徒花(2)

 青浪と春峰、梔子そして丹……いまこの家に住まう人間すべてが、花苑に集まっていた。呼び集めたのは青浪だった。東屋も、五人あればひどく狭く感じる。花咲き乱れるこの季節、晩春になろうとする頃だった。牡丹の花がふちから朽ちはじめ、露華から冷たい香気がたちのぼる朝。

「青浪は出てゆきます」

 翡翠色の上着を着て、薄青の裙を履いた青浪、足を包む高底は白を基調にやはり翡翠色の縫い取りがなされていた。ちまりと座り、膝においた手を重ね合わせた彼女は、きちんと梳られた髪を両肩に垂らして、一部を輪のように結い上げている。童女と娘の淡いにあったはずが、ひととびに大人になってしまった。いつかの晩以来感じていた距離がますます、遠ざかったような気がしていた。

 丹はすっと目を細めただけで何も言わず、春峰も同様だった。

「梔子は、お嬢さまについてゆきます!」

 少年が胸を張り、誇らしげにそう言う。青浪は彼のほうを向いて、薄く微笑んだ。

「そうね。お前は一緒にゆきましょう」

「はい、お嬢さま!」

 芝居を観ているようだった。空々しく、うすら寒い。こんな風にひとを集めることは今までなかった。丹や春峰も同様に思っているのだろう。だが青浪の手前、誰もそんなことを口には出さない。

「…………」

 深玉は黙っていた。彼女が出てゆく、梔子はついてゆく……そのとき己がどこにあるのか、彼は想像することができない。どうでもよい、と言ってもいいのかもしれない。問うほどの自虐をなすことは、彼にはできなかった。だが春峰は、しばし黙りこんだのち、深玉をうかがう。思慮深く恥じに満ちた片目が、静かな思案を浮かべていた。

「……無論、深玉もともにゆくのだろうな。お前がこの家を出ることに、おれは賛成する。母上の残した財産をすべて持っていくがいい。そうすれば、街方でも暮らしを持つことができるはずだ。そのうちに仕事でも何でも見付ければいい」

 ひどく現実的な言葉だった。玉蘭の残した財産は、相当あると聞いている。ただこの山にいる限り、それはただ食糧や必要最低限の衣服にのみ費やされ、特に何をももたらすことのないものだ。消費されるだけ、ここの暮らしをぎりぎりまで維持するだけの……きっと春峰は、必要がないと思っているものだった。

「わたしも構いつけやしませんよ。お嬢さまがわたしを必要としないのならそれまでです。別に仕事の口を見つけたっていいんですから。どうぞお好きになさってください」

 梔子のことも深玉のことも言わず、丹は「もういいですか、食事の支度をしなけりゃなりませんので」と言ってさっさと立ち去ってしまった。一人分のゆとりができた東屋で、深玉は息を吐く。丹のことはいい。

「丹を残していくのなら、彼女と子供のために多少の財をわけてやるんだ。いいな、青浪」

「はい、おにいさま」

 青浪がこくりと頷く。梔子は次第にそわそわとし始める。この場に来てから一度も言葉を発していない深玉と、己の主人たる青浪を見比べて、助けを求めるようにしきりに春峰に目配せをしている。ひどくみじめな心地だった。まるでいないもののように扱われて、深玉は己から話し始めることをするのも嫌に思えた。そうせねば気が付いてもらえないという事実は耐え難い。

 青浪が出て行く。この山を下りてどこかの街方で暮らす。

 想像ができない。深玉はもともと、想像力には乏しいおとこだ。流れに身を任せることしかできない。その時々でたまに、指先を揺らしてみせることしかできない。

 彼の心境をどう思ったのかはしれないが、春峰が深い息を吐いた。ぐうと胸が蠢く様は重々しい。

「青浪」

 ただの一言だけ。その言外の意味を汲み取れぬほど、青浪が幼くないことを知っている。深玉は顔を強張らせ、妻のあどけない顔を眺めた。柔らかな風が吹き、射す光の角度が少しだけ変わる。青浪の頬が光を享ける。低い鼻が作り出す翳で、彼女の面貌と春峰の面貌が束の間重なる。

「深玉さまはどうされたいのですか?」

 沈黙を破ったのは青浪でも春峰でもなく、立っていた梔子だった。彼は小首を傾げて、己が青浪の横にいることを微塵も疑わず、どこか勝ち誇った様子さえ見せながらそう言った。

「梔子……お前は」

 春峰が咎めようとすると、青浪が袖を振った。手ゆびのさきが隠れる。

「深玉さま、一緒にゆきますか?」

「……そう聞くということは、君は僕を置いてゆくつもりだったと思っていいのかな」

「いいえ。出てゆくと言っても、麓に下りるだけじゃありませんもの。違うところへゆこうと思っていたのです。ですから、深玉さまを無理に連れてゆくことはできないと思ったの」

 青浪のどこか申し訳なさそうな声、そこに含まれる悪意……深玉は唇を噛み、春峰を睨んだ。

「お義兄さん、どう思われますか? あなたは青浪のこの我儘をお許しになるのですか。財産をすべて持って行けだなんて、でしたらお義兄さんはどうして暮らしてゆくのです。この不便な山の上で、お一人で暮らされるのですか? 家族がばらばらになってしまうのですよ」

 卑怯をしているという自覚はあった。青浪がおもしろそうに小さく笑う。すぐにその笑みは袖に隠されたが、深玉は見ていた。目に映る彼女の仕草すべてが、彼に徒なすもののように思える。おかしくなっている、と理解しながら、止めることができない。

「どうしてこんなことがあり得ますか。僕が一緒に行くかどうかは問題じゃありませんよ。青浪、君がここから勝手に出てゆくことを、僕は許さない。君は僕に従うべきだろう。何故かわかる? 君は僕の妻だからだ。僕の子を生し、蘇氏の子供としてこの地で育てる。教育を与え、いずれはお義母さまの事業を復してもいい。僕たちに必要なのは転地ではなく、子と生業だ。お義兄さん、そうでしょう?」

 春峰が低く唸った。肯定か否定か、深玉にはわからない。だが彼が自分に味方をするという確信は、今更なかった。青浪と春峰は兄妹であり……彼らは深玉をその絆のうちには決して招かないのだから。

「お義兄さん、何とか言ってください」

「深玉さま、だって……」

「お前は黙っていろ! 婢女の子が口を出すな!」

 梔子がびくりと震えて信じられないというように目を見開く。春峰も驚いた様子で深玉を見ていた。

 だた青浪だけが、常と変わらぬ顔をしている。侮蔑という感情を知らないかのように袖で押さえた口元をうすらと笑いに似た形に留めたままだ。

 誰がこの場を収めるのか。

「深玉、少し落ち着いてくれないか。あなたの言うことはもっともだが、この家でずっと暮らしていくには、あなたたちは若すぎる。街方へ出れば、あなたもあなたの才覚を活かす仕事に就けるだろう。藍氏であれば、伝手もあるのじゃないか? 重ねて言うが、おれはあなたと青浪が……そして梔子もか、ともにここを出てゆくことに賛成するよ」

「違うんです……違うんですよ、お義兄さん。あなたは僕と青浪がともにあることを、まるで当たり前のように言っている。青浪はそんなことを、一言も言っていないのですよ。まるで己がすべてを決め、従うのは僕だと言わんばかりに、選ばせる側として振る舞っているじゃありませんか……! どうして僕がそのような立場に甘んじなければならないのですか!? この家がおかしいことは知っていますよ。お義母さまがいたのだから。あの方がこの家を賄っていたのだから……でも、もうそれは終わったのではありませんか。だから青浪も出てゆくなんてことを思いついたのでしょう。ですが僕は、今朝この場ではじめてこの話を聞かされたのです。同じ房で寝起きをしながら彼女は相談もせずに、こんな……ことを……」

 顔を覆うと、春峰が動く。彼が立ち上がる気配がした。肩を抱いて欲しいと思った。不器用に震える手で、ぎこちなく怯えながら、肩を抱いて欲しいと。

 だが、深玉の横を、彼は通り過ぎる。東屋の段差を下りたところで、こちらを振り返る衣擦れの音がした。

「……とにかく、今すぐ決めるようなことではないだろう。ふたりでしばし、話し合う必要がありそうだ。おれはどちらにせよここを離れるつもりはないし、元々ともにゆくことを考えてもいないだろう? ……青浪、お前が悪いのだ。夫婦であるのなら、しっかりと深玉に話しなさい。梔子、お前もこちらへ来い」

「はい……春峰さま」

 梔子の軽い足音が駆けてゆく。春峰のもとへ行ったのだろう。「大丈夫でしょうか……?」「きっと大丈夫だ。さぁ、あとでおれの房へ飯を持ってきてくれ。あのふたりに出したあとでいいから」「いいえ、出来たらすぐに持ってゆきます。春峰さまは冷めた汁物が苦手でしょう?」「……ああ、ありがとう」。遠ざかる。

 花揺れ、露の落ちる音まで聞こえる。

 顔を覆っていた手をゆっくりと外す。己がどんな顔をしているのかはわからないが、ひどくのっぺりとした心持ちだった。

「あら、怖い顔をなさっているのね」

「誰のせいだと思っているんだ」

「おにいさまもいる前で、梔子を怒鳴りつけるなんて思いもしませんでした。あの子はでも、怒られなれておりますもの。きっとけろりとしてすぐに忘れてしまいますわ」

「……君のその面を、お義兄さんは知っているのかな」

「もちろん、ご存知じゃないかしら? だって青浪とおにいさまは、兄妹ですもの。深玉さま、お茶をいれてはくださらない?」

「何故僕がそんなことを」

「お願いよ、深玉さま」

 抗いがたい響きと、首を傾げる可憐な仕草に、深玉は呆気なく屈してしまう。袖で唇を隠したおんなの、円かな眸は「すきよ」という言葉までが嘘だったとは言わないのだ。そして実際、彼女は深玉のことを「すき」なのだろう。どんな深刻さもなく、嫌いではないという程度の――彼女が人を嫌うことなどありそうにもなかったが――言葉なのだろう。

 深玉はのろのろと手を動かし、彼女の為に茶を汲んだ。この水に毒を紛れさせることなど容易いと思った。そして青浪は、疑いもせずそれを飲み、己を怨むこともなくこと切れるのだろう。想像ができずとも妄想ともいえる自虐が胸に広がる。己のすがたは、まるで春峰だった。卑屈で、自虐に満ちた醜いおとこ……もっとも忌み嫌うものの姿を、いまの己は晒しているのだ。

「……君は僕を、いったいどうしたいんだ」

「どうもしたくはありません。青浪は深玉さまの妻以外の何者にもなりません。それで、一緒にゆかれるならそれでも構いませんが、どうされますか? ゆく場所は決めていませんけれど……まずは、おかあさまがお仕事をなさっていた街へゆこうと思うの。そうしたら、頼れる知り合いがあるでしょう? おにいさまは財産すべてなんて言ったけれど、きっと青浪はどんなことでもやってゆけると思うの」

 青浪が笑う。失敗など疑わないその顔は、無邪気さとは違う彼女自身の性質を示しているように思えた。恐ろしいほどの楽天家なのか、それとも自信家なのか……深玉は皮肉な笑みを刷いて、彼女の横に茶を置く。

「君は何も知らないだろう。妓楼にでも入るつもりか? 僕にそうしたみたいに、おとこを誑かして暮らすのか」

「何だって構わないの。青浪のことが御心配なら、やはり一緒にいらっしゃるの?」

「君は僕に来て欲しいの?」

「あなたは欲望されないと、己がどうするかも決められないのですか?」

「え……」

 青浪が茶器を取り、薄桃色の唇をそっと磁器につける。ふっくらとした小さな唇がわずかに押され、そのうえをいま深玉がいれたばかりの茶が通ってゆく。こくりと喉が動く。青浪は湿った唇を開く。

「青浪が、いつ従えだなんて言いましたか? 聞いただけですわ。深玉さまが一緒にいらっしゃるのか、いらっしゃらないのか……無理にとは言わないと、そう言ったじゃありませんか。おにいさまがここを愛しているから、ここに残ることを決めたように、深玉さまもお決めになればよろしいのよ。青浪がどう思っているか、そこに関係がありますか? 青浪は深玉さまの妻なので、よその方と結婚しようとは思いません。ですが、青浪と深玉さまはべつべつの人間ですもの。どうしたいのか、どうするのか、それは深玉さまがお決めになることです。一緒に来たいのであれば青浪と梔子と深玉さま、三人で山を下りましょう。残りたいのなら、丹やおにいさまとここで暮らせばいいのです」

「……それが一番、手酷いことだなんて、君は知らないのだろうね」

「手酷い? 何を仰っているのか、青浪にはわかりませんわ。だってこれは当たり前のことですもの。おかあさまだっていつだってそうしてきたわ。青浪をどんなに愛しても、おかあさまは一年のほとんどを街方で暮らしました。おにいさまは戦役にゆかれたし、おとうさまはひとりで死にました。丹でさえ好きにしています。梔子は青浪が命じずとも、ともに行くと言ったじゃありませんか。深玉さまだけが決めていないのよ」

 青浪の輪郭がぼやける。深玉はふと肉を離れた気がした。

 花に溢れる苑の東屋で、おとことおんなが話している。おんなは小さく愛らしく生気に満ち、おとこは肩を丸めて何かに耐え忍ぶような表情をしている。すこし遠ざかれば離れが見える。そこに少年が、盆を手に入ってゆく。少年が駆けてきたもとを見れば、煙の上がるところがあり、入り口にもたれて花苑を見やるおんなのすがたがあった。目を細めている。腹がかすかに膨らんでいる。

「深玉さま、お決めになって」

 ぐっと引き戻されて、深玉は浅い呼吸を繰り返した。

「僕は……行かない。君とゆくことはできない。僕はここに残る。それで……いいだろう?」

「好きになさいませ。おにいさまに、あとでそう伝えておくとよろしいわ。きっと心配なさっているはずだから」

「ああ、わかった」

 青浪が立ち上がり、小鹿の跳ねるように軽やかな足取りで去ってゆく。のこされた茶器に手を伸ばす。彼女が唇をつけたところへ、同じよう唇をあてがう。ぬるい水が喉に注がれ、それを飲み下す。

「…………」

 崩壊したのだ、と思う。深玉を取り残したままに、何もかもが。

 きっと己の決断は、誰にも何にも、ひとつの影響さえ与えはしない。その空虚さを理解できる人間はここにはいない。血に拠っているはずなのに、やはりこの家はおかしい。兄妹だと言いながら、互いを慈しむ素振りを見せながら、どうしてこんなことを決断できるのだろう。

「君は僕に擲げなかったじゃないか……」

 口に出した端から激情にかられ、深玉は茶器を東屋の床に叩きつける。

 割れ砕ける耳障りな音、四方に飛び散る破片、そして細い肩をしたみじめなおとこがひとり。誰にも投げ渡されることのなかった情愛の行方を探していた。春峰のほうが、希望があると思った。だがそれも挫けるだろう。想像ではなく、それは予感だった。

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