471 弥勒

2017.02/ボイジャー・プレス(電子書籍)

<電子書籍>ONLY

【評】うなぎ(゚◎゚)


● ついに生まれなかった傑作の片鱗


 重度の障害者であった弟に対する心情を綴った、中島梓名義の私小説。『群像』1979年1月号に発表されたまま単行本未収録であったものを電子書籍で発刊。


 まず、この作品が電子書籍とはいえ刊行されたことが有り難い。さすがに見つけるの難しくて読めなかったからなー。この調子で未収録作品がどんどん電子化されると良いと思います。個人的には他の作家の著作の巻末についている解説を集めた解説全集や、あらゆるあとがきをあつめたあとがき全集とかが欲しいです(謎のリクエスト)。さすがに親本持ってる本はあとがきものためだけに文庫買ったりしてないからなー。再文庫化でさらにあとがきが増えたりすることもあるし。そういう出版社を通してではやりにくい小さな仕事を集めたものがほしいところですな!


 さておき、本作である。

「栗本薫唯一の私小説」と販売ページには銘打たれているが、実際は『十二ヶ月』に収録された『五来さんのこと』、『息子に夢中』に収録された『ウルムチ行き』があるので唯一じゃない気がするが、『五来さんのこと』は、実際に作者が遭遇したことではあるが作者自身の内面を主題とはしていないこと、『ウルムチ行き』はどう見ても九割方事実そのものではあるが、登場人物の名前が架空のものになっていたりすることから考えると、作者自身が事実と明言して自身の内面を描いた作品としては、唯一のものとなるか。


 今作の文章は、この後に書かれた幾百作もの栗本薫の文章とは、ずいぶんと趣が異なる。改行は少なく、状況の説明はなく、ただひたすらに自己の内面を執拗にえぐり出そうとしている。文体的に一番近いのはSF短編集『滅びの風』であろうか。その中でも、ある日突然、世界中から人間がいなくなったことを、慌てることも悲しむこともなく受け入れる少女の内面を語った『コギト』がもっとも近いか。

 そこにあるのは、あまりにも静かで、救いを求めていて、そして絶望している、知恵ばかりをつけた悲しい子供の慟哭だ。ひどく切実で、受け止めかねるほどに重く、繊細で攻撃的で身勝手で、類型的に分けることができない。つまりは、まさしく純文学そのものだ。


 小説家デビューの直後、25歳の時期に書かれたこの私小説は、ある種、栗本薫という作家の読解本とも云える。小説家として本格的に始動するにさきがけるようにして今作がものされたのは、気まぐれや思いつきではあるまい。「これが私なのだ」という所信表明であるのだ。

 本作にはあまりにも赤裸々に、白痴の弟に対する憎しみ、嫉妬、怒り、悲しみ、羨望、そのすべてが描かれている。白痴であるがゆえに母の愛を奪い、白痴であるがゆえに彼女の原罪となり、白痴であるがゆえにすべてを許す弥勒である弟。それに対する作者の錯綜とした想いは、率直にいってクソ面倒くさい。ハイパー地雷女である。近づいちゃダメな感じが全力で出ている。あまりにもしつこくて、原稿用紙百枚程度の中編なのに、最後の方は「もうカンベンしてよお……」とぐったりとしてくる。

 だが、それだけに、ここに書いてあることは、まぎれもない真実だとわかる。そのひどくセンシティブで、攻撃性が外にも己にも向いた精神性には、自分を飾り立てる嘘偽りがまったくない。

 この作品を読めば、なぜリンダには双児の弟レムスがいたのか、なぜ無力で臆病なレムスが聖王となることがはじめから約束されていたのか、にもかかわらずなぜ実際の展開ではレムスが救われることはなかったのか、なぜ『魔界水滸伝』のアザトース(二体目)をはじめ巨大な赤児が恐怖を誘う偉大な力の象徴として様々な作品に登場したのか、なぜ晩年の栗本薫が自らの自己像としてあどけない童女を望んだのか、そうしたことが、すべて「彼女に必要だったことなのだ」と納得できるだろう。

 常々思っていたが、今作を読んで改めて思う。栗本薫/中島梓は私小説に適正のある作家であり、もっと書くべきであった。物語を通した形ではなく、今作のように彼女自身の飾りも逃げもない言葉を、もっと世間に叩きつけ、「うっわこの女めんどくせえ」と思われるべきだった。

 栗本薫/中島梓という作家を愛するならば、是非とも今作を読むべきである。


 この作品自体は、しかし傑作と呼ぶことはできない。なぜなら作中で何度も書いているように、これは序章に過ぎない。この時点では、彼女はまだ語りはじめたばかりであり、敵うべくもない弥勒への戦いははじまったばかりだ。デビューをきっかけに、広く己の言葉を伝える術をもった彼女は、この後も波乱のつづく人生を、この作品のように、いささか悦に入りながら、しかし偽りなく語っていくべきだった。ベストセラーの連発、編集者との不倫、略奪婚、実家からの自立、そして出産――そうした現実の中で、中島梓、いや彼女自身が嫌っていた山田純代がどのように思っていたのか、それをこの『弥勒』のように赤裸々に語った続編を書いていたなら、彼女のもう一方の代表作ともよぶべき傑作にも成り得ただろう。

 多忙ゆえか、世間の反応が足りなかったか、あるいは書くのを恐れたのか、明らかに今作の時点では意欲を見せていた続編を書かなかった理由はわからないが、存在し得たはずの傑作がついにものされなかったのは、素直に惜しい。

 

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