29. 今日越えて(4)

 通りの先からも分かるほど、越後屋は明るい。

「灯りのための油が勿体ない。一体何の贅沢をしているのだ」

 唸った兄を見上げて、結衣ゆいはぎょっとした。

「兄様。そのほっかむりは何?」

 いつの間にか彼は、何処からか取り出した唐草模様の風呂敷を頭から被っていたのだ。

「顔を隠すためだ」

「何故」

「失踪中の私が突然のこのこ出て行ったら大騒ぎになるだろう」

「……そこは判断できたのね」

「取り次いでもらえる訳が無い。だから、裏からこっそり行くのだ。顔を見られぬよう、こっそり行くぞ」

 そのまま、ずんずん進んでいく。

 一本手前で表街道を逸れて、裏路地へ。板塀に沿って進み、途切れたところで覗くと、ちょうど越後屋の庭先だ。

 そこに面した座敷で宴は催されているらしい。三味線の音が漏れ聞こえてくる。喧騒は、無い。

「まさか、このお庭を突っ切るとか」

「するわけなかろう。他に通り道は、通り道はないのか」

 ぶつぶつ言いながら、賢太郎けんたろうはさらに路地を進んでいく。結衣も追う。

 そして、次に塀が切れたところからは灯りが漏れてきていた。

「裏口か」

 ほっと笑って、賢太郎は真っすぐに入っていこうとするので、袖を掴む。

「あの…… 本当に行くの?」

「辞儀をせいと言ったのは結衣だろう!?」

 むっと口を尖らせられた。結衣も膨れる。

 賢太郎はぷいっと顔を背け、戸口へと向かい、そして。

「何をしている!?」

 叫んで、一気に駆け込んでいった。

 背中をどっと汗が伝う。結衣も飛び込んだ。

 そこには、賢太郎と、奈津なつ辰之助たつのすけがいた。

 何故だと瞬く。

――お奈津ちゃんは、越後屋さんが手を貸せって言って連れてったって皆が言ってた。

 今宵此処で開かれる宴席は、他ならぬ結衣が住まう土地を治める藩主の席だ、とも。だから、辰之助は藩主のお供かと頷く。

 では、次に分からなければいけないのは。

――辰之助様、なんでお奈津ちゃんを抱きしめているの?

 羽織袴の一張羅の辰之助が、襷と前掛けをつけたままの奈津を、その両腕で囲っている。

 彼らの一歩手前で、賢太郎はわなわなと震えていた。

「お奈津から離れろ、辰之助!」

 拳が持ち上げられる瞬間。

「賢太郎様!」

 奈津が叫んで身を捩り、叫ぶ。辰之助が頬を引き攣らせた。

「本当に来たんだね、賢太郎。この恥知らず」

 眉間に皺を刻んだ彼は、すっと奈津から身を離した。

「話はあとでもう一度しよう、お奈津。先に役目を果たさねば」

 何を、と問う間もなかった。辰之助が腰の刀を抜く。賢太郎も腰の物に手をかけたが、間に合わない。重たげな音を立てて、肩が打たれる。

 奈津が悲鳴を上げる。後ろにひっくり返った賢太郎に結衣も駆け寄る。

 膝をついて、彼を助け起こそうとして、傍に立った影に見上げた。

 辰之助だ。

「見つかったら教えておくれ、と。言ったよね?」

 目を見開いて、頷く。

 辰之助は、空いていた左手を振り上げた。

 右の頬が乾いた音を立てた。まず、冷たく、ついで熱くなる。

「この、兄妹そろって……!」

 もう一度振り上げられた手が、迷わず結衣の顔を打った。転ぶ。

 口の中に赤いものが流れる感触。

 視界が揺れて、滲む。

「知らなかったかい? 榮屋は見張られていたんだよ?」

 ずいっと顔を寄せてきて、彼は嗤った。

「君とお奈津に会うために賢太郎がやって来ていたことはバレバレだったんだ。今宵、殿が下町の商人風情の誘いに軽々と乗ったのは、賢太郎をおびき出すためだったんだよ」

 え、と瞬く間もない。反対の頬も張られた。

「おい、早く!」

 辰之助が叫ぶと、足音がばらばらと近寄ってきた。

「賢太郎だ。ついでにその妹も殿の前に連れていけ」

 応じる声が聞こえた。腕をぐいっと掴まれる。引っ張られる。また奈津が悲鳴を上げるのが聞こえた。

「ああ、もう。お奈津も一緒に来て、話を聞くかい?」

 辰之助の溜め息も響く。

 ぞろぞろと土間を、縁側を進む。誰もが俯いている中で、喚き続けているのは賢太郎だけだ。

 たどり着いたのは、庭に面した座敷。よろめきながら顔を上げると、下座に越後屋が、上座に初老の男が座っていた。

 越後屋が目を細める。その手元には、桐箱。中身が輝いている。

「これはいったいなんだ!?」

 賢太郎が叫ぶ。

「金貨か!? そんなものを差し出して、受け取って、どうしようという気だ」

「……壮大な悪巧み、と答えたいところではあるが」

 ふう、と息を吐いて、上座の男は笑った。

「すまぬ、越後屋よ。先にこの話を済まさせてもらえないだろうか」

 彼がひらり手を振ると、越後屋は顔を歪めて腰を上げた。

 ぴしゃん、と障子が閉められて庭が見えなくなった。部屋の真ん中に居た桐箱が除けられて、賢太郎と結衣が転がされる。奈津が飛んできた。

 賢太郎はふてぶてしく胡坐をかく。その背中に奈津が縋りついて、啜り泣き始めた。

「久しいのう、賢太郎」

 ぱしん、と扇子を掌で打ち鳴らして。上座の男は真っすぐに見遣ってくる。

 ああ、と結衣は唇を噛んだ。この人は、土井大炊頭おおいのかみ――藩主その人ではないか。

 座り直して、両手と額を畳に擦りつける。

「顔を上げい」

 声が降ってくる。それでも動けずにいると、後ろから背中を蹴られた。

「乱暴は止めよ。女子供は守るべきものと教わらなんだか」

 藩主の声に、誰かが応じる。

「楽にせよ。話しづらい」

 そろりと見上げると、笑う顔が見えた。

 ふっくらとした顔立ちだ。歳を経て、下膨れた頬が揺れる。一つ頷いてから、視線はゆるりと研ぎ澄まされて、賢太郎へと移っていた。

「なかなか面白い失踪劇であった。だが、理由がつまらん」

「つまらぬ、など……」

「軽々と水野の走狗となったか。あれは確かに生真面目な男。この国の行く末を本気で憂いておるのは分かるが、そこに住む人をないがしろにして良いわけではない。かくいう私も、上知令までそれを考えていなかったのではあるが」

 ははは、と笑って、彼はまた扇子を鳴らした。

「上知令で、水野は敵を作り過ぎたな。そこに領地を持つ大名も旗本も、住まう商人たちもこぞって反対だ。皆、下心があってのことだが、それはそれ。今の暮らしをなんとか続けようと必死なんだよ」

「その暮らしが最善とは限らないではないか」

 賢太郎が前のめりになって叫ぶ。横から辰之助が抜身の刀を差し出して、それを止めた。

「生意気な口を利くようになったのう、賢太郎」

 藩主はまだ笑っている。冷たい瞳で。

「さて、どこまで知っていることを話せばいいかな? おぬしが儂を裏切って水野の走狗となったことか? 手下として、信州やら甲州やらでこそこそ動き回っていたことか?」

 賢太郎がギラギラと睨み返しても、藩主も揺らがない。

「それを水野を救うことに繋がっていないことか」

 賢太郎がぽかん、と口を開く。藩主は体を揺らした。

「一番の手下に――妖怪・鳥居に見放されたぞ。その中でどう出るかな? 上知令が滞りなく進められるのか、それとも止められるのか…… それももう、おぬしには関係ないこと。国の行く末を案じるわりには己の身に無頓着過ぎたな」

 一度息を吐いて、藩主は話し続ける。

「裏切りを突き止めて後は、おぬしの妹御を見張らせていた。直々に乗り込んでとっ捕まえに行こうと思っていたが、なかなか榮屋は守りが固かった」

 その一瞬は楽しそうに笑って、結衣を見遣ってから。表情をすっと消した。

「野放しにしておくのは、儂の恥というもの。それ、楠見くすみ賢太郎を邸に引っ立てい」

 は、と脇から二人出てくる。

 最初に伸びてきた手に賢太郎は噛みついた。噛みつかれた男が、ぎゃっと叫んで座り込む。賢太郎が立ち上がる。

 そして、傍の燭台を取り、ぶん、と振った。

 火の粉が散る。蝋燭が落ちる。

 外と此処を区切っていた障子を、炎が一気に舐め尽くす。

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