第2話:沈黙を破るあの音
5 エーリッヒ・ツァンと屋根裏部屋
ある夜のこと。
彼が仕事から帰ってきた時。
私は待ち伏せをして、ツァンを廊下で呼び止めた。
そして、私はあなたと知り合いになりたい、演奏するときに、そばで聞かせて欲しい、と思い切って伝えた。
彼は、小柄で、痩せていて、背中が曲がっていた。
ボロボロの服を着て、青い目をしている。
頭はハゲている。
半分人間で、半分ヤギの、神話上の生き物を知っているかい?
そいつみたいに、グロテスクな見た目なんだ。
私の最初の一言を聞き、怒っているようにも、おびえているようにも見えた。
でも、私が明らかに仲良くしたいと思っていることが伝わり、彼は警戒をといてくれた。
そして、しぶしぶという感じではあったが、ついてきなさい、というような合図をした。
私は彼の後をついていった。
ぎしぎし、がたがた、ときしむ、暗い屋根裏部屋の階段へと。
彼の部屋は西側にあって、それは、急な斜面になっている屋根裏部屋の、二つあるうちの一つだった。
あの通りの行き止まりにある、高い壁の方を向いていた。
部屋は、驚くほど広かった。
家具がほぼなくて、放置されていて、がらんどう、という印象を受けた。
一応の家具といえば、次にあげるものだけだ。
幅の狭い鉄製のベッド、薄汚れた洗面台、小さなテーブル、大きな本棚。
鉄製の譜面台と、古風な椅子三脚。
床の上には、楽譜が雑に積まれていた。
壁は、むき出しの木の板、そのままだった。
おそらく、壁紙や塗装を施されたことがなかったようだ。
あまりにも埃が積もり、蜘蛛の巣もひどいため、人の住まいというより、もはや廃墟のようだった。
つまり、エーリッヒ・ツァンの奏でる美しい世界は、ここではなく、どこか想像の宇宙の果てに存在しているらしかった。
6 ツァンの演奏と、急変
私に座るよう合図すると、その口のきけない男はドアを閉めた。
さらに、大きな木のかんぬきも閉めた。
それから、明かりを増すために、ロウソクをもう一本点火した。
虫食いでボロボロのケースからヴィオラを取り出すと、三脚のうちで一番マシと思われる椅子に腰を下ろした。
彼は譜面台を使わなかった。
こちらの都合はお構いなし、ということだ。
ただ記憶に沿って弾き始めた。
一時間以上もの間、聴いたことのない旋律で、私を魔法にかけたみたいに魅了してしまった。
あの旋律は、彼自身の作品だったのだろう。
音楽について知識のない私に、あれの本質が何だったのか、正確に説明することは難しい。
それはフーガという形式の曲だった。
同じメロディが何度も追いかけてくるような音楽だ。
本当に魅力的だった。
でも、とある奇妙な音が聴こえなかったのが、気がかりだった。
これまで下の部屋で聴いていたときには、あったと思ったんだが。
私は、耳の奥にこびりついたあの音を、忘れられなかった。
だからよく、うろ覚えな鼻歌や、口笛を吹いていた。
ツァンが弓を置いた時、あの音を弾いてくれないか、と私は頼んでみた。
私がお願いをし始めた途端。
演奏中の退屈そうで穏やかな表情が、皺だらけの怪物の顔から消え失せた。
と同時に、怒りと怯えが混ざった、あの奇妙な表情が浮かび上がった。
それは、廊下で彼を呼び止めたときに、最初にみた表情でもあった。
私は、彼を説得してやろうという気になった。
年寄りだから、ちょっとしたことでヘソを曲げるんだろう、くらいに軽く考えていた。
もう少しあおってやろう、といういたずら心が出て、前の夜に聴いた、あのメロディの一部を口笛で吹いてみた。
だが、そんなことは、ほんの一瞬しかできなかった。
彼は、私の口笛に気付くと、突然、言葉にできないほどいびつに顔をひきつらせた。
そして、彼の長く、冷たい、骨ばった右手がヌッと伸び、私の口を塞いだ。
私のお粗末な口笛による真似を、問答無用でやめさせた。
私の口を塞ぎながら、さらに彼はおかしな動きをみせた。
ギョッとした目で、カーテンのかかった窓を見つめていた。
まるで侵入者が入ってくるのを恐れているかのようだ。
でもこれは、二つの意味でおかしな行為だった。
まず、この屋根裏部屋は、他の家の屋根よりもずっと高いんだから、誰も外からたどり着けるわけがない。
さらには、ブランドーさんの言うように、この窓は壁の向こう側が見える、たった一つの場所なのだ。
この老人の視線を見て、ブランドーさんが言っていたことを思い出した。
そして気まぐれから、外を覗いてみたいという気持ちが湧いてきた。
丘の頂上の向こうに広がる、月明かりに照らされた屋根や街の明かりの、目もくらむようなパノラマを見渡したい。
オゼイル通りの住民のなかで、この気難しい音楽家だけが見れる、絶景なのだろうな。
私は窓に近付いていき、地味なカーテンを開こうとした。
その時、この口のきけない男が、私にとびかかってきた。
さっきよりもさらに強い怒りと恐怖をあらわにしていた。
アゴでドアを指し示し、彼はイラつき、同時におびえていた。
両手で私をつかんで、ドアの方へ引きずっていこうとした。
すっかり興ざめしてしまい、この部屋の主人に愛想が尽きた。
離せよ、と彼に強く言い放ち、すぐに出ていくから、とも言った。
彼がつかんでいた力が緩んだ。
私が本気で嫌がり、怒っているのを見て、彼自身の怒りも落ち着いてきたようだった。
彼は緩めかけていた手をもう一度握りなおした。
ただ、今度は仲良くしたい、というような柔らかい触れ方だった。
7 ツァンの頼み、友情のようなもの
彼は、私をとにかく椅子に座らせた。
そして、なにか考え事でもある様子で、散らかったテーブルの方へ向かった。
彼は鉛筆を手に取って、いかにも外国人が書いたというようなたどたどしいフランス語で、たくさんの言葉を書き連ねた。
手渡されたメモは、どうか我慢してください、許してください、という心からのお願いだった。
手紙にはこうあった。
ツァンは、年寄りでひとりぼっちだ。
奇妙な怯えと、心の病気に苦しんでいる。
それは、彼の音楽と、それ以外のあること、に関係がある。
彼は、私が演奏を聴きにきたのが嬉しかったようだ。
また聴きに来てほしい、自分の変なふるまいはどうか気にしないでほしい、と言っていた。
ただし、彼はあの奇妙なメロディだけは、他人の前で弾くことはできないし、他の誰かが、つまり私があの音を真似するのも耐えられないらしい。
それから、部屋にあるものを他の人に触られるのも嫌なのだそうだ。
廊下で私と立ち話をするまで、演奏が私の部屋にまで聞こえているとは思わなかったそうだ。
そこで、ブランドーさんと相談して、もっと下の階の部屋に移ってくれないかと頼んできた。
つまり、彼の真夜中の演奏が聴こえないような場所に、だ。
もし、それで部屋代が高くなるなら、差額は自分が払うと、彼は書いた。
座って、そのひどいフランス語を解読していたら、なんだかこの老人に対して、優しい気持ちがふくれあがってきた。
彼は私と同じように、体や心の苦しみに悩む被害者だった。
それに、私が大学で学んでいる学問は、他人に優しくすることを教えてくれていた。
静寂の中で、窓の方からかすかな音が聞こえた。
たぶん、夜風に吹かれて、シャッターがカタカタ鳴ったんじゃないか。
なのに私は、ツァンと同じくらい、激しく飛び上がってしまった。
メモを読み終えると、私は部屋の主人の手を握り、友人としてその場を後にした。
(第三話へ続く)
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