摘果の音(1)

 青浪は麓へと下りた。梔子をともない、しばらく戻らないと言った。春峰と深玉は椅子に乗せて彼女を運び、椅子を置いて山へと帰った。男ふたりの帰路は、腕が軽いぶんひどく楽に感じられたが、深玉よりも春峰のほうが悠々としていたのがすこし意外だった。しかしよくよく考えてみれば、春峰は深玉よりもずっと体格がいいし、怪我をあちこちに負ったとはいえ戦役を潜り抜けてきたおとこだったと思い至る。

 そして不意に、丹を思い出す。丹のぼってりとした唇の、粘着きを。

 彼女が春峰に言い寄らないのは、玉蘭の息子だからなのか、それとも醜悪な容貌ゆえか。或いは、かつて関係していたという可能性もあるが、なににせよおとこの機能を失った現在の春峰は、丹にとって必要でないというのが一番の理由なのかもしれない。深玉は、芙蓉の花をわき目に、春峰の潰れた目に視線をくれる。

 こちら側が見えないからか、彼はすこし斜めに歩きがちだ。しかし、視線は感じるのだろう。ぐるりと首を回して、深玉をうかがう。

「疲れたか、深玉」

 気遣いの言葉に、彼はゆるく首を振った。――「いえ」。

「ですが、芙蓉が見事に咲いているものですから。往きは椅子を運ぶのに精いっぱいで、景色を眺めるいとまがなかったでしょう」

 布めいたぬくもりを宿す芙蓉が、点々と緑のうちに咲くさまは快く、目に愉しい。青浪は思えば、春峰と深玉が運ぶ椅子のうえから、じっとこの花々を眺めていたのかもしれない。ずいぶん寒くなってなお、花咲くあでやかな拒霜花を。深玉のそんな思いとは裏腹に、春峰は花を視界にいれまいとするかのように、深玉に視線を注ぐのをやめなかった。

 片目から注がれる何か複雑な色に、深玉はおや、と瞬く。

「そうだな。……青浪は年々重くなる気がするよ。梔子がはやく大きくなってくれれば、あなたとあの童とで、しっかり運んでやれるのだろうが」

「おんなはどんどん重くなる……秋過ぎたのに、未だ落ちもせで」

 深玉が口ずさむと、春峰が薄く笑った。戯れ歌か、と問うのに、いたずらめかして頷けば、春峰がまだ遠い家を見やるよう、視線を上げる。玉蘭のことを考えているのであろうことは、すぐに理解された。やはり、芙蓉は顧みられぬまま。

(青浪は、お義母さまのようになるんだろうか。いますこし、背丈が伸びるのだろうか)

「……あの娘は、母上に似ていない」

 不意打ちにどきりとして、深玉は息を吐いた。大女の玉蘭は、顔の造作も大きくて、それだけ華やかな雰囲気を醸している。普段は街方にあるからか、居住まいも垢ぬけており、田舎のおんなとは気配からして違う。だがそれでも、都会的や貴族的といった形容は彼女には似つかわしくなく、どこか野卑な風情があるのだった。それはたとえば、大きく乾いた手ゆびの厳めしさであり、青浪にも受け継がれた鋭く太い犬歯であったり、どこか獣を思わせた。

(あの女人にも、文様があるのだろうか)

 そしてかたわらの、春峰にも。

(それを問うてゆるされるほどには、僕とお義兄さんはきっと……親しくないのだろう)

 そうわかるから、深玉はすがたをひそめる。息を殺して、奔放な性質を封じて、ただ舞台を垣間見るだけだ。

「青浪は、たしかに顔も、背丈も、お義母さまに似ていませんね。それを言えば、お義兄さんと青浪も、あまり似ていないかもしれません」

「……このような顔となっては、あなたにはもはやわかるまいよ」

 春峰は笑ったようだった。そこに卑屈な色はあれど、屈託はなく、自嘲をなにとも思わない鈍麻した精神が彼のつねとなっていることがうかがえた。深玉は目を和ませて、「いいえ」と言う。

「青浪とは似ていませんが……きっとお義兄さんは、お義母さまに似ていたのではないですか。上背がありますし、顔だちがくっきりとしていらっしゃるような気がします。……僕はこの家の、お義父さまを存じ上げませんけれどね」

 息を呑む春峰に気が付いていないそぶりを見せるのは、難しいことではなかった。

 深玉は淡々と歩き続け、青浪の居ない家で、久方ぶりに手足を伸ばして悠々と眠った。それでも彼はひとり寝は好きではなく、ぬくもりがかたわらにないことに、多少の落ち着かなさを感じるのだった。その晩は夢を見た。

 てん、てん、と果実が麓へと転げてゆくだけの夢だ。それは青浪を送り、春峰とふたりで帰った山道だった。道の凹凸に従順に、果実は時折あちらへこちらへと彷徨いながら、坂を転げてゆく。緑い果実だ。緑橘だろう。硬い皮に包まれた実は、道に自ずから打ちつけられては、その身体を損なってゆく。坂を転げるのは実の意志だったのか、それとも誰かがその放ったのかは分からない。

 やがて緑橘はぼろぼろになり、白っぽい実を露出させる。土や泥にまみれ、血のように果汁をにじませてはそこに、汚れを纏わせる。あたりにたちこめる鋭く清冽なかおりは緑橘の有様からはとても想像の出来ないような気高さを感じさせ、ぼんやりと霧のようになった深玉は、貪婪にそのかおりを自ら纏おうとしていた。しかし緑橘の気は深玉とは馴染まず、実を置き去りにして再び山へのぼってゆく。やがては山を取り巻く靄となり……あの家をかぐわしく取り巻くのであろう。

 深玉はといえば、己の居住地であった麓で……腐れた緑橘とともに取り残され、手ひどく裏切られたという憤慨と同じほど、安堵していたように思う。緑橘は、不変だと思っていた。だが違う……柑橘の死骸に、不意に翳が射す。小さな足が、その実をぐにゃりと踏みつける。すでに散々に実を損ね、傷み切り、腐れていた緑橘は呆気なく潰れ、醜い汁を迸らせながら、地面のひとつの染みのように沈んでいった。小さな足は汚れを厭うかのようにゆらゆらと揺れ……やがてどこかへと消えていった。

 深玉は真夜中に目を覚まし、房の扉を開けた。女が滑り込む。丹だった。手慣れた仕草で彼女を迎え入れ、深玉は真実からの憂鬱に、重いため息を吐く。交わりながら彼は、いつでもこの女が嫌いだった。

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