月の遺言

岩名理子

第1話 満月 

 妻が熱を出した。


 病院からの電話に、私自身の心臓が止まるかと思った。

 

――次に熱を出したら、もう奥様は難しいかもしれません。


 医者の薄めた毒のような言葉が脳裏をよぎる。難しいってなんだ、優しいとかがあるのかなんて無意味に吐き捨てたくなる気持ちを堪え、改札を出る。


 なんで私は会社に行ってしまったんだ、今日に限って会議が長引いたんだ。緊急電話に気づくのが遅れたいい訳を考える。妻が死にそうな時に、どうして社外の人間とくだらない話で偽の笑顔を浮かべていなければならないんだ。どうしようもなくやるせない気持ちを抑え込む、まだ泣くな。病室に着くまで、諦めるな。絶対に弱音を吐くな。

 

 蜃気楼のように揺れ落ちる洛陽らくようを眺め、夜が近いことを知る。駅前でタクシーを捕まえ飛び乗った。運転手の言葉など頭に入ってこない。1分1秒でも惜しい。お願いだ病院に早く着けとただ願うばかりだ。反射的に両手を胸の前に祈るような姿勢となる。それをしたところで、私は神など信じてないというのに、都合がいい時だけこうしてすがるように祈っている。


 着いてすぐさま病室の扉を開けた。ピーピーと鳴りやまぬ機械たちが妻を囲んでいる。私がきたことに気づいたのだろう、妻は私を見て目を薄めた。すぐさまかけよって、とうに細く白くなった妻の手を取る。


「遅くなってごめん」


 酸素マスクをつけたままの妻の首が少しだけ傾いた。私の言葉に反応するように弱々しく首を振る。それだけでも十分体力が削られるだろう。ああ、これ以上むやみな問いかけはしない。僅かな短い時間でも貴重なのだ。黙り込んだまま、私は妻の顔を眺めた。まるで私の視線をそちらへ誘うように、外の輝く満月へと妻は視線を投げた。


 きれいでしょう、と告げているようだ。


 やがて機械音が死を告げた。瞳には満月が映り込んでいて、まるで月に妻の魂が吸い込まれていったようにだんだんと黒く染まっていった。まぶたを閉じさせ、再び手を握る。私の手の中で妻の体温がだんだんと失われていく。それでもずっと握ったままだったのは、私の体温で少しでも長く温められないかと思っていたからだ。


 幸せだったろうか。

 別れ際に大した言葉を伝えることができなかった。

 死に目に仕事に行っていた私を非情だと思っていただろうか。


 代わりたい、どうして死ぬのが私じゃなかったのか。

 後悔ばかりがさざ波のように押し寄せる。妻の瞳に最後に映ったのが私でなく、夜空に浮かぶ月だったことにわずかに嫉妬して。

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