3-16 悠の新たな戦闘法 Ⅰ


 ――――〈エスティオの結界〉の修復。


 裏切り者の正体が掴めず、外部からの協力者がいるであろう状況で、僕らはどうしても受け身にならざるを得なかった。どこかでそれをひっくり返す為の手がなければ、そのままジリ貧になりかねない程度に、僕らは追い込まれていた。

 手を打とうにも、不確定要素となり得るのは僕という存在だけ。仲間と呼べる仲間はアリージアさんとルシェルティカさん、そしてリティさんぐらいしかいない状況で、あまり大袈裟な仕掛けを施す訳にはいかない。


 ――――そういう意味で、どうしても後手に回り続けていた今回。

 そこで――最初から後手になっているのならば、相手が決め手を繰り出してくるであろうタイミングで裏をかこうと考えた僕が仕掛けた、二つの仕込み。


 一つが、以前から僕の装備品やらの一件で動いていたエルナさんを介した情報のやり取り。

 ゼフさんがくれた通信用魔導具はまだ魔法陣が分からないから作れていないけれど、『冒険者カード』を使えば書き置き代わりの手紙のやり取りは可能だ。それを使って、このリジスターク大陸の北東部へと向かっていた赤崎くん達『勇者班』をラティクスへと呼び出し、対魔族戦の助っ人として呼び出しだ。

 昨日の夜に連絡した時は、すでにラティクスの手前まで近づいているという話だったし、そろそろ合流した頃だろう。


 そしてもう一つ、〈エスティオの結界〉を流用した、対魔族用魔導具――【魔封殺の結界】。

 ルウさんとミミルに協力してもらって世界樹の枝にまで刻印を施してもらい、立体的に魔法陣を組み立てた、魔族と魔物の魔力パターンにのみ発動する、さしずめ「ドーム型重力結界」とでも言うべき代物だ。

 今回もし魔族が攻めて来なかったとしても、外敵の認識を阻害して侵入を防ぐ結界とはまた別の、二段構えとして設置するつもりでいたんだけれども、早速出番があった。


 リティさんと別れ、オルトネラさんを【敵対者に課す呪縛】で行動を封じた後、僕は彼の洗脳を強制的に上塗りするかのように、魔導具【誘惑の瞳】――エキドナが僕に使おうとした魔眼を参考に作った僕の魔導具――を使って、新たな洗脳を上塗りするかのように施すことで相殺した。

 魔狼ファムに対してエルナさんが自分に【闇魔法】をかけて洗脳したアレと同じものを、洗脳を施す魔導具を使う事で再現して、彼にかけられた洗脳を解いたのだ。


 そうして気絶したオルトネラさんを解放した後で、〈エスティオの結界〉に刻印を施そうとしたのだけれど――予想外にも〈エスティオの結界〉は作動したままで、僕はそれを強引に刻む事で、身体中に傷を受けて倒れ込んでしまったのだ。


 そこへやってきたのがエイギルと呼ばれている、あの背の高い怪しくフードを被りこんだ魔族だった。


 正直に言えば、二人も魔族がいるというのは僕にとっては誤算であった。

 それを知ったのは、倒れたまま反撃の機会を窺っていた僕の耳に入った、「ここで殺す方が確実だが……いや、アイリスにゴチャゴチャ言われるのも面倒だな」という、なんだか苦労していそうな独り言がきっかけだ。

 あたかも協力者の存在を示唆するような物言いだったので、見た目通りに怪我をして気を失ったフリをしながら、魔導具化している黒い外套を使い、あのエキドナ戦で使ったレベル制限がある魔導具――〈天使の息吹〉と呼ばれる回復用の魔導具を発動させて完全に傷を癒やしつつ、こうしてわざわざ捕まってみたのである。


 全ては計算通り――と言いたいところだけれども、前回のファムの一件に引き続き、予想外な出来事というものがなかったわけじゃない。


 そもそも僕自身、オルトネラさんとぶつかり合ったあの場所で何者かが影からこちらを見ている事には気付いていたけれど、てっきり僕はあの場所にやってくるのは外部から手引をしていた人物――つまりは魔族だろうと踏んでいたというのが実際の所だったりする。

 だからこそ、時間を稼いであの場所から魔族を連れて離れる心算でリティさんを離脱させたのだけれど……まぁ、結果としてオルトネラさんが現れ、〈エスティオの結界〉は止まりきってくれず、さらにはエイギルと名乗るあのデカい魔族が来たという訳だ。


 ……まったく。ファムの時と言い、今回と言い。

 共通して、微妙に僕の計算が狂ってしまうのはデフォなんだろうか。

 オルトネラさんを相手に完勝してみせた僕の華麗な活躍は、まぐれか何かだと思いたくはないんだけども……――ともあれ、だ。

 言い方はあまり良くないけれど、リティさんという不確定要素を利用したこの賭けによって、僕らは初めて――後手続きであったこの戦いで裏をかく事に成功したのだ。


 まぁ、後はもう言うまでもないだろう。


 単体指定の魔法だったらこうも奇襲はうまくいかなかっただろうけれど、どうにも魔族っていうのは範囲を指定するような大規模な魔法の方が得意らしい。

 あの豪炎の中にあって僕が無傷であった理由は、【スルー】。


 ――『炎を通過しました』。


 相変わらずの性能を発揮してくれた、という訳だった。

 ドーム状に築いた【魔封殺の結界】の発動を感じ取った僕は、早速とばかりに奇襲を仕掛けたのだ。


 自分で言うのもなんだけど、完璧なタイミング、完璧な奇襲だった。

 あの男勝りというか、どっちかというと態度が不良のそれっぽいアイリスとかいう魔族だけだったら、あの一瞬で決着がついたはずだ。

 この手に握られた、魔改造した魔導銃――元〈特異型ノ零〉。これの出力を以前以上に引き上げた一撃は、魔族が纏う魔力障壁さえも貫く程に至っているのは証明できたけれども、エイギルと名乗るデカい方は油断してくれる程、甘くはなかったらしい。





 けれど――本番はこれから、だよ。





「――さぁ、反撃の時間だ」


 未だに状況を呑み込めずにいる全員が再起動する前に、アリージアさんが僕の近くへと下がり、ブリッツって名前の大きい狼精霊が僕らの前で背を向けた。戦闘準備に逸早く思考を切り替えたアリージアさんが、僕に何か問いたげな顔をしているけれど、今は放置。

 一方で魔族の二人は、〈界〉の中にまで及んでいる【魔封殺の結界】のせいで満足に身動きできないらしく、僕らを睨むばかりで動けていなかった。


「チィッ……。まさかあの炎の中から攻撃してくるなんて思ってもみなかったぜ、勇者ァ!」

「奇襲を正面から堂々とやってたら、奇襲にならないからね。って言っても、そっちのエイギルって魔族の人は気付いたみたいだけど……――あれ? 同じ魔族なのにあなたは気付けなかったんだ?」

「テメェ、馬鹿にしてやがるのか!」

「アイリス、よせ。先程のやり口、怪我の演出。どれを取ってみても、口車に乗れば厄介な相手だというのは間違いない」

「クソが……エイギル! あの勇者はオレの獲物だからな!」

「その無駄な拘りのせいでこの事態に陥ったのだぞ、アイリス。いい加減にしろ」

「やられっぱなしで黙ってるつもりはねェ!」


 アイリスっていう桃頭の女性はうまく乗ってくれそうだったけれど、やっぱりあのエイギルって方はちょっと厄介だ。僕には戦闘能力がないっていう前情報はあるはずなのに、ちっとも油断してくれる様子が見えない。

 僕をここに連れて来た時の感じだと、もしもあのアイリスが僕を狙っていなかったら、間違いなくあの場で攻撃してきただろうし、今だって僕らから一切視線を外そうともしてくれない。アイリスの文句を宥めながら、それでもいつでも動けるように細心の注意を払っている。


「ユウ殿、生きておったのじゃな。血だらけじゃったから、てっきり危険なのかと思っておったぞ」

「あぁ、あの血は僕なりの演出だよ」

「演出?」

「そう。まぁ種明かしは後にするとして……勝てるかな?」

「判らぬ。じゃが、ユウ殿の作った結界のおかげで動きも鈍っておるようじゃ。一対一ならば形勢は妾に傾く事になるとは思うが、なにせ時間がない。あれを見るのじゃ」


 アリージアさんがそう言いつつも顎で示した先、世界樹という〈界〉を繋ぐ「門」の役割を果たしている出入り口の半分以上が、突き立てられた短剣と同様に黒く染まっている。


「あれは?」

「邪神の力を帯びた短剣じゃ。あのままでは世界樹が彼奴らの〈界〉――魔界へと繋がりかねん。そうなれば……」

「さしずめ、あの二人と同じぐらいの実力者が一斉にここに出て来る可能性がある、ってところかな?」

「あれらは例外じゃろうが……そう考えても良い。さっさと攻撃を仕掛けるなりしたいところではあるのう」

「了解。それで、あの短剣を抜けば世界樹は元に戻るの?」

「それも判らぬ。大精霊であるルウ様にどうにかしてもらうしかないじゃろう」


 睨み合いながら、僕らは情報交換をして、向こうはアイリスの癇癪に付き合って。

 そうしてお互いに相手が決まったのか、アリージアさんとブリッツはエイギルが担当するらしく、腕を痛めているっていうにも関わらずに爛々と戦意に滾っているらしいアイリスが、僕だけを標的に定めるかのようにこちらを睥睨していた。


「ユウ殿、気をつけるのじゃ。アイリスは〈十魔将〉の一角。通称〈沈黙〉と呼ばれておる魔法の使い手じゃ」

「ふーん。全然沈黙しているようには見えないのに?」

「くくっ。詠唱なく多種多様の魔法を操り、敵を屠る。そういう意味で、じゃな。しかし、確かにユウ殿の言う通りじゃ。アレは沈黙が足りぬ」


 軽口を叩き合う僕らに、アイリスはエイギルの手前で怒るには怒れないらしく、けれども青筋を立てるかのように明確に苛立ちを表している。エイギルもそんな相棒に気付いているのか、何やら面倒そうに嘆息しているけれど、これ以上何かを言うつもりはないらしい。


 お互いに敵と定めた相手と睨み合い。

 先手を取るべく最初に行動したのは、アリージアさんとブリッツ。

 少し遅れるどうかというところで、アイリスが僕に向かって魔法を放とうと無事だった右手を翳した。


「吹っ飛べ、クソが!」


 宣言通りの緑色の魔法陣。恐らくは強烈な風の魔法を放ったようで、大地に生えた草を薙ぎ払うかのように僕に向かって見えない何かが肉薄する。


 対する僕は、接近する風のあまりの速さに反応しきれるはずもなく、今から横に飛んだところで間違いなくぶつかるだろうと考えて――結局、一歩も動かずにそれを迎え入れる。


 衝突の瞬間、僅かな発光――直後、砕け散るように消え去った風がぶわっと吹き荒れ、髪を揺らした。


「……あ?」


 唖然とした表情を浮かべるアイリスに向かって、白々しくも小首を傾げる。


「夏は涼しくなりそうだね、今の魔法」

「……テメェ、何しやがった……?」

「何って言われても、何もしてないけど。何かしたように見えた?」

「クソッタレが……! いちいち癇に障る野郎だな、テメェ!」

「そういうあなたは女性らしさが足りないと思うけど。その口調」


 お互い可愛げがないタイプの戦いって感じかな、客観的に見たら。

 そんな事を考えながら、さてどう攻めるかと思考を巡らせていると、今度は赤い魔法陣――渦巻く炎を魔法で放ってきた。

 苛立ちっぷりを物語るような手の早さだ。


 右眼の前に小さなウィンドウを展開――同時に、渦巻きながらも僕を狙って襲ってくる炎の威力と範囲をウィンドウ内で計算。導き出された解から、を割り出した魔法陣が渦巻く炎の目の前に浮かび上がり、炎を霧散させていく。


「な、んだと……!?」


 はともかく、さすがに今回は隠しきれない。

 どうやら僕が何かをした、という点についてはバレたみたいだった。


「何しやがった、テメェ」

「わざわざ教えてあげるわけがないでしょ」


 カチンと来たのか、アイリスの顔が再び歪んだ。




 ――――種明かしするなら、〈精霊神の加護〉のおまけの正体こそがこれだった。


 レベルが上がらない僕は、かつてルファトス様から〈『叡智』を司る神の加護〉を与えてもらい、その結果としてミミルを生み出し、【魔導具制作】を覚えて魔導具を作れるようになった。

 とは言え、僕自身にはどうしても魔力を操る事ができず、スキルとしての【魔導具制作】の一部である【書き換えリライト】をしようにも、ミミルに魔力を渡して初めてスキルとして発動する事が可能になる。この世界、スキルにも魔力を必要とするものが多すぎて、僕としては涙目な結果でしかなかった。

 そこで今回、〈精霊神の加護〉を受けた僕は、「上級神見習い」とでも呼ぶべき存在に昇格――と言っていいのか分からないけれど――した。それによって「下級神と同等の権限」を得られたおかげで、僕はステータス画面に使われるようなウィンドウを可視化して、ミミルのように魔法陣をそこに描く程度の権限を得た。


 これがまず、僕が普段から使っているウィンドウの正体だ。


 さて、細かく説明するには少し話が遠回りになるけれど、ミミルは『知』の精霊だ。

 ルファトス様という神の一柱と僕によって初めて生み出された存在だったけれど、これに「僕自身が上級神見習いになった」という事実が加味されると、少々話が変わってくる。

 詰まるところ、僕自身の力によって精霊にも似たが新たに生み出されるという事に他ならない。


 何が言いたいのかと言えば――オルトネラさんの攻撃から攻撃の角度や射程距離の計算。

 更に、今さっき魔法を相殺してみせた魔法陣を生み出したのは、


 この右眼の目の前に現れているウィンドウこそ、僕によって生み出され、ミミルとリンクした――〈ウラヌス〉。


 ルシェルティカさんが契約しているウィル・オ・ウィスプを参考に生み出した、人型じゃない精霊。

 ありとあらゆる知恵を持ち、興味を示すミミルとは対照的に、魔法と計算にのみ特化した精霊で、人間味なんてものを一切持ち合わせていない。


 さしずめ、ウラヌスは「対遠距離攻撃用の自動迎撃精霊」といったところかな。

 エキドナとの戦いで直接魔法を撃ち込まれた経験があるからこそ、直接こちらを狙うような魔法は【スルー】の効果が及ばない事は重々承知している。どうにか魔導具でその対策を施せないかと色々試していたけれども、ありとあらゆる魔法に対処できる程の魔導具を抱えていたら、荷物だらけで動けやしない。


 つまり――――。




「僕に魔法は通用しない」


 挑発混じりの笑みで堂々と言い放ちつつ、今度はこちらの番だとでも言わんばかりに『魔導浮遊板マギ・フロートボード』を右手から召喚。

 これだって元々、上がらないステータスの都合上、機動力ではリルルちゃんにすら勝てなかった僕の欠点を補うための乗り物だ。


 空へと飛び上がった僕の手から投げ放たれた魔法石ジェムは――あっさりとアイリスに避けられた。


 ……相手のステータスが高いせいか、僕が普通に投げたってそもそも当たるはずがなかった。


「フ……。僕の攻撃を避けるとは、なかなかやるね」

「馬鹿にしてんだろ、テメェ。あんなのそこらのガキでも当たらねェよ」

「……精神的に攻撃してくるとは、予想外だよ」

「あ? 何言ってんだ?」


 そうだろうね、うん。知ってたよ。

 だからほら、その、当たり前の事をただただ述べただけみたいな反応とかやめてくれないかな。


「魔法が効かねェってんなら、面倒臭ェが短剣コイツでやってやるよ」

「やれるもんならやってみればいいよ」

「いい度胸だ、ぶっ殺して――って、おい! なに速攻で逃げてやがる!?」

「ふふはははは! 追いつかれなければその攻撃も当たらな――あぶなッ!? ちょっと、短剣は投げるものじゃないと思うんだけど!?」

「うるっせぇ! 逃げてんじゃねェぞ、コラ! ぶっ殺してやらぁ!」


 いきなり投げつけてきた短剣が、魔法によってかアイリスの手元へと再び戻って行った。

 何あれ羨ましい。

 こちらも負けじと空を滑空しながら魔法石を投げてみるけれど、やっぱりアイリスはそれをちらりと見ただけであっさり避けながら、僕を追いかけるように駆け出した。


 ちらりとアリージアさんとエイギルの戦いを見たけれど、何やら一時中断して僕の方を見て唖然と――と言うより、むしろ口を開けて脱力してるように見えたけれど、気のせいだと思いたい。


「あはははー、捕まえてごらんなさーい」

「なんかムカつくぞ!」

「フンッ、僕から言わせれば魔導具ありきの僕になんだかんだ言いながらついてきてるあなたの方がムカつくけどね! ほら、また避けた! これだからステータスなんて理不尽なものは嫌いだ!」

「オレ程じゃなくたってこれぐらいできるだろうがッ!」

「一緒にしないでもらえないかな!? 僕から見れば幼女だって一流アスリートだよ!」

「何を意味の分からない事を言ってやがる……! チィッ、また避けやがって!」


 次々と投げ続ける魔法石は一切当たらず、僕もなんとか蛇行しながらアイリスの投げる短剣を避けて、と巨大な世界樹を一周するかのように飛び回る。


 ホント、『魔導浮遊板』で素早く動き回っているっていうのに、一切撒ける気配がないのは理不尽な気がするんだ。

 重力結界がなかったら、まず間違いなく逃げられなかったよね、これ。


 そうして一周しきったところで、アリージアさんがブリッツと共にエイギルと戦いながら、うまくルウさんからエイギルを引き剥がしてくれたようだった。

 掻っ攫うかのように地面すれすれを飛んだ僕は、そのまま手を差し出してルウさんをゲット――そのまま世界樹から離脱するように後方へと飛んで、ルウさんを戦いの余波に巻き込まれない位置へと連れ出した。


「ウラヌス、治療を」

『――精霊体の損傷を確認中。修復にかかる魔力を算出――クリア。魔力移譲式、構築』


 ウラヌスに映し出された文字が情報を僕に伝えつつ、ウィンドウを展開。倒れたルウさんの上に浮かび上がったウィンドウには白い魔法陣が描かれ、淡い光を放ちながらルウさんの身体へと柔らかな光となって降り注いでいく。


 一先ずはこれで少しは回復するはず。

 そう思いながら振り返ると、ちょうどアイリスが近くへとやって来て、足を止めるところだった。


「はぁ、はぁ……っ。ようやく逃げんのをやめたか」

「いつまでも逃げてる訳にもいかないっていうのが本音だからね」

「世界樹の心配でもしてんのか?」


 ちらりと世界樹を見た僕に向かって、アイリスがにたりと厭らしい笑みを浮かべた。


「くっくくく、残念だったな」

「何を笑ってるのさ」

「まだ分かってねェのか? ――手遅れなんだよ。アレはもう、止まらない」


 アイリスの言葉がきっかけとなった訳じゃないだろうけれど、それは唐突に始まった。


「世界樹が……!」


 変化に気が付いたアリージアさんの悲痛な声。

 世界樹に突き立てられていた短剣から、じわじわと毒が侵食していくかのように黒く変色しつつあった世界樹。黒い一帯は先程までとは比較にならない程の早さで広がり始め、同時に青々とした葉をつけ、生命力に溢れていた世界樹は見るからに萎れつつあった。


「あの見た目に惑わされたみてェだな、勇者ぁ! 見えねェとこじゃ、とっくに世界樹は食われ始めてたって訳だ!」


 表層化している黒い一帯だけが侵食領域ではなかったのだと、アイリスが嬉々として語る。


 確かにアイリスが言う通り、僕とアリージアさんは世界樹が侵食されている領域は、あの黒く染まった一帯のみだと思い込んでいた。あの進行具合から察しても、まだ幾分かは余裕があるだろう、と高を括っていたのだ。


 けれども、どうやらそれは間違いだったみたいだ。

 アイリスの言葉を信じるのなら、世界樹はもう――このまま救えない。


 ギギギ、と音を立てているのは世界樹の最後の抵抗なのだろうか。

 力及ばず開かれた「門」からは、赤紫色の肌で鋭い爪を携えた何者かの手が飛び出してきて、未だに閉じたままの「門」を強引に開いていく。


「――反撃とか言ってたよなぁ、勇者。けどよ、残念だったな。ここからはオレら魔族の蹂躙が始まるんだよ」


 アイリスの言葉と同時に開け放たれ、姿を見せた巨躯の魔族。

 その後ろからは次々に魔族と思しき異形の怪物達が姿を見せ始めた。


 アイリスとエイギルの二人だけでも精一杯だと言うのに、この状況。

 アリージアさんは絶望に目を見開いたまま力なく崩折れ、次々に門から出てくる魔族達を前にただ言葉を失っていた。


 もしもあの魔族達が〈界〉からラティクスに殺到しようものなら、まず間違いなくラティクスは陥落し、リジスターク大陸の全てに、文字通りに魔の手が伸びる事になるだろう事を想像するのは容易い。


 アリージアさんもまた、それを想像したからこそ絶望したんだと思う。






 ――――だけど、だ。






「――いいや、僕は間違った覚えはないよ。アイリス。は、僕のものだ」




 左手を地面について、我ながらに厭らしい笑みを浮かべて言い放つ。




「――【精霊化アストラル】、発動」




 アーシャルさんにもらった、〈精霊神の加護〉。

 その本領を発揮するタイミングとして、これ以上のものはなかった。

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