菊花と忘憂(4)

 厨房の壁によりかかって、青浪が丹を見つめている。やわげな頬をぷくりと膨らませていた。

 笊を手にした丹は、菊花についた汚れを丹念に落としてゆく。傷んだ花をよりわけて、別の器に入れる。傍らには白酒の甕と、高価であろう氷糖が見える。丹の手には迷いがなく、捨てられる花も少なくない。覗き見る深玉に、気が付いているものかは知れない。ただ、青浪は気が付いていない。「丹、聞いて……」と、甘えた口調は春峰や玉蘭、そして深玉に聞かせるものとは違うからだ。どこか高慢な色がにじみ、丹とは立場が違うということを自らよく知っている声だった。

「丹、麓に梔子を寄越してほしいの。わたし……わたし、しばらくあちらに行くわ」

「あらあら。そうですか。では、あとで言いつけておきましょう。荷物の用意をしておきましょう」

「えぇ。……おかあさまには秘密にしてくださるでしょう?」

「もちろんですよ、お嬢さま。丹が約束を破ったことがありましたか」

「いいえ、ないわ」

 青浪が、丹にそっと歩み寄る。淡々と花をよりわける彼女に後ろから抱き着いて、その背に顔をうずめる。

「菊花酒はいつごろできるの」

「さぁ、氷糖がみんな溶けてしまわないと。うまくかおりが移ればいいんですけれどねぇ」

「おかあさまは、このまえ帰っていらしたのだから、もしかすると、今年はもう帰っていらっしゃらないかしら」

「どうでしょう。玉蘭さまのことは、丹にもよくわかりませんよ」

「でも、丹はいつもおかあさまのお帰りを知っているみたいだわ」

「そんなことはありません。ただ、いつ帰っていらしてもいいように、準備をしているだけです」

 丹の言葉に微笑みがにじむ。どこか勝ち誇ったような声だと思ったのは、深玉だけではなかった。「青浪だって、おかあさまをずっと待っていますのに」。青浪の声がにわかに不機嫌さをにじませて、抱き着く腕に力を込めているのがわかる。だが、丹は少しも動じることなく、気にしたそぶりもない。なにか不可解な力関係を垣間見た気がして、深玉には愉快だった。

(青浪は、丹にはかなわないのか。お義母さんと付き合いが長いのは、丹のほうだから?)

 そんな思考をめぐらせるうち、青浪は「つまらないわ」と言って丹から離れてゆく。その足音が常より荒いのを見るところ、梔子にあたりにでもいったのだろう。深玉も戻ろうかと身を返しかけると、丹が振り向いた。

「深玉さま。なにかご用がおありですか」

 やはり気が付いていたかと、深玉は素直に身をあらわした。

「丹は鋭いんだねぇ」

 氷糖をひとつ摘まむと、彼女が眉を上げる。その表情になにか見覚えがあって、深玉は口に放り込もうとしていた手を止めた。 細い目と、細かなしわがあらわれようとしている口元。くちびるの下にはほんのりと色めいた黒子がある。

 導かれるように深玉は、丹の朱いくちびるに氷糖をあてがっていた。くちびるは硬く結ばれ、解けない。ぐい、と力を籠めると、くちびるが割れ歯に氷糖がぶつかる。かちりと色気のない音を立てるのに笑って、深玉は「口を開けて、丹」と言った。丹の目許がゆるまり、歯と歯の隙間から闇がのぞく。その闇に氷糖を放ると、深玉は湿った指さきをぺろりと舐めた。彼女の前掛けでその指をぎゅっと拭うように、下腹を押す。丹が吐息を漏らす。

 紛うことなき色のついた息に、深玉は誘われていると感じた。

「…………」

 細い目だ。黒々としている。青浪のまるい目は大きいから、たくさんの光を集めるのだ。だが丹の目はそうではない。光の射さない細い目は、平然としている。そして暗い。どんな偽りも悪も、露わにしない。彼女の目は細い路地裏に似ている。そこで行われる悪行は、誰にも気づかれないのだ。

 深玉は彼女を調理台に押し付けながら、冷静に納得していた。

 ――こうして梔子を生したのか、と。

「お嬢さまを裏切りますか」

 丹が問う。

「いいえ、まさか。僕には青浪だけだよ。だけれどあなたが物欲しげだから、気まぐれを起こしてみることにしたんだ。ちょっとした当てつけでもあるし……思いつきでもある」

「当てつけ?」

「はじめに裏切ったのは僕じゃないんだ。あなたのお嬢さまだよ、丹」

「…………」

 丹の表情は読めなかった。深玉はふと不思議に思う。丹は何もかもを知っているように思えるのに、何故だかこの会話では距離を測るようなところがあった。その小さな違和感をそのままにしておくのは奥歯にものが引っかかったようないやらしさがあって、深玉は丹の顎をつかんだ。

「……何を知っている?」

 黒い、細い、目を覗き込む。丹が息を呑む。恐怖が、水に流れる墨のようにしゅるりと痕跡を残していった。

「……何も」

 逸らされた目線に、なにかを確信しながらも、深玉は答えにたどり着けない。鼻を鳴らすと、丹が顔をそむけた。彼女の衣の裾をめくり上げて、手で探る。じっとりとぬるい空気に満ちたそこが、ひどく汚らしい気がするのは、深玉の勘違いではない。忠誠心があるのか、ないのか。裏切りとはいったい何を指すのか、混沌としたこの家で、なにが正しいことなのか……深玉はもともとそういったことに疎いのだ。わからぬことが不思議ではない。ただ、流離うままの己の身、その流れを故意に変えようという仙の手など、斬って捨てるまで。

「丹は所詮、使用人です。あなたの欲する答えなど、ひとつも知りゃしませんよ」

「そんな戯言を、僕が信じるとでも思うのか。卑しい、おんなが」

 深玉は、振り向きかけた丹の顔に唾を吐く。拭わぬままに丹がにいと口の端を吊り上げた。おんなの膚をのろく這いずる唾液を、長い舌がぢゅるりと吸い込む。

「あなたこそ、とんだ鬼子のようですね」

 深い呼吸と身もだえ、そして打擲音が響く。階上では梔子の、「やめてください」という悲痛な声が震えていた。

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