五十六歳の研究者、中学生から人生をやり直す
正宗
プロローグ
2026年、五十六歳の半導体研究者・佐伯忠夫は、研究室のモニターを見つめたまま動けなくなっていた。
画面には、国際誌に掲載された論文のPDF。
タイトルは、自分が10年をかけて完成させた研究そのものだった。
「量子ドット構造による超低消費電力半導体素子の新原理」
だが、責任著者欄に自分の名前はない。
主任教授。
共同研究先企業の研究責任者。
そこに並ぶべきは、自分のはずだった。
謝辞にもない。
引用文献にもない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……は?」
喉が鳴らない。
十年だ。
終電まで実験し、
装置が壊れれば自腹で修理し
その結果が、これだった。
⸻
翌日、教授室。
「教授、説明してください」
研究ノートを机に置く。
教授はそれを一瞥し、静かに言った。
「佐伯くん。大人になりなさい」
「これは盗用です」
「言葉を選びなさい」
教授は眼鏡を外した。
「アイデアは共同研究の成果だ」
「初期構造も実証実験も、全部私が——」
「証明できるのかね?」
研究ノートを指で押し返される。
「正式な報告書では、企業側が中心になっている」
「そんな報告書、見たことがない」
「だが存在する」
淡々とした声。
「大学としては、企業との関係もある」
それで終わった。
⸻
数週間後。
学内コンプライアンス室から呼び出し。
「共同研究データが個人PCに保存されていた件ですが」
「バックアップです。実験担当は私です」
「契約上は共有サーバー保管が原則です」
規定違反。
悪意はなくても、形式上は弱い。
「懲戒にはなりません。ただ、来年度予算は難しいでしょう」
予算がなければ、研究は終わる。
それは事実上の宣告だった。
⸻
追い打ちは、研究テーマの再編だった。
半導体は国の重点分野に指定され、
大型助成プログラムに統合されることになった。
説明会で官僚は言った。
「国際競争力の観点から、研究は集約します」
代表機関は、大手企業と旧帝大。
忠夫の大学は、その下に入る。
責任者の名前を見た瞬間、血の気が引いた。
論文の責任著者。
あの企業研究員だった。
悪意ではない。
制度上の決定。
だが、自分の研究は完全に手の届かない場所へ移った。
⸻
その頃、一本の電話が入る。
「久しぶり、忠夫」
高校時代の同級生、健司だった。
氷河期世代。
正社員になれず、派遣を続けている。
「今さ、例の企業の研究棟で装置保守やってる」
「そうか……」
「上の方で新しい半導体プロジェクト始まったらしい」
偶然だった。
健司は中身を知らない。
アクセス権もない。
「俺らは配線と保守だけ。設計なんて触らせてもらえないよ」
笑っているが、疲れた声だった。
「正社員、なかなか空かなくてさ」
⸻
半年後。
健司から短いメッセージ。
『契約満了。更新なし』
理由は「プロジェクト縮小」。
大型予算は上に集まり、
末端は削られる。
自分も、健司も。
立場は違っても、同じ構造の中にいる。
⸻
夜の研究室。
撤去予定の装置。
段ボールに詰められた資料。
机の上に、研究ノートだけが残る。
「俺は、研究者だったはずだ」
だが肩書きは失われ、
テーマも統合され、
予算もない。
怒りよりも、無力感だった。
「努力は、構造に勝てないのか……」
屋上へ向かう足取りは静かだった。
激情ではない。
ただ、空虚。
「もし、やり直せるなら――」
視界が、闇に沈んだ。
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