く。たった今走ってきた方。灯りがぼんやり漏れてきている社。

 頷いて、あ、と呟く。

――そうだ、あそこから逃げてきたんだ。お奈津ちゃんと兄様を置いて!

 すうっと背中を汗が流れた。

「お結衣ちゃんにも手を出そうだなんて、本当に赦せないな」

「他にも柄が悪いのもいるっていうから、いっちょ掃除しておくか」

「お相手さん達、喧嘩を売ってきたことを後悔しててくれればいいんだが」

 相模の笑みに、皆も笑う。

「派手にぶん殴っていんだろう?」

「ああ」

 指を、肩を鳴らしたのは一人ではない。大声を上げて、走っていく。間もなく、怒鳴り声が響いてくる。

 呆然となっていると、すっと大きな掌が寄ってきて、頬を撫でられた。

「さて、俺も行くか」

 軽く笑うその人の袖を、結衣は掴んだ。

「向こうに、お奈津ちゃんと兄様もいるの」

 助けて、と呟く。溜め息が返された。

「今は、な」

 笑みが消える。

「その後は、土井様がお待ちだ。裏切り者と不埒者を始末する、とね」

 見上げていると、彼は首を振った。

「今日はその話のために呼ばれていたんだよ」

 そうか、と納得すると同時に、ぎゅっと羽織の上から抱きしめられる。

――この羽織、お出かけに着ていたのだ。

 着替える間もなく駆けずり回っていたのか、と苦しくなる。同時に。

――辰之助様のおっしゃっていたとおりだ。兄様を、藩主様はお赦しくださらない。

「兄様は」

「悪い」

 にいっと口の端を持ち上げた顔に、背筋が凍る。

「俺はあの莫迦の命乞いをするつもりはないぞ」

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