松柏に瑞雪(1)

 ばらばらだった。何もかもが春峰を不安にさせた。拳についていた細かな傷が化膿して、赤紫色に腫れ、黄色い膿を溢した。それを搾りながら春峰は、爪に這入った土も洗い流そうと躍起になっていた。手指の傷が水を使えばまた裂ける、乾燥すればぴりぴりと切れる。永遠になくならない細傷は彼を鬱屈させる。冷たい水で感覚がなくなるまで手を洗った。

 死んだ画眉鳥を埋めたところだった。花苑の隅のほうへ。花の咲かない場所へと。いつか丹の手により、新たな花を植える為に掘り返されるかもしれなかった。だがそんな季節になる頃には、鳥の肉は土へと還り、細った白い骨だけがそこから出てくるだろう。そのとき丹はきっと、骨を拾い、何かの装身具に作り替えるかもしれない。或いはただそこらに放られるか、塵を捨てる穴へと入れられるのだ。

 秋に連れられてきたばかりの画眉鳥は、ただ春峰という無用のおとこの無聊をわずかな間慰めるだけで死んでいった。誰もその声を愛でなかった。尊重されることなく、すでに春峰以外の誰もに忘れ去られたから死んだのだ。春峰は彼の鳥に同情しながら、一抹の恐れを抱かずにはおられなかった。己もいつかはこのように死ぬのだろうという予感があった。だから埋めたのだ。霜の降りた冷たい土を掘り返し、丁寧な手つきで、それでいて早く遠ざけたいと言わんばかりの手つきで、埋めた。

「……お義兄さん?」

 不意に声を掛けられて、春峰は勢いよく振り向いた。しばらく見なかった深玉が、意外そうな顔をしてそこにあった。

 青浪を殴ったことを思い返す。その原因がこの義弟にあることも同時に思い出し、春峰はどんな表情を取り繕えばいいのかしばし悩んだ。それから下手糞な、媚びるような笑みを唇だけに浮かべて彼を見た。

「どうしたんだ、深玉。早いじゃないか」

「それを言うならお義兄さんのほうですよ。近頃めっきり顔も見なかったので、随分心配していました。梔子に様子を聞けば、あなたはこんなとき人を寄せ付けないのだと言うものですから……見舞いも行かず申し訳ありませんでした」

「いや、いいんだ。具合が悪いときに訊ねられても、ろくに相手も出来ないから」

「同じ家に住んでいるというのに……おかしなものです。そうだ、僕がどうして早く起きたかと言うと、先程お義母さまの使いの方がいらしたんです。これから帰ってくるそうですよ」

 深玉の言葉に、春峰は目を見開いた。

「具合が悪かったのではなかったか? ……それにあの人が使いをたてるなど珍しい」

「ええ、ですから……未だ体調は思わしくないそうです。一緒に仕事をなさっている人が――以前手紙を代筆なさったかたですね、あの人がお義母さまを家に帰すことを決めたようですよ。睡床の支度をするようにと言っていたので、もしかすると……今を逃せば帰ること出来なくなる、と思ったのではないでしょうか?」

「……それほど悪いというのか。あの人が」

 言葉が喉につかえる。驚きと何か形容し難い感情が胸に渦をなした。玉蘭が寝込むところなど……弱るところなど、春峰は一度たりとも見たことがなかった。青浪を産んだときでさえ、彼女はいつもあの傲慢なままの立ち居振る舞いを貫いていたし、その青浪の世話をしばらく続けたあとはあっという間に街方に戻ってしまったのだ。想像が出来なかった。

 深玉がこの家へ入ったとき、そして時期外れに一度この家へ帰ってきたとき、それらのとき玉蘭はまったく変わった様子を見せなかった。老いず、衰えず、大柄な背丈を微塵も羞じることなく背筋を伸ばしていたではないか。

「大丈夫ですか、お義兄さん。顔色が優れませんよ」

「いや……驚いただけだ。あの人が……あの人が病に倒れるところなど、想像も出来なくてな。青浪はどうしている?」

「お義母さまが帰ると伝えたら、消沈した様子もどこへやら……青浪は息を吹き返したようです。お義母さまの具合が悪いということも伝えたのですが、それにはお構いなしではしゃいでいる」

 深玉の苦笑はよく理解出来た。あの妹は、だから子供なのだ。

 ――きっと何も分かってはいまい。

 手指のさきがぴしりと音を立てた気がする。見れば乾きかけたところから新たなあかぎれが出来ていた。細い亀裂が赤く滲んでいる。拳を持ち上げると、そこには生々しく青浪を殴ったときの感触が蘇る。胸が悪かった。

「……だが母上も、青浪の顔を見れば案外と具合が良くなるのかも分からないな」

 空々しい言葉だと己でも思う。深玉は微笑んだまま、軽く頷いて同意を示した。

 その表情が嘘であれ、気遣われているという事実によって春峰は救われた。己もきっと不安なのだ。揺るがぬと思っていたものが変わろうとしている。玉蘭が……画眉鳥のように、死のうとしてるなどとは思いたくなかった。同時に、思いたくないと思うことによって彼は玉蘭の死を想像していた。相反する様々の感情に翻弄される、彼女への無関心のうらにある愛着のようなものを、抗いようのない、誰にも等しく訪れる定めにより暴かれるとしたら、それは何と残酷なものだろう。

 触れないでくれ、と言うことが出来ないのだった。死は拒みようがない。己に対するものとは違い、受け入れることも出来ずただ眺めるだけだ。

「お義兄さん。お義母さまが帰ってらしたら、呼びに行きますね」

「いや……おれは……」

「こんなときでしょう。お義母さまが今までこんな風に帰ることはなかったのでしょう。お互い複雑な気持ちを抱いているかもしれませんが、あなたがたは紛うことなき家族なんですよ。とにかく、呼びに行きますから。なるべく房へいてください」

「……分かった」

 深玉は真剣な顔で言い含めると、母屋のほうへと戻っていった。

 その背中を見送りながら春峰は、ぼんやりと言葉の意味を考える。

(家族と言ったか……深玉は)

 紛うことなき、とも。

 春峰はその言葉を衒いなく使う人間のことが信用ならなかった。だが深玉は真剣な眸をしていた。いつもどこか一歩引いたところのある青年だが、今は何か……踏み込まれたような気がした。彼はこの家のことを思い、親子の情までをも殺そうとした春峰を咎めたのだ、と遅ればせながら気が付く。

 何か居心地の悪いような、羞恥にかられた。

 もう一度手を洗う。冷たい水が傷に一瞬沁みて、それから痛みも遠ざかる。

「母上……」

 無意識のうちに唇から零れた呼び声に、ひどい嫌悪を感じて、春峰はぐうと背を丸めて離れへと戻った。

 半ば足を引き摺りながら、のたのたと醜く、己の悲壮に酔うようにして……と思って春峰はやはり、ふと他人の視線で己を見ては羞恥を募らせる。恐る恐る振り返れども深玉はとっくにいないのだ。彼の清冽な足取りは健やかだから、春峰のように歩くことにさえ怯えるなどあり得ないのだろう。もう一度前を向く。視線を落とす。湿ったような土を踏み固めながら、時間を引き伸ばしながら、逃れることが出来ないものから逃れようと足掻きながら春峰は歩いた。

 すぐそこに玉蘭が迫っている気がする。

 そして彼女の背にはまた、恐らくは死が迫っているのだ。

 それは確信だった。死に追い立てられる玉蘭に追い立てられ春峰は、醜い面貌を歪ませてあらかじめ決められている終わりを俯瞰しながらもただ逃げ惑うことしか出来ない。深玉は、或は青浪は、丹は、梔子は、と思いを巡らせることはとても困難だった。玉蘭の死――すでに春峰のうちで、彼女は死を始めていた――がもたらすものこそ、この家の終わりだという確かな、恐るべき、確信があった。

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