マデライン

「あなたは本当にロバートを愛しているの? 」

 そう、グウェンドレンは尋ねた。

「ええ。もちろんよ」

 と、私は答える。

「そう。――ならいいけど」


 グウェンドレンは、憔悴しきった顔で私の家に現れた。右手に花を抱えて、左手にはメアリー・ウルストンクラフトの最新の本を持って。

 いまだ体調が万全ではありません、と知らせたのに、持ってくる本がウルストンクラフトだなんて、と私は思わず笑ってしまう。普通は軽い読み物を持ってくるものだろう。グウェンドレンはいつも、何かちょっとずれている。私はかつて彼女のそういうところをひどく、心の底から愛していた。



「マデライン――マディ」

 グウェンドレンは、ためらうように上目がちに私を見る。

 叱られた子供のようだ。

 ウェンディ、私たちはもう、一緒に遊んでいた少女の頃には戻れない。

 Mは――ロバートは私を見つけ出してくれた。家を追い出され、どこに行くあてもなく遠縁の「ひどく悪いうわさのある」叔母のところにいた私を。叔母は老いていて全く財産といえるものもなく、彼女が亡くなったら一体どうなるのか、この半年の間、私は何度も目の前が真っ暗になるような思いをした。ごみごみした町中の汚らしい小さな部屋に叔母と暮らしていたその半年、私は自分よりずっと幼い子供が殴られるのを目にしたし、春をひさぐために街角に立つのも目にした。

 あそこは――その地域に暮らしていた、というだけでお上品な人たちから眉をひそめられるような地域だった。だから、私はロバートが、幾ばくかの金と引き換えに、叔母を黙らせ、私をカソリックの修道院に連れて行ったことを、本当にありがたく思っている。半年、カソリックの修道院で暮らしていました、であれば、私の名誉はまだ保たれる。

 お金を渡して手を切った後、叔母とは一切連絡を取っていない。

 グウェンドレンと二人で社会の貧困について語り合っていたあの頃の自分は、どこかとても遠くに行ってしまったのだ。今だったらわかる。貧困は語るものであって経験するものではない。

 一度、汚らしい顔をした大家に体を触られて見るといい。ぱしっと手をはねのけた後、追い出されたらどこへ行けばよいのかと途方にくれてみるといい。

 人間としての最低の尊厳が脅かされた時、愛するウェンディ、あなたは私のように願わないかしら?

 何を犠牲にしてもいい。ここにだけはいたくない、と。



「私ね、父が私名義の財産を残してくれたことがわかったの。生活には困らないくらい」

「本当に?!」

 グウェンドレンの目は輝く。まるで昔のように、なんのてらいもなく私の手を握る。

「ああ、良かった! それなら、自分で色々決められるのね」

 私が経済的な事情でロバートと結婚するのではないかと、グウェンドレンは心配している。素直なグウェンドレン。あなたはいつも真っ直ぐで正しい。

 私はもちろん、経済的な理由でロバートと結婚する。どうして経済的な理由での結婚は常に愛の無いものだと思うのかしら。

 安定した収入を持ち、私を路頭に迷わせず、そして遠隔地にある所領地の管理をしてくれると約束する男性。そんな男性を愛さないことなどありえない。

「ええ。ロバートが土地の管理をしてくれるっていうの。遠くにあるのよ。――西インド諸島のどこか」


 グウェンドレンが凍りついた。





 昔、グウェンドレンは私にウィリアム・クーパーの詩を書き留めてくれた。フランスで革命が始まった年の夏の終わり、彼女はその詩の書き留められたノートを私に手渡した。


 隣人のりんご園に一緒にりんごを盗みに行こうと友人に誘われたトムは呆れてそんなことはできない、と言う。それはアフリカの植民地に対する寓話で、私は読んだ後、ひどく動揺して涙をこぼした。



 トムはびっくり仰天で

 隣人から盗むことなどできないと

 お願いやめてと言いました。

 それは貧しい人たちなんですよ

 子供のことも考えて

 食べ物なくては困るでしょう?



「泣かないで、マディ」

 泣かせるつもりじゃなかったのに。

 私よりずっと背が高いのにグウェンドレンは、本当に所在無げな顔をして私の顔を覗き込んだ。その顔はそのまま私に近づいて――私は生まれて初めて、自分の唇に、他人の唇が重なるのを感じた。――柔らかくて――塩辛い。

 体中が心臓になったかと思った。

 ぎゅうっと私を抱きしめたグウェンドレンの息が荒かった。

 それから私たちは顔を見合わせて――何を言っていいのかわからずに笑った。笑いながら抱き合い、それからほんの少し、泣いた。


 大陸では民衆が立ち上がり、貴族たちが捉えられ、この小さな島国ではウェンディが私を抱きしめた。私たちは貴族ではないから大丈夫なのよ。私たちはこれからきっとこの国にやってくる共和制を率いる人間になるわ。そして、すべての不正なことを、正すのよ。

 彼女が何を言っているのかはよくわからないけれど、グウェンドレンの静かな声は気持ちがよく、私は海に囲まれたこの島にいることを感謝した。すべての嵐から私を守るグウェンドレンの腕の中。

 それにしても、なぜ、私は海が私達を守っているなどと思ったのだろうか。海は、私達イングランドが外界へ攻撃を仕掛けるための道であるというのに。



 私たちは豊かに暮らしているだけで、きっと多くの人を傷つけている。叔母と一緒に暮らしていたあの時、私はいつも安く買っているかぎ針編みの細工物を誰が作っているのか、初めて見た。

 働く先のない、夫をなくした女達だった。娼婦として街角に立つか、夜も眠らずに大した金にもならないかぎ針編みをするか。2つに1つの選択肢はどちらもひどいものだった。

 大好きなウェンディ。あなたは、全然わかっていない。砂糖だけじゃないのよ。あなたが着ている服のどれだけ多くが、ひどい状況で作られているのか、あなたは全然わかっていない。



 クーパーの詩で、トムは結局果樹園へりんごを盗みに行く。



 文句も言えば抗議もしたが

 トムは計画に加わった

 りんごはしっかり盗んだけれど

 持ち主のことは

 哀れんだ





「ラプサンスーチョンの良い茶葉が手に入ったの」

 と、私は言った。スーザン、アンジェラ、キャサリン、そしてグウェンドレン。

 奇妙なことだ。私は一番好きで、一番信頼していたグウェンドレンと、もう、一緒に話をするのも難しい。

「お砂糖は何匙?」

 小首をかしげると、グウェンドレンが弾かれたように、私に視線を向けた。

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砂糖はいかが。 赤坂 パトリシア @patricia_giddens

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