25. 有為の奥山(5)
銭湯から戻ってきた
それに付きっきりで飯を出す
みぞおちの上がキリキリ悲鳴を上げる。
奈津が離れた隙に、榮屋の中で一番
「兄様」
「なんだ」
声が低い。口も曲がっている。結衣の眉も捩じれる。
「ちょっと話をしよう?」
膝を揃えて座って、向かい合う。
「この度のお勤めの首尾は?」
「上々だ」
「それはよろしゅうございました」
半目で見遣ると、賢太郎は大きな咳払いをした。
「水野越前守様は大変お喜びになった。そして、この後、正式に水野様の御家に召し抱えていただくことになった」
淡々と、彼は言葉を続ける。
「それと、薄々感じているとは思うが、奈津を妻にするつもりだ」
結衣は片手で胸を押さえて、頷いた。
「土井
返事はない。上目遣いに、睨む。
「御恩をお忘れになったのですか? 少なくとも、最初に兄様を江戸へと取り立ててくださったのは土井様ですけれど」
賢太郎は口を真一文字に結ぶ。
「江戸で立身出世のきっかけをくださった方に何もご挨拶されないつもりですか?」
まだ兄は揺らがない。結衣は首を振った。
「それに…… 儘田の本陣は? どうするの?」
「
「あたしと母様は?」
どうしたらいいの、と問おうとする前に。賢太郎は、今度は真っすぐに見向いてきた。
「二人も江戸に住め。もっと安心して暮らせる街に家を探してやる」
「千住じゃなくて?」
「此処は駄目だ」
賢太郎も細い眉を歪める。
「先般は、考える材料も時間も少なかった故、ここの主に二人を頼んでしまったが。失策だった」
「そうなの?」
頬を膨らませる。兄は重々しく頷いた。
「先ほど一緒に風呂に入って驚いた。あの入墨、堅気でないに決まっている」
彼は一度大きく息を吸って、呻いた。
「おまえもあの入墨を見たら、
どれだけそこに、一人で座り込んでいたのだろう。
夜風は体の熱を奪っていく。
星灯りは全く頼りにならない。
すぐ隣で、かたん、と音がした。
「寝ろ、小娘が」
「厭だ」
口を尖らせて見せる。
「お喋りしたい」
「何をだよ」
ははっと笑われて、頬も膨らませる。
「お奈津ちゃんが
「あいつ、自分が借金を返さなきゃここを出られねえのを忘れているな」
相模の笑い方が変わる。
「賢太郎と二人揃って、
「兄様にはお灸を据えて頂戴」
はあ、と自然と肩が落ちる。相模が煙を吐き出す。
「話はそれだけか」
「もっと沢山あるよ?」
「兄貴の愚痴は聞かねえぞ」
「じゃあ、何なら聞いてくれる?」
思わす笑い、横顔を見上げた。一重の瞳はじっと庭先に向いている。
「小督さんに借りた三味線の話? お
「
「嘘!?」
「本当だよ。そこの
「……それで、どうしたの?」
「俺が謝りに行ったんだよ! あいつ、俺のことを父親代わりと大ぼら吹いてやがるからな」
「ううん。ほらじゃないよ。相模さんは伊織を可愛がっているじゃない」
「まあ、な……」
相模は首を振って。それでも前を向く。
――なんか、拗ねてる?
「何の話ならいいの」
引き結ばれた唇をじっと見つめて、あっと呟いた。
「相模さんは何処の生まれなの?」
問う。彼は静かに振り向いてきた。
「俺の話かよ」
「駄目?」
首を傾げる。笑われる。
「相州の…… 田舎の村だよ。そこの大橋がかかっている川よりもっと広い川のほとりで、鮎がよく釣れた」
視線が結衣よりもっと遠くへ。細められる。
「やってくる代官やってくる代官、税の取立てと賄賂にしか興味がないクズでな。あんまりクズばっか見ているうちに莫迦らしくなって、十五の時に逃げ出した」
「それからは、ずっと江戸に?」
「ああ」
頷いた彼に、結衣はぽつんと呟いた。
「今のあたしと同い年だ」
「そうか」
相模が此方を向いてくる。
「下総はどうだ?」
「何の変哲もないところ――と思っていたけれど。違うかも」
柔らかな視線に、笑みが零れる。
「儘田は、相模さんの生まれた村とは違うと思う。もちろん、この千住とも」
「そうだろうな」
また笑って。彼は下を向いた。
「帰るのか」
つい、黙る。
「下総に、帰るのか」
兄を見つけて帰るのだと、そのつもりで江戸に来たわけだけれど。今はどうなのだろう、と頬が引き攣る。
ごくり、唾を呑み込んだ。
かたん、と相模が煙管を煙草盆に下ろした。煙が消える。その間にどれだけ呑み込んでも、ひりついた唇は開かない。
「帰るなって言ったら、どうする?」
ぎょっと目を剥いた。唇をもっと噛みしめる。
ずっと相模は真っすぐに見てきていて。
肩を押された。
板張りの床が背中に当たる。天井が真正面に見えてきて、その次の瞬間には相模の顔が見えた。
顔の横に相模の左手が降りてくる。床が硬い音で叫ぶ。
「俺が怖いか」
見下ろされて、呼吸が止まる。
「すぐに答えられないくらいに」
じっと見上げる。視線が絡む。無理矢理に息を吸って、手を伸ばした。
両手で、相模の腕を掴んで、袖を引く。
「何がしたいんだ、あんたは」
相模が吹き出すのに、結衣は強張った声を返した。
「腕、見せて」
ぎゅう、と指先に力を込める。
「入墨がないか」
「……は?」
「見せて。腕、見せて。罪を犯したなんて標はないって、見せて」
「ああ…… そういう」
くくっと喉を鳴らして。
「そんなところには何も無いよ」
ぐい、と彼は左袖を脱いだ。
首から肩、厚い胸板と引き締まった腕が露わになる。
その腕の、肘から上だ。肩に、背中にかけて。夜陰に紛れて、色は分からない。ただ、何かが渦巻いて立ち上っていっているのが、かろうじて分かるだけ。
「二本線じゃない」
「確かに前科者って目印じゃあないけどな。知ってる奴が見たら騒ぎだす代物なら、ある」
そう言って、彼は体を起こし、反対の袖も脱いでしまった。
反対の肩にも、天へと駆け上る何か。両肩のそれは背中で繋がっているのだろう。その背中へ、手を伸ばす。指先が触れた肌は温い。
息を呑む。爪を立てる。その先に湿った感触が広がる。
「満足か?」
今度は両腕を付いてきた。その外に出ることが叶わないうちに、顔が近づいている。お互いの吐息が今にも届きそうなほどの隙間しか残っていない。
「俺は、やってないのは殺しだけっていう極悪人だぞ?」
「……今も?」
問い返すと、彼は瞬きさえ止めた。結衣もまた、じっと見つめ返す。
――そうだよ。
「今の相模さんは? 極悪人なの? もし、そうだとしたらどうして、あたしを助けてくれたの?」
一気に喚いて、息が切れた。
相模はさらに顔を寄せてきた。
――ちかいちかいちかいちかいちかいいいい!
もう、鼻先がくっつきそうだ。目を瞑る。
どさりと、体の上に重たい体が圧し掛かってくる。
「どうだろうな」
耳元で笑いを含んだ声も聞こえた。
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