首の傷を隠す美少女に「きれいだ」と言ったら、 激重感情で秘密を預けられた

他力本願寺

第1話 きれいだな、それ


 雨だった。


 六月の、まだ肌寒さが残る午後。五限が終わった渡り廊下で、俺は壁のひびを見ていた。


 コンクリートの表面に走った細い亀裂。そこに雨水が一筋、染みるように落ちている。補修もされず、かといって崩れもせず、ただ残っている線。


 ……いいな、と思った。


 こういうものに目がいく自分が変だということは、一応わかっている。


 授業で使う画材を美術室に取りに行く途中だった。渡り廊下は屋根があるだけで壁がないから、横殴りの雨粒がときどき足元を濡らす。急ぐ気にもならず、ひびの先を辿っていたら——


 背後から、足音。


 速い。走っている。


 振り向く前に、その人影は俺の横を駆け抜けて、渡り廊下の柱の陰に滑り込んだ。


 息を切らした女子。同じ学年の制服。長い黒髪が雨粒を弾いて、首元に薄いベージュのスカーフを巻いている。六月にスカーフ。少しだけ引っかかったが、それよりも——


 彼女が息を整えようとして、片手で髪をかき上げた。


 その拍子に、スカーフがずれた。


 首の左側。鎖骨の少し上。


 雨に濡れた肌の上に、引きれたような痕が見えた。平らではない皮膚。光の加減で影が落ちて、周囲の肌とは明らかに違う質感をしている。


 ——線が、残ってる。


 それが最初に浮かんだ感想だった。


 消えていない。塗り潰されてもいない。治りきらないまま、そこに在る。


 彼女が顔を上げた。


 目が合った。


 瞬間、空気が変わった。彼女の目が見開かれ、反射的に手がスカーフを押さえる。指先が震えていた。


「——っ」


 声にならない息。恐怖。それだけがはっきり伝わった。


 見られた、という恐怖。


「……見た?」


 低い声だった。静かなのに、刃物みたいに真っ直ぐこちらに向いている。


「傷のことか」


 彼女の指が、スカーフの上できつく握られた。


「……それ以外に何があるの」


「ひびを見てた」


「は?」


「壁の。そこ」


 視線で示す。コンクリートの亀裂。さっきまで俺が眺めていた雨筋の線。彼女は一瞬だけそちらを見て、すぐに俺に視線を戻した。意味がわからない、という顔をしていた。


 当然だと思う。


「……言いふらさないから」


 それだけ言って、視線を壁に戻した。


 沈黙。


 雨音だけが渡り廊下に響く。彼女はスカーフを直している。きつく、丁寧に、首元を覆い直している。指がまだ少し震えていた。


 直し終えたらしい。気配が整う。


「なんで、普通にしてるの」


「普通だから」


「……おかしいでしょ」


 その声には、怒りとは少し違うものが混じっていた。もっと手前にあるもの。困惑、かもしれない。


 俺はまだ壁のひびを見ていた。雨脚が少し弱まって、水の筋が細くなっている。


 ——帰り際に、一言だけ余計なことを言った。


 言うつもりはなかった。口が先に動いた。壁のひびを見ていたせいか、彼女の首に残っていたものの印象がまだ頭にあったせいか。理由は、正直わからない。


「……きれいだな、それ」


 振り向かなかった。


 だから彼女がどんな顔をしたのかは知らない。


 ただ、背中に突き刺さるような沈黙があって——小さく、本当に小さく、息を呑む音が聞こえた。


 それきり、足音はしなかった。


 俺はそのまま美術室に向かった。画材を取って、誰もいない教室で、濡れた靴のまましばらく座っていた。


 余計なことを言った。


 でも、嘘ではなかった。



   *



 翌朝。


 教室に入ると、いつもと同じ朝の喧騒があった。


 席について鞄を置く。一限は現国。教科書を出しかけたところで、視線を感じた。


 斜め前の席。


 昨日の——渡り廊下の彼女がそこにいた。


 同じクラスだった。四月から二ヶ月、まともに顔を覚えていなかった自分にも驚いたが、それ以上に驚いたのは彼女の様子だった。


 スカーフは昨日よりきつく巻かれている。姿勢はいい。表情には何の乱れもない。周囲の女子と言葉を交わす横顔は冷静で、整っていて、隙がない。


 ——あれは、なかったことになっている。


 そう理解した。


 だから俺も、何もなかったように教科書を開いた。


 けれど。


 ちょうど目が合った。


 ほんの一瞬。彼女はこちらを見て——昨日より、ずっと冷たい目をしていた。


 怒っているのか、怯えているのか。たぶん、両方。


 朝霧澪あさぎりみお


 出席番号で二番目に呼ばれたその名前を、俺はようやく覚えた。



―――――――――――――――――――――


あとがき


お読みいただきありがとうございます。


「首の傷を隠すクール美少女に「綺麗だ」と言ったら、俺だけ秘密を預けられた」、第1話をお届けしました。


この作品は——傷を見ても踏み込まない不器用な男の子と、それに救われてしまった女の子たちの話です。


景は優しいわけではありません。

ただ、境界線を守る人間です。

それが誰かにとって救いになることがある、というところから始まります。


次話、澪視点。

「あんた、頭おかしいの?」——彼女の混乱が始まります。


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